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第一話「くじ、引いてきた」

──Opening──

 世界が子どもに期待しはじめたのは、大人が疲れたからだと、ゆうなは思っている。

 いや、本当にただなんとなく、テレビをぼんやり見ながら「ふーん」と思っただけで、その5秒後にはスマホのゲームに戻っていた気がするけど。

 とにかく。

 国際代表クラス──IRCとかいうやつ──の、最初の集合日。

 世界40カ国の代表が、ジュネーブの白い建物の大会議室に集まるその日。

 橘ゆうなは、遅刻していた。


Scene 1:大会議室、午前9時58分

 会議室の空気は、張り詰めていた。

 正確には、張り詰めさせようとしている人間と、張り詰めた空気に乗じようとしている人間と、ただ委縮している人間と──そのどれでもない人間がいた。

「ブラジル代表、エドゥアルド・カルヴァーリョ。……まだ来てないのか、日本は」

 壁際に腕を組んで立つ少年が、静かに言った。黒髪を短く刈り込み、左耳に小さなピアス。招待状には〈南米最年少数学オリンピック金メダリスト〉とある。取り巻きも持たず、グループにも入らず、ただ一人で部屋全体を値踏みするように眺めていた。

「時間を守れない国が何を主張するんだか」

 その声に、部屋の数人が小さく笑った。

 上座に近い一角では、アメリカ代表グループが、すでに存在感を放っていた。中心にいるのはハーパー・コール、16歳。父は上院議員。本人は全米高校生ディベート選手権で二連覇した、という経歴が名札代わりになっている少女だ。

「1時間も遅刻って、さすがにないよね」

 隣に控えるアシスタント的な少年──これも同じ国の代表団の関係者か──がうなずく。ハーパーは腕時計をちらりと見て、微笑を崩さないまま言う。

「まあ、日本の選出方法は……話題になってたしね。抽選でしょ、確か。エンターテインメントとして見てあげましょう」

 その言葉に、笑いの波がもう一度広がる。

 離れた席では、北欧の代表──フィンランドの少女、アイノ──が、配布された資料を静かに読んでいた。誰とも話さない。声をかけられても最小限の返答だけして、また活字に目を戻す。その横顔には疲労に似た何かが、うっすらとある。

 ドイツの代表は書記の準備を整え終え、時計を見ては入り口を見る、を繰り返している。

 インドの代表は小声でノートに何かを書き込んでいる。

 中国の代表は正面を向いたまま動かない。

 40席のうち39席が埋まっている。

 残り一席。

 司会のスタッフが困り顔でイヤホンに手を当て、何かを確認している。

「ええ、確かに残り1枚は日本のもので確定はしているのですが……規則ですので……」

 午前9時59分。


Scene 2:廊下、同時刻

「──えーっ、カラオケ!? 行きたいんだけど! あたしが帰るの何日か教えといたじゃん、もー」

 廊下を、足音が来る。

 ヒールじゃない。スニーカー。でも早くもない。むしろちょっとだらだらしてる感じの、のんびりした足音。

「いや待って待って、火曜なら行けるかも。てかあっちのカラオケ、ドリンクバーついてるとこ? じゃあそこで──え、満席? じゃあ水曜予約して、ワンチャン途中で抜けるかもだけどまーいけるっしょ」

 ドアが、開いた。

 会議室の空気が、一瞬、静止する。

 入ってきたのは、茶色く染めた髪を緩くまとめた少女だった。制服、ではない。でも正装でもない。きれいな白のトップスにデニム。爪には小さなひまわりのシールが貼ってある。スマホを耳に当てたまま、会議室の全員に一瞬だけ目を向けて──

「あ」

 と言った。

 そして逆の手だけを、ひらりと上げた。

 ごめんね、の形に。

 受付スタッフが差し出す「くじ」の籠に、スマホを持っていない方の手をさっと突っ込んで、一枚引いて。

 引いた紙を、スタッフに向けてひらっと見せて。

 そのままくるりと向きを変え、廊下に消えた。

「──うん、じゃあ火曜ね。絶対行くから。バイバーイ」

 ドアが、静かに閉まる。


Scene 3:大会議室、午前10時00分

 しん、と。

 会議室が、静まり返った。

 最初に声を出したのは、ハーパーだった。

「……今の、なに」

 誰も答えない。正確には、答える言語を持っていない。

「日本の代表、ですね」スタッフが、掠れた声で言う。「橘、ゆうな、さん……」

「カラオケの約束しながら来たの?」

 ハーパーの声は、いつもの滑らかな弁論口調ではなかった。素で驚いていた。

 エドゥアルドは壁際でわずかに目を細めた。反射的に出かけた言葉を、飲み込んでいる様子だった。「……なんだ、あれは」低く、本当に小さく、独り言のように言った。

 アイノは資料から目を上げていた。それだけで、彼女にとって珍しいことだった。

「えっと……」ドイツの代表が、書記の準備を止めて手を挙げる。「くじ、確認しないんですか。彼女が引いたやつ」

 スタッフがはっとして、手元の用紙を見た。

 くじを受け取った際に確認する欄。

 ゆうなが無言でひらっと見せた紙の番号が、そこに記録されていた。

 スタッフの表情が、微妙なものになった。

 司会が咳払いをして、マイクを持つ。

「それでは、席順の結果を発表いたします」

 静まり返った部屋に、声が響く。

「第一席──日本代表、橘ゆうな。番号、1番」


 沈黙。

 誰かが、何かを言おうとして、やめた。

 エドゥアルドは視線を床に落として、ゆっくりと息を吐いた。数学的な頭で確率を弾いたのかもしれない。40分の1。単純な抽選なら、起こりえる。だから、言葉にならない。

 ハーパーは初めて、笑顔を作るのを忘れた。

 アイノは資料に目を戻したが、同じ行を3回読んでいた。

 どこかの席から、小さな笑いが漏れた。笑うしかなかった、という感じの。

 第一席とは、評議の際に最初に発言できる席だった。

 すべての議題で、最初の言葉を持つ席。

 各国が最も欲しがった、この場でいちばん意味のある番号を──

 電話しながら来て、片手で引いて、ひらっと見せてまた出ていった少女が、持っていた。


 廊下では、橘ゆうながスマホをポケットにしまいながら、係員に教室に押し戻されそうになっているのをめちゃくちゃ拒否っていた。

「だーかーら。今から日本に戻らないとカラオケに間に合わないんだってば。飛行機ではオールに備えて寝ときたいわけ。あ、ちなみにあたし何番でしたっけ」

「……1番、です」

「そうなんだ」

 ゆうなは特に何も思わない顔で、「ラッキー」とだけ言った。

 本当にそれだけだった。

その後、10分かけてすぐには帰らないことを説明され、「えー、そんなの聞いてない」とスタッフを困らせていたゆうなだが、懇願するスタッフの顔色を見て、半ば諦めたようにスマホにメッセージを打ち始めた。

『ゴメン! カラオケやっぱパス。しばらく戻れなくなった、かも』

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