第三話「ニコライ、近づいてくるの巻」──あるいは、読めない手には、読めない手で返すしかない──
第三話「ニコライ、近づいてくるの巻」
──あるいは、読めない手には、読めない手で返すしかない──
──Prologue──
チェスには「定跡」というものがある。
何百年もの間、何百万人もの人間が指し続けた結果、「この状況ではこう動くのが最善」という手順が蓄積されている。完全に記憶した人間は、相手の動きから次の手を、その次の手を、それこそ十手先二十手先まで読める。
ニコライ・ヴォルコフは十一歳のときに主要な定跡をすべて頭に入れた。
十三歳のときに「読めない相手には定跡が通じない」という事実に初めてぶつかった。
そのときの相手は、ロシア南部の小さな村の、独学だけでチェスを学んだ七十代の老人だった。
定跡を知らない人間は、定跡で読めない。
それがニコライにとって唯一の、チェスの「怖さ」だった。
橘ゆうなという人間に、ニコライはその感覚を覚えていた。
だから観察していた。
だから、近づこうとしていた。
でも先に話しかけられるとは、思っていなかった。
Scene 1:宿舎の共用ラウンジ 午前8時51分
朝のセッションまで少し時間があった。
共用ラウンジは宿舎の一階にある、ソファとテーブルが並んだ場所だ。各国の代表が思い思いに過ごしている。アルジュンは祖母への電話を終えたところで、クラウスは資料を読んでいる。アイノはコーヒーを持ったまま立って、窓の外を見ている。
ニコライは隅のソファに座って、ポケットから取り出したチェスの駒を指で転がしていた。
ナイトの駒。木製で、少し艶が出るほど触り込んでいる。
観察の時間として使っていた。
今日の午後は初めての「正式評議」だった。小グループ協議とは違い、全40名が揃って発言する場だ。ハーパーがどう動くか、エドゥアルドが発言するか、アマラが昨日と同じように抑えた話し方をするか。
全員の手を予測する。それが準備だった。
そのとき。
「あ、それチェスの駒?」
振り返る間もなく、隣のソファにどさりと座る音がした。
ゆうなだった。
片手にビニール袋みたいなもの(おそらく宿舎の売店で買った菓子)、もう片手にスマホ。ニコライのポケットから出ている駒を、何の遠慮もなく指さしていた。
「……」
ニコライは一秒、固まった。
「かわいいね、それ」
日本語だった。でも「かわいい」という単語は聞き取れた。
ニコライ・ヴォルコフ、十七年の人生で「かわいい」と言われたのは、おそらく初めてだった。少なくとも、この駒に向けて言われたのは確実に初めてだった。
「……かわいくはない」
ロシア語のアクセントが乗った英語で言った。
ゆうながスマホを取り出してアプリに打ち込んだ。
翻訳が出た。目を通して、顔を上げた。
「かわいくない?でもずっとポケットに入れてるじゃん。好きなんじゃないの」
変換。ニコライが画面を見る。
「……好きとかではない。手癖だ」
「手癖でポケットに入れるほど好きってこと?」
ニコライは返す言葉がなかった。
ゆうなは袋から小さなクッキーを出して一口かじりながら、駒を指さした。
「見せて」
「なぜ」
「なんとなく」
なんとなく、への反論がニコライにはなかった。
計算された要求でも、外交的な取引でもない、ただの「なんとなく」には、論理で返せない。
ニコライは無言でナイトの駒をゆうなに差し出した。
ゆうなは駒を受け取って、両手でしげしげと見た。
「馬だ。なんで馬なの?」
「ナイト。チェスの駒の名前だ。」
「ナイト。騎士か」ゆうなが翻訳アプリで確認した。「なんでよりによってこれ持ち歩いてるの?」
ニコライは少し考えた。
正直に答える理由はなかった。でも嘘をつく理由もなかった。
「チェスで一番動き方が特殊だから。他の駒はまっすぐか斜めにしか動けない。でもナイトだけは、Lの字に跳ぶ。他の駒を飛び越せる。ルールの中で、一番ルールに縛られていない動き方をする駒だ」
言ってから、これは少し説明しすぎた、とニコライは思った。
ゆうながアプリで変換しながら読んだ。少し時間がかかった。
読み終えて、駒をニコライに返した。
