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第二話「エドゥアルドがサッカーしてた件」──あるいは、捨てたはずのものは、夜に出てくる──

──Prologue──

 人間には、誰にも見せていないものがある。

 見せていないのではなく、見せられないのか。

 あるいは、見せてしまったら、それを持っていること自体を認めなきゃいけなくなるから、見せないのか。

 エドゥアルド・カルヴァーリョにとって、それはサッカーボールだった。

 数学の才能がファベーラから彼を救った。だからエドゥアルドは数学をやる。それだけの話だ。シンプルで、感情の入る隙間がない。

 サッカーは遊びだ。子どもの頃の話だ。今は関係ない。

 そう決めていた。

 だから荷物の中に、小さく折り畳めるサッカーボールを入れてきた理由を、エドゥアルド自身は説明できなかった。


Scene 1:宿舎の中庭 夜 午後11時03分

 ジュネーブの夜は静かだった。

 宿舎の中庭は、小さなライトに照らされた石畳のスペースで、昼間は何人かが本を読んだりしているが、夜は誰もいない。

 誰もいないから、エドゥアルドはそこに来た。

 荷物から出したボールに空気を入れて、一人で、静かに蹴り始めた。

 壁に当てて、返ってきたのを足で止めて、また蹴る。

 それだけのことだった。

 頭が静かになる。

 数式も、この部屋の勢力図も、ハーパーの次の手の予測も、全部どこかへ行く。

 足の裏にボールの感触があって、壁から返ってくるリズムがあって、それだけになる。

 エドゥアルドが数学を捨ててサッカーをやりたいとは思っていない。

 ただ、これをやっているときだけ、「証明し続けなければならない自分」が、少しの間休める。

 壁。ボール。壁。ボール。

 十五分くらい経ったころ。

 中庭に続く扉が開いた。


「あ」

 橘ゆうなが立っていた。

 部屋着だった。くすんだラベンダー色のスウェットと、うさぎの柄のソックス。髪はおろしていて、スマホを片手に持っている。おそらくコンビニ的な何かを探してうろついていた顔だった。

 エドゥアルドとゆうなは、三秒間、見合った。

 エドゥアルドの足の下にボールがある。

「……」

 エドゥアルドは何も言わなかった。

 ゆうなはエドゥアルドを見て、ボールを見て、また顔を上げて言った。

「サッカー、やるんだ」

 日本語だった。

 エドゥアルドは日本語がわからない。でも「サッカー」という単語は聞き取れた。

「……見てない」

 エドゥアルドが英語で言った。

「え?」

「見てない。お前はここに来ていない。俺もいない」

 ゆうながスマホで翻訳した。数秒かかった。

「えーっと……あたしがここにいないってこと?」

「そうだ」

「でもいるよ?」

 エドゥアルドは返す言葉がなかった。

 ゆうなはしばらく中庭を見渡して、それからエドゥアルドのボールを見て、言った。

「あたしも混ざっていい?」

「なんで」

「なんかたのしそう」

 エドゥアルドは一瞬、何かを言おうとして、やめた。

 追い払う理由を探したが、「楽しそう」という理由に反論する言語を持っていなかった。


 結局、二人で三十分ほど蹴った。

 ゆうなはそんなに上手くなかった。でも怖がらなかった。強めに蹴ったボールが来ても普通に止めようとして、止めきれなくて転がっていくのを「あー」と言いながら取りに行った。

