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猫の手貸します  作者: 雨咲はな
番外編・case by case2
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便利屋はBARにいる(3)



 万里の質問に返ってきた答えは、さあ、という一言だけだった。

 でも、別にそれでいいのだ。さして期待して投げた問いかけではない。夜景を見るならあの場所がいいですよと勧められたところで、実際にそこに行くつもりもない。だから万里は微笑んで、自分も同じように、そう、という一言で済ませた。

 それから、彼が出してくれたギムレットを、時間をかけてゆっくりと味わった。

 彼にはそれ以降、特に話しかけなかった。何かを言おうかと思っても、言うべきことが見つからない。その必要も、感じない。仕事ではいくらだって客と実のない会話を続けられるけれど、一人でいる時くらいはぽかんとした空白の時間が欲しい。そんなこと、十代の頃はまったく思わなかったのに。

 客の会話の邪魔にはならないよう抑えられた音量で、BGMが穏やかに店内を流れている。同じように客の話し声も低く静かに空気中を漂っている。ここでは、調子の狂った笑い声も、甲高い嬌声もない。まるで、風に揺れてさわさわと音を鳴らす稲穂の中にいるような、そんな居心地の良さと落ち着きがあった。

 カウンターに頬杖をつき、目を閉じる。すぐそばにいる彼の存在も忘れ、ゆったりと波間を漂うような雰囲気に心を委ねた。バーテンダーは酒のプロであると同時に会話のプロだとも言われるけれど、観葉植物のように気配を消せることだって重要な資質の一つだ。会話のほうはちょっとアレだが、その点だけは彼は確かに才能がある。

 気が済むまでそうしてから、万里はようやくのんびりとチェアから降りて床に足をつけた。

 もうすぐ閉店の時間だろう。気が向いて立ち寄ったバーで、こんな偶然があるとは、自分にとって最後の幸運だったのかもしれない。

「ごちそうさま」

 彼はカウンターの中からちらっとこちらを見て、ありがとうございました、と言った。

 結局、最初から最後まで、その表情が変わることはなかったな、と思う。本当にすっかり忘れてしまっているのか、それとも、判っていて知らんぷりを通しているのか、どちらだろう。

 あるいは──万里の顔なんて、はじめから、彼の頭に入っていないのか。

 昔も、今も。



          ***



 探してみると、案外手頃なビルというものはない。

 あまり低くて失敗したら悲惨だ。かといってそんなに高層だと上るのがつらい。新しいところは大概中に入れない造りになっているし、外階段がついていたとしても屋上へ通じるドアに鍵がついていたりする。

 散々ウロついて物色し、ようやく、築二十年は経過していそうな古びたビルを見つけた。

 そのビルにも、外階段の手前には鍵のついたフェンス式の戸がついているが、よじ登って入れないこともない。雑居ビルらしいけれど、中にある小さな事務所や会社は営業しているのか、そもそも実態があるのかどうかも判らないような感じのものばかり。どこも真っ暗で無人、もちろん、そんなビルに管理人や警備員がいるわけもなかった。

 ハイヒールで鉄の階段を上ると、ガンガンと予想以上に音が響いた。誰かに聞きとがめられても厄介なので、なるべく音をたてないようにそうっと足を動かす。そういえば中学生の頃、夜遊びついでにこんな風にビルの不法侵入もやったっけ。それで仲間とバカみたいに騒いではしゃいで。自分がものすごくオトナになったような、そんな気分になって楽しかった。

 あの頃はあたしも可愛いもんだったわよ、と口元が自嘲気味に上がる。実際になってみると、「大人」なんてものは、ちっとも楽しいことなんてありゃしない。

 酒ばかり飲んで、運動なんてろくにしないような身体に、延々と続く階段は本気で重労働だった。ゆっくり上っていたはずなのに、ようやく一番上に辿り着いて、なんとか屋上に出た時には、汗をかいてぜえぜえと息を切らしている有様だ。吹き通る風が顔に当たって気持ちよかった。

