55 今だけでいいから
謁見を終えて、私たちは帰路に就いた。
「つ、疲れました……」
「本当にね。……あの式典から三日間、本当にばたばたしまくりだよね……」
重い正装を脱いで身軽なシエゾンとシルゾンになったところで、私たちは居間のマットの上に転がった。
ここ数日間の私たちのばたばたっぷりを目の当たりにしているからか、執事やマリカでさえ、私たちがマットの上でだらしなく転げ回っていても何も言わずに放っておいてくれるのがありがたい。
「……なんだか、今でも信じられません。私が、こんな大役を受けることになっただなんて……」
ジン様が渡してくれたふわふわのクッションに抱きついてため息を吐き出すと、ジン様は小さく噴き出した。
「何を言っているんだ。こんな重大な決断をしたのはフェリス本人じゃないか」
「それはそうですけど……」
「……俺、ちょっと思ったんだ。もしあの立食会で、俺が帯を見せびらかさなかったら――」
「だめですよ、ジン様」
ジン様の声色と様子から大体のことが分かったので、私はめっ、とジン様の口を手で覆った。
「もしも、はないんです。それに私が無意識のうちに魔力を垂れ流しにして針に注いでいたのなら、遅かれ早かれ私の力は露顕していました。それが私たちにとって都合の悪い展開ではなくて、導師様や陛下にもお気遣いいただけるような結果になったのですから、これはこれでよかったと思います」
「そうかな……」
「そうですよ。……それに私、なんだかすっきりしているんです」
私はずっと、落ちこぼれだと思っていた。
いくつになっても、適合武器が見つからない。まだまともに魔力を注げる槍と矢でさえ、見習い神官の足元にも及ばないくらい。
役立たず、穀潰し、使えない娘、と罵られただけでなくて、「おまえの母親は立派な神官だったのに。きっとろくでなしの父親の血のせいだ」と、会ったこともない父のことさえ罵倒された。
でも……そうじゃなかった。
私は父の顔は知らないけれど父の名誉も守れたし……私を育ててくれた母の名を守ることもできた。
私をこの世に送り出して、ジン様と巡り合わせてくれた両親のことまで貶されるのは、辛かった。
でも、もう下を向かなくていい。
私は亡き母にも誇れるくらいの力を持っていて、自分の判断でその力を使えるようになったのだから。
「それに……私の才能を花開かせてくれたのは、ジン様ですから」
「俺が……」
「はい。……そもそも、私が最初に贈ったハンカチをあなたがとても大切にしてくれているから、苦手な裁縫にも挑戦しようと思えたんです」
もしジン様が、あのハンカチを捨てていたら?
「下手くそ」と言っていたら?
私は二度と、針を手に取ることがなかっただろう。
ノックスに残ったとしてもロウエンに渡ったとしても、「裁縫をしよう」という気持ちにならなくて……当然、退魔効果のある衣類を縫うなんていう結果も生まれなかった。
あなたが私を認め、励まし、褒めてくれたから。
私は羽ばたく力を得られた。
「私がこんなにも、あなたのことを好きになれたから。あなたに喜んでもらえるような帯を作りたいと思えたから、私は才能を目覚めさせられたんです。ほら……小説に出てくる言葉で言うと、『愛の力』というものですね」
「あ、愛の、力……」
ジン様の声が震えている。
じわじわとその顔が赤くなっていって――ジン様は近くにあったクッションをひっ掴んで、そこに顔を突っ込んだ。
ふわふわクッションに顔を埋めるジン様の図はなかなか可愛らしいけれど……窒息しないかな?
