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サバ1『サバ読みアイドルだけど、付き合ってくれる?』

菜々月(ななつき)さんは、サバという魚をご存じですか?」

「……知ってるけど」


 目の前の女の子の整った顔立ちが、訝しげに歪んだ。


 ……それはそうですね。


 始業式から1週間と経っていない、麗らかな春の放課後。

 陽気とは裏腹に、人気のない屋上にわざわざ呼び出してサバの話をされれば、誰だって同じ顔をするだろう。

 けれどもう、後には引けない。


「サバは『サバの生き腐れ』とも称されるように、鮮度が落ちるのが非常に早い魚です。これは、サバが他の魚に比べて、消化酵素を多く持ってるのが原因で、死んだサバが自らの体内を分解してしまうためだとか」

「ふむふむ……」


 適当な相づちが返ってくる。

 こちらの意図は全く伝わっていないらしい。


 できれば、菜々月さん自身に察してもらいたかったんですが……。

 もう少し踏み込むしか、仕方ありませんね……。


「まだ冷凍技術がなかった時代、漁師や魚屋は、サバがなるべく痛まないように、急いで数を数えていたそうです。そのため、業者からの注文と数が合わないことがしばしばあったそうで。当時は輸送手段も人力でしたし、途中で痛むことを見越して、注文数よりも多めに配達してたという話もありますね」


 さあ、これで伝わったでしょう! いえ、わかってください!


「同じクラスの、神園(かみぞの)くんだよね?」


 菜々月さんの小さくて可憐な口唇が、俺の名前を紡ぐ。


「はい、いかにも」

「もしかして……じゃなくても、私、からかわれてる?」

「いえ、滅相もない。俺は大真面目です」


 きっぱりと否定する。

 人生でこれほど真面目になることがあったかと思うほど、今日の俺は大真面目だ。

 ここに彼女を呼び出すのにも、相当な覚悟が必要だった。

 さらに言うなら、昨日は全く眠れていない。

 サバの話でいこうか、それともサンジェルマン伯爵の不老不死伝説からはじめ、頭文字を並べた芸能人御用達の匂わせツイート風に切り出そうかというのを、一晩中悩んでいたからだ。

 結局、後者は回りくどすぎるという理由で却下し、前者を選んだ。

 しかし菜々月さんは、俺の返事に納得いかなかったようで、シャープな眉をひそめる。


「今どき、下駄箱に手紙なんていう古風な方法で呼び出されたから、興味が沸いて来てみたけど……ちょっと期待外れだったかなぁ」


 それだけ、頻繁に呼び出されているということだろう。

 それもそのはず。

 菜々月さん――菜々月依凜(えりん)は、アイドルだ。

 『Dear(ディア) Bisque(ビスク) Girls(ガールズ)』――通称『ビスガ』という、2人組の女子高生アイドルユニットとして活動している。

 まだ知名度は高くないけれど、動画投稿サイトの公式チャンネルで歌って踊る彼女たちは、とても華々しかった。

 画面の向こうから花の甘い蜜の香りが漂ってきそうな、ゆるふわ担当の優羽莉(ゆうり)さんと、夏夜のそよ風を感じさせる小悪魔な雰囲気の中に、愛くるしさが同居する菜々月さん。

