第1話 諦めの上に立つ
「知らない東京だ」
俺は真っ白な摩天楼の窓から眼下の東京・浅草地区を見下ろし、一人呟く。
――ここはかつての東京とは違う。
浅草のランドマークだった東京スカイツリーはすでに倒壊し、ビルや家屋を薙ぎ倒したまま放置されている。
かつて観光客で溢れかえっていた浅草寺は今はもう見る影もない。
朱の剥がれた雷門、石畳の間から草木が生い茂り、忘れ去られたかのようにそこにあるだけだ。
歴史的文化財の役目が著しく減衰した今の時代では、ただ朽ち果ててゆくのを待つのみである。
徒然なる無常というのはこういうことを言うのだろう。
「浅草寺……近い内に取り壊されるだろうな」
そのことに一抹の虚しさを感じるものの、それ以上の感慨があるわけではない。
新たに何かしらの施設が建造され、それが将来的に新たな雇用を生むのなら、それでも良いのではないかという思いすらある。
どうやらこの時代の価値観というものが、身についてしまったらしい。
「あたっ!」
少しセンチメンタルな気分に浸っていると、突然、俺の背中に衝撃があった。
声は俺の背中に衝突した誰かのものだ。
俺達の年齢の男子にしては高く、女子にしてはハスキーな声だった。
「いたたた……もう円城寺くん、いきなり止まらないでよ!」
振り向けば、キノコ頭にメガネをかけた少年が尻もちをつき、不満げな顔をこちらに向けていた。
「ああ、すまないな高杉くん。大丈夫か?」
「……平気」
その少年――高杉晋咲は、少しぶっきらぼうに言葉を返す。
十五歳という年齢の男子にしては少し幼い……ので少年と形容するのが妥当だろう。
俺と同じこの"摩天楼"の学び舎で過ごしているクラスメイトだが、どこか影がある少年で、あまり接点はない。
ぶつかった衝撃か、高杉くんのカバンからは本が数冊こぼれ、床に散乱していた。
「……紙の本か、この時代に珍しいな」
「あっ!」
高杉くんが落とした書籍は様々。
『カリオン・ターナー著・108人の救世主たち』と書かれた書籍、さらには『ダンジョン構造力学』『伊桜澪著・ダンジョン探索第一世代』『「やればできる」は落とし穴! アナクロが人生を輝かせる方法(禁書確定!)』など、学術的なものから、探索記、さらには自己啓発本などバリエーションに富んでいた。
散らばった本を拾おうとすると、高杉くんにその手を払いのけられた。
「触らないで!」
「……えっと」
「あっ、ごめん。……僕、いかなきゃ」
高杉くんは、手早く本を片付けると気まずそうにしながら足早に廊下を通り過ぎていった。
「……年頃の子は扱いが難しいなぁ。……ん?」
一冊、本が落ちていることに気がつく。
おそらく高杉くんが拾い損ねたのだろう。
その本はかなり黄ばんでいて、明らかに他よりも古いものだ。
俺はそれを拾い上げ、タイトルを読んで少し驚いた。
それはこの時代には馴染みのない本だったからだ。
「――――『種の起源・ダーウィンの進化論』」
思想というものは、時代によって変わる。
かつては一般的な教養と考えられていたものであっても、時代が変われば異端視されることが往々にしてある。
天敵の出現、社会の変容、あるいは――生物的な旧種族の淘汰。
そうした諸々の要因から、かつての歴史すらも時代や為政者達の都合によって、容易に変容させられてしまう。
「……これ禁書じゃん。高杉くん……大丈夫かなぁ」
この時代の日本には、持ってるだけで危険視されるような本が多く存在する。
普段は真面目なクラスメイトがこんな特級に危ないブツを隠し持っていたことを知り、戦々恐々とする思いだ。
ただ、今後のことに不安を覚えながらも、俺は心の何処かで、久しく感じることのなかった"内から湧き上がる何か"を感じていた。
それは――好奇心と、高揚感。
高杉くんという存在が、新たな風を吹き込んでくれるような、そんな予感。
俺は教室に向かって、足取り軽く歩を進めたのだった。
◇◇◇◇
そこはまるで抗菌室かと思うような真っ白な教室。
俺を含め、十五歳ほどの少年少女が机に向かって座っていた。