 エドゥアルドは最初、ゆうなに合わせて加減していた。でも途中から少しずつ、普通の強さで蹴り始めた。

 ゆうなが止めたり、止めきれなかったりしながら、それでも黙って続けた。

 会話はほとんどなかった。

 ゆうなが「これなんていうの、この技」とスマホを出して翻訳アプリで聞いた。エドゥアルドが「トラップ」と答えた。ゆうなが「トラップ、トラップ」と繰り返した。

 それだけだった。

 でも、エドゥアルドの頭が静かなままだった。

 一人でいるときと同じか、あるいは少し違う種類の静かさで。

 午後十一時半になって、ゆうなが「あ、明日早いんだった」と言って(日本語だったが、時計を指したので意味は通じた)、手を振って扉に戻った。

「バイバイ、エドゥアルド」

 エドゥアルドは返事をしなかった。

 扉が閉まった後、ボールを一度だけ強めに壁に蹴った。

 帰ろうと思ったが、もう少しだけ蹴った。


Scene 2:翌朝 宿舎の廊下 午前8時19分

 エドゥアルドは一人で朝食を終えて、廊下を歩いていた。

 今日の予定を頭に入れていた。午前のセッション、昼の休憩、午後の小グループ協議。

 昨夜のことは、既に棚の上にしまった。あれは誰も見ていない。だからなかったことだ。

「あ!エドゥアルド!」

 振り返ると、ゆうなが小走りで近づいてきた。

 今日もデニムと白いトップス。スマホを手に持ったまま走ってくる。

「あのさ、サッカー──」

 エドゥアルドが即座に言った。「見ていない」

「え、だから、見てたって言いに来たんじゃなくて──」

「見ていない」

「いや聞いてよ」

 ゆうなはスマホを開いた。翻訳アプリに日本語を打ち込み始めた。エドゥアルドは(逃げればいいのに)その場で待った。なぜ待ったのか自分でもわからなかった。

 ゆうながスマホを見せた。

 英語に変換された画面だった。

"You were really good at soccer. Do you play on a team or something?"

 エドゥアルドは画面を見た。

 ゆうなの顔を見た。

 また画面を見た。

 生まれて初めてと言っていいほど、エドゥアルドは狼狽した。

「……違う」

「チームじゃない?」

「そういう問題じゃない」

「えっと」ゆうなが翻訳アプリに打ち込む。「なんか怒ってる?あたしなんかした?」

「怒ってない」

「ほんとに?」

「怒ってない」

 廊下に沈黙が落ちた。

 ゆうなはエドゥアルドを見ていた。怒ってないと言っているのに怒ってるみたいな顔、という観察をした。

 そして、昨日の夜、壁にボールを当て続けていたときのエドゥアルドの顔を思い出した。

 朝の廊下で見せている顔と、あのとき見せていた顔が、全然違かった。

「なんかさ」

 ゆうなが言った。日本語で、でも構わずに。

「昨日の夜の顔、なんかよかったよ。なんか、楽しそうっていうか、ふつうっていうか」

 スマホを翻訳アプリに切り替えて打ち込もうとして、でも手を止めた。

 うまく英語にならない気がした。なんか、そのまま伝わればいいと思った。

「ふつう、が、いい、と思う」

 最後だけ英語にした。文法はガタガタだった。

 エドゥアルドは、ゆうなの言葉の意味を全部は取れなかった。日本語の部分は聞き取れなかった。

 でも「ふつうが、いい」という部分と、ゆうなの顔だけは、わかった気がした。

 何も言わなかった。

 ゆうなも、それ以上は言わなかった。

「じゃあ、まぁ。そんな感じで」

 ゆうなが先に歩き始めた。

 エドゥアルドは一秒遅れて、同じ方向に歩いた。

 並んで歩いているわけじゃない。

 ただ、同じ廊下を、同じ方向に、少し近い距離で歩いた。

 それだけだった。


Scene 3:午前のセッション 第二会議室 午前10時00分

 今日の午前は「小グループ協議」だった。

 テーマは「資源配分における公平性の定義」。

 硬い。ゆうなにはさっぱりわからないテーマだった。

 グループは八人ずつ、五つに分けられた。

 くじで決まったグループに、ゆうな、エドゥアルド、アイノ、アルジュン、ミア、スヨン、ジェームズ・フォード(イギリス)、それからドイツのクラウス・バウアーが入った。

 テーブルを囲んで椅子を引きながら、アルジュンがゆうなに小声で言った。日本語で。少し崩れた日本語だったが、はっきりと。

「これ、難しい議題だよ。でも大丈夫、ゆっくり話すから」

「ありがと。ていうかアルジュンもしゃべれるんだ、日本語」

「勉強した。AIの論文でよく日本語のデータ使うから」

「そういう理由!?」

 スヨンが斜め前の席に着きながら、その会話をちらりと聞いた。

 スヨンは日本語が話せる。でも口に出さなかった。


 協議が始まった。

 ジェームズが早速、仕切りに入った。

 「ではまず各国の立場を整理しましょう」と流暢な英語で言って、資料を広げた。礼儀正しい。でもこういう「自然なように見える主導権の取り方」を、彼は自然にこなしている。ミアはノートに書き留めた。

