5 運命の出会いの夜②
「……そちらに誰かいらっしゃるのか?」
酒精を食らってくらくらしかけた頭に響くのは、凛とした男性の声。
まるで頭の中の靄をかき消してくれるかのような、涼しげで美しい声。
口元を押さえたまま私が顔を上げるとほぼ同時に、男も振り返って声のする方を見た。
そうして廊下の暗がりに、一つの影が立っていることに気づく。
「お取り込みの最中だろうか。だとしたら申し訳ない……おや? そちらの女性は、泣いてらっしゃるのか?」
「……チッ。ロウエンの客か……厄介な」
男は舌打ちして私にしか聞こえない小声で毒づくと、それまで掴んでいた私の腕をふりほどき、ついでにどんっと肩を押してきた。
酒精でくらくらしていた体は、あっけなく倒れ込んでしまう。
「きゃっ……!」
「大丈夫か?」
床にぶつかる――と思ったけれどそれよりも早く、私の腰に男性の腕が回って、抱き留められた。
そうすることで私は、助けて起こしてくれた男性の顔を見上げる形になった。
これは……異国の顔つきだ。
ノックス人は高い鼻と薄い色素の髪、白い肌が特徴で、目も二重が多い。でも私が見上げる男性は目元が涼しげな一重で、髪も濃い色をしている。
ノックスの男性は髪を短く切るものだけど、彼は伸ばしていて後頭部で一つに結わえているようで、髪の房がちらちらと躍っているのが見えた。
着ている服はノックスの正装であるジャケットとスラックスみたいだけれど、顔つきは異国のそれ。さっきの男が言うことが正しいなら……この人は、ロウエン帝国からいらっしゃったお客様ということ?
ロウエン帝国といえば、ノックス王国より東にある海に面した大国だ。ノックスとはそこそこ交流があって、神殿で守護神官たちが作った退魔武器を積極的に輸出している国の一つだったはず。
……ああ、いけない!
助けてくれたお礼を言わないと!
「す、すみません。あの、助けてくださりありがとうございました」
「ああ、やはり困っていたんだね。割り込んでいいものかと少し迷ったけれど、思いきって声を掛けてよかったよ」
男性はそう言って微笑むと、私を立たせてくれた。もうあの酔っぱらいは退散したようで、私も安心して立つことができる。
ロウエン帝国の人間はノックスにはない訛りがある喋りをすると聞いたことがあるけれど、この青年の言葉はほとんど訛りや癖がなく、とても流暢だ。
これだけ滑らかに喋れるということは、貴族――それも、外交官などの身分の方だろうか。さっき挨拶回りをした時には、お目に掛からなかったと思うけれど……。
「ロウエン帝国のお方でしょうか。申し訳ありません、せっかくお越しいただいたのに、ご迷惑をお掛けして……」
「気にしなくていいよ。困っている人を助けるのに、国籍は関係ないはずだからね」
青年は私の謝罪をあっさり却下して、自分の胸と腰の後ろに拳を当ててお辞儀をするという、異国風の挨拶をした。ノックス風のお辞儀しか知らない私には、なんだかその仕草は踊りの一部のように感じられた。
「ああ、名乗り遅れたね。俺はロウエン帝国出身の、ジン・ライカという。祖国の使者の一人として、ノックス王国を訪問しているんだ」
「ライカ様ですね。私はオランド伯爵家のフェリスと申します」
……こうして、伯爵家の名を名乗ることにも慣れてしまった。
本当は、母の姓を使って「フェリス・アロット」と名乗りたいけれど、その名前は十年前に捨てざるを得なくなった。
ジン・ライカ様は私の名を聞くと、「ああ」と少し気の抜けた声を上げた。
「聞いたことがあるな、オランド伯爵家。君はそこのご令嬢だったんだね」
「はい……といっても、養女ですが」
「そうか。……ということは、あの男は伯爵令嬢に手を上げようとしたのか。愚かなことだ」
ライカ様はやれやれと肩を落とすと、白手袋の嵌まった手を差し伸べてきた。
「それじゃあ、そろそろ会場に戻った方がいい。俺でよければ、途中まで同行するよ」
「……」
「……あ、ひょっとして、異国の男は嫌?」