 そう、なにを隠そう俺はビスガのファン――ビスオタだった。

 菜々月さんをからかうなどあり得ない。


「じゃあね、神園くん。もし次に呼び出すときは、もっと面白い話題を考えてきて」

「待ってください、菜々月さん! あなたに、伝えたいことがあるんです!」


 立ち去ろうとする背中に、追いすがる。


「伝えたいこと?」


 俺の勢いにキョトンとした菜々月さんだったが、すぐに「ああ、やっぱりか」という顔になった。

 肩にかかった美しい錦糸のような長い髪を、さらりと払う。


「ごめんね、神園くん。気持ちは嬉しいけど、誰とも付き合うつもりないの」


 次に面食らったのは、俺の方だった。


 ……ごめんなさい? 付き合うつもりない、とは一体……。


「あの、確認なんですが……俺、告白すると思われてますか?」

「あれれ、違うの?」

「はい」

「じゃあ、なに? こんなところに呼び出して……。まさかホントに、サバの話がしたかっただけとか」

「さっきのはもう忘れてください……」


 最初からストレートに言えば、あらぬ誤解も生まずにすんだのだ。


 無念……。告白すらしてないのに、推しメンに振られてしまいました……。


 ズキズキと抉る心の傷を手で押さえ、本題を切り出す。


「サバ、読んでますよね?」

「えっ――……」


 見るからに、菜々月さんの顔色が変わった。


「年齢です。公式プロフィールにある、16歳じゃないですよね」

「神園くんが何を言ってるか、わからないんだけど? 何か勘違いしてないかな?」

「……俺も、そう思いたかったです。でも、証拠があるんですよ」

「証拠……?」


 静かな屋上で、ゴクリ……と菜々月さんの唾を飲む音が、俺の耳にまで届いた。


 嚥下する音まで、可憐です。


 ――事の発端は、昨日、生活部に届けられた持ち主不明の落とし物だった。

 北欧風のデザインがあしらわれた、手のひらほどの小さなポーチ。

 どう見ても女物だったので、開けるのにためらいはあったが、中を見ないことには持ち主がわからない。


 ……こういうときに限って、いちかは来ないですし。


 たっぷり10分は悩んで、意を決してファスナーを開くと……。

 全俺に、激震が走った。

 まだ、怪しげな白い粉が出てきた方が、幾分か衝撃は少なかっただろう。

 そうして俺は今朝、菜々月さんの下駄箱に手紙を忍ばせたのだった。


「本当は……26歳、ですよね?」


 パスケースに入った薄桃色のカードをかざしながら言った。

 健康保険証と銘打たれた表面には、菜々月依凜の名前と、生年月日まで書かれている。

 生まれた年は、俺よりちょうど10年前だ。


「え、ウソ、なんでっ!?」


 菜々月さんも、こんな慌てた顔するんですね。新鮮ですねぇ……。

 おっと、いけません。

 顔面蒼白になって鞄を漁る菜々月さんを、早く安心させてあげないと。


「昨日、俺が所属する生活部に、ポーチが落とし物として届けられたんです。中は俺しか見てません」

「そっかぁ……落としちゃってたか。気づかなかったなぁ……」


 観念したように探る手を止め、こちらに向き直る。

 その瞳は、不安げにも、凜とした意志がまだ残っているようにも見えた。


「このこと、誰か他の人には?」

「言ってませんし、言うつもりもありません。事情を詮索するつもりもありません」


 菜々月さんの問いかけに、目を見て真っ直ぐ答える。僅かでも疑われるのが嫌だった。


 なぜなら、あなたの熱狂的な信者ですので。

 10歳の年齢詐称くらいで、推し変などあろうはずがありません。


「……なるほど。つまり、こういうことか」


 何かを察したように、切なげな流し目をして呟く。


「告白じゃなく、私の弱みを握って脅して、性奴隷に調教したい、ってことだね?」

「察し方がエグいですねっ!?」


 推しメンに思わずツッコんでしまった。

 どう曲解すればそうなるのか、菜々月さんの思考回路がさっぱりわからない。


「い、いいよ……アイドルで居続けるため、これも、そのための試練だって思えば……くぅっ」

「いいんですか!?」


 期せずして、二次元の世界の産物だと思ってた性奴隷アイドルを手に入れてしまいました……。


「……このあと神園くんの家に連れて行って、『脱げ』とか命令するんでしょ? 変態っ!」

「いえ……」

「まさか、ここでっ!? 初心者の私には難易度高すぎ――はっ!? その反応さえ楽しんで! 鬼畜ぅぅぅ!」


 発想が斜め上すぎます、菜々月さん。

 というか、さっきから語尾につけてくれる罵倒の言葉が可愛すぎて、新たな性癖に目覚めてしまいそうです。


「先ほども言いましたが、誰にも言うつもりはありません。菜々月さんに返したときに、中を見たことに勘づかれるでしょうし、気づいてて黙ったままだと余計に菜々月さんが不安がるだろうと思って、どうにかショックを与えずに察してもらえる方法を俺なりに試行錯誤したつもりだったんですが……」