 屋上にも、周囲は緑色のフェンスが張り巡らされている。しかも、けっこうな高さがある。これをまたよじ登るのかと思うと、ちょっとウンザリした。

 フェンスに手をかけると、カシャンと軽い音を立てた。網目の間から見える景色は、別段美しいものでもなんでもない。ビルがあって、一軒家があって、マンションがあるだけの、普通の町の眺めだ。もう深夜なので、ショボい街灯に照らされるすぐ下の道路に人通りはまったくないし、どこも真っ暗で静まり返っているが、稀に電気の点いている家や部屋もある。テレビを観ているのか音楽を聞いているのか酒でも飲んでいるのか。それとも、恋人と楽しく語らってでもいるのか。

 いいねえ、あんたたちは幸せで。


 ここに、今まさに、死のうとしてる女がいることも知らないで。


 ──本当は。

 ホントは、万里だって、あの温かい灯りの中にいるべき人間だったのだ。子供の頃は、父にも母にも可愛がられた。誕生日にはケーキを食べて、クリスマスにはサンタを信じてた。寒い冬には家族でコタツに入ってテレビを観ながらみんなで笑い転げていたのに。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 ぽろりと涙が落ちた。

 一粒滴を落としただけで、万里はきっと顔を上げ、フェンスを今度はガシャンという大きな音を立てて掴む。ウジウジ悩むのなんて真っ平だ。ここまできたらもう迷ったりしない。思い切りの良さだけが、昔から自分の取り柄だったのだ。

 ハイヒールを振り落すように脱ぎ捨てて、ストッキングに包まれた足をフェンスにかけた。手を伸ばして硬い網を握る。その障害物を乗り越え、自分の身体を宙に放り出すために。

 その時、

「……すごい格好だな」

 と、背後から声がかかった。



         ***



 弾かれたように振り返ると、そこになんでもなさげに突っ立っていたのは、彼だった。

 店にいた時のバーテンの恰好ではなく、普通のジーンズ姿をしていた。黒服を着ていると誰もが一種のオーラをまとうものだが、やっぱり彼も同様だ。私服になった途端、店にいた時の近寄りがたさが消えて、ただのやる気のなさそうな兄ちゃん、みたいになっている。もともと、そういう人なのかもしれないが。

「ど、どうして」

 舌がもつれた。

「……尾けてきたの?」

「ストーカーじゃあるまいし」

 咄嗟に口をついて出た疑問に、彼が憮然とした表情になる。しかし考えてみたら、彼からそんな感情らしいものを向けられたのは、これがはじめてだ。

「このあたりで、人に見られずに屋上まで上れそうなビルなんて、ここくらいしかないんだよ。どこをどう廻ったって、どうせ最終的にはここに来るしかない。あんた、このビルを探し出すのに相当手間取っただろう。店が終わってから来たのに、けっこう待った」

 やれやれ、というように息を吐かれて驚く。ということは、万里がここに到着した時に、彼はすでにここにいたということか。暗いし、それでなくとも周囲を見回す余裕もなかったので、ちっとも気づかなかった。

「──どうして?」

 もう一度、改めて訊ねる。どうして彼は、そんな労力を割いてまでここに来たのだろう。まるで、万里がなんのためにここに来たのかも、すべて判っているような顔をして。

「気がついてたの? いつから?」

「こんなところで綺麗な夜景を眺めたいなんて物好きがいるとは思えないから」

 万里の質問に、またしても彼はなんでもないように答えた。

「それで、わざわざ止めにきたの?」

 その問いには、彼は口を閉じ、黙り込んだ。

 万里の記憶の中にいる彼は、他人にも自分にもまったく興味のない男だった。誰が生きようが死のうが、それどころか、自分の生死にも無頓着な人間だった。死のうとしている女を善意で止めにくるなんて、その頃の彼の姿からはかけ離れすぎていて戸惑う。年月が経ったからといって、人というのはそこまで変われるものだろうか?

