78 これからもここで②
やがて、ユキアは斜面を上がりきり――さっと差してきた西日に、私は思わず目を閉じてしまった。
「やあ、雨上がりの夕暮れ時は夕日がきれいに見えるね。……フェリス、見える?」
ユキアが徐々に速度を落として、そして停止した。
私はおそるおそる目を開けて――眼前に広がる光景に、息を呑んだ。
私たちは斜面を上がり、外壁のてっぺんに上っていた。外壁上は通路のようになっていて、胸壁にガードされた石畳の道がずっと延びている。
その道の先、西の空には、今にも山の端に沈もうとしている大きな夕日があった。
日中だと眩しくて直視できない太陽だけれど、赤々と燃えるそれが半分ほど沈み、周囲の空を淡い色に染めている。
首を捻れば、東の空の方からは徐々に夜の色が迫ってきていた。そして夕方と夜のあわいである真上には、わずかに青い空が残っている。
ロウエンの大自然が生み出す、見事な空のキャンバス。
背の高い建物が多くて上空を見上げてもどうしても視界が遮られてしまうノックスでは、絶対に見られなかっただろう。
「あはは、フェリス、喉を反らしすぎて倒れないでよ」
「た、倒れません。……でももし倒れそうになったら、背中を押してくれませんか?」
「ん? お断りだね」
「えっ」
「押したら、フェリスが離れていっちゃうじゃないか。……もし君が後ろに倒れ込みそうになったらこれを好機とばかりに、後ろからぎゅっと抱きしめてあげるよ」
「も、もう、ジン様ったら……!」
ジン様が笑っているのが、背中を預けているジン様の胸元の動きで分かった。
もう、と思いながら視線を横にずらすと――帝都の外に広がる郊外の景色が見えた。
外壁の外は家屋もまばらで、だだっ広い草原がほとんどだ。
ちょうど南の大門前の馬車道が見下ろせて、閉門までに急いで宿を確保しようとしているのか、小走りに門の方へ向かう旅人や馬車の姿があった。
初夏の草原は、青々としている。
雨が降ったばかりだからか、春になって生え始めた草木もいっそう瑞々しく輝いているようだ。
「……きれいですね」
「うん。ロウエン帝国は国土から算出した都市の占める割合はかなり低いから、近隣の大国と比べると田舎って印象を持たれがちだ。……でも俺は、この国が大好きだ」
私の顔の横から腕を伸ばして、ブルル、と鼻を鳴らすユキアの首筋を撫でてやりながら、ジン様は落ち着いた様子で言った。
「ユキアを相棒にする前から、よくこの外壁に上がって帝都の外を見てきた。生きていると色々と、嫌になることもあるけれど……ここに立って空を見たり草原を見たりしていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。そうして、やっぱりもうちょっと頑張ろう、って思えたんだ」
「分かる気がします。……ノックスにはこんなに生き生きとした草が生える草原はほとんどなかったですけれど、丘陵地帯とかで過ごしていると、なんだか気持ちが落ち着いたりしたものです」
「やっぱり自然を前にすると、人間は落ち着くものなんだろうね」
ジン様はそう言ってから、ユキアを撫でていた手を引き寄せて、そっと私のお腹に回してきた。
「……フェリス。これから先、色々あると思うけれど……俺はこれからもずっと、君と一緒にこの国で暮らしていきたい」
「……」
「何年、何十年経ったとしても、この風景を君と一緒に見ていきたいんだ」
ジン様の言葉に、私は想像してみた。
今よりも少しだけ年を取った私たちがユキアに乗って、ここから空を見上げている。
更にもっと年を取った私たちが並んで、胸壁に寄り掛かって外を眺めている。
もっともっと年を取って……お互い皺だらけになっても、「昔はこんなことがありましたね」と思い出話をしながら寄り添っている。
「……私も、そうしたいです」
「フェリス……」
「私もずっとあなたと一緒に暮らしたいし、これから何度もここから、ロウエンの大地を見たいです。……それから私の力で、ここから見える風景が変わらないように、国を守っていきたいです」
「それもそうだね。……君は本当に素晴らしいよ」
ジン様はくすりと笑ってから、「愛しているよ」と背後から私の耳に口元を近づけて囁いた。
「これからも、ずっと。君は俺のお嫁さんで、俺は君だけをずっと愛するよ」
「……私も、です! 私も、ずっとあなたのお嫁さんで……あなただけをお慕いして、あなただけに服を縫いたいです!」
「っ……これはまた、嬉しいことを言ってくれるね」
ジン様はくすくすと笑うと、「ああ、でもね」と思い出したかのような口調で続けた。
「もしかするとこれから先……ここに来るときは俺たち二人っきりじゃなくなるかもしれないね」
「……。……キオウ様たちを連れてくるのですか?」
「いやなんでそうなるの!? そうじゃなくって……これから家族が増えたら、皆で一緒にあちこちに行きたい、ってことだよ」
笑いを含んだ口調で言われて私は真っ先に、お義母様やお義姉様方の顔が思い浮かんだけれど――
い、いや、これってもしかしなくても、ライカ家の義家族のことじゃなくって……?
「え、あ、あの、それは、その、つまり……?」
「うん、そういうこと」
「……。……ま、まだ分かりませんよ……」
「そうかな? いつそうなってもおかしくない状況だと思うけれど?」
「ジン様っ!」
こ、この方は屋外でなんてことをおっしゃっているの!?
「こんなところでそんなこと、言わないでください!」
「えっ、でもフェリス、二人きりの時は色々なことをしようって決めたじゃない? ちょっと恥ずかしい会話も、周りに誰もいないならいいって」
「ここは屋敷の外でしょう!」
「でも周りには誰もいないよ?」
「あ、そうですね……」
あえて言うなら私たちが跨がるユキアがいるけれど、これはもう「二人きり」にカウントしてしまってもおかしくない状況だった……。
でもあっさり認めてしまった自分が情けなくて一枚上手なジン様がちょっと憎らしくて、照れ隠しもあり軽く肘鉄をお見舞いすると、「うわっ、強烈な一撃!」という嬉しそうな声が聞こえてきた。
「……あはは。フェリスって結構お転婆だよね」
「……お淑やかな方がいいですか?」
「そういうわけじゃないよ。君がお転婆なところも愛らしいと思うし、お淑やかに振る舞うところも素敵だと思う。……『君』が見せてくれる顔や姿なら、俺は何でも大歓迎。むしろ、もっともっと色々な顔を見せてね」
「……それじゃあジン様も、もっといろんな顔を見せてくださいね。たとえば……苦手な食材を前にしたときの反応とか?」
「う……そ、そうだね。いつか見せるよ」
ジン様が苦笑するので、私も釣られて笑いながらとん、とジン様の胸に背中を預けた。
暗い場所で丸くなって泣いていた私を、ジン様が光の差す場所へ連れ出してくれた。
誤解から始まった、私たちの関係。
でも今では、過去の自分が大失敗してよかったと思うし……今が幸せだと思える。
これから先も、私は頑張っていける。
ジン様が、一緒に歩いてくれるから。
これにて完結です。
お読みくださり、ありがとうございました!




