金欠魔王令嬢、生きるためにVRMMO始めます
閃光が、世界を焼き尽くす。
父である魔王の巨躯が崩れ落ちる光景と、宿敵である勇者の冷徹な瞳がアスタロッテ・フォン・ヴァルプルギスの最後の記憶だった。
「___逃げろ、アスタロッテ」
父が遺した最後の命令。
彼女は死を覚悟した身を翻し、震える唇で一族に伝わる禁断の転移魔法を紡いだ。
空間そのものを引き裂く膨大な魔力の奔流。
本来であれば魔界の最も安全な聖域へ飛ぶはずの起死回生の一手。
しかし、勇者が突き出した聖剣の一閃が術式に干渉し座標を狂わせた。
意識が途切れる寸前、彼女は感じた。
暖かく、しかしどこか澱んだ魔力の流れ。
嗅いだことのない鉄と油の匂い。
そして闇。
次に目を開けた時、アスタロッテの世界は一変していた。
「……ここは、どこだ?」
呟きは誰の耳にも届かない。
彼女が立っていたのは夜だというのに昼間のように明るく、無数の人々が川の流れのように行き交う場所だった。
天を突くほど高い硝子の塔が林立し、その壁面には巨大な幻影が映し出されては消えていく。
鉄の箱が轟音を立てて側を走り抜け、人々は皆、奇妙なほど簡素な意匠の服を身にまとっていた。
魔界のどの都市とも違う。
もちろん人間界のどの国とも似ていない。
混沌として、しかし異様な秩序に満ちた光景。
何よりもアスタロッテを絶望させたのは己の内なる変化だった。
「魔力が…ほとんど、ない…?」
体内に渦巻いていたはずの星々を揺るがすほどの魔力は、今やランプの灯火ほどにか細く揺らめいているだけ。
身体能力もかつては音速を超える動きすら可能だったものが、今は少し走っただけで息が切れそうだ。
権威の象徴であった豪奢な黒いドレスは、ここでは異物でしかなく、すれ違う者たちの好奇と侮蔑が混じった視線が突き刺さる。
「くっ…」
プライドが高い彼女にとってそれは耐え難い屈辱だった。だが、それ以上に現実的な問題が彼女を襲う。
空腹。
魔力で肉体を維持できた頃には忘れていた根源的な欲求。ぐぅ、と鳴った腹の音に魔王令嬢の顔が赤く染まった。疲労と空腹で世界がぐらりと揺らぎ、彼女はふらふらと光の届かない路地裏へと吸い込まれるように倒れ込んだ。
ゴミの異臭が鼻をつく。
これが魔王を父に持ち、万の魔族を従えたアスタロッテの新たな世界での第一歩だった。
「あの、大丈夫ですか?」
どれくらい時間が経っただろうか。
聞き慣れない、しかしどこか心配する響きのある声にアスタロッテはうっすらと目を開けた。
目の前に一人の青年が屈み込んでいる。
黒い髪に黒い瞳。
魔族とも人間とも違う、どこにでもいそうな、しかし彼女にとっては初めて見る人種の男だった。
「……下僕か?妾は腹が減った。何か食せるものを持ってまいれ」
意識が朦朧とする中、染みついた口調が滑り出る。
青年は一瞬きょとんとした後、困ったように眉を下げた。
「えーっと……コスプレ? 家出?とりあえず、こんなとこで寝てたら危ないですよ」
「こすぷれ……?いえで……?」
言葉の意味が分からない。
青年は「高橋悠人」と名乗り、どうやらこの奇妙な少女を放っておけないお人好しらしかった。
家出少女か何かと勘違いした悠人は警察に突き出すのも面倒だと思ったのか「とりあえず、ウチ来ます?」と手を差し伸べてきた。
他に選択肢などない。
アスタロッテは不本意ながらもその手を取った。
悠人の住処は「アパート」と呼ばれ、魔王城の一室どころか、物置よりも狭い箱のような空間だった。
しかし.そこは驚きに満ちていた。
壁の突起を押せば部屋が太陽のように明るくなり、蛇口をひねれば望むままに水が出てくる。
小さな箱の中では故郷の宮廷道化師よりも面白い映像が延々と流れていた。
「……ほう。この世界の『魔術』は、生活に根差した実用的なものが多いのだな」
感心するアスタロッテに悠人は呆れ顔で「それは魔法じゃなくて科学と電気」と訂正したが、彼女には違いがよく分からなかった。
そして悠人が差し出した一つの器が、アスタロッテの運命を決定づける。
「とりあえずこれでいいっすか。金、ないんで」
お湯を注いでから三分。
蓋を開けるとむわりと立ちのぼる香ばしい匂い。
それは『カップラーメン』という名の質素な食事だった。
最初は疑心暗鬼だった。
こんな簡素なものが食事であるはずがない。だが、一口、その麺をすすった瞬間、衝撃が走った。
「なっ…!?」
複雑かつ濃厚な旨味の奔流。
塩気と脂が空っぽの胃袋に染みわたっていく。
こんな美味なもの、魔王城の晩餐会でさえ口にしたことがない。
アスタロッテは魔王令嬢の威厳も忘れ、夢中で麺をすすり、スープを飲み干した。
ぷはー、と満足のため息をつき、器をテーブルに置く。
そして決意に満ちた顔で悠人を見据えた。
「悠人と申したか。褒めてつかわす。して、この『かっぷらーめん』とやらは、どうすれば手に入るのだ?」
「え? ああ、スーパーとかコンビニで……お金で買えますよ」
「おかね?」