「そんなことありません! ただ……父に何と言われるかと……」
最後の方は、尻すぼみになってしまった。
ライカ様は、善意で私を助けてくれた。
それはとても嬉しいことだし、ライカ様も誠実な方みたいだからほっとしたけれど……だからといって伯爵がライカ様に感謝をするとは限らない。
むしろ、一旦ライカ様にはお礼を言うけれど後で私を、「よくも異国の客人の手を煩わせたな」と詰ってくるかもしれない。むしろ、そうなる確率がすごく高い。
十分に考えられる未来を想像すると、ライカ様の手を素直に取ることができなくなる。
そんな私を見てライカ様はしばらく何か考えていたようだけれど、やがてそっと私の手を握ってきた。
大きくて、温かくて、優しい手。
同じ男性でも、伯爵が私を引きずるときに手を掴んでくるのとは全く違う、丁寧で洗練された仕草。
「えっ……」
「それなら、こうしよう。俺が慣れない異国の城で迷っていたところを、君に道案内してもらって会場まで戻れた、ということにするんだ」
はっとして、顔を上げた。
ライカ様は私を見下ろして、上品に微笑んでいる。
ノックス人とは違う顔つきの彼だけれど、その整った顔に浮かぶ笑顔はとてもきれいで、素敵だと思えた。
「それなら、君は誰に責められることもない。……まあ、さっきの男を糾弾することもできなくなるけれど……それでもよければ、この作戦で行こう」
「え、でも、あなたはそれでいいのですか? 迷子の称号を得てしまいますよ?」
思わず突っ込むと、ライカ様は目を丸くした後、くすくすと笑い始めた。
「ふふ……いいな、それ。厳めしい勲章だけじゃなくてたまにはそういう、可愛い称号をもらいたいものだよ」
「あ、あの……?」
「君は気にしなくていいよ。……さあ、行こう――じゃなかった。会場まで案内してくれるかな、ご婦人?」
少しおどけた仕草でそう言われるものだから、私もつい小さく噴き出してしまった。
それまではそわそわとしていた手をしっかりと彼の手の平に載せて、少しだけその手を握る。
「はい。ご案内させていただきます。……ありがとうございます、ライカ様」
「お気になさらずに」
そう言って微笑んだ彼の横顔は、やはりとてもきれいだった。
結局のところ、私は会場に到着するよりも前に伯爵家の使用人に発見された。
まさかここで見つかるとは思っていなくて言い訳の言葉に迷ってしまったけれど、ライカ様の方が如才なく設定を述べて、「お嬢様のおかげで戻ってこられました。伯爵にもよろしくお伝えください」とまで言ってくれた。
本当は彼に改めてお礼を言いたかったけれど、そうすると設定が破綻してしまう。
だから、簡単な挨拶をして彼と別れるしかなかった。
そうしてびくびくしつつ伯爵家に戻ったけれど、使用人から話を聞いた伯爵は珍しく機嫌がよく、「ロウエン帝国に恩を売っておくのはいいことだ。たまにはおまえも役に立つな」と言ってきた。
見当違いな褒め言葉をもらっても嬉しくはないし、逆にライカ様に失礼だと思うけれど……少なくとも、私が叱られることはなくなった。
部屋に上がってドレスを脱ぎ、使用人が準備したタオルで顔と体を拭いて寝間着に着替えると、すぐにベッドに潜り込んだ。
そうして真っ暗な天井を見上げながら考えるのは、ライカ様のこと。
東の方の民族らしく、彼はいわゆる「ノックス美人」とは違う顔つきをしていた。
でも、涼しげでかつきりりとした容姿に柔らかな微笑を浮かべる姿はとても美しかったし、なんといってもその機転と思いやりを思い出すと、胸が温かいもので満たされた。
……やっぱり、きちんとお礼をしたい。
感謝の言葉を述べて、何か贈り物をしよう。
あまりに高価なものは贈れないし、伯爵たちにばれると元も子もなくなる。
そっと、差し入れのようにさりげなくでいいからお礼の品を渡して、本当に助かったのだということを伝えれば問題ないだろう。
そして……できるなら、あの穏やかな微笑みを、もう一度見たかった。
これくらいの願いならきっと、神様も許してくれる……はずだよね。