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なんか、皆かたくない?

Scene 4:席への着席 午前10時12分

 くじの結果に従い、全員が席に着く。

 ゆうなは案内された席──長方形のテーブルの、最初の発言者として最も目立つ位置──に、ごく自然に座った。

 椅子を引いて、座って、机の上の自分の国旗スタンドを一度見て「かわいい」と小声で言って、スマホをポケットから出してテーブルに置いた。

 それを見た俊豪が、眉をわずかに動かした。スマホをテーブルに出す。この場のドレスコード的には完全にアウトだ。でも誰も指摘しなかった。

 2番はユースフ・アル=ラシード。ゆうなの隣に来た。

 ユースフは席に着きながら、ごく自然に日本語で言った。

「よろしく」

「え!日本語!?」

 ゆうなが目を丸くした。ユースフは少し照れた。

「少しだけ。英語は、得意じゃないの?」

「全然ダメ。なんかミニマムしかわかんない」

「ミニマム」ユースフが繰り返して、笑った。「わかった。なるべく日本語で話す」

「まじで助かる!」

 3番はアイノ・マキネン。ゆうなの斜め向かい。アイノはノートを開いたまま席に着き、ゆうなを一度見て、ゆうなの国旗スタンドを見て、また視線を資料に戻した。

 アイノはこの会議に備えて日本語の基礎を三ヶ月で詰め込んでいた。というより、40カ国全ての言語の基礎を──。

 着席の動きが落ち着いたころ、ゆうなのスマホが静かに光った。

 みくからLINEだった。

『てかジュネーブって今何時?あと寒い?』

 ゆうなは素早く返信した。

『時差8時間。今朝。寒くはない』

『外国のパンがふわふわだった』

 既読がついて三秒でスタンプが返ってきた。でかいスタンプで「いいなー!!!」と書いてあるクマだった。

 ゆうなはスマホを伏せて、前を向いた。


 そのとき、ハーパーが声を出した。

「あ、ちょっと待って」

 スタッフが止まる。全員が見る。

 ハーパーは、ミアを見ていた。にこりと笑顔で。

「ミアちゃんだっけ。クロアチアの。ちゃんとその席でいいの? なんか、繰り上げって聞いたから、当日まで確定じゃなかったでしょ。席がどこかわからなかったんじゃないかなって、心配で」

