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名もなき街の何でも屋 ~ネオン都市のストレイシープ~  作者: 薄氷薄明


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「この街では、壊れた感情を撃つ」

 この街では、感情が壊れる。

 壊れた感情は、現実になって人を殺す。

 だからクインは、それを撃つ。



 この街に名前はない。

 どこの国にも属さず、どの地図にも記されていない。

 人々はここを「あの街」や「歓楽街」と呼ぶ。ある者は皮肉を込めて「ネオン街」や「吹き溜まり」と呼ぶ。


 名前がないのは、誰もこの場所に責任を持ちたくないからだ。

 そして誰もが、ここを“通過点”だと思い込んでいるからだ。



 夜になると、この街は姿を変える。

 それは明かりが灯るからではない。現実が少しだけ後ろに下がり、代わりに“意味”が前に出てくるからだ。


 昼間はただの石畳だった道が、うっすらと光を帯びる。

 そこには人々が歩いた記憶や、繰り返された行動の“残り”が染みついている。夜になると、それが淡く浮かび上がる。

 建物の壁に取り付けられたネオンも、単なる照明ではない。魔力の流れに「意味」が乗り、光として滲み出たものだ。赤は人を引き寄せ、青は空気を落ち着かせる。


 夜の都市とは、世界の本音が光になって漏れ出している場所だ。

 だから夜は危険だと言われる。願いも、恐れも、怒りも、この世界では“現実に触れてしまう”。


 かつて、この街の一角が完全に“死んだ”夜があった。


 冷たい雨が降っていた。空から落ちる水滴は、街に滞留した感情――意味の残滓を、淡々と下水へと洗い流していた。


「感情回収 崩壊事件」


 違法業者が人々の感情を金と引き換えに抽出し、売り捌いた結果、概念層が暴走した。路地裏は固定化された“安心”と“快楽”に埋め尽くされ、人々は笑みを張り付けたまま、同じ動作を繰り返す肉のオブジェと化していた。


 土砂降りの雨の中、四人の人間がその惨状を見下ろしていた。


 一人は、暴力で業者を潰しに来た男、ハリー。

 一人は、裏帳簿を握り損切りを選んだ女、エイヴ。

 一人は、この歪みを観測するために来た青年、アーロ。

 そして、クイン。



「あれは、もう感情じゃない」


 クインは淡々と呟いた。


 その瞬間、ほんのわずかにだけ視線が揺れる。だがすぐに元に戻る。彼の目に映っているのは、人ではなく、絡み合った“意味の残骸”だった。


 クインはコートの奥から特殊銃を引き抜く。

 血筋も加護も持たない人間が、現象に干渉するための装置。流れを圧縮し、概念へと叩き込む。


 引き金を引く。


 音はなかった。ただ、世界を覆っていた光が、ガラスのように砕け散る。固定された意味は消滅し、人々は崩れ落ちた。心は戻らない。街の一部は死んだ。


「この街、また同じことが起きるよ」


 アーロが言う。


「……だろうね」


 クインは短く応じる。


「防ぐ気は?」


 エイヴが問う。


「防がない。起きたら、終わらせるだけ」


 その言葉に、ハリーが拳を握る。


「じゃあ、その“終わらせる役”やるなら、俺も乗る」


 こうして四人は、一つの場所に吹き溜まった。




 「依頼だ」


 アーロが羊皮紙を机に置いた。


 拠点のバーの外では、今日もネオンが揺れている。


「感情売りの店。元・太客の案件だ。“好き”が固定化された。結果、彼女の周囲だけ時間が止まっている」


「時間が止まってるぅ?」


 奥のソファで寝転がっていたハリーが、面倒くさそうに身を起こした。


「比喩じゃないよ」


 アーロは言う。


「強い感情が直接現実に影響する例外現象だ。彼女の“愛”という概念が暴走して、物理的な時間(物質層)がそこだけ欠落しているんだ」


「面倒なら殴ればいいだろ」


「それで採算取れる?」


「店のオーナーからの依頼だ。報酬は悪くない」


「なら、行くか」


 軽い言い合いのあと、クインはカウンターに置かれた羊皮紙をポケットにねじ込んだ。




 部屋の中は、異常だった。

 ピンクの光が空間に貼り付いている。液体が宙で止まり、時間が歪んでいる。


「あイ……しテ、ル……」


 空間そのものが囁く。

 クインは無言で踏み込んだ。圧力はあるが、関係ない。彼にとってこれは“現象”だ。


「終わらせる」


 銃を構える。


 アーロが歪みの中心を示す。

 引き金を引く。

 衝撃が概念を断ち切る。


 光が消える。

 時間が戻る。


「ひっ、ああああっ!」


 呪縛から解放された男が、悲鳴を上げて床を這いずる。女は手から瓶を落とし、きょとんとした顔で立ち尽くしていた。

 彼女の目から、狂気的な熱量は完全に失われていた。愛の概念を切断されたのだ。彼女はもう、目の前の男を愛していない。正気に戻った彼女に残ったのは、ただの虚無だった。


「処理完了」




 拠点に戻ると、外は雨だった。


「割に合わないわね」


 エイヴが帳簿を閉じる。


 ドアベルが鳴る。

 一人の青年が立っていた。


「……ここが、何でも屋ですか」


 雨に濡れているが、立ち姿に無駄がない。


「仕事を探してるんですが。自分はシド…「名乗る必要はないわ。この街で本名を名乗る人なんていないし」」


 エイヴが羽ペンを動かしたまま告げる。


「働きたいなら、勝手についてこい」


 クインは銃の手入れを続けたまま答える。


 そのときだった。


 青年の背後で、ネオンがわずかに歪む。


 クインの手が止まる。

 ――読めない。

 この街では珍しいことだった。


(……なんだ、こいつ。意味が、背景に溶けてる)


 青年は何も気づいていない顔で立っている。

 だが、その違和感だけは消えなかった。


 外の雨は、まだ止まない。

 夜の都市の本音が、石畳の上で不気味に瞬いていた。

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