第1章 別れ
小柄な女性は隣の男性を起こさぬよう,ゆっくりとベッドから起き上がってするりと降りた。その足でバスルームに行き,熱めのシャワーを出して浴びる。気だるい身体に熱が触れ,ほっと息をついた。しかし,その次に出たのは涙であった。
白川蓮美は何度も深呼吸をして心を落ち着け,顔をしっかり冷やしてからバスルームを出た。
隣で寝ていた男性,真田賢司はまだ起きていなかった。それを見て安心し,それから昨日と同じようにスーツを着こなし,化粧をした。鏡を見てにこっと微笑むと涙のあとはなく,腫れた目もなく,いつもの蓮美がいた。
時計を見ると,もうじき7時である。そろそろ賢司を起こさないといけない。蓮美は鏡に向かってもう1度微笑み,それからベッドに腰掛けた。穏やかな寝顔を見て,起こすのは申し訳ないように思えてくるが,仕方がない。今日は仕事日だ。
『賢司さん,朝ですよ。』
賢司は肩を揺すられて嫌そうに寝返りを打つ。これはいつものことである。今まで1度で起きたためしがない。それを思って蓮美は苦笑し,今度は肩を叩く。
『賢司さん,起きて下さいな。』
何度も叩かれるうちに,賢司もうっすらと目を開け,蓮美を見る。そして,そっと彼女を引き寄せて頬にキスを送った。
『おはよう,蓮美。』
『おはようございます。』
お返しのように,蓮美も賢司の頬にキスをする。
『もう着替えていたのか。』
あくび交じりに言い,賢司は蓮美からタオルを受け取る。がっしりとした大きな手は,蓮美をいつも包み込んでくれる。
賢司がシャワーを浴びている間に,簡単な朝食を準備する。フレンチトーストと目玉焼き,サラダ。質素ではあるが,このくらいしか出来ないのだ。
ここのマンションには,アンティークの応接セットに大きな液晶テレビ,ふかふかのダブルベッド,という具合に家具は良いものばかり揃っているのだが,調理道具はほとんどない。それは,賢司自身が調理する気はなく,このマンションも生活をするためというより,寝るための部屋となっているからである。かろうじてあるフライパンや包丁,まな板などは,蓮美が持ち込んだものであった。
シャワーを浴びて戻ってきた賢司はスーツに着替え,ソファーにネクタイを置いた。それから珈琲豆を挽き,メーカーにセットする。この作業だけは,蓮美はしなかった。彼のこだわりである。
珈琲が出来上がった頃,テーブルに朝食を並べる。こうして向き合って食べる時間も,大切なひと時である。
『ブラックでいいか?』
いつものようにそう言いながら,賢司は蓮美に珈琲を渡した。それを受け取りつつ,蓮美は笑みを浮かべる。
『ミルクを入れたらもったいないって言うでしょう。それに,あなたの珈琲はブラックが1番って分かったから,何も入れませんよ。』
『そうか。』
『ええ。じゃあいただきます。』
『いただきます。』
手を合わせて挨拶をし,まずは珈琲を口に含む。苦さも酸味も薄い,さっぱりとした飲み口が心地よい。フレンチトーストとサラダを食べ,穏やかな1日が始まる。
食後にもう1杯それぞれ珈琲を飲み,応接セットのソファーでくつろぐ。こうした出勤前の落ち着く時間はゆっくり流れていく。
蓮美はバッグから鍵を取り出し,テーブルにコトリと小さな音をたたせて置いた。それを見て,賢司はとても驚いた。音をたてないように気をつけながらカップを置き,鍵と蓮美を交互に見る。
『どういうことかね?』
今まで聞いたことのないほど上ずった声であった。
蓮美は視線を落とし,それから賢司を見た。白髪混じりでも,少し日に焼けた顔と,精力的なオーラのあるその姿は若々しく,いつ見ても惚れ惚れしてしまう。だが,今はその顔には驚きが広がっていた。
『どうしようか迷っていたんです。でも,辛くなる前に,別れがもっと辛くなる前に,こうした方がいいと思って。』
涙が今にも溢れそうな,そんな目で見つめられ,賢司は言葉が出なかった。
『今も好きです。でも,周りに知られる前に,こうした方がいいと思って。』
蓮美はうつむき,慌ててバッグからハンカチを取り出して目に当てた。
『ごめんなさい,泣くつもりはなかったんですけど。』
あの時と同じように深呼吸を何度もし,それから顔を上げた。赤い目で見つめられ,賢司は肩を落とす。
『このマンションのことは家族も知らん。もちろん,会社の者もだ。管理人も私たちのことは何も知らない。私だけがいると思っている。それでも安心してはくれんのか?』
『配慮してくださったのは凄く嬉しいです。』
『じゃあ,好きな人でも出来たのかな?』
蓮美は首を振る。賢司の温かい性格と魅力溢れるオーラに勝る人には出逢っていない。
『誰かに聞かれたのかい?』
優しく問いかける賢司に,蓮美は胸をきゅっと詰まらせる。
『いいえ。誰にも知られていないはずです。』
『じゃあなぜ?』
賢司がここまで執拗に言うのは珍しく,それだけでも蓮美は胸がいっぱいであった。だが,もうこの関係は終わった方がいいのだと思っていた。
蓮美と賢司は不倫関係であった。秘書と,取引会社の社長という間柄から,音楽を通して仲が深まり,こういう秘密の関係になったのだ。それはもう1年以上経っていた。今,蓮美は27歳,賢司は54歳。親子ほどの年の差はあるのだがお互い気にせず,こうしてマンションで会う密事を楽しんでいた。
だが,こういう関係はそう長くするものではない。賢司には妻子がいるのだから。
蓮美は鍵を取り上げ,再度賢司に差し出した。
『今日でおしまいにしましょう。』
『蓮美。私は君と別れるつもりはない。』
断固たる声に,蓮美はゆっくりと頭を横に振った。
『賢司さんのことは好きです。ただ,続けていったら良くないでしょう?』
不倫は世間体に良くない。もし誰かにばれてしまったら,家庭も会社も巻き込んだ問題となってしまう。大事になる前に,終結させることが必要なのである。
また言外に,離婚して私と結婚するつもりもないのでしょう,と込められていた。
賢司は眉間にしわを寄せて考えていたが,深くため息をつくと,蓮美から鍵を受け取った。
『君に何かした方がいいな。』
『いいえ。』
蓮美は泣いているような笑顔を見せる。
『賢司さんとの想い出がなによりです。』
賢司は切なそうに手を差し出す。それを蓮美も受け取って,握手をした。
『ありがとう,蓮美。』
『こちらこそ,ありがとうございました。さようなら,賢司さん。』
時間を刻む秒針の音がするのが憎いくらい,手を離すのが惜しかった。