 丁寧な言葉だった。

 英語で、ゆっくり、ハッキリと。全員に聞こえるように。

 気遣いの形をしていた。

 でも「繰り上げ」という単語が、もう一度、この部屋に放たれた。

 ミアは顔を上げた。笑顔で返そうとして──笑顔が、作れなかった。ノートを持つ手に力が入った。何か言わなきゃ、と思うのに声が出ない。

 ジェームズが「ほんとに、大変だったね」と補足する。同情の声で。

 いくつかの視線が、ミアに集まった。

 哀れみと、興味と、あるいは「自分はああはなりたくない」という安堵が混ざった視線。


 そのとき。

 テーブルの下で、ゆうなのスマホ画面が光った。

 ゆうなは今の会話が少し気になって──でも英語が速くてちゃんと追えなくて──さりげなくスマホを膝に引き寄せ、翻訳アプリを開いた。聞こえた単語を指で打ち込む。

 runner-up

 変換された日本語が出た。

 ──繰り上げ当選者。

 ゆうなはスマホを置いた。

 ミアを見た。

 ハーパーを見た。

 難しい言葉はわからない。この場の政治もわからない。でも、

 なんか、やだった。

 それだけは、ハッキリわかった。

「……ん?」

 声が出た。

 ゆうなはハーパーを見て、ミアを見て、また会議室全体を見回して、ゆっくりと、でも迷いなく言った。

「なんかいやじゃない?今の」

 英語だった。発音はひどかった。でも文法は合っていた。

 ハーパーが一瞬、目を細めた。

「え?」

「その……」ゆうなが言葉を探す。英語の語彙が追いつかない。「くり、あ、繰り上げ? それ、そんな大きい声で言う、こと?」

 ぶつぶつと切れながら出てきた英語だった。文法もかなり怪しい。でも言いたいことは全員に届いた。

「あたし聞いた、こと、ある。繰り上げで……オリンピック、出た人が。金メダル、取った。出た理由より、そこで、何するか。そっちじゃない?」

 言い終えて、ゆうなは少し首を縮めた。

「あ、ごめん、なんか変なこと言った? 空気、悪く、した?」

 自分が正しいとか、ハーパーを攻撃したいとか、そういう意図は欠片もなかった。

 ただ翻訳アプリを開いて、「なんかやだ」と思って、言葉を探してたどたどしく言った。

 それだけだった。


 静まり返った。

 ハーパーは一秒、表情を止めた。

 長年の訓練で、すぐに笑顔を取り戻した。でもその笑顔は今日一番、ぎこちなかった。

「……そうだね、ごめん」

 言った。言ってしまった。

 ハーパー・コールが、ディベートの王冠を欲しいままにしていた存在が。

この場で「ごめん」を初めて言った相手は、ゆうなだった。

 ジェームズが小さく咳払いをした。

 ソフィーが視線を落とした。

 エドゥアルドは壁側で、ゆうなを見た。

 ゆうなはもうその話は終わったという顔で、テーブルの上の自分の国旗スタンドをまたちらりと見ていた。

 ミアは、ノートを開いたまま固まっていた。

 震えていた手が、止まっていた。

 声が出なかった。「ありがとう」が言えなかった。

 でも、ゆうなの方を見た。

 ゆうなは「あ、あの子のノートかわいいな」という顔でミアのノートを見ていた。

 目が合ったら、ゆうなはにっと笑った。

 挨拶、という感じに。ただそれだけ。


Scene 5:自己紹介の時間 午前10時31分

 スタッフの進行で、各国の自己紹介が始まった。特に順番を決めるわけでもなく自然と別の列から発言が開始。

 ゆうなは最初の数人の自己紹介を、懸命に聞いていた。

 聞いていた、というより「聞こうとしていた」が正確だ。英語の速度についていくために、ゆうなは途中からスマホを膝に置いて翻訳アプリを開き、聞こえた単語をぽちぽち打ち込んでいた。

 ハーパーの自己紹介中、ゆうなは"senate"という単語がわからなくてアプリに入力した。

 ──上院。

 なるほどわからん、という顔で前を向いた。

 エドゥアルドの番になった。「エドゥアルド・カルヴァーリョ。ブラジル。数学をやってる」、短く、それだけだった。

 その後エドゥアルドは壁側に戻りかけて、でもなぜか席に着いた。自分でも少し不思議そうな顔で。

 そしてゆうなの番が来た。

 全員が、静かに待った。

 ゆうなは背筋を伸ばした。少し伸ばしすぎてまた戻して、マイクを引き寄せた。

「えっと──」

 日本語で言ってしまって「あ、英語か」と切り替えた。

「橘ゆうな、です。ユウナ・タチバナ。日本から来ました。えっと……ゆうなって、呼んで、ください。特技は……」

 少し間があった。英語で「なんかうまくいくこと」をどう言えばいいか、わからなかった。スマホを膝から取ろうとして、でも自己紹介中にアプリを開くのはさすがに、と思って、やめた。

「……なんか、うまくいく、こと。です」

 「うまくいく」が英語として正しいかどうか全くわからないまま言った。でも雰囲気は伝わった。

「……以上?」

 アルジュンが素直に確認した。

「以上です!」

 ゆうなが元気よく返したので、アルジュンがぷっと吹き出した。

 「あ、すみません」と謝ったが笑いが止まらなかった。スヨンが横目で見た。スヨンも、口の端が少し動いていた。

 ユースフが静かに笑って、日本語で小声で「それ最高だよ」と言った。

 ゆうなは「でしょ」と返した。


 アマラ・ジャロの番になった。

 アマラは立ち上がった。高い。よく通る声が、部屋に落ちた。

 政策の話、環境問題、セネガルの現状。抑えた話し方で、誠実に、丁寧に、二分間話した。

 二分が経ったとき、ハーパーがスタッフに何かを言った。

 スタッフが「そろそろ次の方に」と言った。

 ハーパーより前の数人は三分以上話していた。

 アマラは静かに座った。表情は変えなかった。

 ゆうなは少しの間、アマラの方を見ていた。

 アマラが話している間、ゆうなは翻訳アプリを閉じていた。英語はちゃんと追えていなかった。でも声の調子と、その言葉を選ぶときの真剣さみたいなものは、わかった気がした。