 アイノが淡々と意見を述べる。「公平性の定義は文脈依存です。均等配分と必要性配分は別の概念で、混同すると議論が成立しない」

 アルジュンが「でもそれを決める基準は誰が持つの?」と返した。

 クラウスが「ルールは明文化されるべきです」とドイツ語訛りの英語で言った。

 エドゥアルドは腕を組んで聞いていた。発言のタイミングを計っているのか、考えているのか、どちらかわからない。

 ゆうなはスマホを膝に置いて、翻訳アプリを開きながら全員の言葉を追おうとしていた。速い。全部は追えない。でも「公平」「ルール」「定義」という単語は拾えた。

 五分が経ったころ。

「ゆうなさんはどう思う?」

 アルジュンが聞いた。日本語で。

 全員がゆうなを見た。

 ゆうなは翻訳アプリから顔を上げた。「え、あたし?」

「うん。どう思う、公平って」

 ゆうなは少し考えた。

 翻訳アプリの画面を一度閉じた。

「うーん……」

 しばらく黙っていた。誰かが「難しかったら無理に」と言おうとしたが、ゆうなが続けたので止まった。

「たとえばさ、給食って知ってる?学校の」

「給食?」アルジュンが繰り返した。

「日本の学校ではね、学校が配るご飯をみんなで同じ量ずつ食べるの。でもたくさん食べたい子と、あんまり食べられない子がいて。そういうとき、おかわりしていいルールがあるじゃん。最初は同じで、でも必要な子は追加でもらえる。えーと」

