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40 魔を射る

 違和感に気づき、ジンは目を細めた。


 喧噪が、遠のいていく。


 それまではあちこちからざわめきが聞こえていて、人々の衣服の色がちらちらしていてジンの視界の邪魔をしていたのだが、それらがだんだん収まっていったのだ。


 兵士たちの説得がうまくいったのだろうか。

 何にしても、非常に都合がいい。


 ぽん、と市街地の一角から赤色がかった煙が上がる。

 あれは、合図用の煙筒だ。準備完了、ということだろう。


 それまでは空の彼方に小さく見えるだけだった黒い点が、だんだん大きくなってくる。

 米の粒から豆の粒ほどになった時、ジンは弓を持つ手を上げ、馬上でさっと構えた。


 煙筒の臭いから逃れるために帝都の上空を逃げ回っていた魔物が、唯一臭いのしない南側――ジンのいる場所まで飛んでくる。


 地上からだと、腹部に子どもを取り込んでいる状態の魔物を撃ち落とすことは難しい。

 だが外壁の上まで上がり、しかも馬に乗ったことで身長を嵩増ししている今、ジンの構える矢の先はほぼ、魔物と水平な位置にあった。


 そして――それなりに体重のある幼児は、魔物にとって飛翔能力を落とす重りにもなっている。


 ぎり、と弦を唸らせて狙いを定め――矢を、放った。


 退魔の力を込めた銀色の矢が、黒い鳥に向かって真っ直ぐに飛び――外れた。

 矢尻はわずかに左の翼の先端を掠めただけで、鳥はさっと下方に逃れた。


 だが、それでいい。


 この矢は、魔物を確実に仕留めるための準備であり――最初から外すつもりだったのだから。


 腹部に重りがある状態の鳥が矢から逃れようとしたなら、一番楽なのは下降すること。

 一度重力に従って降下した鳥がもう一度同じ高さまで上昇するまでには、時間と体力と必要とする。


 ――次の瞬間には、ジンが指の間に挟んでいた二本目の矢を番え、放っていた。


 二本目の矢が天を裂き、鳥の胴体に突き刺さる。


 鳥は絶叫を上げて暴れるが、普通の矢ならいざ知らず、退魔武器である矢が体に刺さった状態だともがくしかできない。


 甲高い悲鳴を上げながら魔物がふらふらと降下し、家屋の間に落ちていった。そのあたりには既に、緩衝材を敷かせているはず。


 ジンの立ち位置からは家屋の屋根に視界を阻まれて、子どもが落ちた後の様子は見えなかったが、やがて子どもの落ちた場所から青色の煙が立ち上った。

 青は、安全の証し。あの子は、少なくとも命に別状はないようだ。


 ふう、と息を吐き出し、ジンは弓を下ろした。そして自分と同じ緊張していたらしいユキアの首筋をそっと撫でる。


「お疲れ、ユキア。大儀だった。……さあ、帰ろう」


 妻の待つ、あの屋敷へと。













 兵士に支えられた私は、近くの店の女将さんの厚意で店の中に入れてもらい、冷水で足を冷やさせてもらっていた。


「あっ!」


 女将さんに捻挫した足の手当をしてもらっていると、窓のところで外を見ていた兵士が声を上げたので、そちらを見る。


「どうか……なさいましたか」


 今彼が声を上げるとしたら……間違いなく、魔物退治についてだ。

 ジン様……どうなったんだろう……。


 彼は振り返り、興奮気味に言った。


「今、二本目の矢が命中して、魔物が落下しました!」

「えっ、そうなのですか!? ……あっ、あれは……青色の煙?」

「兵団で使用する煙筒の合図です。あれはおそらく、子どもが無事に保護されたという暗号ですね」

「……よ、よかった……!」


 魔物は退治されて、取り込まれていた子どもも無事。

 ジン様が、見事に成し遂げた。


 そう思うとふっと体の力が抜けてしまって、恰幅のいい女将さんに慌てて背中を支えられた。


「おっと。奥さん、無茶をしたらいけないよ。足だけじゃなくてあんた、かなり疲れているだろう」

「そう……かもしれません。すみません、夫も攫われていた子どもも無事だと分かって……ほっとしちゃいました」

「それもそうだろう。……いやぁ、それにしてもまさか、あんたが噂の、ライカ様の奥方とはね」


 女将さんはそう言ってガッハッハと笑い、剛胆な笑い方とは正反対の優しい手つきで私の背中をポンポンと叩いてくれた。


「……あんた、ノックス人だろう? せっかくライカ様と相思相愛になって嫁いできたんだ。大変なこともあるだろうが、名家の奥さんとして頑張ってちょうだいよ」

「……は、はい。尽力します」

「はっはっは。そんな気張らなくていいんだよ! ……頑張ってちょうだいとは言ったけれど、無理をしろとは言っていないからね」


 私の足を水から引き上げてタオルで拭き、慣れた手つきで包帯を巻きながら女将さんは続ける。


「……実はあたしの甥も、兵団にいるんだ。一般兵だからライカ様とは天地ほどの差があるけれどそれでも、毎日汗だくになって国のために頑張っている。それで最近甥が嫁さんをもらったんだけど、よく言っているんだ。嫁がいるから、俺はもっと頑張れるんだ、って」

「……」

「旦那を身体的にも精神的にも支えるってのは、奥さんにしかできないことだよ。だからあんたはあんたにできる形で、ライカ様を支えて差しあげな。それこそ……さっき大通りで声を張り上げて、皆に注意を呼びかけた時みたいにね」

「あっ……ご覧になっていたのですね」

「あんだけ目立ちゃあ嫌でも気づくって!」


 女将さんは笑うと、ぬるくなった水入りの桶を手に店の奥に行ってしまった。


 窓辺にいた兵士もこっちに来て、人のいい笑みを浮かべた。


「まもなく市民たちにも、魔物討伐と子どもの保護の知らせが届くでしょう。……それもこれも、ライカご夫妻のおかげですね」

「い、いえ、魔物を撃ち落としたのは夫ですので……」

「いえいえ、さっき女将さんもおっしゃっていたでしょう? あなたは、あなたにしかできない形でご夫君を支えました。……あなたが踏み出さなければ我々だけでは市民を誘導しきれず、子どもを保護することもできなかったかもしれませんからね。僕が言うのもおかしいかもしれませんが……本当に、ありがとうございました」


 そう言って彼は被っていた帽子を脱ぎ、お辞儀をした。

 物音がしたので振り返ると、桶を片づけてきたらしい女将さんもまた、三角巾を外してロウエン女性のお辞儀をしている。


 真摯な様子で頭を下げる二人を見て、私は謙遜の言葉を呑み込んだ。


 ……ジン様にも言われた。

 謙遜しすぎると、自分の価値さえ下げてしまうんだって。


「……こちらこそ、ありがとうございます」


 だから私は笑って、お礼を言った。

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