「なんかかっこいいじゃん」
「さっきかわいいと言っていたが」
「かわいいし、かっこいい」
ニコライは返答を一瞬失った。
ゆうなはクッキーをもう一口かじって、「チェスって難しいの?」と聞いた。
「やり方は簡単だが、やり込むと一生終わらない」
「へえ。なんか人生みたい」
変換。ニコライが読む。
「……何故そうなる」
「やり方はわかるけど、ちゃんとやろうとすると一生かかるじゃん。人生も」
ニコライは、その回答を頭の中で転がした。
哲学的な意味で言ったわけではないだろう。たぶん何も考えずに言った。でも言っていることは、チェスと人生の構造的類似について、それなりに本質を突いていた。
「……お前は、そういうことをよく考えるのか」
「考えてない」
「今言ったことは?」
「なんとなく出てきた」
ニコライは少しの間、ゆうなを見た。
観察の目ではなく、ただ、見ていた。
「チェス、教えてほしい」
「なぜ」
「なんか面白そうだから」
ニコライは、その「なんか面白そう」という理由の薄さと、それでも断る気が起きない自分の状態を同時に認識した。
「……夜なら時間がある」
「じゃあ夜に教えて」
「いい」
ゆうなが「やった」と日本語で言った。ニコライには、なんとなく肯定的な声だとわかった。
Scene 2:午前のセッション 大会議室 午前10時15分
今日の午前は、昨日の小グループ協議の内容を全体で共有する時間だった。
各グループのまとめを代表者が発表する。
ゆうなのグループの発表者はアイノだった。ゆうなが「あたし英語無理だから」と最初から言ったため、全員一致でアイノになった。クラウスが「議事録も取った」と言いながら自前のファイルを出した。
アイノが立ち上がって、淡々と発表した。
ゆうなの「給食の話」も含まれていた。
「グループ内では、最低限の均等配分と必要性配分を組み合わせるモデルが議論されました。具体的な例として、日本の学校給食制度を参照した意見があり──」
ゆうなは翻訳アプリで追いながら、「あ、給食の話だ」と思った。
自分の話がまとめに入っているのが、少し不思議だった。何か大それたことを言った感覚はなかった。
ハーパーのグループが発表した。
流暢で、構成が完璧で、引用文献まであった。
ゆうなは翻訳アプリを開きながら懸命に追った。半分くらいわかった。
「引用文献」という単語をアプリで調べた。
citation──引用、出典。
へえ、と思った。
発表が一通り終わって、質疑の時間になった。
ハーパーが手を挙げた。
「アイノさんのグループの発表について確認したいのですが。給食制度を例に出していましたが、あれは小規模な閉じたシステムの話で、国際資源配分という開かれたシステムに適用するには前提が違いすぎませんか?」
アイノが一秒で返した。「前提の違いは理解しています。例示として出した段階で、直接適用を主張したわけではありません」
「でも聞いている側には混同を招く可能性が──」
「混同したなら、聞く側の理解不足です」
ハーパーが少し固まった。アイノはいつも通りの無表情だった。
ゆうなはアプリで変換しながら、二人のやり取りを見ていた。
給食の話、批判されてる?と思ったが、アイノが返しているのでたぶん大丈夫だ、と判断した。
そのとき、エドゥアルドが口を開いた。
「ハーパー」
低い声だった。全員が聞いた。
「前提の違いを指摘したいなら、代替案を出せ。批判だけなら子どもでもできる」
静かだったが、刃があった。
ハーパーが一瞬、目を細めた。
「代替案は私のグループの発表に含まれていました」
「そうか。じゃあその代替案で、最低限の配分から外れた国の子どもに、お前は何を言う?」
沈黙。
ハーパーが答えを探した。三秒、四秒。
「……今は概念の議論をしています」
「概念の後ろに人間がいることを忘れるな」
エドゥアルドはそれだけ言って、腕を組んで前を向いた。
会議室が、静かになった。
ゆうなはアプリで変換しながら、エドゥアルドの言葉を読んだ。
Don't forget that there are people behind concepts.