 英語に切り替えようとして、アルジュンが「通訳する」と手を挙げた。アルジュンがゆうなの話を英語にした。少し待つ時間があったが、誰も急かさなかった。

 訳し終えて、少しの沈黙があって。

 アイノがノートに何かを書いた。

「それ、ベーシック・ニーズ・アプローチに近い考え方ですね」

 アルジュンが訳してくれた。ゆうなが「なにそれ」という顔をした。

「最低限は均等に、プラスは必要性で、という理論。ゆうなさんが今言ったこと、ちゃんとした経済理論と同じです」

「あ、そうなんだ」

 ゆうなは特に驚かなかった。「へーそういう名前があるんだ」という顔だった。

 エドゥアルドは腕を組んだまま、少しだけ体の向きが変わった。

 ゆうなの方向に。

 ジェームズが「まあ、具体例として面白いですね」と言った。

 柔らかい声だったが、「面白い」のニュアンスがわずかに「子ども向き」だった。

 ミアがそれもノートに書いた。


Scene 4:昼休み 食堂 午後0時14分

 食堂に、ゆうなとアルジュンとユースフが自然に同じテーブルになった。

 示し合わせたわけではなく、廊下でばらばらに歩いていたら気づいたらひとまとまりになった、という感じだった。

 トレーを持ってきたアルジュンが座りながら言った。

「ゆうなさん、今日の午前、すごかった」

「え、何が?」

「給食の話。ちゃんとした理論の話を、自分の経験で言えてた」

「あー」ゆうなはパンを一口かじった。「でもよくわかんなかっただけで、なんか普通にそうじゃん、っていう話をしただけだけど」

「それが難しいんだよ。みんな知識で話しすぎて、一番シンプルなことを言い忘れる」

 ユースフが「本当にそう」と日本語で言った。

 ゆうなは少し考えた。

「なんかさ、みんなすごいんだよね。頭いいし、いろいろ知ってて。あたし翻訳アプリないと会話もできないのに、なんで1番くじ引いたんだろって思う」

「運」ユースフが即答した。

「そう、運だけ」

「でも」アルジュンが言った。「知識がある人はここにたくさんいる。ゆうなさんみたいな人は、一人もいない」

「あたしみたいな人って、なんかよくわかんない人ってこと?」

「……そういう意味じゃない」

「冗談だよ」ゆうなが笑った。

 アルジュンも笑った。


 その食堂の端で、スヨンは一人でトレーを持ったまま少し立ち止まっていた。

 ゆうなたちのテーブルを見た。

 アルジュンが声を上げて笑っている。ユースフがパンを勧めている。ゆうながなんか食べながらしゃべっている。

 自然だった。

 計算がない。カメラがあってもなくても同じ顔をしている。

 スヨンはいつも、カメラがある方向を意識する。それは癖になっていた。食堂にカメラはないが、それでも「今の自分は映えるか」という確認が無意識に走る。

 こんなふうに笑ったのはいつだろう、と思った。

 映えるかどうか考えないで、ただ笑ったのは。

 一人の方が気が楽だ、と結論づけて、別のテーブルに座った。


 同じ食堂の、窓際のカウンター席に、エドゥアルドがいた。

 一人で、トレーを前に、外を見ていた。

 ゆうなたちのテーブルに気づいていた。気づいていないふりをしていた。

 アルジュンとユースフが笑っている。ゆうなが何か言って、それでまたアルジュンが笑っている。

 あのテーブルは何を話しているんだろう、と思った。

 思ったことに気づいて、エドゥアルドはトレーに視線を戻した。

 食事を再開した。


Scene 5:午後の自由時間 中庭 午後3時41分

 午後のセッションが終わり、この日は珍しく自由時間が設けられた。

 ゆうなは中庭のベンチに座って、スマホを開いた。みくからLINEが来ていた。

『ゆうなってなんか外国の男の子と廊下歩いてたってニュースで見たんだけどもう彼氏できたの?』

『写真送ってよ全員の』

『てかおみやげ頼んでいい?チョコがいい ジュネーブってチョコ有名でしょ』

 ゆうなは笑いながら返信した。

『廊下は普通に同じ方向に歩いてただけ』

『チョコ買っとく』

『みんな頭いい人ばっかで疲れる でもなんか面白い』

 送ってから、「なんか面白い」と打った自分に少し驚いた。

 面白いとはあまり思っていなかった、最初は。固いし、言葉通じないし、なんか全員プレッシャー背負ってそうで、重かった。

 でも今日、アルジュンとユースフと笑ったのは本当に面白かった。

 昨日、ミアが口の端だけ笑ったのも、なんかよかった。

 エドゥアルドが壁にボールを蹴っていたのも。


 そのとき、中庭の反対側に人が来た。

 アマラだった。

 一人で、柱の陰に近いベンチに腰を下ろして、何かを読んでいる。誰とも目を合わせない。昼間の食堂でも、アマラは一人だった。セネガルからもう一人の代表枠があればよかったが、アフリカ枠の事情でアマラは完全に単独だった。

 ゆうなはしばらくアマラを見ていた。

 昨日の自己紹介を思い出した。スマホで翻訳して確認してから言いに行った「もっと聞きたかった」を、アマラが「うん」と小さく言ったこと。

 ゆうなはベンチから立って、アマラの方へ歩いた。


「ねえ」

 アマラが顔を上げた。

 ゆうなは隣のベンチに座って、スマホを取り出した。

「昨日の自己紹介、もっと聞きたかったって言ったじゃん。続き、聞いてもいい?」

 スマホに打ち込んで、英語に変換してアマラに向けた。

"I wanted to hear the rest of what you were saying yesterday. Can I hear more?"

 アマラは画面を見た。

 ゆうなの顔を見た。

 戦略を探した。何を引き出そうとしているか。この会話で得をするのは誰か。

 見つからなかった。

「……なぜ」

 アマラが英語で言った。ゆうながアプリに入力する。

「なんか、時間で切られてたじゃん。それ、もったいないと思って」

 変換。"You got cut off. I thought that was a waste."

 アマラは少しの間、ゆうなを見ていた。

「……セネガルのことを聞きたいの?」

「うん」

「政策の話?資源の話?」

「そういうのじゃなくていい。なんでここに来ようと思ったのかとか、そういう話が聞きたかった」

 変換に少し時間がかかった。でもアマラは待った。

"Not about policy. Something like why you decided to do this. I wanted to hear that."

