69 ノックス王国へ
ノックス王国は、ロウエン帝国から見て西に位置する。
両国の間には二つの小国があり、そこを通りながら国境を越えることになる。
ジャネット様の故郷の村はノックス王国の南端に位置していたので、往復で一ヶ月掛からないくらいだった。
でも帝都から王都までとなるとさらに日数を要したし、大軍での移動になるので片道だけで一ヶ月近く掛かった。
……半年前の秋、私はほとんど同じ道を逆に向かっていた。
当時のジン様はロウエンの使者としてノックスの夜会に出席していたので、私も使節団にひっそり加わってロウエンに行くことになった。
あの時は……これからどうなるのか分からなくて、道中ずっと胃が痛かったのを思い出す。
でも今は、別の意味で胃が痛い。私……胃痛持ちだったのかな……?
「フェリス……大丈夫? 顔色がよくないよ」
もうすぐ王都、というところでジン様に聞かれたので、私は少し考えた末に頷いた。
「ちょっと、胃がキリキリします。……ジン様。やっぱり伯爵家は、ジャネット様を脅迫したことについて、我関せずの態度を取ったのですね」
これは、数日前に聞かされたことだ。
キオウ様がジャネット様を連れて村に行ったとき、そこには既に伯爵家の手の者の姿はなかったという。
でもご両親曰く、つい先日まで自分たちは軟禁状態にさせられていて、ジャネット様とキオウ様の結婚を知らせるキオウ家の兵士が来たことで皆、一目散に逃げていったという。
……ジャネット様ご一家を手駒に使えなくなったと、伯爵も判断したはずだ。
そうして、知らぬ顔を貫くことにした。
「……予想はしていたけれど、そのようだね。ジャネット殿は平民生まれで、伯爵家は腐っても貴族。平民だけの証言では、ジャネット殿ご一家のことで伯爵家を糾弾することは難しいようだ」
「……仕方のないことですね」
伯爵家が逃げる可能性は予想していたし、少なくともジャネット様がご両親を連れて無事にロウエンに渡れたのだから、この件に関しては十分うまくいったと捉えるべきだろう。
次の問題は、今後のことだ。
一足先に王都に到着していたキオウ様たちが国王陛下に、使節団との交渉申請をして……それが受理された。
普通ならもっとたくさんの手続きを踏んだ上で使節団と君主の面会が通るはずだけど、今回は退魔防具、そして縫穣の神子と呼ばれるようになった私が絡んでいるから、悩む間もなく承諾したそうだ。
私は……神子として、やるべきことをするのみだ。
ノックス王城に来るのも、久しぶりだ。
「ここに来るのも久しぶりだね……」
重厚で威圧感のある王城を前にジン様が呟いたので、私は頷いた。
「同じことを思いました。……王城の夜会で酔っぱらいに絡まれたところをジン様に助けられて……後日、あっちの迎賓区でジン様にハンカチを渡したのですよね」
「そうそう。……あれから、半年か」
長かったような短かったような、穏やかだったような怒濤の日々だったような、この半年。
かつては神官のローブ姿、もしくは伯爵令嬢としてのドレス姿で出入りしたこの城を、今私はロウエン風の服装で見上げている。
今は屋敷で留守番をしているマリカが見立ててくれた、最高品質の絹で作ったシエゾン。
滑らかな手触りのそれは胸元はほぼ白色だけれど裾に向かうにつれて少しずつピンク色が混じっていき、袖や裾になると春のロウエン帝国に咲く花のような鮮やかな薄紅色になる。
シエゾン一枚だと肌寒いしあまりにも体のラインがはっきりしすぎるので、ロウエンの伝統文様が刺繍された上着をさっと羽織っている。
髪は左耳付近の一房だけくるっと巻いて後は下ろし、結んだ部分に布で作った花の飾りを差し込んだ。
隣に立つジン様もシルゾン姿で、冴えた深い青色の布地が美しい。
帯は……私は最後まで抵抗したけれどジン様たっての願いで、私が作った例の青緑色のものを締めている。退魔の力はとうの昔に消えているけれど、普通の帯になってもなお、ジン様はこれを大切にしてくださっていた。
煉瓦色の髪は結って、簪でまとめている。ノックスでは髪飾りは女性の装飾品だったけれど、ロウエンでは長髪の男性も色々な種類の髪飾りを愛用する。
歩くたびに玉飾りが涼しげな音を立てるこの簪は、屋敷を訪れた商人が見せてくれたものの中から、私が選んだものだった。
出迎えのために整列していたノックスの騎士たちは、私たちを見て複雑そうな顔をしている。
でもロウエンの使節団を前に下手なことは言えないようで、恭しい仕草で私たちを中に通してくれた。
「……そういえばノックスの城内は、自力で歩かなければならないんだったな」
「ロウエンでは、籠がありますものね」
ノックス人の官僚に案内されて廊下を歩きながらジン様がぼそっと言ったので、私も耳打ちした。
あの籠、最初はびっくりしたし籠を担いでくれる男性たちに申し訳ないような気持ちがした。でも慣れると案外快適だと分かったし、彼らもこれを仕事にしているのだから、と割り切れるようになった。
まず通された応接間で、煌びやかなノックス風の内装の中では若干浮いて見える、緑色のシルゾン姿のキオウ様と再会できた。
「おう、無事に来たようだな、ジン。フェリス様も、お元気そうで」
「悪いな、ライナン。色々世話になった」
「ありがとうございました、キオウ様。それと……ずっと言えなかったので。ご結婚おめでとうございます」
「あはは、ありがとうございます。……ジャネットたちは無事にロウエンに着いたようですね」
ジン様の背中をばしばし叩いていたキオウ様だけど、ジャネット様の名前を出したときだけはちょっとだけ声が優しくなったように感じた。
……ああ、そうそう。ジャネット様からキオウ様へ手紙を預かっているんだ。
「ジャネット様はお元気そうで、すぐにご両親と一緒にキオウ家のお屋敷に移られましたよ。……これ、預かっていました」
「おおっ、ありがとうございます! ……記念すべき、嫁からの初手紙……屋敷に帰ったら額縁に入れて飾っておこう」
「ジャネット様は嫌がりそうですが……」
私は突っ込んだけれど、ジン様はそっぽを向いている。
……そういえばジン様も、私が初めてプレゼントしたハンカチを「一生大切にする」っておっしゃっていたっけ。額縁については、お義姉様方が「ジンならやりそう」って言っていたような。
ロウエンの男性は、妻からの贈り物を額縁に入れて飾る習慣でもあるんだろうか。
「じゃ、これは後でじっくり読むとして……現状をお知らせしますね」
仕事中の顔になったキオウ様はそうして、私たちにこれまでのことを説明してくれた。




