追憶の彼方
遅くなりました(ーー;)
その昔、私にも純粋で可愛げのある時代はあった。
長く子どもに恵まれなかった親の間に長女として産まれた分、親にもたくさんの愛情を注がれて育ったと我ながらそう思う。
親は二人とも名門貴族の出身ながらその身分に驕ること無く、どんな人に対しても助けの手を述べられるようなそんな親の下で育ったあの頃の私は貴族としてのマナーもまだ知らぬ幼子だった。
普通にドレスを汚すような遊びをしたし、下級層の職人の子供たちともいつも一緒にいた。
しかしそれが貴族としてはやってはならぬことだと気づいたのは十歳を迎える直前だったと思う。
ある日、いつも通りに職人の子供たちと遊んでいた時に通りかかった貴族の貴婦人は、あからさまに顔をしかめてレイティアに蔑む目線を送った。
「まぁ…なんてはしたない。貴族が職人階級の子供などと遊ぶなんて…!ドレスの裾も汚してなんて汚らしいのかしら」
「………」
その時は聞こえてない振りをして、振り向くこともなければ表情も変えなかったのだが、初めて突き付けられたその言葉は水が染み込むようにレイティアの心を締め付けていった。
かといって急にその子たちと遊ばなくなったとか、蔑むようになった訳ではない。
むしろ階級で差別するその貴婦人の方がレイティアにとっては気に喰わなかったのだが。
変わったのはレイティアの心だ。
例えそういう子たちと遊んでいたとしても、何を言われても表情を表に出さないこと、誰にも負けない礼儀作法を身につけること、流行にも乗り遅れず、かといって派手派手しく出しゃばることもしない。
初対面の人から見ても"立派な貴族"だと認めてもらえるように努力した。
両親もそれには喜んで家庭教師や侍女をつけてくれたので感謝している。
その努力のお陰で誰にも侮られることなく17歳の身でも社交界で生きていける。
その対価というべきか。
その努力の成果が導いた結果としてもなんとも不名誉な【鉄仮面の令嬢】などという大層な名を囁かれるようになった。
しかしそれもデビューしたての頃の話で、今では声高に吹聴する者に対しても遠回しに釘を指しているのでここ数年聞くこともなく、忘れ去られた渾名だったのだが、まだ覚えている奴がいるとは。
レイティアを苛立たせることに関しては史上最速であろう、忌々しいシベリウス・ハルフォードの顔が浮かんでしまい慌てて頭の中から打ち消す。
こんな事では不名誉を着てまで鍛え上げた鉄仮面が無駄になってしまう。
そんなこんなで気づけば社交シーズンも終わりに近づいており、招待されるのも茶会ぐらいにまで減ってきていた。
茶会に集うのは女性ばかり。どうりでシベリウス・ハルフォードの話も聞かないわけだ。仕事とそう言った接待に追われている内に日付感覚をなくしていたらしい。
父の仕事の一部をいつものように手伝っていた時のこと。
大慌てでノックの返事も聞かずに飛び込んできたのは侍女のセレネだった。
「騒々しいわ。…何事なの?」
「あの…っ今、客間にっ…」
息を乱しながらなので聞き取りにくいが、相当必死に走ってきたのだろうと分かる。
「客間に?誰か来ているの?」
「トレディア・ハルフォード様、が…っ」
「…どうして?」
心から疑問に思い、つい零れ出てしまった言葉だった。
「奥様が、相手、なさっている、のですが…っ」
「お母様が?」
「なぜなのか、は…分かりかねますが。小耳に挟んだ話によると、その、レイティア様との婚約話、だとか」
「…何ですってぇ!?」
久しぶりに出した大声に、セレネでさえただコクコクと縦に頷いているだけだ。
「すぐに参ります」
一つの咳払いで元の冷静さを取り戻すと、客間へと向かった。
客間をノックして中へと入ると、まずにこやかに挨拶をして見せた。
「お久しぶりですわね、トレディア様。今日はどうかなさいまして?」
「…おや、レイティア嬢。ちょうど良かった。今貴女の話をしていたところでね」
「まあ、なんの話かしら」
「率直に申し上げましょう。貴女はまだ婚約者をお決めになられていないとか。そこで我が家が立候補しようと思いましてね」
「…そうでしたの。でも、ハルフォード家には貴方と、シベリウス様がいらっしゃるはずだけれど、どちらが候補になってくださるのかしら?」
あくまでも強気な態度を崩さずに笑みを浮かべたまま無邪気に問いかける。
「どちらでも?…レイティア嬢のお気に召す方を婚約者としてお迎えいただきたい」
「…私が、心に決めた人がいると申し上げたらどうするつもり?」
「そうですね、考えましょう。ですが貴女にはいないはずでしょう?その微笑みさえも、偽物なのだから」
「あら、どうして貴方にそんなことを言われなければならないのかしら。私は心から貴方を歓迎いたしておりますのに」
「それはそれは、心にもない言葉をありがとうございます」
「そんなに私を挑発して楽しいのですか?私の機嫌を損ねれば…婚約の話はなくなることくらい、分かっていらっしゃるはずなのに」
「えぇ、それはもちろん承知の上で。貴女の反応が知りたかった、それだけです。今日はこの辺りで失礼いたしましょう。一月後の、赤い月が輝く日に、良いお返事を期待していますよ」
意味深なその言葉で、レイティアは全てを察した。
(この男は……全てを知ってる)
二度と思い出したくもない、あの日のことを。