4 運命の出会いの夜①
私は基本的に、神殿にある宿舎棟で寝泊まりしている。
十五歳以下の若い神官は相部屋で、十六歳以上の神官には一人に一部屋ずつ与えられている。
ベッドとデスク、クローゼットがあるだけの狭い部屋だけど、どこかの屋敷と違って誰にも邪魔されることなく安眠できるこの自室が、私は結構気に入っていた。
……とはいえ私も一応伯爵令嬢なので、実家の方で用事がある時は呼び出しを食らい、やれ面子を保つために食事会に参加しろ、やれ置物状態でいいから側に立っていろ、という命令を受けていた。
そして今夜も、私は半ば無理矢理神殿から連れ出され、着慣れない豪奢なドレスを着せられ、王城で開催される夜会に連行されていた。
オランド伯爵家は、伯爵夫妻と長男長女、そして次女の私という構成になっている。義兄であるお兄様は留学中、義姉であるお姉様は既に結婚して家を出ているので、夫妻が連れ回せるのは私しかいない。
伯爵夫人は私のことをゴミ虫を見る目で睨んでくるくらいだし、どうせ私は養女として登録しているんだから放っておいてほしいんだけれど、そうもいかないらしい。
貴族って、面倒くさい。
ノックス王国では、身内に守護神官がいるとそれだけで皆の注目を集められる。
たとえ落ちこぼれだろうと実子ではなかろうと、私がフェリス・オランドという名である以上、その存在は伯爵家にとって有利になる。
つまり伯爵家にとっての私は、自分たちの権力を高めて威張るためだけの勲章バッジ的存在だ。どうやら今日は近隣諸国から来賓も来ているようで、伯爵夫妻としては守護神官の娘同伴で顔を売っておきたかったんだろう。
そういう扱いにも、もう慣れつつある……というか諦めているんだけどね。
慣れるのも我ながら虚しいと思うけど、そうでもしないとやっていけない。もし私が八年間田舎で奔放に育った過去がない繊細な子だったら、とうの昔に心を病んでいただろう。
虚しくていたたまれなくても、ある程度受け入れて諦めなければやっていけない。
それくらいの図太さとたくましさは持ち合わせていたし、「強くありなさい」という母の教えに従っていたかった。
きらびやかな夜会は、私にとって居心地の悪い場所だ。
伯爵夫妻は私を連れて要人への挨拶回りだけすると、後はあっさり放置してきた。これもいつものことなので、私は重くて動きにくい濃い赤色のドレスのスカートを摘み、会場から撤退することにした。
ところどころ見張りの兵の姿が見える廊下を歩きながら、子どもの頃のことを思い出す。ずっと昔……初めて夜会会場に来た時には、どうすればいいか分からなくて泣いてしまったものだ。
当時はまだデビュー前だったけれど、伯爵夫妻の知人が開催するパーティーなどには参加させられていた。その頃には兄と姉もいたけれど二人は当然のように私を嫌っていて、パーティー会場でも私を放ってどこかに行ってしまった。
その時は結局、道に迷って泣いていたところを見張りの兵士に保護されて、無事に家に帰ることができた。
でも、「私たちに恥を掻かせるつもりか!」と伯爵には殴られ、夫人には冷めた目で見られ、兄と姉には無視された。「お兄様とお姉様に放っておかれました」と言ったらもっと痛い目に遭わされると分かっていたから、言い返したかったけれどぐっと耐えた。
母と一緒に暮らした幸せだった八年間と、虐げられた四年間。
神殿でジャネット様に面倒を見てもらえた四年間と、独り立ちしたのはいいものの役立たずのままの二年間。
これからの私は、どうなるんだろう。
いつまでも誰かに庇われたり、守られたりするわけにはいかない。
退魔の力があって神官として最低限の働きができる間は神殿には置いてもらえると思うけれど、年を取っていっそう力が落ちたら……もし病気などで神殿を辞することになったら……戻る先は、あの伯爵家だ。
