雪色ロマンス(8)
上を向いて、ふう、と息を吹きだしたら、真っ白いもやっとしたものが冷たい空気の中で広がり、舞い散る雪の中に消えていった。
──環君が煙草を吸ってる時みたい、と思って、時子は微笑んだ。
自分以外、他に誰もいない屋上は、もう見渡す限り真っ白だ。
呼気に含まれる水蒸気が、大気で冷やされ細かい水の粒になって、吐く息が白く見える──と以前どこかで聞いた理屈を、頭の中で反芻した。ちっともロマンチックじゃないわ、と細く緩く白い息を吐き出しながら思う。
子供の頃は、ただ自分の口から出る息が目で見えるのが不思議で楽しくて、呼吸困難になるまで吸ったり吐いたりを繰り返していたものなのだが。成長するうち、世の中の事象は大抵が科学的に説明のつくものだということを知ってしまうと、昔のような無邪気な気持ちで物事が楽しめなくなる。大人になるっていうのは、案外、つまらない。
そうして、大人になると、息が白くなっても雪が降っても、もうわくわくすることもなく、ちょっとだけうんざりしながら、自分の足元だけに目をやって、はしゃぐ子供の姿を見て、何が楽しいんだかと呆れたり微笑ましくなったりして横目で見ながら通り過ぎるだけになっていくのだ。
「子供」 と 「大人」 は、別に違う生き物なんかではなくて、誰もが、時間とともに順番に子供から大人へと変容していくものなのに。どうして、人は大人になると、自分も昔は子供であったことを忘れてしまうのだろう。
もしかしたら、本当は考えるのが嫌なのかもしれない。あの頃のような純粋な気持ちではいられなくなったことを自覚するのが、悔しいのかもしれない。もう二度と、昔のような自分に戻れないのを知っているから、哀悼と惜別とを胸に抱き、忘れてしまったフリをして、前に進んでいくしかないのかもしれない。
***
父が母に別れを切り出した時、時子は間違いなく、まだ 「子供」 だった。
だから、父に対して、母が怒りを向けたのは、ごくごく当然のことだと思った。時子だって、母に負けず劣らず、怒ったし、傷ついたし、悲しんだりもしたからだ。父の言う 「好きな人」 というのが、小さな頃から大好きだった桐子であったことも、衝撃だった。
裏切られた、と母は言った。時子も、そう思った。父も、桐子も、母と時子を裏切ったのだと。あんなにも優しかった、あんなにも愛していた、あんなにも仲が良かったのに、どうしてどうしてと、二人を責める気持ちばかりがあった。
母は傷ついた以上に怒った。悲しむ以上になじった。すまないと謝罪を繰り返す父に激しく執着したのは、多分、愛情よりも、妻として、女としての意地のほうが大きかったのかもしれない。桐子に対して狂ったように罵声を浴びせ、手当たり次第に物を投げつけるその姿に、昔の優しかった母の面影はどこにも残っていなかった。
驚くことに、その状態は一年も続いた。けれどそれだけ時間が経っても、夫婦間の揉め事は、何ひとつとして進展しなかった。母は頑として離婚に応じず、父は 「すまない、でももう、ダメなんだ」 と言い続ける。桐子は黙って、ひたすら泣き叫ぶ母に頭を下げていた。
その修羅場を、時子はただ眺めているしかなかった。
だって他にどうしようがあっただろう? 母は一人で嘆き苦しみ、父は気まずそうにして、時子とは視線を合わせもしない。口を挟もうとすれば、「子供は黙っていなさい」 と一蹴される。
父と母と桐子は、あくまでそれを、「三人の問題」 として片付けようとしているようだった。彼らはみんな、それぞれに抱え込んだものが重すぎて大きすぎて、いっぱいいっぱいだった。一人娘のことにまで気を廻している余裕のない、可哀想な人たちだった。
時子がそのことに、どんなに心を痛めているのか、何を思っているのかさえ、知ろうともしなかった。
「お父さんは、私とお母さんを捨てていくの?」
ある日、時子は父に向かってそう訊ねた。
父はそれを聞くと、憔悴しきった顔に、悲しみと申し訳なさと、そしてやっぱり、どうしようもなく揺るがない意志の色を浮かべた。
「捨てるつもりはないよ。お父さんが時子の父親であることに、変わりはない」
勝手な言い分だな、と思った。腹も立った。父が言うことは、単に戸籍上、書類上のことだ。父は家を出て、桐子の許へ行こうとしている。今まで築いてきた家庭から一人だけ抜けだそうとしている。それは紛れもなく、時子と母を捨てるということだ。