 次の代表の番になって。

「ねえ」

 ゆうながアマラにぼそりと言った。

 日本語だった。アマラが日本語を解するかどうか、ゆうなは気にしていなかった。

「なんか、よかったよ。さっきの話」

 アマラが目を向けた。

 ゆうなは英語に切り替えようとして、スマホを膝に持ってきた。「もっと聞きたかった」を翻訳アプリに日本語で打ち込んで、英語を確認して、顔を上げて言った。

「……I wanted to hear more. あってる?発音」

 アマラは一瞬、固まった。

 そのぎこちない言い方を見て。スマホで翻訳して確認してから言いに来た、という、その行動の意味を考えて。

 裏が、見つからなかった。

「……合ってる」

 アマラが小さく言った。

「よかった」

 ゆうなは前を向いた。スマホを伏せた。

 アマラは視線を正面に戻した。

 膝の上で組んだ手の、指先の力が、少しだけ抜けた。


Scene 6:休憩時間 午前11時45分

 会議室は三つの塊に分かれた。

 ハーパー中心のグループ(上座寄り)、一匹狼たち(エドゥアルド、ニコライ)、そして誰とも話していない空白地帯。

 ゆうなはどこにも属さなかった。

 廊下に出て、自動販売機を見つけて、「あ、外国のお菓子じゃん」と財布を出して一個買った。

 食べながら廊下の窓から外を見ていたら、隣に人が来た。

 ミアだった。

 二人で、ジュネーブの曇った空を見た。

 しばらく黙っていて。

「さっきは」ミアが言った。英語だった。「ありがとう」

 ゆうなはスマホを出して翻訳アプリを開きかけて──「ありがとう」という単語は聞き取れたので、閉じた。

「え、あたし何かした?」

「……席のこと。ハーパーに言ってくれたこと」

「あー」ゆうなが思い出した顔をした。「なんかあれ変じゃなかった?言葉の意味よくわかんなかったけど、なんか、やな感じがした」

「……なんか、やな感じ」

「うん。なんか。うまく言えないけど」

 ミアは少しの間それを聞いていた。

 言葉の意味よくわかんなかったけど、やな感じがした。

 ミアが六ヶ月かけて頭で理屈を積み上げて結論づけたことを、この子は三秒で感じていた。

「てかミアってすごいノートだね。あれ全部書いてるの?」

「……一応、記録として」

「あたしそういうの苦手なんだよね。授業中とか寝てることある」

「……日本代表が授業中に寝てていいの」

「良くないと思う」

 ミアが笑った。

 声に出してではなく、口の端だけが動いて、すぐ戻った。でも確かに笑った。

 自分が笑ったことに、ミアは一瞬だけ驚いた顔をして、また外を向いた。


 会議室の内側で、エドゥアルドは壁際から部屋を見渡していた。

「さっきのこと」を頭の中で再生した。

 スマホで翻訳して、たどたどしい英語で言いに行く。怒っていない。攻撃でない。「なんかいやじゃない?」という、子どもみたいな問いかけ。

 それが、ハーパーから「ごめん」を引き出した。

 エドゥアルドはファベーラでいくつかの交渉を見てきた。強い者が弱い者を従わせるやり方、そして稀に、普通の人間が理屈じゃない方法で場をひっくり返すやり方。

 あれは、最後の種類だ。

 でも本人が気づいていない。

 それが、一番厄介だ、とエドゥアルドは思った。

 廊下を見た。ゆうなとミアが並んで空を見ていた。

 エドゥアルドは自分が壁に寄ったまま動けていないことに気づいて、少し苛立った。


 ニコライはコーヒーを一人で飲んでいた。

 翻訳アプリでスマホをぽちぽちやってから言いに行く、というあの動き方を考えていた。

 計算ではない。準備でもない。ただ言いたかったから言い方を調べた、それだけのことだ。

 チェスで言えば、定石も布石も関係なく、ただ「王を守りたかったから体を張った」みたいな動きだ。

 そういう手は、崩し方がない。

 ポケットのナイトの駒を転がした。

 近づき方が、わからなかった。


Scene 7:午後の評議 午後2時17分

 最初の非公式評議が行われた。

 議題は「IRCの発言ルールについて」──この会議のルールを参加者自身で決める、出発点のセッションだった。

 司会がゆうなを見た。当然、正式な議題があるとなれば発言は決まった順番になる。

「では第一席、橘さんから」

 40人の視線が、一斉に集まった。

 ゆうなはスマホをポケットにしまった。背筋を伸ばした。マイクを引き寄せた。

 一秒の沈黙。

 午前中、ゆうなは翻訳アプリをぽちぽちやりながら、それでも全員の自己紹介を聞いていた。名前と顔は、なんとなく覚えた。どんな話をしていたかも、単語の断片と声の感じで、なんとなく。