「概念の後ろに人間がいることを忘れるな」。
ゆうなはその文を少し見ていた。
むずかしい言い方だけど、なんか、昨夜ボールを蹴ってたときの話と繋がってる気がした。
「好きとか嫌いじゃない、必要かどうかだ」と言った人が、「概念の後ろに人間を忘れるな」と言っている。
なんか、矛盾してるような、してないような。
アプリを閉じて、エドゥアルドの横顔を少し見た。
Scene 3:昼休み 中庭のベンチ 午後0時31分
今日の昼、ゆうなは一人で外に出た。
やることはみくへのLINEと、昨夜の翻訳履歴の見返しと、あとチョコを食べることだ。昨日売店で買ったジュネーブのチョコが鞄に入っていた。みくの分も含めて少し多めに買っておいた。
ベンチに座って、チョコを一口食べて、スマホを開いた。
そこに影が落ちた。
見上げると、スヨンが立っていた。
スヨンは昨日の食堂のとき、一人で座っていた子だ。ゆうなとはまだほとんど話したことがない。
「……隣、いい?」
日本語だった。流暢な日本語で。
「え、しゃべれんの!?」
「しゃべれる」
「なんで言わなかったの」
「……なんとなく」
スヨンが隣に座った。姿勢がいい。人に見られることを意識した座り方だ、とゆうなはなんとなく思ったが、口には出さなかった。
しばらく二人で中庭を見ていた。
「チョコ食べる?」ゆうながチョコを差し出した。
スヨンは一瞬迷った。カロリーを計算する顔だった。ゆうなにはそれが分かった。
「食べなよ、おいしいよ」
「……一個だけ」
スヨンが受け取って食べた。
「おいしい」と言った。言い方が少し意外そうで、ゆうなは少し笑った。
「チョコ食べたことなさそうな感想じゃん、今の」
「食べるよ、普通に」
「そか。よかった」
「……何が」
「なんか、ずっとストイックそうだったから。こっちきてから笑ってるとこ見たことなかったし」
スヨンは少しの間、何も言わなかった。
「……見てたの」
「なんか気になって。みんなのこと、なんとなく見ちゃう」
「スパイみたい」
「ちがうちがう」ゆうなが笑った。「ただ何考えてるのかなって、見てただけ。あ、これ翻訳とかいらないよね」
「いらない。日本語わかるから」
「じゃあ聞くけど、スヨンって、なんかずっとしんどそうじゃない?」
直球すぎる質問だった。スヨンが目を細めた。
「……しんどそう、って」
「なんか、常に気張ってるっていうか。誰にも注目されてないときも、なんかこう、こわばってる感じがして」
スヨンは少しの間、ゆうなを見た。
この子は何を狙って言っているのか、と計算しかけた。
でも、昨日のアマラへの声かけを思い出した。アマラに確認したが、「裏がなかった」と言っていた。
「……昔から、見られてたから」スヨンが言った。「SNSに上げてたから。どこにいても、これは映えるかどうか考えちゃう。癖」
「それ疲れない?」
「疲れる」
スヨンが即答した。自分でも驚いた顔をした。
「じゃあ今日はカメラないし、疲れなくていいんじゃない。あとチョコもう一個食べなよ」
スヨンはもう一個受け取った。
今度は計算しないで食べた。
少しだけ、肩が下がった。
Scene 4:午後の正式評議 大会議室 午後2時00分
初めての正式評議が始まった。
40名全員が揃い、今回のIRCの最初の議題が提示される。
議題:「資源の公平な配分における『優先度』の決定プロセスについて」
司会が読み上げて、発言権の順番に従いマイクが回される。
第一発言者は、橘ゆうなだった。
全員がゆうなを見た。
ゆうなはスマホで議題を翻訳していた。
「公平な配分における優先度の決定プロセス」。
三回読んだ。なんとなく意味はわかった。要は「誰が先に資源をもらうかを、どうやって決めるか」の話だ。
マイクを引き寄せた。
「えっと──」
全員が息を止めた。
「昨日、みんなの発表、翻訳アプリで聞いてた」
英語だった。ゆっくり、一言ずつ確かめながら。
「全部はわかんなかったけど、なんか思ったことがあって」
スマホを一度見た。言いたいことを日本語でメモしてきた。翻訳した文を確認する。