「ただ、お父さんはもう、お母さんとは一緒には暮らせない。もう、昔のような愛情を持つことが出来ない。心変わりをしたお父さんが悪い。悪いけれど、でも、どうしようもないんだ」
「…………」
時子はもう、その言葉に反論するには疲れ切っていた。一年もの間、両親の争いをすぐ近くで見続けて、心身ともにへとへとになっていた。怒りも、嘆きも、持続させていくのは膨大なエネルギーを必要とする。父に母にそして桐子に、うんざりするような気持ちもあった。
だから父のその返事を聞いて、時子はもう、諦めることにしたのだ。
──気持ちが変わってしまうのは、しょうがない、と。
考えてみれば、父の態度は誠実ではあった。母に何を言われてもじっと耐えるのは、かなり精神を摩耗するものであったろう。それでも、自分が悪い、と言い続け、誰にも責任を転嫁することもなく、ただ、桐子と一緒になりたい、別れて欲しい、とそれだけを訴え続けていたのだ。
父の心は、もう母にはない。時子にもない。小さい頃から可愛がってくれていた父だけれど、その愛情はなくなりはせずとも、すっかり形を変えてしまった。
そしてそれは、しょうがないことなのだ。
きっと、父だけが悪いわけではないのだろう。桐子も、母も、時子も、誰かがものすごく悪いってわけじゃない。けれども、変わってしまう心は、誰にも止めようがないのだ。父本人にも、きっと、どうしようもないことなのだ。
そう思ったら、気持ちが少し楽になると同時に、胸の中を冷たい風が吹き抜けていくようだった。
ああ、もう、子供ではいられない、とその時思った。
一年諍いを続けても、父と母はその問題を解決できなかった。どちらも退かない言い争いは、妥協点を見出すこともなく、和解の糸口を探り当てることもなく、どろどろと憎悪と混迷ばかりをこじらせて、結局、父は身ひとつで家を出て行った。
それまでも家に帰ってこないことはあったが、今度のそれが、「もう二度と帰らない」 という意思のもとでの行動だということは、よく判った。
母は残された家の中で、ぽかんと放心していた。
「ね……お母さん」
時子はそうっと、そんな母の肩に手を置いて、声をかけた。大きな声を出したら、そのまま壊れてしまいそうな危うさがあって、自然、口調はちいさな子供に話しかけるようなものになった。
「お母さん、お父さんのことは、もう、諦めよう」
そう言ったのは、時子自身がすでに諦めてしまっていたからだ。父はもう、決してここには戻ってこない。父の心は変わってしまい、他の人のところへと移ってしまった。それは、誰にも、どうしようもない。
これ以上執着し続けても、事態は絶対に好転することはない。
「これから、私と二人でやっていこう。ね? おばあちゃんも呼んで、この家で一緒に暮らしてもいいし、引っ越ししてもいい。落ち着いたら、気分が変わって、楽しいことも考えられるよ、きっと」
「…………」
ゆるゆるとした動きで、母は時子の方を振り向いた。不安になってしまうほど、緩慢な動作、魂の抜けたような虚ろな表情だった。
「……私、あの女に負けた」
唇からぽつりと漏れた呟きは、桐子に対するものだった。目の前にいる時子ではなく。
「勝ったとか、負けたとか、そんなことじゃないよ、お母さん」
「今頃、二人で私を笑ってる」
「……ねえ、そんなこと考えるのはやめようよ」
真っ暗な目をした母に、時子は何を言っていいのか判らない。何を言えば、母の気持ちが少しでも軽くなるのか、まるで判らなかった。ただ、時子はもう、母の口からそんな言葉が出るのを、聞きたくはなかった。あの朗らかだった母の目が、どんよりとした闇で覆い尽くされているのを見るのは、心臓が痛いほど苦しく、切なかった。
「お父さんも、桐子さんも、悪くないよ。誰かが悪いわけじゃないんだよ。ねえ──」
お母さんだって、なんにも悪くなんてないんだよ、と言いかけて、舌先が凍った。
母がそれまでのゆったりとした動きを打ち捨てて、燃えるような激しい怒りを瞳に浮かべて、素早く時子を睨んだからだ。
「あんたも、あの二人の味方なの」
射るようなきつい眼差しは、今まで一度だって母から向けられたことのないものだった。それは、「敵」 に向ける眼だ。
「…………。そ、ういう、ことじゃない、よ」
拳にした手が震えた。悔しくて、歯がゆくて、瞳に涙が浮かんだ。違う、違うのだ、時子が言いたいのはそういうことじゃない。母に言いたかったのは、もっと別のことだ。
どうして判ってくれないの、と頭がじんじん痺れた。喉が詰まって声が出ない。
「ああ、そう」