 この場で「第一発言」がどれだけ重要か、ゆうなには正直よくわからなかった。

 でも、この部屋の空気が固いことは、朝からずっと感じていた。

「えっと──」

 全員が、息を詰めた。

「みんな、顔こわいな、と思って」

 ぽつりと言った。英語で。

 誰かが咳払いをした。

「あたしは……難しいこと、わからないから。英語も、あんまり。でも、」

 ゆうなは少し言葉を探した。膝のスマホに手が伸びかけて、でもやめた。ここは、アプリじゃなくて、自分の言葉で言いたかった。

「みんな、どこから来たか。どんな人か。まだ、ぜんぜん知らない。知ったら、なんか、もう少し、話しやすくなる、かも。なって、したら、この空気、少し、楽しく、なる、かも」

 ぶつ切りの英語だった。文法は危うかった。

「だから……みんな、のこと、ちょっとずつ知りたいなって。思いました。それだけ、です」

 言い終えて、ゆうなは小さく「合ってたかな、今の英語」と日本語で呟いた。独り言のつもりだったが、前の席のユースフに聞こえていた。ユースフは「八割くらい」と日本語で小声で返した。ゆうなは「ならいっか」と返した。


 沈黙。

 アルジュンが手を挙げた。「……その、すごく、正直ですね」英語で言って、俊豪の方をちらりと見た。俊豪は表情を変えなかったが、ほんの少し姿勢が動いた。

「だって思ったから」ゆうなが返した。

 アマラが、少し、顔を上げた。

 「みんなのことを知りたい」という言葉を反芻した。

 戦略として言う言葉ではなかった。あの子には戦略がない。だから怖くない。だから──

 アイノはノートに何かを書き始めた。

 ニコライはポケットの駒を止めた。

 「みんなのことを知りたい」。単純すぎる言葉だった。でも、この部屋で誰一人、そういう言葉を出発点にしていなかった。

 ミアはゆうなを見た。

 スマホで翻訳して、たどたどしく言いに来た、今日の朝のことを思い出した。

 言葉が下手なのに、言おうとする。

 それがどれだけ──

 ハーパーは二秒間、自分の頭を止めた。

 「みんなのことを知ったら話しやすくなる」という発言を、どう切り返すべきか、戦略が見つからなかった。なぜなら、反論する理由がなかった。

 ただそれだけのことが、なぜか喉につかえた。


Epilogue:その夜──

 日本との時差を計算して、ゆうなは夜十時過ぎにスマホを手に取った。

「もしもし、ただいまー」

「あ、ゆうなちゃん!元気ー?テレビ映ってたよ、入口のとこ!かわいかったよ!」

 母の声だった。

「まあ普通。英語むずかしかった」

「あらー、でも頑張ったでしょ」

「翻訳アプリ酷使した」

「便利な時代ね!ご飯は食べた?」

「食べた。外国のパンめちゃふわふわだった」

「いいなぁ!お父さんも見てたよ、ちょっと待って──けんじさーん、ゆうなから電話ー!」

 ばたばたという足音。父の「おう!元気か!テレビ映ってた!かわいかった!」。

 ゆうなは少し笑った。

「うん、元気。まあ、やってみる」

「そうそう!ゆうなちゃんならなんとかなるって!頑張りすぎないようにね!」


 電話を切って、ベッドに倒れ込んだ。

 スマホを持ったまま、翻訳アプリの履歴を上にスクロールした。

 今日打ち込んだ単語たちが並んでいた。

 runner-up──繰り上げ当選者

 senate──上院

 I wanted to hear more──もっと聞きたかった

 agenda──議題

 jurisdiction──管轄権

 「管轄権」。これは最後の方のセッションで誰かが言っていた単語だ。意味はわかったけど、なぜそこでその言葉が出たのかは、まだわからない。

 ゆうなはアプリを閉じた。

 天井を見た。ジュネーブの宿舎の白い天井。

「英語、もうちょっと頑張るか」

 独り言だった。決意とも呼べないくらいの、軽い呟き。

 でも、今日スマホをぽちぽちしながら聞いた声たちを、ゆうなはなんとなく覚えていた。

 アマラの声の真剣さ。ミアがノートを持つ手の緊張。アルジュンが笑ったときの音。

 言葉はまだわからない。

 でも、なんとなく、わかることはある。

 明日もゆうなは何かを考えてから動くつもりは、今のところない。

 ただ思ったことを言って、なんかいやなことはいやと言って、おもしろいことはおもしろいと言う。

 翻訳アプリを酷使しながら。

 それだけのことが、この部屋では台風らしかった。

 ゆうな本人は、台風だとは全く気づいていなかった。

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