「なんかもう……本当に、君の言葉はいちいち威力がすごすぎる……」
「だめですか?」
「だめじゃない! だめじゃないけれど……君の言葉は真っ直ぐすぎて、俺にはちょっと高度すぎる……」
その後もジン様はしばらく伏せていたけれど、息が苦しくなったのかのろのろと顔を上げて深呼吸した。
本当に……いつもは凛としていて見惚れるほど格好いいのに、真っ赤な顔でふうふう深呼吸する姿は……。
「可愛い……」
「何か言ったかな、奥さん?」
「い、いえ、何でもないです。ええと……そういうことだから、私はあなたに感謝しているんです! それに私の針の力で、魔物から攻撃を受けて痛い思いをする人が少しでも減るのなら、私としても嬉しいですし……そういうことです!」
なんだかジン様の纏う雰囲気が妖しくなったので慌ててそう締めくくると、ジン様は「そっか」と呟き、体を起こした。
「フェリスが受け入れているのなら……よかった。それに俺、結構嬉しかったんだ」
「どれが、ですか?」
「フェリスが皇帝陛下の前で、言ってくれた内容」
ジン様はそう言うと、私の肩を抱いた。
その力に抗うことなく身を預けた私は、ジン様と一緒にクッションを枕にしてマットにころんと転がる。
横伏せ状態になった私を、ジン様が柔らかい眼差しで見てくる。
灰色の瞳の中に、私の顔が映り込んでいる。
「君が心を込めて縫った衣類は、俺だけに捧げたいって言葉」
「あ、ああ、それですか……」
「うん。……昨日ソンリン様にからかわれた時にはむきになって言い返しちゃったけれど……本当はソンリン様の言うとおり、俺は君を独り占めしたかったんだ」
ジン様の手が伸びて、私の髪に触れる。
純粋なロウエン人には滅多にない淡い色で癖のある髪が梳られ、さらりさらりと弄ばれる。
「君が心を込めて縫った衣類は、俺だけのものにしたい。他の男の手に渡したくないって思っていて……本当は図星を指されてどきっとしたんだ」
「……そう、なのですね」
「うん。だからフェリスの口からはっきりと言葉が聞けて……情けないけれど、すっごく嬉しかった。君が心を込めて縫った衣類は、俺だけのもの」
「……」
「あ、はは……さすがに重いかな?」
「そんなことありません。私だって……本当は、あなたのためだけに縫いたいんです」
ここは、屋敷の居間。
気を遣ってくれたのか、マリカたちもいつの間にか席を外している、二人きりの空間。
だから手を伸ばして、ジン様の頬に触れた。
同じ体の部位でも私のそれとは柔らかさが全く違うそこを撫でて、その熱を指先から感じ取る。
「私も、嬉しいです。……私もどんどん欲張りになってしまっているみたいですね。もっと、あなたに独占されたいって思ってしまうんです」
「っ……君も、そう思ってくれている……?」
「はい。……同じように、私も……二人きりの時だけでいいから、あなたを独占させてください。いっぱい甘えさせてください。……私だけのジン様で、いてください」
外に出たら、ジン様はライカ家の御曹司で侍従兵隊長、私は……現在のところ世界でたった一人の、針に退魔の力を宿せる神子になる。
でも、二人きりの時は。
私はただのフェリスになるから、ジン様もただのジン様になってほしい。
ジン様の瞳が揺れて、ちらりと炎が宿る。
それは、これまでは見たことのない熱情のような、劣情のような色。
少しだけ獰猛な眼差しに射すくめられてどきっとはするけれど、嫌ではない。
「……もちろんだよ。俺は君だけのジンで、たくさん甘えて、頼ってほしい」
「ジン様……ありがとうございます」
「俺も、君を守るよ。これから君は重大な仕事をすることになるけれど……俺が夫として、君を守る。魔物からも悪しき者の手からも……守ってみせる」
「はい。……私も気を付けますので、どうかよろしくお願いします」
「うん、遠慮なく頼ってね」
ジン様はそう言ってくすっと笑ったけれど、まだ灰色の瞳には小さな炎が宿っているようだ。
ジン様もその自覚があるのか、すっと笑みを消して、「ねえ」と艶めいた声で読んでくる。
「今夜は……もうちょっとだけ、君を近くに感じたい」
「……」
「君もまだ色々なことに慣れていないだろうし、これからいっそう忙しくなる。だから、いきなり段階をすっ飛ばしたりはしないけれど……もうちょっとだけ、君のことを深く知ってもいい?」
ゆっくり、私はまばたきした。
ジン様は私を怖がらせないためゆえかそれともロウエン男子としての慎ましさゆえか、かなり遠回しな表現をしたけれど――だいたいの気持ちは分かる。
それはきっと、マリカが「教科書」として準備してくれた小説の内容に近づくための、大きな一歩。
ジン様のことをもっと知って、ジン様にも私のことを知ってもらうための、大切な段階。
「……はい。あの……お手柔らかに、お願いしますね」
「……ふふ、了解。……たまには俺の方が、君をたくさん照れさせたいからね」
ジン様はそう言って妖艶に笑うけれど……何をおっしゃっているのか。
こうしている今も、私の胸はめちゃくちゃに鐘を打ち鳴らしているくらいだというのに……本当に、罪な人だな。
レベルアップおめでとう!




