☆ 雨の日の過ごし方②
「それじゃあせっかくだし、今日行く予定だった湿原について勉強してみようか」
「はい! ノックスには湿原という土地がなかったので、どんな場所なのか気になっていたのです」
「確かに寒冷なノックスには、あまりないだろうね。湿原は……こんなところだよ」
そう言ってジンは、使用人が気を利かせて紙切れを挟んでくれていた風景画集を開いた。
フェリスは夫の膝の上に広げられたそれを覗き込み、小さな歓声を上げた。
「わあ……! 大きな沼ですね!」
「あはは。確かに、沼みたいなものだね。でも沼よりもずっと水が澄んでいて、動植物も多く生息しているんだ。……フェリスはこの植物、見たことがある?」
「こ、これはすごく大きな葉っぱですね! ……え? 水の上に咲いているのですか?」
「厳密に言うと、地中から茎を伸ばして水面に葉を出しているんだけどね。ハスといって、ロウエンの湿原では色々な種類のものが咲いているよ」
「そうなのですね……!」
ジンの説明を受けながら、フェリスは画集に描かれたハスの花をきらきらした目で見つめていた。
「見たことがない形ですが、けっこうきれいな花ですね」
「そう見えるだろう? でもロウエンの民話には、ハスの咲く池には鬼が住んでいて、美しさに惹かれて池に入った人間を引きずり込む、なんてものもあるんだ」
「……。……もしかしてそれって、子どもが池に入って溺れないようにするための訓戒の意味もあったりします?」
「正解。……俺の奥さんはとても聡いね。でも……もしかして、ハスの花が怖くなってしまったとか?」
「も、もう、そんなことありませんよ! ノックスにはもっと恐ろしい民話があるんです! お母さんの言いつけを守らず一人で雪山に入ったら、全身ムキムキの雪の精霊おじさんに追いかけられるお話とか!」
「それは確かに恐ろしいね……」
お喋りをしながら画集を見ていたら、あっという間に時間が過ぎていった。
昼食の時間になったので二人は使用人が準備してくれた敷物を持ち、居間の床に広げた。
靴を脱いでその上に上がった時には、「風が吹いて敷物がめくれないように」ということで、ちゃんと敷物の四隅にそれぞれの靴を置いて重石代わりにしておく。こういうところにもこだわりたいのだ。
「フェリスの弁当、楽しみだな。……ノックス風のおかずも作ってくれたんだっけ?」
「はい。ロウエンにはない具材もあるのでちょっと苦労しましたが、なんとかそれっぽいのが作れたのですよ」
そう言ってフェリスが開いた弁当箱には、色々なおかずが詰められていた。
ロウエンの主食である餅は軽く炙り、複数種類のたれを絡めて串に刺している。サラダには卵と油を混ぜて作ったソースで絡めて炒めた海老が鎮座していて、スパイスの利いた立方体の肉もみっちり詰まっている。
「どれもおいしそうだ! では、偉大なる祖神と――我が妻フェリスに感謝して、いただきます」
「え、ええと……偉大なる祖神と私の愛する夫に感謝して、いただきます」
「お、俺のことはいいよ」
「だって、ジン様が私の名前を入れるんですもの……」
二人は見つめあうと、ふふっと同時に笑ってから弁当に手を伸ばした。
まずはそれぞれの茶を椀に注ぎ、皿を手にする。ロウエンの食事ではひとりにひとつずつ膳が用意されていて、一人分の料理が全てその上に載っている。
このように自分が食べる分だけ取って皿に移すというのは、ノックス風の食べ方なのだ。
「そういえばノックスの夜会でも、こうして食事をしていたね」
「ああ、そうですね。……でも実は夜会で出された料理って、ほとんど食べられないのですよ」
「あー……そういえばそんなことを聞いたことがあるな。飲み物はともかく、料理はあまり食べないものらしいね」
「そうなのです。料理人が腕を振るって作った料理なのですが、特に女性は『料理にがっつくと下品な女だと思われる』と教わるため、どんなにおいしそうでも食べられないのです」
「もったいない話だね」
「ええ。私も神殿で倹約や清貧の心を教え込まれたのでいっそう、食材たちや料理人たちに申し訳ないと思っていました」
とはいえ、ノックスにはノックスの、ロウエンにはロウエンのやり方がある。
これからいっそう国際化は進むだろうが、そういった古い慣習はなかなか消えないだろう。
「……あっ、これはなかなかおいしい。見たことがないけれど……なんという料理なんだ?」
「それはノックスでよく食べられたステーキをアレンジしたものです。薄切りにしたお肉の間に、チーズを挟んでいます」
「本当だ。チーズの塩味がいいね。……あ、フェリスが食べているそれ、すごくおいしそう」
「ふふ。これ、果物の甘煮です。食べてみますか?」
「うん。フェリスが食べさせてくれたら、嬉しいなぁ……なんてね」
「ええ、どうぞ。はい、あーん」
「……」
夫のお願いに応じたフェリスは、串に刺さった果物の甘煮をジンの口元に差し出した。
だが、なぜかジンは自分の方からお願いしたくせに、顔を伏せて口元を手で覆ってしまった。
これでは「あーん」させられないではないか。
「ジン様。顔を上げてくださいませ」
「……。………………よし、俺は大丈夫だ」
数秒沈黙した後、ジンは顔を上げてきりっとした表情を見せてから、フェリスが差し出す果物に食いついた。
それを余裕の表情で咀嚼するジンだが、味の感想を聞きたくてわくわくと身を乗り出してくる妻を見ると視線を彷徨わせるようになり、また顔を伏せてしまった。
「……ジン様。お味はどうですか?」
「……甘い。かなり、甘い……」
「そうですか。では次に作る時は、もうちょっとお砂糖を少なめにしますね」
「いや、これくらいでちょうどいいよ」
弁当を食べた後、二人は敷物の上に寝転がった。
「これが晴れた屋外だったら、青い空が見えただろうにね……」
「そうですね。でも、この居間で寝転がることはあまりないので、ちょっと新鮮な気持ちです」
「それもそうだね。もし、今日が快晴で普通にお出掛けができていれば……こんな経験も、できなかったからね」
ジンが言ったのでそちらを見ると、優しい灰色の眼差しと視線がぶつかり、自然とフェリスの口元がほころんだ。
「……こういうのも、けっこういいね」
「そうですね。雨の日だから、こういう楽しみ方ができましたね」
「ああ。……隣にいるのが君じゃなかったら、雨が降って憂鬱になるばかりだっただろう。でも、君が素敵な提案をしてくれたから……雨の日も、ちょっとだけ好きになれるな」
「ええ。……あなたが一緒だから、どんな日も楽しく思えます」
まだ、雨は止みそうにない。
だが小さな居間で過ごす二人の心の中は間違いなく、清々しいほどの快晴だった。