「みんな、すごく賢いと思う。話してる内容も難しいし。でも、聞いてて思ったのは、『誰が先か』を決める話をしてるときに、その先にいる人の話があんまり出てこなかった」
翻訳の文に頼りながら、たどたどしく続けた。
「ルールとか仕組みとか数字とか。それは大事なのはわかる。でも、今ここで困ってる人がいるなら、その人がどんな人か、もっと話してもいいんじゃないかな、と思って。あたしが日本でニュースを見てたとき、外国の名前が出てきても、なんかよくわかんなかった。でも、その国の子どもが出てきて話してたら、なんか気になった。人のことを決める話は人を出さないと、届きにくい気がする」
言い切って、スマホを置いた。
「以上です。あってたかな、英語」
最後が日本語になった。ユースフが「八割」と小声で返した。
沈黙。
アルジュンが最初に手を挙げた。「すごく同意します。情報として処理する前に、人として認識する段階が必要で──」
アマラが、静かに前を向いた。
「人の話は人を出さないと届かない」。
祖父が語り部として言い続けてきたことと、構造が同じだった。
アイノがノートに書いた。「人のことを決める話は人を出す」。短く。ついでに丸をつけた。
エドゥアルドは腕を組んだまま、ゆうなを一度見て、また正面を向いた。
「概念の後ろに人間がいることを忘れるな」と自分が言ったこととの重なりに気づいたが、声には出さなかった。
ハーパーはマイクを持つ手を少し止めた。
「人のことを決める話は人を出す」という発言を、どう定義するか考えた。
返せない、とは思わなかった。
でも、なぜか今日は反論したくなかった。
なぜかは、まだわからなかった。
ニコライはポケットの駒を止めた。
今朝の「ルールの中で一番ルールに縛られていない動き方」という話をゆうなにした。
あの話と、今の発言が、頭の中でひとつに繋がった。
ゆうな自身も、この場でナイトの動き方をしている。
まっすぐでも斜めでもない。Lの字に、跳ぶ。
Scene 5:評議後の廊下 午後4時15分
評議が終わり、廊下に人が出た。
ゆうなが廊下を歩いていたら、後ろから声がかかった。
「橘」
振り返ると、ニコライが立っていた。
珍しく、壁際ではなく、廊下の真ん中に立っていた。
「今夜、約束があっただろう」
ゆうながスマホで翻訳した。「チェスか」
「そうだ。19時にラウンジで」
「わかった。行く」
「チェスセットは俺が持ってくる」
「うん。ありがとう」
それだけ言って、ニコライは廊下を歩き始めた。
歩き始めてから、ゆうなが後ろで「あ」と声を上げた。
「今日の評議、全部意見、聞いてた?」
ニコライが振り返った。
「聞いたが」
「なんか知識の話がおおかったじゃん、みんな。ニコライはどう思った?あたしの話」
英語で聞いた。たどたどしかったが、意味は通じた。
ニコライは少しの間、考えた。
「……ナイトの動き方に似てると思った」
「え?」
「今朝の話だ。まっすぐでも斜めでもない。でも届くところに届く」
ゆうながアプリで変換した。読んだ。
「なんかそれ、すごい言い方だね」
「事実だ」
「褒めてる?」
「分析している」
「どっちでもうれしい」
ニコライは何も言わなかった。
でも歩き始めるまで、少し間があった。
Scene 6:夜 共用ラウンジ 午後7時02分
ニコライが先にいた。
テーブルにチェスセットを広げて、駒を並べ始めていた。きれいに、正確に、一ミリのずれもなく。
ゆうなが売店のコーヒーを二つ持って入ってきた。
「これ飲む?」
「いい」
「買いすぎたから」
「……もらう」
ニコライがコーヒーを受け取った。ゆうなが向かいに座った。
「これ、全部で何個あるの」
「32。白と黒で16ずつ」
「多いね。全部名前あるの?」
「ある」
「教えて」
ニコライが一つずつ指さした。キング、クイーン、ビショップ、ルーク、ナイト、ポーン。
ゆうながスマホで日本語を確認しながら繰り返した。
「王、女王、僧侶、城、騎士、歩兵。なんか軍隊みたい」
「そうだ。チェスは戦争のゲームだ」