 アマラは画面から目を上げて、ゆうなを見た。

 十五秒くらい、何も言わなかった。

「……祖父が語り部だった」

 英語で、ゆっくりと、言いはじめた。

「アフリカには、グリオという存在がいる。村の記憶を語り継ぐ人間。私の祖父はそれだった。言葉で、人の心が変わる場所を、私は幼い頃から見てきた」

 ゆうなはアプリで追いながら聞いた。翻訳が追いつかない部分もあったが、聞くのをやめなかった。

「だからここに来た。言葉が届くなら、どこへでも行くと決めていた」

 ゆうながアプリの画面を見て、また顔を上げた。

「かっこいいじゃん」

 日本語だった。アプリを通さない、反射の言葉。

 アマラはわからなかったはずなのに、ゆうなの顔を見て、意味を理解したように静かに息を吐いた。

「……さっきのは、日本語?」

「あ、ごめん。かっこいい、って言った。えっと──」アプリに打ち込む。「Cool. これだと軽いか。That's amazing、のほうがいいかな」

 アマラは少し、目の奥が動いた。

「どちらでも」

「じゃあ両方。かっこいい、アンド、すごい」

 アマラは口元を動かさなかった。

 でも目が、少しだけ違う色になった。


Scene 6:夕方 廊下 午後5時55分

 夕食前の廊下で、ミアがゆうなを見つけた。

 ゆうなはアマラと話した後、またみくに写真を送っていた(「外国のチョコのやつ買ったよ」と一緒に)。

「あの」

 ミアが声をかけた。英語で。

「昨日、外でゆうなが……ミアに話しかけてくれたこと。あとハーパーに言ってくれたこと。言えなかったけど、本当に感謝してる」

 ゆうながアプリを開いた。「ちょっと待って」と打ち込む。

 日本語の訳が出た。

「え、全然。あたしなんかよくわかんなかったけど、やな感じがしただけで」

 変換。

"I didn't really understand, but something felt wrong, that's all."