「……いや、正直言うと、あんたが死のうがどうしようが、あんまり興味ない」

 だから、その返事を聞いて、変な話だが、万里は少し安堵した。彼はやっぱり基本的なところは変わっていないのだ。それに、かなり冷淡な言われようだが、口先だけの同情や慰めよりはまだマシだと思えた。

「止めに来たっていうのは間違ってないけど、それは、完全に俺の個人的事情だ。今夜ここから飛び降りられると、ちょっと困る」

「……このビルの関係者、ってこと?」

「いや」

 そう言って、彼は一旦口を噤み、ジーンズの後ろに手をやって、何かを探す素振りをした。後ろポケット、前ポケットと動かし、それからふいにぴたりと手を止め、溜め息をつく。

「煙草なら、あるけど」

 ハイヒールのそばに投げ出してある自分のバッグに目をやると、彼は少しバツの悪そうな顔になって「いや、いい」と言った。

「煙草はやめた。癖になってるんだ」

 もう一度息を吐き、空のままの右手をジーンズのポケットに突っ込む。吸い慣れているのだろう、煙草がないといかにも手持無沙汰なように見えた。

「あんたが、ここから飛び降りるとさ」

「飛び降りると?」

「新聞に載るだろ。場合によると、新聞じゃなくても、ネットに顔写真なんかが出回ったりするかもしれないし」

「……だから?」

 意味が判らなくて万里は眉を寄せるしかない。名前と写真が新聞やネットに載って、それが彼になんらかの不利益を与えることになるとは思えない。万里自身は実は、そうやって新聞に大きく取り上げてもらいたいと望んでいるくらいだ。そして見せつけてやるのだ、万里を捨てた男と、万里を裏切った女と、万里が困っていても指一本助けてくれる気もなかった周囲の人間たちに。

 ──あたしが死んだのは、あんたたちのせいだ、と。

 自分が死んでも、誰もなんとも思わないのかもしれないのだけど。

「顔写真が出れば、イヤでも気づくからな。やたらと記憶力はいいやつだから」

「……?」

「あの時の、って思うだろ。そうすると、あんなに近くにいたのに、って考えずにはいられないだろ、どうしたってさ。まずいことに言葉まで交わしてるからな。それが、困るんだ」

「……?」

「だからとりあえず、今日ここで死ぬのはやめてほしい、って言いにきた」

「……まるで、今日ここでじゃなきゃいい、って聞こえるけど」

「そう言ってる」

「…………」

「俺だって、こんなのガラじゃないことは承知なんだ」

 そう言って、彼ははあーっと長くて深い溜め息をつき、「何か書くものあるか。紙とペン」と唐突なことを口にした。

 困惑が過ぎて、何をどう返していいのかも判らない。しかしなんとなく逆らうことも出来ずに、万里は自分のバッグから手帳とボールペンを探して、彼に差し出した。

「あんたが死ぬのはあんたの自由だし、俺の事情でそれを止めるってのも、勝手な話だからな」

 と言いながら、彼がさらさらと手帳に何事かを書きつける。なるほど、「命は大切にすべきだ」という理由で止めるつもりは、これっぽっちもないらしいことだけは判った。それ以外のことはサッパリ意味不明だが。

「これ」

 書いたページを広げたまま、こちらに放り投げるようにして返された。

 殴り書きのような文字で大雑把に書かれているのは、何かの電話番号と住所だった。


 そして、「スズカ便利屋」の文字。


「……便利屋?」

「今夜どうしてもここから飛び降りる、って言い張るなら、しょうがないから警察を呼ぶ。明日になっても気が変わってなきゃ好きにすればいい。けど、もし──少しは気を変える気があれば、ここに行くのもいい」

 とにかく、万里が今ここから飛び降りて死ぬのは、何が何でも阻止する、ということであるようだ。あくまで、彼自身のよく判らない事情により。

 しかし、だからって、なんで便利屋なのかも判らない。

「……便利屋に行って、何すんの」

「死にたいって思うくらいなんだから、あんたには、何かしら困ったことがあるんだろ。それを全部、嘘を混ぜずに率直に話してみるといい。そこの所長は、『困ってる人がいたら力の限り手助けする』っていうのがモットーの人だから。コーヒーを淹れるのが上手いバイトもいるし、料金も安い」