「でも直接戦わないで、動き方だけで決まるんだね」
「そうだ」
「なんか、ここと似てる」
ニコライが少し目を細めた。「ここ、とは」
「IRCのこと。みんな直接言い合いするんじゃなくて、発言権とか席順とか、動き方で戦ってる」
変換。ニコライが読む。
「……同じように見えているのか、お前には」
「うん。でもあたしだけルールを知らないで来ちゃった感じ」
「チェスを知らない相手は、定跡が通じない。だから怖い」
「え、あたしのこと怖いと思ってたの?」
「分析しにくい、という意味で」
「なんか正直だね」
ゆうなが笑った。ニコライは笑わなかったが、コーヒーを一口飲んだ。
チェスの説明が始まった。
ニコライは教えるのが上手かった。順番があって、論理的で、例外の説明もちゃんとある。
ゆうなは真剣に聞いた。
スマホで補足を調べながら、駒を動かしてみた。間違えて、ニコライに直された。また動かした。また間違えた。
「こっちに動けないの?」
「その駒はLの字にしか動けない。ナイトだ」
「あ、ナイトか。さっきの話の」
「そうだ」
「じゃあこっちは?」
「それはビショップだ。斜めにしか動けない」
「斜めだけ。なんか弱そう」
「それぞれに役割がある」
「全員いないとだめなの?」
「そうだ。クイーンが一番強いが、クイーンだけでは勝てない」
ゆうながその駒を手に取って眺めた。
「なんかハーパーっぽい、クイーン」
ニコライが一瞬動きを止めた。
「……なぜ」
「一番強くて、どこにでも動けて、でも一人では勝てないじゃん」
変換。ニコライが読む。
言っていることは間違っていなかった。むしろ、ニコライが三日かけて言語化しかけていたことを、ゆうなは三十秒で言った。
「……ハーパーのことを、どう思っている?」
「えっと」ゆうながアプリに打ち込む。「なんかきっと大変なんだろうな、って」
「大変、とは」
「なんかずっと完璧にしてなきゃいけない感じがしてそうで。昨日ちょっとだけ違う顔したときあったじゃん、評議で」
「気づいていたのか」
「なんか顔が少し楽そうだった、一瞬だけ」
ニコライは駒を一つ持ったまま、少し考えた。
「……お前は人の顔をよく見るな」
「翻訳アプリじゃ追えないとき、顔で判断するから」
「なるほど」
「ニコライは難しい顔してるけど、なんか安心する感じがする」
「どういう意味だ」
「うーんと、なんか、変なことしなさそうっていうか」
変換。ニコライが読む。
変なことをしない。
それを「安心」と呼ぶのか、とニコライは思った。
誰かに「安心する」と言われた記憶は、少なくともここ数年にはなかった。
「……一局やってみるか」
「え、もうできる?」
「ルールは大体入っただろう」
「負けるよ」
「当然だ。それでも動き方は学べる」
ゆうなが「じゃあやる」と言って駒を並べ始めた。
ニコライが「そこじゃない」と直した。
ゆうなが笑った。
三分後。
ゆうなは案の定、速攻で詰められた。
「はや」
「手加減はした」
「手加減して七手か」
「十三手にできたが、長くしてもお前の勉強にならない」
「ていねいな言い訳だね」
「事実だ」
ゆうなが駒を一つ拾って眺めた。ナイトの駒。
「ニコライってさ、友達いる?ここじゃなくて、ロシアに」
急な質問だった。ニコライが少し間を置いた。
「……チェスの相手なら何人かいる」
「友達は?」
「定義による」
「一緒にご飯食べたりとか」
「……チェスを指しながら食べたことはある」
「それ友達じゃん」ゆうなが言った。「ちゃんといるじゃん」
ニコライは何も言わなかった。
「あたし友達多いほうだけど、ここ来てから言葉通じないから、なんか話せなくて。でもみんなと少しずつ話せるようになって、なんか、よかったな」
変換。ニコライが読む。
「ここで友達を作るつもりか」
「そんな大げさに考えてないけど、なんか話せる人がいると楽しいじゃん」
「友好と外交は別だ」
「わかんないけど、あたしは外交してるつもりはないよ」
変換。
ニコライは少し考えた。
友好と外交は別だ、とニコライは言った。