 ミアは画面を見た。

「……それ、十分だよ」

 小さく、でもはっきりと言った。

 ゆうなが「そう?」と言ったので、ミアは少し笑った。

 昨日より、少しだけ長く。

「ゆうなって、ずっとそのアプリ使ってるね」

「英語わかんないから。みんな日本語で話してくれて助かってるけど、全部は無理だから」

「英語、勉強しないの?」

「してる、ちょっとずつ。夜に昨日使った単語見返してる」

 ミアが少し驚いた顔をした。

「意外」

「え、なんで」

「なんか、ゆうなって勉強とかしなさそう」

「ほんとのこと言っていい?あたしも思ってた」

 ミアがまた笑った。今度は音が出た。小さいけれど、確かに声が出た。

 自分で驚いて、すぐ手で口を押さえた。

 ゆうなは「あ、声出た」と言った。

 ミアは「……うるさい」と言葉では言ったが、もう笑いが止まらなくなっていた。


Scene 7:夕食後 大会議室ロビー 午後7時30分

 夕食後の自由時間、ロビーにいくつかの人影があった。

 ハーパーはジェームズとソフィーと何かを話していた。

 議題の進め方について、明日の小グループ協議で誰に何を言わせるか、という話が中心だった。声は低く、でも三人の間では普通の会話だった。

「ゆうなのグループ、午前どうだった?」ハーパーがジェームズに聞いた。

「まあ……」ジェームズが言葉を選んだ。「予測不能ですね。給食の話で経済理論を出してきた」

「狙って?」

「それが、全く。本人は理論を知らなかった」

 ハーパーが少しの間、何も言わなかった。

「アルジュンがかなり好意的ですね。ユースフも」

「エドゥアルドは?」

「……わかりません。ただ昨日から、少し、様子が違う気がします」

 ハーパーは窓の外を見た。

 昨日の朝、ゆうなに「ごめん」を言わされた場面を思い出した。

 怒っているわけではない。そういう感情ではなかった。

 ただ。

 「ごめん」と言ったとき、少しだけ、軽くなった気がした。

 それが、なんとなく、気になっていた。

「明日から注意した方がいい」ジェームズが言った。「あのタイプは計算が立たない。計算できない要素は、早めに──」

「わかってる」

 ハーパーは短く返した。

 でも「早めに」の後をジェームズが言い切る前に遮ったのは、なぜかを自分でもわからなかった。


 ロビーの別の角で、ニコライがコーヒーカップを持ったまま壁に寄っていた。

 今日、ゆうなの行動を観察していた。

 アマラに話しかけた。ミアと笑っていた。廊下でエドゥアルドと歩いていた。

 全部、計算がない。

 全部、その場で、ただそうしたかったからした動き方だ。

 ポケットのナイトの駒を転がした。

 チェスには「悪手」と「好手」がある。でもゆうなの動き方はそのどちらでもない。

 ルールの外にいる。

 近づいてみるか、とニコライは思った。

 でも「近づく理由」をまだ、言語化できなかった。

 コーヒーをもう一口飲んだ。冷めていた。


Scene 8:夜 宿舎の廊下 午後10時47分

 ゆうなが自室に戻る途中、廊下の角でばったり出くわした人がいた。

 エドゥアルドだった。

 エドゥアルドは今夜も中庭に行こうとしていた。それが服装(動きやすいスウェット)でわかった。荷物の中に空気を入れたボールがある気配もわかった。

 二人は一瞬、見合った。

「……中庭行くの?」

 ゆうなが聞いた。日本語で。

 エドゥアルドは何も言わなかった。

「あたしも行っていい?」

 今度は英語で言った。

「……なんでお前は毎回許可を取る」

ゆうながアプリで変換し、意味を確認する。

「え、行ってもいいってこと?」

 エドゥアルドは答えなかった。でも方向を変えなかった。中庭に向かって歩き続けた。

 ゆうなは「あ、行っていいやつだ」と判断して、ついていった。


 中庭で、エドゥアルドがボールを出した。

 昨日と同じように、二人で蹴り始めた。

 十分くらい経って、ゆうなが息を切らしながら言った。

「ねえ、サッカー、なんでやめたの?」

 スマホを出しかけて、でも動きながら打つのは無理だと判断して、単語だけ英語にした。

「サッカー。Stop。なんで?」

 エドゥアルドがボールを止めた。

 少しの間、黙っていた。

「……数学で、奨学金をもらった。それだけだ」

 ゆうながアプリで変換した。ゆっくり読んだ。

「じゃあ好きなんじゃん、サッカー。今でも」

「好きとか嫌いとかじゃない。必要かどうかだ」

「えっと──」ゆうながアプリに打ち込む。「Necessary? 必要って、誰にとって?」

 エドゥアルドは答えなかった。

 ゆうなは変換画面を眺めながら、小声で言った。

「自分が好きなもの、必要かどうかで決めなきゃいけないの、なんかやだな」

 日本語だった。アプリを通さなかった。

 エドゥアルドには意味が全部はわからなかった。

 でも「やだ」という音と、ゆうなの顔が、何かを伝えた。

 ボールを一度、軽く蹴った。

「……ブラジルでは、ボールとビーチがあれば生きていける、という言い方をする」

「へえ」

「俺はビーチのない場所で育ったけどな」

 ゆうながアプリで変換した。読んで、顔を上げた。

「ボールはあったじゃん」

 エドゥアルドは少しの間、ゆうなを見た。

 何も言わなかった。

 でも、また壁にボールを蹴り始めた。

 ゆうなも、合わせるように動いた。


Epilogue:夜中 自室にて──

 シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込んで、ゆうなはスマホを開いた。

 翻訳アプリの履歴を見た。

 今日打ち込んだ単語。

 senate──上院

 runner-up(昨日の)

 basic needs approach──ベーシック・ニーズ・アプローチ(給食のしくみ)

 griots──グリオ(西アフリカの語り部)

 necessary──必要な

 scholarship──奨学金

 「奨学金」という単語の横に、ゆうなは指で小さく丸をつけた。

 アプリに丸をつける機能はないから、ただ画面をなぞっただけだったが。

 エドゥアルドのことを少し考えた。

 数学で出てきた人。サッカーは夜中に一人でやってる人。「好きとか嫌いじゃない、必要かどうかだ」って言う人。

 なんか、それがちょっとかわいそうだなと思った。

 「かわいそう」は正確じゃないかもしれない。でもうまく言えなかった。

 アマラのことも考えた。

 おじいちゃんが語り部で、言葉で人の心が変わるのを見てきた人。

 ミアのことも考えた。

 声で笑うの、たぶん久しぶりだったんじゃないかな、と思った。

 スマホを置いた。

 天井を見た。

 なんか、みんなのこと、もう少し知りたいな。

 と思った。

 それはこの場所への義務でも、日本代表としての使命感でもなかった。

 ただ純粋に、もう少し知りたかった。アルジュンの家族の話とか、アイノがなんで感情を出さないのかとか、ニコライが持ってるチェスの駒のこととか。

 スマホをもう一度開いた。みくにLINEした。

『今日も面白かった』

『みんな大変そうな人ばっかで』

『でもなんか、ふつうに話せるじゃんって感じある』

 みくからすぐ返ってきた。

『ゆうなって昔から誰とでも普通に話せるよね』

『それ才能だよ絶対』

 ゆうなは「才能か〜」という絶妙なスタンプを返した。

 少しだけ、その言葉を反芻した。

 才能。

 くじ運と才能しかない。

 でも、もしかしたら、この場所にはそれで足りてるのかもしれない。

 スマホを置いた。

 今夜は、すぐ眠れそうな気がした。


──End of Episode 2──

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