けれど、炎が宿ったのはほんの一瞬のことだった。すぐに全身から虚脱するように力が抜けて、母の目は、またどろんと曇った。
彷徨うように、視線が宙を漂う。
「おかあさ」
「そうなの」
呟くように言って、母はそれきり、時子のほうを見もしなかった。何を言っても、もう母の耳には届かなかった。
──母が線路に身を投げたのは、その翌日のことだ。
母の亡骸に対面して、時子は泣くことが出来なかった。
母が生きることを放棄したのは、父へのあてつけや、桐子への抗議のためもあっただろう。でも多分、最後の一押しをしたのは、時子の言葉だった。
夫や親友ばかりでなく、娘までも自分を見放したという、絶望からだった。あの場面で、時子がもっと違うことを言っていれば、母はまた違う選択をすることだってできたかもしれない。今までずっと、時子の意見なんて必要としていなかったのに、時子の不注意な一言だけ、母は耳に入れた。そして心を直撃し、そもそも脆かったそれを、木端微塵に破壊してしまった。
だから遺書には、時子の名前はひとつも書かれていなかったのだ。母にとって、時子は、父や桐子と同じ、「自分を捨てた人間」 でしかなかったのだ。
誰も悪くない、なんて言葉、母はまったく必要としていなかった。本当に望んでいたのは、自分だけの味方、決して自分を見捨てない人間、それだけだった。だからあの時、時子がちゃんと母だけを、母一人だけを選んで、それを態度と言葉に出していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに、時子は間違えてしまった。その間違いは、取り返しのつかない結果を呼び寄せた。
選ぶのは、たった一つでなければならなかったのに。
母だから、子だから、言葉がなくたって判り合える、無条件に慈しみ合える、信じ合える、永遠に愛情は変わりない──なんていうのは、所詮、ただの幻想だった。
幻想、幻想だ。時子という娘は、母をこの世に繋ぎ止めるだけの楔にはなり得なかった。
あの時、時子が言いたかったのは、本当は。
──私はここにいるよ、という、ただそれだけだったのに。
ここにいる。
傍にいる。
大好きなの。
お願いだから……忘れないで。
たったそれだけのことを時子は伝えきれず、そのために母は自分の命を投げ出した。母は最期まで、時子の姿を正面から見てくれることはなかった。
駆けつけてきた祖母が、母の名前を叫んで、遺体に取りすがって泣いた。時子が救うことのできなかった母、死に追いやった母は、もう生前とはかけ離れた姿になってしまっていた。
「ごめんね、おばあちゃん」
と、時子は青白い顔で、祖母に向かって謝った。
ごめんね。
……この先、何があってももう二度と、おばあちゃんを泣かせるようなことはしないからね。
葬式が終わると、住んでいた家を売り、父と桐子は渡米することになった。一緒に行こう、と言われたが、時子はそれを断り、祖母と暮らすことを選んだ。
父も桐子も、母の死に打ちのめされていた。周囲の目にも、もう耐えられなくなっていたのだろう。時子にもそれは理解できた。他人の好奇心に晒されたのは、なにも彼らばかりじゃない。
腫れ物のように扱われ、時にはあからさまな同情を受け、優越感の混じった憐憫を向けられた。無責任な冷やかしの言葉もあったし、侮蔑のような言葉だって、たくさん投げつけられた。優しさや親切心もあったけれど、それと同じくらい、中傷や悪意もあった。
時子はそれらに対して、反論も反発もしなかった。性格的にただ甘んじているのは難しかったので、やられた分にはやり返すだけのことはしたが、言われることをいちいち否定はしなかった。彼らの言うことは、どこかがまるで的外れであり、どこかが真実を衝いていた。どの言葉が時子の心を抉るように傷つけるかなんて、絶対に悟られてなるもんかと思った。
誰にも、弱味を見せたりするもんか。
時子の罪は、時子だけが背負っていくべきものだ。何も知らない他人に糾弾されたり、癒されたりするのなんて、真っ平だ。痛みは痛みとして、残っていればいい。救いも、赦しも、必要ない。一生、このまま胸の奥深くにしまい込んで、抱き続けていけばいい。
何も要らない。
同情も、憐憫も。
救いの手も。
時子の十七歳の誕生日、大雪が降った。
祖母は、ケーキを買ってお祝いしましょうと言ってくれた。自分が生まれたことの何を祝うのだろうと疑問だったが、そうだねと笑って同意した。余計なことを口にして、祖母に悲しい顔をさせるのだけはイヤだった。