ぶるり、と体が震え、私はドレスの袖をぎゅっと握った。
寒いからではなくて、恐怖と不安のための震えだった。
「……お、こんなところに女の子みーっけ! なあなあ、俺と遊ばねぇ?」
背後から、男の人が何か言っている。でも、私には関係ないだろう。
そう思って、鳥肌の立った腕をドレスの上からさすりながら歩きだそうとしたけれど――後ろからいきなりぐっと、腕を引っ張られた。
「きゃっ……!?」
「へへっ、つかまーえた!」
調子の狂った声にびっくりして振り返ったら、もわっと酒臭い息が掛かってきて、おえっと言いそうになった。お酒はそこそこ飲める方だけど……これは、きつすぎる。
私の腕を掴んでいるのは、知らない顔の貴族男性。いい仕立ての服を着ているから、この夜会の参加者なんだろうけれど、顔は赤いし息も酒臭い。会場でしこたま飲んだんだろう。
人気のない廊下で、酔っぱらいに捕まった。
……これは、まずい。
普通の令嬢なら、この男に暴力を振るわれるとか襲われるとかということを考えるだろうけれど、私の心配はそっちじゃない。そっちも心配といえば心配だけれど、もっと怖い、面倒くさいものがある。
私はそこまで貧弱ではないから、本気で抵抗すればこの酔っぱらいから逃げられるだろうという算段はある。でもそうすればあの伯爵は、娘が暴力を受けそうになったことより、娘が別の貴族に手を上げたことで怒り狂うだろう。あれは、そういう人間なんだ。
私がどう反応しようか迷っているのを見て、男はにやりと笑ってきた。下品な感じのする、腹の立つ笑い方だ。
「あんまり見ない顔だな。一人で寂しいだろ? 俺とあっちで遊ぼうぜ」
「……結構です」
「そんな遠慮するなって。俺、こう見えて女の子の扱いは慣れているし、可愛がってあげる自信があるんだぜ?」
何この人気持ち悪っ。
……おっと、いけない。暴言が喉まで出そうになったから、急いで呑み込んだ。村で暮らしていた頃ならこれくらいの罵声をぶつけても問題なかっただろうけど、ここは夜会会場、相手は貴族だ。村のいじめっ子に絡まれたのとは訳が違う。
神殿で質素清貧上品の心を叩き込まれたといっても、全ての人間に慈愛の心で接することができるわけじゃない。嫌な人は嫌だし、気持ち悪い人は気持ち悪い。そもそも私は遊び慣れた女好きより、誠実で優しい人が好みだし。
私を諦めるつもりはないのか、男はにたにた笑いながら顔を近づけてきた。万が一にでも唇を奪われたりしないよう、顔を背けておく。夢見がちだと笑われようと、唇は好きな人のために取っておきたい。
……こうなったら、神官であることを明かすしかないか。
私の母がそうだったように、守護神官もきちんと神殿に報告すれば恋愛や結婚ができる。でも神官は神に仕える女性なので一途な愛を貫かなければならないし、それは相手の男にも同じことが言える。
つまり、独身の神官に無理矢理関係を迫るのは御法度だ。国のために身を捧げる女性を汚そうとした男は、相応の罰を受けることになる、とされている。
……間違いなく逆ギレした伯爵が私にも罰を与えるだろうけれど、今は手段を選んでいられない。
「私は神官です」と言うべく、私は大きく息を吸っ――たのはいいけれど、目の前の男が酔っぱらいであることを、失念していた。
空気以上に酒臭い息を思いっきり吸ってしまい、思わず噎せてしまった。男はにたにた笑い、「かーわいーなー」とかほざいている。
……最悪! 酒精の強い酒の匂いだけでも勘弁なのに、こんな男が一度吐いた息を吸うことになるなんて! できることなら、体の中の空気を全部出して換気したい!
口元に手を宛てがって浅く呼吸をして万事休す状態になっていた私だけど、ふと、コツン、という硬質な音を耳にした。