その言葉からアスタロッテは現代社会の根幹を成すルールの洗礼を受けた。
全ての物やサービスには「価格」があり、それを手に入れるには「お金」という対価が必要なのだ、と。
そして自分は、この豪華なドレス以外、その「お金」を一銭も持っていないのだ、と。
「……妾は、これを毎日食したい」
「いや、毎日食うと体に悪いって言いますけど……」
「問答無用!妾はこれを毎日食すと決めた!そのためには『おかね』が必要なのだろう!?どうすればいいのだ、悠人!」
真剣な眼差しに気圧され、悠人は「は、働くとか…?」と答えるのが精一杯だった。
こうして元魔王令嬢アスタロッテ(今は仮の名として「アリス」と名乗ることにした)の無一文ニート生活が始まった。
しかし、異世界の常識も戸籍もないアリスに、まともな働き口などあるはずがない。
悠人が大学やバイトに行っている間、彼女はテレビを見たり、悠人の専門書を読んだりして現代知識を吸収するが、焦りだけが募っていく。
(AI……妾と同じぐらいすごいやつが……)
そんなある日の夜だった。
悠人が頭に奇妙なヘッドギアを装着し、ベッドに横たわった。
「じゃ、アリスさん。ちょっと『バイト』行ってくるんで。夕飯は冷蔵庫のやつ、チンして食べてください」
「バイト? そのような格好でか?」
「うん。今日のシフト、こっちだから」
悠人の言葉の意味が分からない。
アリスが訝しげに見ていると、悠人はにやりと笑った。
「『AI's Gate Online』、通称AIGO。世界で一番リアルなVRMMO。ここで稼いだ金は、現実の金に換金できるんすよ」
「ぶい? あーる? えむえむおー…?」
アリスの問いに悠人は得意げに語り始めた。
それは仮想現実技術によって作られたもう一つの世界。プレイヤーは五感を完全に没入させ、ファンタジー世界の住人として冒険できること。
その世界は『アカシック・システム』と呼ばれる超高性能AIによって管理されており、プレイヤーの行動に応じて常に進化し続けていること。
そしてその世界には剣と、弓と、『魔法』が存在すること。
「ま、魔法…だと?」
その単語にアリスの全身が粟立った。
「そう、魔法。ファイアボールとか、ヒールとか。まあ、俺は剣士だからあんま使わないけど。トップクラスの魔法使いは、一人で戦況をひっくり返すらしいっすよ。プロゲーマーにも魔法使いは多いし」
プロゲーマー。eスポーツ。スポンサー。
悠人の語る言葉の半分も理解できなかったがアリスの頭には一つの事実だけが焼き付いていた。
この世界には自分の知識が通用する場所がある。
「悠人!」
アリスはベッドに寝転がる悠人に掴みかからんばかりの勢いで迫った。
「妾にもそれをやらせろ! 今すぐにだ!」
「え、ちょ、マジすか!? いや、機材高いんすよ、これ!」
「金ならそこで稼いでみせる! 妾を誰だと思っておる! 魔王の娘、アスタロッテであるぞ!」
その瞳に宿る、かつての威光と本気の光。
悠人はこの世間知らずだが妙な迫力のある少女が、初めて見せた強い意志に根負けした。
「……わ、分かりましたよ。予備の旧型機があるから、それを貸します。でも、本当に稼げるなんて保証ないですからね?」
「フン、誰にものを言っておる」
アリスは不敵に笑い、悠人から差し出された旧型のヘッドギアをまるで王冠を受け取るかのように恭しく装着した。
『---Welcome to AI's Gate Online---』
無機質なシステム音声と共に、アリスの意識は光の粒子に分解され、再構築された。
次に目を開けた時、彼女は緑の平原に吹く風を肌で感じ、鳥のさえずりを耳にし、花の匂いを嗅いでいた。
現実と寸分違わぬ、しかしどこまでも美しい仮想世界。
「これが……電脳の……魔術……」
あまりのリアリティに呆然としていると、目の前に半透明のパネル『キャラクタークリエイト』が浮かび上がる。
アリスは元の世界の自分の姿を再現しようとしたが、初期パラメータの低さから、どこか貧相で覇気のないアバターしか作れなかった。
そして初期装備として与えられたのは、みすぼらしい布の服と、今にも折れそうな木の杖。
「屈辱である……!妾の『終焉の礼装』と『賢者の枯杖』はどこへ行ったのだ!」
システムに文句を言っても仕方がない。
アリスは憤慨しながらもチュートリアルエリアへと足を踏み入れた。
エリアには同じように始めたばかりのプレイヤーたちが大勢いた。彼らはカカシやスライムといった標的に向かい、おぼつかない手つきで剣を振り、あるいは呪文を唱えている。
「ファイアボール!」
一人のプレイヤーが叫ぶと、手のひらからバスケットボールほどの火の玉が飛び出し、カカシに当たって燃え上がった。
周囲から「おぉー!」と歓声が上がる。
アリスはその光景を鼻で笑った。
(フン。なんと初歩的な魔術。そもそも、あれは『火球』ではない。『火の元素』を無理やり球状に固めただけの歪な塊だ。詠唱もなっておらぬ。なっておらぬわ!)