美味しそうなショートケーキは三つ買われて、一つは母の仏壇に供えられた。位牌の前にケーキを置いて手を合わせ、「時子が十七になったのよ」 と嬉しそうに母の写真に語りかける祖母の小さな背中を見ていたら、たまらなくなった。
「おばあちゃん、外に行ってきてもいい?」
無理やり笑顔を浮かべて訊ねると、祖母は少しきょとんとし、それから笑った。
「あなたは、本当に昔から雪が好きなのねえ」
うん、と頷いたが、実のところ、雪なんてどうでもよかった。ただ、もうこの世にはいない母と話をする祖母をそれ以上見ていたくなかったからだ。
──そういう時の祖母は、時子よりも、母の近くにいるような気がして、胸が苦しくなる。
家を出て、どこに行くあてもなく、ぼんやりと歩いていたら公園があった。その公園は、幼い頃祖母の家に来ると必ず出かけていたところだった。祖母と、母と、時には父と。外観はその頃とまるで変わらないのに、雪で白く覆われたその場所は、見慣れているものとはまるで違うように見えた。
「…………」
もう、時子にとっての 「あの公園」 は存在しないのだと、はっきり思った。
時間は戻らない。幸福だった日々は永久に失われた。もう二度と、この手に返ってくることはない。
永遠なんていうものは、どこにも存在しない。時が決して止まらないのと同じように、人も、物も、景色も、流転し、変化をする。心は変わり、気持ちは移ろい、命は消えていく。
父親と一緒に暮らした方が、時子にとって 「幸せ」 だ、と祖母が考えていることは知っている。でも、時子は、祖母も、あの家も、大好きだった。ずっとこのままでいられればいいのにと、いつも思っている。ずっと、ずっと。
……でも、それは無理なのだ。
祖母はいずれいなくなり、あの温かい家もなくなってしまうだろう。どんなに大事でも、愛していても、去っていくものを引き留めることは出来ない。時子はそれを、身をもって知っている。
残された人間は、諦めるしかない。この世界は、なんて儚く、なんて虚しいのか。
雪の中、歩いている人たちは、誰一人として時子に目を向けようとしなかった。みんな、足元を向いて、時子が立っていることにも、気づかないみたいだった。もしかしたら、本当に、誰にも見えないのかもしれなかった。
自分の靴の上にも、肩にも、頭にも、雪が降り積もっていく。このまま覆い尽くされたら、どうなるのかな、とぼんやり思った。
全身が真っ白くなって、雪ダルマみたいになるのかな。雪に包まれて、そのうち自分も雪と同化してしまうのかな。
そうしたら、太陽が出て暖かくなった時に、私も雪と一緒に溶けてなくなってしまうのかな──
そう思ったら、もう、それでいいような気がした。十七年前のこの日、時子が生まれてこなければ、母は今でも生きていたかもしれない。そうすれば、祖母だって、あんなに嘆き悲しむことはなかっただろう。
父も、母も、桐子も、時子を見ようとしなかった。今だって、道を歩く人々に、時子の姿は見えていない。まるで透明人間だ。誰からも見えないなら、そんな存在は、もともと 「無い」 のと同じだ。
──その時。
いきなり、傘が差しかけられた。
目を上げると、すぐ前に、若い男が立っていた。背が高くて、無愛想な感じの人だった。傘を差しかけながら、口を結び、時子をじっと見下ろしている。
なぜか、ものすごく怒ったような顔をしていたけれど。
でも、その人の目は、ちゃんと真っ直ぐ時子を向いていた。
すごく驚いた。
私が見えるんですか? と訊いたら、見えるに決まってるだろ、と返された。
ああ、見えるのか──と思ったら、こんなにも寒いのに、じんわりと胸が温かくなった。自分の中に、まだそういうものがあることに、ほっとした。嬉しかった。
……時子はそれが、本当に、本当に、嬉しかったのだ。
泣きたくなるほどに。
***
白い雪が羽根のようにふわふわと宙を舞い落ちている。
時子は頭上を見上げ、また息を吐いた。天から降り注ぐ雪は、さらに多くなってきたようだった。着ているダウンジャケットにも、頭にも、少しずつ積もってきて、全身が白く染まりかけている。
あの時と同じように。
カチャン、というかすかな音がして、時子は空に向けていた顔を、屋上のドアへと移した。
「……?」
建物内へと通じる灰色のドアのノブが、下に動いている。それが立てた音らしい。こんな日に屋上に出てくる物好きが、自分以外にもいたのか、と思う。
ドアが、ゆっくりと開いた。