「…………」

 思わず、唇の片端を吊り上げ、ふっと笑ってしまった。

「便利屋なんかに解決できるようなことで死のうと思ったわけじゃないわ」

 真面目に結婚を考えていた男に、散々貢がされた挙句に捨てられた。ホステス仲間の投資話に乗っかり、いずれ自分で店を出すつもりで貯めていた資金を騙し取られた。三十近くなった自分から、客は離れていく一方だ。己の欲を満たすためだけにしか生きてこなかった万里には、信頼できる友人もいない。店のママにさえ、自業自得だと笑われた。万里の味方なんて、この世のどこにもいやしない。

 お金もない、希望もない、支えもない。何をしてももう楽しいなんて思えない。

 たった一人きり、行くところも、帰るところもない。

 ここにあるのは、何もかもが空っぽになってしまったただの抜け殻だ。誰にも、何も、救いようがない。

 ……ああ、そうか、とようやく思い当たった。

 だから最近になって、よく昔のことを思い出していたのだ。今日、彼を一目見て気づいたのも、そのためだ。

 人にも、物にも、仕事にも、自分に対しても、興味のなかった男の子。


 ──あの頃、彼もこんな風に空っぽだったのかもしれない、と。

 万里が心底恐ろしく感じたあの時の彼と、今の万里は、同じような目をしているのではないかと。


 でも、目の前にいる彼は、もうあの頃のような目をしていない。変わっていないところもあるけれど、確実に変わったところも、やっぱりある。

 この人は、これまでの数年を、万里のようにただ無為に消費してきたりはしなかったのだ。

「まあ、確かに何も出来ないかもしれないが」

 彼はあっさりと認めて、「でも」と続けた。

「──でも、少なくとも、放っておくことはしない。必ず、手を差し出してくれる。この世界には、そういう人間もいる」

「……いるわけない」

 呟くように反論した。

 だって、今まで、そんな人は一人もいなかった。

「いるんだ。そういう人間は、表面的には頼りなく見えても、たくさんのものを変える強い力を持ってる」

「…………」

 不破君を変えたみたいに? と言いかけた言葉を呑み込んだ。


 あたしも──あなたみたいに、変われるのかな。

 これまでずっと、好き勝手にやってきた。たくさんのものを捨てて、その捨ててきたものたちが、どんなに自分にとって大事なものであったかも気づけなかった。

 今になってようやく、何も残されていないと知った自分が、変わることなんて出来るのかな。

 手遅れになっていないかな。

 ……今からでも、居場所を見つけられるかな?


 ひょっとして、万里があの店で、夜景が見えるビルがあるか、なんて訊ねたのは、彼に気づいてほしかっただけなのかもしれない。止めてもらいたかったためなのかもしれない。

 あんたもまだ遅くない、って言ってもらいたかったのかもしれない。

 ──本当はあたし、生きていたいと思っているのかも。

「全部ぶちまけてみれば、多少は楽になることもある。思ってることを言葉にするか、しないかっていうのは、意外と大きな差があるって、俺も最近になって知った。まだ時々、失敗するけどな。……それに」

「それに?」

「……いろんなことが、バカバカしくなる。あそこに行くと」

 そう言って、少しだけ笑った。



          ***



 大人しくまた階段を下りて、ビルの前で彼とは別れた。

 最後に、「あの時はごめんね」と言おうとして、やめた。きっと、何のことを言っているのか判らずに、怪訝な顔をされるだけだろう。昔のように、去って行く後ろ姿を見送ってから、踵を返した。

 便利屋の名前と番号が書かれた手帳を抱きしめるようにして、夜道を歩く。

 ……今の状況が、良くなったわけでは全然ないのだ、もちろん。

 けれど。

 今の万里の手の中には、この手帳がある。何もないわけじゃない。空っぽなわけじゃない。大きな絶望はまだ変わらずあるけれど、ほんの片隅に、一握りの期待と希望がある。

 明日になったら、ここに行ってみよう。

 助けて、と言葉にしてみよう。

 手を差し伸べられたら、素直にそれを掴んでみよう。



 頭上を見上げたら、月が明るく輝いていた。

 その時になってはじめて、月が出ていることに気がついた。

 ああ、あたし、生きてるんだ──と万里は思った。





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