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猫の手貸します  作者: 雨咲はな
Last case.ひとだすけ
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雪色ロマンス(5)



 椅子から立ち上がり、窓の方向へ顔を向けたのは、どうやら無意識の行動だったらしい。

 「不破君?」 という鈴鹿の訝しそうな声で、我に返った。

「──所長」

 口から出した声は、無様なほどに揺れていた。それに気づいたのか、鈴鹿の顔が引き締まる。

 環は窓から鈴鹿へと視線を移して、何を言うべきなのか一瞬迷った。自分でも、何を言いたいのか、何がしたいのか、よく判らない。少し口ごもり、またちらりと窓へと目をやる。

 窓の外には駐車場があり、駐車場には自分のバイクが停められている。

 ああそうだ、行かなくちゃ、と思った途端、言葉が勝手に唇から滑り落ちた。

「すみません。俺……ちょっと、今から、出てもいいですか」

「いいよ」

 突然の環の申し出に対する鈴鹿の返事は、上司としてどうかと思うくらい、早かった。どこへ? とも、何しに? とも、この状況で当然あるべき質問もない。それでかえって、環も冷静さを取り戻したほどだった。取り戻して、ようやく、今の自分が相当に動揺していることに気がついた。

 鈴鹿だけでなく、桂馬にも、純にも、まじまじと見つめられて、少しバツが悪くなる。

「……すぐに戻りますから」

 今日は夕方に一件仕事の予約が入っていたはずだから、それまでに、という意味でぼそぼそと付け加えた言葉を、鈴鹿はあっさり手を振って一蹴した。

「平気だから、行っておいで。幸い、今日は事務所の人手も十分に足りてるし」

 言いながら、鈴鹿の両方の手で指差された桂馬と純が、目を丸くして、「え」 と驚く声を出す。冗談でしょ、と桂馬はすぐにむくれた顔になったが、純はぷっと陽気に噴き出した。

「まあいいですよ、どっちにしろ俺、今日のバイトは欠勤したし。便利屋の仕事って、けっこう楽しそう」

「言っておくけど、時給は低いからね」

 ちゃんと釘をさすことは忘れない鈴鹿に、純はひどく感心したように、「へえー」 と声を上げた。

「逢坂さんの言ってたこと、ホントなんだ」

「うん? 時子君、なんて言ってたんだい?」

「史上空前、驚天動地、前代未聞、信じられないくらい圧倒的に、日本国内のどんなバイトよりも低賃金だって」

「それほどじゃないよ! 映画の宣伝じゃあるまいし!」

 二人の会話を聞いて、桂馬は面白くなさそうに、軽く舌打ちした。

「言っておくけど、おれはそんな子供の小遣い程度の金なんて要らないよ」

「え、なに言ってんのかな、桂馬君。君は僕の親戚なんだから、もちろんお金なんて払わないよ。純粋な 『お手伝い』 ってやつだね。普段この事務所で好き放題してるんだから、それくらい当然ってもんでしょ」

「…………」

 しれりと言い返されて、ますますふてくされる。

「……ま、少なくとも不破よりは、客あしらいは上手いに決まってるけど」

 不満そうながら、自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟く桂馬に、そうだねえ、と鈴鹿もその点は素直に肯定した。

「女性客限定だけどねえ」

「こんなにもいい男が二人もいるんだから、今日のお客さんはラッキーじゃないですか」

 にこにこと笑う純は、ショボい事務所内においても、まるで周囲に青い空と白い雲が見えるくらい爽やかだ。日常生活で爽やかさとはまったく縁のない、不健全かつ自堕落なサイテー男には、その姿が非常に胡乱なものに見えたらしかった。