魔王の娘としてのプライドが彼女に「違い」を見せつけることを決意させた。
アリスは標的の一つに向き直り、他のプレイヤーの真似をしてシステムが推奨する詠唱を口にした。
「ファイアボール!」
ぽすっ。
彼女の手のひらから飛び出したのは火の玉ではなく、ライターの火ほどの、か細い火の粉だった。
風に吹かれてすぐに消えてしまう、情けないほどの小さな光。
「なっ…!?」
周囲からくすくすという忍び笑いが聞こえる。
アリスの顔が屈辱に再び染まった。
自分の膨大な魔術知識とこのゲームのシステムが全く噛み合っていない。
この世界では自分も彼らと同じ、ただの初心者なのだと。
___本当に、そうか?
ふと、疑問が湧いた。
この世界はAIが管理し、常に「進化」しているのではなかったか。
ならばシステムの想定を超えるものが存在しても、おかしくはないのではないか。
アリスは目を閉じ、意識を集中させた。
かつて、魔王城の書庫で読み耽った魔法の根源に関する記憶をたどる。
エレメント、マナ、エーテル、そして、それらを繋ぐ『言葉』の力。
システムに用意された言葉がダメなら、真実の言葉を使えばいい。
彼女は木の杖を握りしめ、ゆっくりと息を吸った。
その唇から漏れたのは日本語でも英語でもない、誰も知らない響き。
「___来たれ、天より裁きの雷。我が敵を穿て」
それは魔界でも一部の王族しか扱えない『古代言語』による詠唱だった。
瞬間、アリスの頭の中にシステムからの警告音がけたたましく鳴り響いた。
『WARNING: Unregistered Skill sequence detected.(警告:未登録スキルシーケンスを検知)』
『Forcing execution... Success.(強制実行…成功)』
『New Skill acquired. Skill name generating...《雷撃槍》』
詠唱と同時に、アリスの掲げた木の杖の先に、空気が圧縮されるような音と共に青白い光が収束していく。
それは火の粉などではない。
眩いばかりの雷光が槍の形を成していく。
「い、行けっ!」
アリスが腕を振り下ろすと、雷の槍は甲高い音を立てて射出された。
それは一直線にチュートリアルの標的であるカカシを貫き、勢いは止まらず、その背後にあった巨大な岩に突き刺さる。
ドゴォォォォンッ!!
轟音と共に岩が砕け散り、周囲にいた初心者プレイヤーたちが、何が起きたか分からずに口を開けて固まっていた。
静寂。
アリスは自分の手のひらを見つめた。
まだビリビリと魔力の残滓が痺れている。
木の杖は強大な力に耐えきれず、ひび割れて黒く焦げていた。
だが、彼女の心は久しぶりに歓喜に打ち震えていた。
失われたはずの力が、形を変えてここにある。
自分の知識と経験がこの世界では最強の武器になる。
アリスは砕け散った岩の向こうに輝かしい未来を見た。
毎日食べるカップラーメン。
失われた権威と誇りの奪還。
そして、この世界の頂点。
「フン…フハハハハ!」
魔王令嬢の高らかな笑い声が始まりの平原に響き渡る。
「面白い!実に面白いぞ、この世界の『魔術』は!よかろう、悠人! 妾はこの世界の根源すらも書き換えてみせようぞ!」
まだ誰も知らない。
この日、一人のポンコツな魔王令嬢が後に『雷帝』『アンレジスタード・クイーン』と呼ばれ、AIすらも予測不能な進化を遂げる最強プレイヤーとして仮想世界に君臨することになるということを。
アスタロッテ・フォン・ヴァルプルギス(アリス)の電脳世界での英雄譚はまだ始まったばかりだった。