悪夢は再び
それから数日後、何の予定もない日に侍女の手によって綺麗に整えられた資料に目を通していた。
もちろん、シベリウス・ハルフォードの情報が纏められた資料だ。
何の予定もない、とはいえ他の仕事は別にある執務室に山のように積み上げられている。
普通は貴族の令嬢と言えば家の仕事よりも自分磨きや流行を追うこと、他の方々との付き合いの方が大事なのだが、レイティアにいたってはそれに当てはまらない。
本人が自分磨きはともかく、衣装や装身具には全くもって無頓着だからだ。いつも選んで綺麗に着飾らせてくれるのはリランである。それに加えて人付き合いは表面上のみ。
そんなレイティアにはそれよりも家で一人娘として仕事を手伝う方がよっぽど楽だと思っている。
資料をめくっているとなかなかの枚数があった。例えば生年月日などの情報から女性遍歴などまで。どうでもいいように思われるが、これらは全て相手の弱みとなる大切な情報かもしれない。
「…家を継がない次男坊だから自由気ままに暮らしてるのねぇ…」
思わず漏れた呟きも聞いている者はいない。
それにさんざん生意気な口を聞いてしまったが、彼は自分より4つ年上でかなり評価されている王宮騎士だった。
かといってあの態度を謝るつもりも、変えるつもりもないのだが。
その時、ノックの音が響いた。
「何?」
「リランです、お嬢様。そろそろお仕事の時間ですのでお呼びに参りました」
「ありがとう。すぐ行くわ」
気づいて時計を見れば、いつも仕事を始める時間の五分前だったので資料を閉じて立ち上がった。
今更ながらの話だが、本当にリランは優秀な侍女だと思う。時間や物の管理から衣装、その他の家のことでさえ任せられたことは時間内に完璧に済ましてみせる腕をもつ。
それは我が家の執事にも共通することではあるが、この二人に恵まれているうちは我が家は崩壊しないことは確かだ。
執務室へと向かいながら少し後ろに控えるリランに言った。
「ねぇ、私の仕事が終わる頃に手紙の返事が書けるように準備しておいて。今日中に終わらせてしまうから」
「かしこまりました」
執務室に籠ってする仕事と言えば書類を整理するばかりだ。
いくら長女で爵位を継ぐとはいえ、今だに父母は健在だし、任せられる仕事はわりと簡単だ。視察はほとんど任されているがそれも大した苦ではない。むしろ夜会よりは楽しい。
すでに積み上げられていた本日分の書類を間食の時間までに終わらせて自室に戻った。
「間食のご用意ができておりますがいかがなされますか?」
「……リラン、上手くなったわね。ここで断ったら後で料理長が泣くんでしょ。分かってるわよ、食べるから」
「それはお褒めの言葉でしょうか?…ありがとうございます、お嬢様」
確信犯の口調をしたその侍女は口元に微笑を浮かべていた。
その嫌味な笑みさえも絵になるというのだから、この侍女は顔が整っている。
かと言って別にレイティアが劣っているわけではない。二人とも標準を遥かに上回っているだけだ。
ふと机の上に視線を戻して大きく溜息をつく。
「ここにあるだけの手紙の分は、夜会や舞踏会に出なければいけないのね?」
「予定だけ見ればそうなりますが、体調不良を駆使すればもう少し減らせるかと」
「いいえ、出るわ。…侮られるわけにはいかないものね」
「…分かりました。ではお返事を書き終わり次第ベルを鳴らしてください。今日のご予定はこれで終わりですので」
「分かったわ」
それを最後にリランが一礼してから部屋を出てドアを閉めた。
大抵はどの家でも侍女が代筆したり、誰かと手分けして行うこともあると聞いたことはあるが、レイティアはそれを好まない。
どんな事に関しても人に干渉されるのが好きではないのだ。
溜息をついて積み上げられた手紙の数々を見た。
そして流麗な筆跡を紙の上に走らせ始めた。
その数日後、返事を出したある家の仮面舞踏会にレイティアは参加していた。
いつもは紳士淑女らしく美しいドレスに身を包んでいる人々も今日限りは違う。
一夜の遊び相手を探して派手に身を飾っている。その一部である仮面さえも宝石や羽やらで煌びやかだが正直な気分、光が反射して不快でしょうがない。
しかしレイティアもいつもよりは露出の多いドレスと豪華な仮面に身を飾られている。
こういう場で余りにも地味すぎると名門貴族として後々叩かれるのが目に見えているからだ。
それに将来の家のため、と考えれば我慢もできる。
一通り愛想を撒き散らして踊った後、給仕の持つシャンパンを片手にバルコニーへと向かった。
微かな風が高く結い上げられ、これまた飾り立てられた髪の毛を靡かせる。
「…帰ってもいいかしら」
そんな独り言さえ、誰にも聞かれていない。静かで月しか見下ろす者のいない空間は中の光や香水に塗れた場所よりも格段に過ごしやすい。
「どこの家のご令嬢かは聞きません。私と一夜の遊びはいかがですか?」
「じゃあ私もどこのご令息かは聞かないわ。素敵な仮面ね、豪華で…甘いマスクを隠すにはとっておきだわ。…ねぇ、シベリウス・ハルフォード?」
そう言いながら近づくと仮面を取り払う。
「やはり、ノースカロライナ家のご令嬢でしたか。その美しい髪には見覚えがあったのですよ。どうして私だと?」
「褒め言葉をどうもありがとう。その軽い声は聞き覚えがあるの。…お兄様はお越しになられていないのかしら?」
「残念ながら兄は仕事が忙しいようで」
「あら、貴方も忙しいのではなくて?…王宮の優秀な騎士様」
「調べられたので?」
「うちの使用人は優秀なもので」
「それはそれは、家を預けても安心できますね。…鉄仮面のご令嬢」
「……よくもまぁそんな昔の不名誉な渾名を調べてくれたのね。おかげでとっても気分が悪いわ」
「それではダンスの相手はしてもらえそうにもないですね。とても残念だ」
「そうね、またの機会にしましょう。……こんな悪夢は二度と無いように祈ってるわ」
「私には一時の甘い夢でした。それではまた」
優雅に一礼して仮面を付け直すと彼はバルコニーを後にした。
「あの日も、月が見てたわ…」
見上げた月は、仄かに朱い。