「ていうかお前、ホントに時子ちゃんのただの同級生か? 実は狙ってんじゃないの? 言っておくけど、無理だよ。あの子、めちゃめちゃ手強いから」

「はあ、なるほど、苦戦してるのがありありですもんね。でも俺、逢坂さんみたいな人を彼女にしようと思うほど、強心臓じゃないです。振り回されるの、目に見えてるし」

「それに、久我君は今でも妹にゾッコンで、異性には興味がないんだって、時子君が言ってたよ」

「妹って……ああ、なんだ、そういう危ない系?」

「ち・が・い・ま・す。なんなんですかその納得したような顔。俺はどこにでもいるごく普通の学生です」

「言いきっちゃうんだー。ある意味、すごいね、久我君」

「大体、『ゾッコン』 って、普通に現代の大学生をやってて、そんな言葉が出てくる逢坂さんのほうがよっぽど変じゃないですか」

「それは確かに」

「すごい説得力」

 わいわいとくだらないことで盛り上がっている彼らの声を背に、環は事務所のドアを開けて、外に足を踏み出した。

 再びドアを閉めてから、やれやれ、やっと動いたよ──という鈴鹿の呆れる声が中から洩れてきたが、それは聞こえなかったことにした。




          ***



「…………」

 その家に到着してバイクを降りてから、環はしばらくの時間、そこで立ち尽くした。

 そんなに大きいわけでもない一軒家は、時子の送り迎えをするのに何度も訪れたことがある。なかなか年代を感じさせる木造の家だが、そこはいつ来ても、几帳面で世話好きな家主の性格を反映して、きちんと整えられていた。

 玄関前は、常に清潔に掃き清められていた。生き生きと育てられた可愛い花の咲く植木鉢は、あちこちに美しい色彩で配置され、訪問者たちの目を和ませていた。庭木は多くはないけれど、それでもちゃんと剪定され、雑草はきっちり抜かれて、清々しいほどだった。いつも、門から一歩踏み入れるだけで、居心地よく温かい雰囲気に包まれたものだった……のに。

 それが、こうも変わるのか。

 白い埃と砂で汚れた玄関前。ほとんどが萎れて枯れてしまった花。庭では、茶色く変色した花と葉っぱが薄い層を作っている。家を囲むブロック塀と地面の境目からは、この気温の低さにも関わらず逞しい雑草が顔を覗かせて、手入れのされない侘しさを強調しているようだった。

 これに比べれば、事務所の変化なんて些細なものだと思わずにいられない。あそこはもとからあまり美しくない、という理由ももちろんあるが、それでも鈴鹿と環がいる分、ここまで寒々とした空気にはなり得ないからだ。

 この家には、もはや住人がいない。いや──いない、というより、住人から捨てられている、放置されている、といった方が正しいのかもしれない。今朝の新聞が郵便受けに挟まれたままになっているが、それ以外は溜まっていないところからして、この場所で少なくとも寝起きしている人物はいるのだろう。けれど、その人物は、ここで 「生活」 してはいないのだ。もしくは、その意志がまったくない、というべきか。

 ここはただの、がらんとした空白の容れ物でしかない。

 その人物──つまり、時子は、この場所を、「家」 と認識することをやめてしまった。

 なぜなら、ここには、時子の家族がいないからだ。家族のいない家は、家じゃない、と時子は思っているからだ。時子はだからもう、この家自体に、見向きもしないのだ。


 昔、両親と幸せに暮らして、現在は見知らぬ他人が住んでいる、あの家のように。


 とりあえず衝動のままここまでやって来はしたものの、それからのことをまったく考えていなかった環の曖昧な意志は、ここではっきりと、すぐに戻る、と鈴鹿に言った言葉を撤回することを決めた。

 ……だって、知ってる。

 環は、時子がこの家を、ようやく得た彼女の第二の安住の地を、どれだけ大事にしていたか知っている。古いからそこらじゅうガタがきてるのよねえ、などと言いながら、あちこちを祖母と一緒に苦労して修繕していると報告した時の、あの楽しそうな笑顔を知っている。