でも目の前の子は、外交をする気がない。
では何のためにここで話しているのか。
「……楽しいか。チェスを覚えるのは」
「うん、面白い。また教えて」
「明日も来るつもりか」
「ダメ?」
「……来ていい」
ニコライが駒を片付け始めた。
ゆうなが手伝おうとして、ポーンをキングのところに置いた。
「そこじゃない」
「ごめんごめん」
二人で片付けた。
会話はそれだけで、あとは静かだった。
でも、静かさの種類が、ニコライがいつも一人で過ごす静かさとは、少し違った。
Scene 7:夜 廊下 午後9時40分
ゆうながラウンジを出て自室に向かっていたら、廊下でミアとすれ違った。
「チェス、してたの?」ミアが聞いた。
「え、なんで知ってる?」
「ニコライが片付けてるの見えた」
「そう。チェス覚えてる。七手で詰められた」
「それ、ニコライにとって手加減してくれてる数字だよ」
「いや、手加減したら十三手だってさ。本人に言われた」
ミアが少し声を出して笑った。最近、声が出るようになってきた。
「ゆうな、なんか色んな人と話してるね」
「なんか、みんな面白くて」
「面白い?あのニコライが?」
「チェスの説明、すごいていねいだったよ。なんかちゃんと教えたいんだなって感じがして」
ミアがその言葉を少し反芻した。
「……ニコライのことそんなふうに言う人、初めて見た」
「え、みんなどう言うの」
「怖い、とか、感情ない、とか」
「感情、あると思うけど」ゆうなが言った。「ただ出し方がわかんないだけで」
ミアは少しの間、ゆうなを見た。
「……ゆうなって、なんか、みんなのいいとこだけ見るね」
「え、そう?だって悪いとこより面白いとこの方が気になるじゃん」
「それって……」ミアが少し考えた。「才能だよ、たぶん」
「アルジュンにも言われた」
「二人が同じこと言ってるなら、本当のことだよ」
「へえ」
ゆうなは少し照れたのか、スマホを出してみくにLINEし始めた。
ミアはそれを見て、少し笑った。
照れたらスマホを出す。
言われた言葉を飾らずにそのまま受け取る。
この子はたぶん、嘘がつけない。
Epilogue:深夜 自室にて──
ゆうなはベッドに座って、翻訳アプリの履歴を見ていた。
今日の単語。
citation──引用、出典
knight──騎士、ナイト
bishop──僧侶、ビショップ
checkmate──チェックメイト、詰み
griot──グリオ(昨日も調べた、もう覚えた)
priority──優先度
premise──前提
「前提」という単語に少し立ち止まった。
午前の評議でハーパーが使った言葉だ。「前提が違いすぎる」。
前提、か。
ゆうなには前提があまりない、とゆうな自身も薄々わかっていた。
この場がどういう場所で、何をするところで、何が正解で、というものを持たずに来た。
みんなは前提を持ってここに来た。
国からの期待、親の思惑、自分の実績、証明したいもの。
自分には、運と翻訳アプリしかなかった。
でもなんか、ニコライが言ってた。
「チェスを知らない相手は定跡が通じない。だから怖い」
前提がないから怖い。
でもそれが、いい方向に働いてる気がする、ここでは。
スマホを置いた。
窓の外、ジュネーブの夜空は曇っていた。
明日は、アイノとちゃんと話してみたい、とゆうなは思った。
あの子、ずっとノートに何か書いてるけど、何を書いてるんだろう。
そのことをみくにLINEしたら、三秒でスタンプが返ってきた。あきれ顔の熊が手を広げている。「ゆうなって行く先々で友達作るよね」というニュアンスのスタンプだった。
ゆうなは「そうかな」と返した。
友達を作ろうとしていたわけではなかった。
でも、なんか話したい人がいる。それは本当だった。
それで十分な気がした。
スマホを充電器に刺して、目を閉じた。
その夜は、ニコライ率いる巨大なチェスに踏みつぶされる夢を見た。ニコライはハハハハ、とわざとらしく笑っていた。その顔だけが、印象として残った。
──End of Episode 3──