「それで、サバトーク?」

「はい」

「ぷっ、あはっ、あはははっ! サバ! サバ読み! 気づかないから、普通っ! 神園くん、面白すぎ!」


 笑い転げる、という表現がピッタリなほどの大爆笑。

 お腹を押さえて、屈託なく破顔するその姿は……。


「菜々月さんってそういう笑い方するんですね。知りませんでした」

「え?」

「あ、いえ、動画だと、控えめな笑みが多いなと思ってたので……」

「もしかして私のアイドル活動、見てくれてる? しかも結構、詳しい感じ?」

「まあ、アップされた公式動画は全部見てますね」

「残念だけど、あれ、作り笑い。アイドルスマイルってやつ。ホンモノはこんなので幻滅した?」

「いえ、もっと魅力的だと思いました。これがリアルの菜々月さんなんだって」


 心からの本心だった。

 今の菜々月さんはモニター越しの彼女より、とてもまぶしく輝いていて見えた。

 無意識とはいえ、彼女にこんな笑顔をさせたのが俺だと思うと誇らしささえある。


「サバ読んでるのに?」

「関係ないですよ。魅力的なものは、魅力的です」

「そっかそっかぁ♪」


 上機嫌の菜々月さんがふと空を見上げ、春の日差しを全身で浴びるように両手を広げて、その場でクルクルと踊り出す。

 まるで俺のためだけに用意されたステージに、しばしの間、見入っていると……。


「ごめんね、神園くん」

「なにに対してです? 謝られるようなことをされた覚えはありませんが」

「正直、さっきまでキミのこと、全く信用してなかったんだ。……刺し違えて死んでやろうと思ったくらい」

「怖い!」


 マジもののトーンが怖すぎです、菜々月さん。

 メンヘラですか、あなたは。


 やがて菜々月さんは立ち止まり、何かを思いついたように柔らかい笑みを俺に向ける。


「ねぇ、神園くん。私と付き合わない?」

「……はい?」


 本日、二度目のフリーズ。


 空耳でしょうか?

 今、菜々月さんが俺と付き合おうと言ったような……。

 付き合う……つきあう……突き合う……。

 どすこい。


「ああ、俺と相撲をとりたいんですね」

「違うけどっ!? ボケなの!? 私のツッコミ待ち!? 私と交際しましょう、って言ってるの」

「交際。それはつまり、恋人になりましょう、ということに相違ありませんか?」

「神園くんって、気難しいしゃべり方するよね。その通り。私の彼氏になって、って意味」


 突然のことに、全く頭がついていきません。

 それともこういう突発的なイベントが、今どきの恋愛感というものなのでしょうか。

 誰かと付き合ったことのない俺には、未知の世界です。


 しかし菜々月さんは、構わず続ける。


「本音を言うとね、まだ神園くんのことを信じ切れてないの。いつか、誰かにしゃべっちゃう可能性だって、ゼロじゃないでしょ?」


 ああ、なるほど。

 理解できました。


「つまり、そうならないように俺を傍に置いておくための、保険ということですか?」

「そう捉えてくれて構わないよ。もちろん、見返りも用意するし」

「見返り、とは何ですか?」

「それは、付き合ってからのお楽しみかな。バラしちゃったら、面白くないでしょ?」

「なんだか、悪徳商法に引っかかってるみたいです」

「タチのわる~い、ね」


 自覚はあるらしい。


「最終判断を俺に委ねていいんですか? 断るかもしれませんよ?」

「神園くんは断らない。絶対に。私にはわかるもん」

「その言い方、すごく卑怯ですね」

「くすっ、伊達にアイドルやってないからね。それに、神園くんは私のファンなんだよね? それなりに役得じゃない? 私、こう見えて結構尽くすタイプ――」

「ブゴホォッ!? ゴホッ、ゴホッ、ゴボボォ!!」

「神園くん!? どうしたの!?」


 急に咳き込んで地面を転げ回る俺に、驚きつつも心配そうに手を差し伸べてくれる。

 女神ですか、あなたは。


「俺、混沌恐怖症なんです」

「こんとん……? なにそれ」

「秩序の乱れを感じると息苦しくなる、精神的な症状ですね。菜々月さんと不純異性交遊をするんだと想像して、発作を起こしてしまいました」

「ほほぉー。神園くんは、私とエッチなことをするつもりだったんだ?」

「え、いや……!」

「図星? どんなエッチなこと、想像してたの? ホントに、私を性奴隷にするつもりだったとか?」

「滅相もない! その……キス、とかです」

「神園くん……今どき、キスくらいで不純もなにもあったもんじゃないと思う」

「そうなんですか!?」


 驚愕の事実です……キスは不純に含まれなかったんですか。


「ということは、菜々月さんは日常的に、誰彼かまわず挨拶のようにキスをしてるんですね」


 芸能界では、それが普通なのでしょうか?