 ただいま、おばあちゃん、と嬉しそうに家に帰っていく、甘えた背中を知っている。

 その家が、こんなにも寂しく哀れな姿に成り果てているのを見て、それでも気づかないフリを続けるのは、環には不可能だった。

「すみません」

 たまたま近くを通りがかった中年の女性を呼び止めると、買い物袋を腕にぶら下げた彼女は、びっくりしたように立ち止まった。

「この家の人、知りませんか」

 環の唐突な、しかもぶしつけな質問に、女性はひるんだように口を結んで、じろじろと頭から足先までを見返した。環の外観はお世辞にもフレンドリーな感じではないので、怪しむのと、怖いのとで、思考の大半が占められていることが、その表情から読み取れた。あとの残りのわずかは、好奇心、といったところか。

「あの──逢坂さんのこと? ここね、多分夜まで誰もいないわよ」

 ちらっとバイクに目をやったのは、もしかしたら、環をバイク便の兄ちゃんとでも思ったのかもしれない。

「一週間くらい前かしらね、おばあちゃんが突然倒れちゃって、救急車で運ばれたの。心臓発作か何かだったらしいから、しばらくは入院されるんじゃないかしら」

「…………」

 心臓発作──と、環は心の中で繰り返した。

 想像していたこととはいえ、他の人間の口からハッキリ事実として聞かされると、胸がぎゅっと締め付けられるような気分になる。

 発作を起こすということは、以前から心臓を患ってでもいたのだろうか。それとも、健康でもある日突然悪くなったりすることがあるのだろうか。環はそういう方面での知識がないから、それについての判断が出来ない。

 ……以前から心臓に問題があったとして、時子は、それを知っていたのだろうか。

「お孫さんと二人暮らしだったし、その子も病院に詰めっきりで、この家にはほとんど戻らないみたい。不在票でもポストに入れておいたらどうかしらね?」

 やっぱり環を宅配業者だと思っているらしい。女性はそれだけ言うと、また足を動かして、さっさとその場を去ろうとした。環は一歩を踏み出し、その背中にもう一度声をかける。

「どこの病院か、知りませんか」

 顔だけ振り向いた女性は、眉を寄せ、今度こそはっきりと怪しむ表情になった。さあ、と素っ気なく一言だけ答えて首を傾げ、逃げるように駆け足で帰っていく。

「…………」

 彼女を追いかけることまではせずに (それをやると、間違いなく警察に通報されそうだ)、環は道路に目を落とした。考えていたのは、これからどうするか、ではなく、どうしたら入院先の病院が判るのか、ということばかりだった。

 近所の住人に訊ねて廻ってみたところで、今のように怪しまれて警戒されるのがオチだろう。そもそもそれを知っている人間がいるのかどうかも定かじゃない。桐子の携帯番号は知っているが、時子はきっと、あちらにもこのことは知らせていないに決まっている。

 だったらもう、このあたりの病院に片っ端から問い合わせてみるしかない、という結論に至るまでに、そう時間はかからなかった。急がないと日が暮れてしまう。

 自分のバイクに足を向けながら、まずはどこかで電話帳を手に入れて──と、これからの段取りを頭の中で立てていたため、環はすぐには、歩み寄ってくるその人の存在に気づかなかった。


「……不破さん、じゃない?」


 かけられた声に顔を上げると、目の前に、別の中年の女性が足を止めて立っていた。さっきの女性は四十代くらいだったが、今度はそれよりもう少し年配の、ふっくらとした頬と、ふっくらとした体つきの女性だった。

「新城さん」

 思わず名を呼んだ環に、ほっこり口元を綻ばせ、もとから細い目をますます細めた。彼女はそういう顔をすると、気の良い性質がそのまま顔に出る。環が最後にこの女性に会った時から数年が経過したのに、そういうところはちっとも変わっていない。

「あらあら、久しぶりね。どうしたのかしら、こんなところで。お仕事?」

「ああ……いえ」

 朗らかに問いかけられ、言葉を濁した。ここにいるのは間違いなく仕事ではないのだが、どうしてここにいるのかも、そして、どうしてこんなにも必死になって入院先を知ろうとしているのかも、自分にだってよく判らない。

