☆ 月光の花嫁②
ライナンが乗る馬車が自邸に着いた時には、もうすぐ深夜になろうとしていた。
「さすがにもう、ジャネットは寝ているよな……」
「そうですね……この時刻ならもう、侍女たちが就寝を促しているでしょうね」
「だよな。……あいつは、主寝室で寝るんだよな?」
「はい。昨夜から主寝室の寝台でお休みになっています」
「了解。じゃあ起こすのもかわいそうだし話は明日にして、俺は空き部屋で寝るかな」
結婚が決まってから、従者たちに頼んで屋敷の中を色々変えてもらった。
ライナンは屋敷を持っているがあまりこちらには戻らず、兵団にある自室で休むことが多かった。
そのため内装や家具についても無頓着だったのだが、妻を迎えるにあたってこれではいけないと思って、模様替えを依頼したのだ。
寝台も、夫婦で寝られるように大きめのものに取り替えた。壁紙や絨毯も味気ない色のものから、女性が好みそうな淡い色合いのものにした。
またノックス人であるジャネットが不便に思わないよう、椅子や机などもノックスのものに近い造りのものを注文した。
これからこの屋敷は、自分とジャネットが暮らす場所になる。
玄関の前に立ち、十年近く所有している自邸を感慨深い気持ちで見上げてから、ライナンは扉に手を掛けた。
鍵が閉まっているだろう、と思ったけれど、開いていた。まさか、執事が施錠し忘れたのか。
ならず者がジャネットを狙っていたら……という冷たい思いを抱えて扉を開けた先には、明かりが灯っていた。
そして――
「おかえりなさいませ、旦那様」
「……ジャネット?」
いないと思っていた人が、そこにいた。
シエゾンとは違う、ゆったりとした薄青色の部屋着を着たジャネットがそこに立っていて、ライナンを見ると品よくお辞儀をした。ノックス宮廷風のものではなくて、ロウエンの伝統的なお辞儀である。
肩先までの長さの灰色の髪は一部だけ結わえて、髪飾りでまとめている。夜だからか、冷えを防ぐための薄手の羽織を着たジャネットはゆっくりと顔を上げて、静かにライナンを見てきた。
「ノックスから無事にご帰還なさったと聞き、安堵しました。さぞお疲れでしょう。すぐにお湯の準備をさせます」
「あ、ああ。いや、えっと……ただいま、ジャネット」
「おかえりなさいませ、旦那様」
まさかの展開にどもってしまったライナンに、先ほどと全く同じ言葉を述べてからジャネットは両手を差し伸べた。荷物を受け取るつもりなのだろう。
それは確かに妻の役目かもしれないが、今のライナンは遠征帰りで汚れているし、荷物も同じようなものだ。
一方のジャネットは明らかに風呂に入った後で、寝仕度も終わっている。
「いや、あんたまで汚れてしまうから、いいよ。それより夜遅いし、無理しなくていい。先に寝ていてくれ」
「……」
「ジャネット。俺は新婚休暇を取ったから、しばらく屋敷でゆっくりできるんだ。だから今日はお互いすぐに休んで、明日話をしよう。……な?」
「……かしこまりました。では、失礼します」
「……ああ。おやすみ」
ライナンの説得をやっと受け入れたジャネットは一礼して、侍女を伴って去っていった。
――ふわり、と揺れる灰色の髪に触れたいと思ったが、できない。
自分は汚れていて、きれいに洗われた妻の髪に触れてはならないからだ。
だが、それにしても。
「……なんだろうなぁ」
ぼりぼりと頭を掻きながら、ライナンは従者を連れて風呂場の方に向かったのだった。
翌朝、仕事がないと分かっているがライナンは早起きをして、ちゃちゃっと身仕度を調えた。
向かう先は、屋敷の庭。武人として、特訓をするためだ。
ライナンはロウエン人にしてはかなり背が高くて、たくましい体を持っている。
ジンにはいつも「おまえの頑強そうな体が羨ましい」と言われるが、ジンが特別小柄で細いわけではなくて、ライナンが破格なのだ。
走り込み、剣の素振り、射的など一通りの運動を終えた頃になってようやく、東の空の彼方から太陽が昇ってきた。
朝餉ができるまでまだもう少し時間があるだろうから、汗を流してから小休憩を取ろう。
そう思い、上着を脱ぎ捨て上半身裸になったライナンはきびすを返したが――
「旦那様っ……!」
「お、おわっ!? ジャネット!?」
