愛ですよ、愛
最強の男、タカシは今、人生で最大のピンチを迎えていた。
胸には深々と突き刺さったナイフの柄が見える。刃は水平になり、肋骨の隙間をきちんと丁寧に縫って刺さっているらしい。きちんと丁寧に確実に殺しに来ているナイフの使い方に、タカシは冷静に感動していた。
だが、タカシにとってそれはピンチでも何でもない。
それよりも、タカシの後ろにいる女が問題だった。
「君は?」
ナイフが深く突き刺さったままに、タカシはくるりと振り返り、女を見た。
路上であるので、ぽたりぽたりとナイフの柄を伝って血が落ちる。
「なんで話せるの?」
「質問は僕がしている。君の名前はなんだい」
タカシの後ろに立っていたその女は、驚きに目をぱちくりと瞬かせた。
それはそうだ。胸を深くナイフで突き刺されている男から、冷静に質問を投げかけられるとは考えもしない。タカシは、右手でその女の細い腰へと手を回すと、ぐっと抱きしめる。
「君の名前はなんだい?」
「あ、愛です」
「愛。そうか。良い名前だ。愛」
タカシは愛の瞳をじいっと奥深くまで覗き込んだ。瞳孔の奥、水晶体の更にむこう、硝子体、網膜の筋や視神経まで見通すようにじっと見つめた。
「愛。どうやら、君を好きになってしまったらしい」
その直後、タカシの後頭部に強烈な一撃が叩き込まれる。それを受け、タカシの手が緩んで愛の身体が離れる。そこにすかさずもう一発拳が入る。二発目を受けて、ぐらりと揺らいだタカシ
の頭部に三発目のパンチが入ったところで、タカシはぐるりと体の向きを変えた。
そこには一人の男が立っていた。ぼさぼさの髪に、血走った目は正気とは感じられない。
「おいおい、なんだよ。お前」
「僕の名前はタカシだ。そういう君は一体、何をしているんだ」
「そりゃ、この女を殺すように言われてるんだ。だから、とっととどけよ。怪我したくないだろ」
「ナイフで刺しておいて、それはないだろ」
それはそうだ。
タカシの言葉はもっともである。しかし、男はそんなことを気にする様子もなく、もう一度殴りかかってきた。それをタカシは避けることなく正面切って受け止める。拳はタカシの顔面を正確に殴り抜いた。
顔中に広がる痛み。
鼻骨が折れて、どろりと垂れてきた感覚がある。視界が半分赤く染まる。
それでも、タカシの顔には笑みがあった。
「それがパンチか?」
男の顔がかっと怒りで赤く染まる。
「もう手加減はなしだぜ」
ポケットから拳銃を取り出し、構える。
愛がひっと悲鳴を小さく上げる。
が、タカシは物怖じせずに、立ち続ける。
「びびったのか?」
「そんなもので、僕は止められない」
「は?」
ふざけんじゃねーよ、と男は呟き、両手でカップソーサーに構えると引き金を引いた。
銃弾は義務を帯びて、跳び、タカシの胸を正確に乱暴に命中した。
悲鳴が初めて上がった。往来の銃撃は、人目について、さすがに悲鳴が上がる。
「愛」
しかし、タカシは倒れなかった。
胸から血を滴らせ、足元に血だまりが出来ていく。
背中にぴたりとくっついていた愛の耳には、タカシの心音がどんどんと弱まっていくのが聞こえた。
「愛ちゃん、愛さん、どう呼べばいい」
「あ、あの、愛ちゃんで」
「なるほど、愛ちゃん、僕は君が好きだ。だから、ぎゅっと背中を握ってくれ」
愛は、逡巡したが、言われるままにシャツ越しに両手でがっしりと背中を掴んだ。
タカシの心音が大きく跳ねる。
それと同時に、タカシの蹴りが、男の顔を砕いた。前歯から奥歯までの全てが粉々に砕けて宙を舞う。
「愛ちゃん」
タカシは振り返りながら、愛の名前を呼んだ。
愛は、その声に引き寄せられるようにタカシへ抱き着いていた。
心臓が規則正しく、大きく聞こえる。
噴き出した血がシャツを赤く染め、愛の服にも染みていく。
「大丈夫だよ。愛ちゃん」
タカシは愛を優しく抱きしめ返した。
「君のことは僕が守る」
そして、タカシは止まる事のない心臓があった。