数十人の生徒に対し教員が一人、旧時代と似通ったオーソドックスな教育現場のスタイルである。
「『努力すれば、夢は叶う』――――そのような考えはすべて幻想ザマス」
三十代半ばくらいに見える、神経質そうなおばさん教諭が、教壇に立って言い放った。
厚化粧に丸メガネ、横に太い体を見れば、今にも出荷されそうな金満PTA会長のよう。
それにしては、教育者にあるまじき言動に、俺は思わず苦笑いが漏れた。
「ダンジョンが存在しなかった旧時代には、そんな耳障りの良い言葉が呪文のように唱えられていたみたいザマスね。ええ、確かにいい響きザマス。皆さんのような『持たざる者』が縋りたくなってしまう気持ちもわかるザマス」
おばさん教諭はわざとらしく同情したような表情を見せるが、次の瞬間には何事もなかったような朗らかな表情に変わる。
「しかし! 現実は非情! 皆さんは努力したところで、何らこの人間社会に影響を及ぼすことはないザマス! なぜだか分かるザマスね、雛森さん?」
「……はい。『血統者』様こそ人類を救う存在であり、私達『アナクロ』は淘汰されるべき存在だからです」
雛森と呼ばれた少女は、おずおずとおばさんの問いに答える。
心なしか、少女の瞳は絶望の色で濁っているように見えた。
「その通りです! 『黎明の血』を継いでいないあなた達『アナクロ』の皆さんは、非情に脆弱で、愚かで、矮小な存在ザマス! そして何より、かつては血統者を排斥しようとした罪深く、浅ましい、邪悪な民族ザマス! 皆さん、本当に分かっているザマスか?!」
「「はい!」」
おばさん教諭はアジテーターよろしく、ヒステリックに声を張り上げた。
「皆さんの過去の罪は決して消えることはないザマス! だからこそ平身低頭、誠心誠意、血統者の皆様にお仕えしなければならないザマス! お分かりザマスか?!」
「「はい、血統者様のお恵みに感謝を」」
クラスメイトたちはまるで怪しい宗教団体の信者のように、感情のない返事をする。
そんな様子を見て、おばさん教諭は満足そうに頷いた。
「よろしいザマス。しかし、そんな取るに足らない皆さんにも、血統者様のお膝元である『総統府』は《《特別に使命》》を与えてくだったザマス。何だか分かるザマスか、月乃さん?」
おばさん教諭は、一番前の席に座る黒髪の美少女に指し棒を向ける。
「はい! 『血の濃縮』です、豚宮先生」
黒髪の美少女は、おばさん教諭の問に淀みなくハキハキと答える。
全体的に暗い雰囲気のクラスの中でもこの少女、月乃るなは比較的明るい表情をしていた。
「正解ザマス。総統府はダンジョンの脅威に対し、『血の濃縮』という施策を反撃の一手として定めたザマス。ちなみにこの施策の目的は何ザマショ?」
「はい、ダンジョンに対抗できる人材、即ち血統者様を加速度的に増やすことです! 血の濃縮には「水平」と「垂直」、二つの方向性からの統合アプローチがなされています。まず「水平」方向の統合施策は、『ライフアップ研究所』主導のもと、血統者の皆様から搾精した子種で――――」
思わずため息が出そうになる。
俺は少女の話をぼんやりと聞き流しながら、窓の外の《《見慣れぬ東京》》を眺めていた。
――――時は2105年。
俺、円城寺宗介は、かつて2025年を生きた記憶を持ちながら、なんの因果か、80年後の日本に転生してしまった。
色々な社会問題を抱えていながらも、なんだかんだ平穏な日常を享受して生きていた。
そんな俺からすれば、この時代の日本、ひいては世界全体が抱えている問題は歪んで見えるが、解決方法は至ってシンプルだ。
––––力で解決する。
しかしそれ故に、この時代を生き抜くには、心技体の何かしらに秀でていなければならず、何の力もない俺たち『アナクロ』と呼ばれる人種は、常に諦めることを強いられる。
娯楽であったり、夢であったり、あるいは––––「家庭を持つ」という、ささやかな人の幸せさえも踏み躙られてしまう。
故に俺は、こう思うのだ……。
(ここ、なんてディストピア?)