ばんっと玄関のドアが開き、シエゾン姿のジャネットが飛び出してきた。
体の線をはっきりさせるシエゾンは、ロウエンの女性の正装だ。一般市民ならば晴れの日にしか着用しないだろうが、貴族女性なら普段からシエゾンを着て暮らすものだ。
ジャネットは胸が豊かなので、深紅のシエゾンを着た姿は非常に麗しく、しかし少々目の毒だ。
そう思いながらも目をかっ開いて妻の初シエゾン姿を脳みそに焼き付けようと思ったライナンだが、ジャネットの顔色が悪いことに気づいてすんっと疚しい感情を収めた。
「おい、どうしたんだ? ……っと、う、うわ、すまない! すぐに着るから!」
「いえ、そのままで大丈夫です。それより……申し訳ありません、旦那様。わたくしとしたことが、寝坊するなんて……」
「寝坊?」
反芻したライナンは東の空を見て、まだ太陽の半分も昇りきっていないのを確認してから、自分の正面で頭を垂れるジャネットのつむじを見下ろした。
「いや、まだそんな時刻じゃないし。……そもそも別に、寝坊したって構わないぜ?」
「そんなこと。……旦那様のお目覚めに付き添えず、申し訳ないことを……」
「……えっと、ジャネット。昨夜から思ってたけど……あんた、なんか無理してるだろう?」
ライナンが言うと、ジャネットはゆっくり顔を上げて――すぐにまた伏せてしまった。
「そのようなこと、ございません。わたくしは旦那様の妻としてふさわしくあろうと……」
「いや、俺、あんたにそんなこと命じてないし。あんた、俺にも結構ぞんざいな扱いしてきたじゃん? あんな感じでいいんだけど」
「め、滅相もございません。あの時のわたくしは、旦那様にも大変失礼なことばかりをして……」
「……はぁ。じゃあ、俺の命令なら何でも従うんだよな?」
ライナンの言葉に、ジャネットの肩が一瞬震えた。
だが彼女は顔を上げて、しっかりと頷いた。
「はい、旦那様のご命令のままに」
「おっし、二言はないな? ……それじゃあ、ジャネット。そうやってへこへこするの禁止」
「……えっ?」
「基準は……そうだな。あんたがヘリス様に対するのと同じくらいの気軽さで、俺とも接すること。無理な早起きや夜更かしも禁止。すぐに謝るのも禁止」
ジャネットの目が見開かれて、ぱちぱちと何度もまばたきされる。
彼女はもう二十代半ばだったと思うが、その仕草はまるで幼い少女のようで、ライナンの心の中で何かがもぞっと動く気配がした。
「俺、あの時みたいにしゃきしゃき発言するあんたに惚れたの。ヘリス様からも、神官時代のあんたはいつもしっかりしていて格好よかった、って聞いてるし。俺はね、この屋敷でもあんたにそういうふうに振る舞ってほしいんだよ。肩に力を入れて慎ましく振る舞わなくていいの」
「……し、しかし、武家の嫁は夫に従順であるべきなのでは……」
ジャネットの言葉を聞き、ライナンも何となくの事情が分かった。
ジャネットはライナンが不在の間、キオウ家本邸で世話になっていたということだ。ライナンの母は寛容で――少々おおざっぱな人なのでともかく、あそこの侍女たちはなかなか厳格だ。
彼女らに扱かれた結果、ジャネットは「古き良き、貞淑で従順な嫁」の振る舞いをせねばと思うようになったのだろう。
「いんや、もうそういう時代じゃねぇから。ヘリス様だって、ジンと気軽な感じで接してるだろ? 俺も、そういう夫婦関係がいいんだよ。むしろ、あんたになら鞭でびしばし叩かれてもいいくらいだし」
「わ、わたくしが旦那様を鞭で……?」
「いや、たとえだからな? そういうことだから、あんたは『ジャネット』らしい振る舞いをしてくれ。あんたでしか見せられない顔を、俺は見たいんだよ」
ライナンが言い切ると、ジャネットはしばらくの間惚けたようにぽかんとしていた。
だがやがて唇を引き結ぶと、ゆっくりと頷いた。
「……あなたがそうおっしゃるのでしたら。では……少し心苦しいですが、そのようにできるよう、心がけます」
「おう、そうしてくれ。鞭も、いつでも貸すからな!」
「……変態ですか?」
じろり、とジャネットに睨まれたので、ライナンはからっと笑って手を振った。
……正直しおらしい姿よりも今の睨みの方が素敵だと思えるのだが、それを言うのはまだ早いと思って喉の奥に押し込んでおいた。