「実は、ここに、知り合いがいるんですけど」

 それでも環がそんなことを口にする気になったのは、多分、この新城夫人の人柄を知っているのと同時に、少し落ち着こうと思ったのもあるかもしれない。自分でも、焦ってるな、という自覚くらいはあった。

 新城夫人は、環が目で示した家の門にかかっている表札を見て、「逢坂、さん?」 と一本調子で読み上げた。その顔にもその声にも、世間話の流れ以外のものは何もないのを見て、ほっとする。

 この人は、時子の新しい姓を知らない。彼女の知っている 「咲月時子」 が、現在はここで祖母と一緒に暮らしていることも。

 あの頃まったくの他人同士だった環と時子が、あれから恋人として付き合っていたということも。

「でも、今は入院してるって聞いて」

「あらまあ、大変ね」

 のんびりとした口調に、気遣うものが混じった。あまりプライバシーに突っ込んでくるような性格の人ではないので、どういう関係の知り合いか、などということは訊ねてこない。

「それで、入院先に行かれるの?」

「…………。そう、ですね」

 少しためらったが、返事をしながら、自分自身に確認した。

 どうして入院先の病院を知ろうとしているのか、って?

 決まってるじゃないか。そこに行かなきゃいけないからだ。

 新城夫人に顔を向け、きっぱり告げる。

「行きます」

 そうだ、行かないと。理由なんて、どうでもいい。

 ただ、焦燥だけが、自分を駆り立てるようだった。

 行かないと。

 早く。


 ──手遅れに、ならないうちに。


「あら、でも、病院は、判ってるのかしら」

「いえ、それはこれから調べます。……新城さんは、どうしてここに?」

 話題を変えたのは、これ以上余計なことを言わないためだったが、疑問があったのも本当だ。新城夫人の自宅とこの場所は、距離的にはそう離れているわけでもないが、このあたりは完全な住宅地で、目的もなくやって来るようなところではない。

「わたしは、この近くのお友達のところに遊びに来たのよ。むかーしの同級生でね、久しぶりに会ったものだから、お喋りに花が咲いて、すっかり遅くなっちゃった。のんびり歩いて帰るつもりだったんだけど、タクシーを見つけた方がいいかもしれないわね。転んでまた怪我でもしたら、主人に怒られそう」

 ころころと笑う屈託のない様子も、前と変わりなかった。この台詞を聞くに、新城夫人の夫が、自分の妻に対して心配性で過保護だというところも、あまり変わっていないらしい。

 家の階段から転げ落ちて足を骨折してしまった、おっちょこちょいな妻のために、一週間にもわたって、便利屋を雇うような。

「あら、そうだわ」

 と、新城夫人が穏やかな笑顔のまま、何かを思いついたように、ぽんと軽く両手を打つ。

「よかったら、そのお友達に聞いてみましょうか。こちらの方が、どこの病院に入院されたか。近所だから、もしかしたら知っているかもしれないし、それでなくても、このあたりの入院施設のある病院の電話番号を教えてもらえばいいわよね?」

 決して押し付けがましくはない親切心で、にっこり笑いかけてくれた彼女に、環は 「お願いします」 と素早く言った。出来るだけ時間をかけたくない今の環にとって、その話は渡りに船だった。病院が断定できなくても、候補が絞れれば、かなり助かる。

 新城夫人は、そんな環をちょっとだけ見つめて、優しくほほえんだ。

「きっと、とても、大事なひとなのね。……よかったわね、不破さん」

 あなた以前、ロボットみたいだったものねえ、と楽しそうに笑って、くるりと背を向けた。

「少し待っててね。急いで聞いてくるわ。雪が本降りにならないうちに、行きたいでしょうから」

「え──」

 ちらちらと白いものが天から舞い散っていることに、環は言われてはじめて、気がついた。




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