 ショックなのに、心のどこかで興奮を抑えきれない俺がいます。

 菜々月さんはエッチ、菜々月さんはエッチ……。


「それって、日本だとただの痴女じゃない? 私は好きな人と以外したくないけど」

「詐欺られました!!」

「やっぱりエッチなこと考えてたんだ。神園くん、やらしー」


 したり顔の菜々月さんも可愛い。可愛すぎです。

 そんな顔をされては、素直に負けを認めるしかありません。

 菜々月さんの思う壺にはまってる気がしないでもありませんが……。


「純異性交遊ってことでいいんじゃない? それだったら、神園くんの発作も出ないでしょ?」


 そう告げて、寝転がったままの俺を覗き込んでいる菜々月さん。

 ふと視線を落とすと、ほどよく肉付きのいいおみ足があって……。


「おパンツ見えそう?」

「ブゴホォッ!? ゴホッ、ゴホッ、ゴボボォ!!」

「あははっ、ごめん、ごめんね? おパンツでも反応しちゃうんだ?」

「女性の下着は神聖なものです。むやみやたらと見ていいものではありません」

「神聖っ! しん、神聖……! くくっ、あはははははっ! 神園くん、ホントに最高!」


 ……菜々月さんが壊れてしまいました。

 俺は、自分の思ってることをストレートに口にしただけだったんですが……。


 ひとしきり笑った菜々月さんは、まだヒーヒー言いながら、目尻に溜まった涙を拭っている。


「神園くんって、すごくピュアなんだ?」

「子どもくさくてすみません」


実際の菜々月さんは、10歳年上だ。

俺よりもずっと豊かな人生経験があるだろうし、大人の世界も知っているかもしれない。


それでも……。

ただただ、菜々月さんの力になれるなら……。


「ううん。私も、似たようなものだから」

「えっと、それって、どういう――……」

「それで、どう? 私を、神園くんの彼女にしてくれる? 10歳年上の、姉さん彼女」


イタズラっぽい響きが、心地よく耳朶を震わせ、瞬間的にできかけた空気をかき消す。

俺の答えは、すでに決まっていた。


「わかりました。それで、菜々月さんが安心できるなら」

「もう! そこは、私が好きだから、じゃないの?」

「だからこそ、俺にこんな荒唐無稽な告白を持ちかけたんですよね?」

「ほほぉー。鋭いね。さすが私の彼氏」


 秘密を暴露されたくないが、自分の身に危険が及ぶ事態は回避したい。

 当然、ファンがアイドルに手を出すのはタブーである。

 それでも、一部例外は存在する。

 だから、性奴隷のくだりから、一挙手一投足を見定められていたというわけだ。

 そして全て織り込み済みで、提案してきたのだろう。


「もし断ったらどうするつもりだったんです?」

「神園くんに屋上に呼び出されて、無理矢理おパンツを奪われたって噂を流す」

「ブゴボオオォッ!?」

「よかったね、神園くん。危うく、アイドルおパンツ窃盗犯としてトレンド入りしちゃうところだった」

「……菜々月さんは、女神のような悪魔ですね」

「優羽莉にもよく言われる♪」


 小悪魔な満面の笑みを見て、確信した。

 最初から、与えられた選択肢は1つしかなかったのだ。


「これは、返しておきますね」


 本来の目的を思い出し、菜々月さんに健康保険証を手渡す。


 推しメンと付き合えるなんて、ファンからすれば都市伝説か奇跡のような話でしょう。

 俺も、何度も夢見たことがあります。

 でも今は……。


「これから、よろしくね。神園くん。あ、言っておくけど、付き合ってるのは私たちだけのナイショね?」


 ああ、この笑顔……本当に胡散臭さしかありません。

 でも、最高に可愛いです。

 これが信者の性というやつですか……。


 ――この時の俺は……。

 あの黒歴史に再び片足を突っ込むことになるなど、想像さえしていなかった。

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