33 近づくために
ライカ家本邸への訪問翌日は、朝寝坊してもいいことを考えて昼出勤――「昼組」と呼ばれる勤務形態の方にしてもらった。
ちょうど明後日は休日なので、明々後日からいつも通りの「朝組」出勤にすることで、生活スタイルを乱すこともないはずだ。
仕事中、ソイルに昨日のことを聞かれるかと思ったけれど、あっけないほど何もなかった。もしかすると……昨日私がきれいなシエゾンに着替えたことさえ、忘れているかもね。
そして午後の仕事の後で、大きく鐘が鳴った。ここで朝組は退勤する。
「お疲れ様でした、ソイル」
「あ、そっか。君は今日、昼組だったんだ」
既に帰り支度を始めているソイルに言われたので、私は頷いてテーブルの上の槍を手で示した。
槍はロウエンではあまり使われない武器だけど、短槍は馬の鞍に取り付けて投擲用にして、長槍は籠城戦に向いている。
また魔物の討伐に行く際、敵が強力な邪気を纏っていてなかなか接近できない時には、剣よりもリーチのある槍の方が有効になるので、槍使いもゼロではない。
あと私はなぜか、武器の中でも槍はまだまともに退魔の力を注げる方なので、剣とかよりも槍や矢を任されるようになっていた。先が尖っているものとの相性がいいのかな?
「まだやることもありますので、夜まで頑張ります」
「ふーん、そっか。じゃ、僕はいなくなるけれど、無理は禁物だよ。君が社でぶっ倒れでもしたら僕、君の旦那に刺されるかもしれないし」
「大丈夫ですよ、ジン様はそんなことなさいませんから」
「どうだかね……」
ぼやいた後、ソイルは背中を向けて去っていった。これから仲間と一緒に食事に行くらしく、同じ年頃の男性神子に肩を叩かれ、二人並んで作業部屋を出ていった。
……ああやって一緒に食事に行ったり買い物に行ったりするの、楽しいよね。ノックスにいた頃はそんな余裕もお金も相手もいなかったけれど、今はマリカと一緒に町に遊びに行ったりする。
私の淡い色の髪は目立つから、「変な輩に目を付けられないため」ということで髪をまとめてぐるぐると布で巻いたり鬘を被ったりしてやり過ごしている。
……いつか、ジン様と一緒にお出掛けができればいいけれど……ジン様もご多忙だし、名家のご子息で侍従兵隊長でもあるんだから、私やソイルみたいに気楽に町を歩くことはできないだろうね。
それに私は今、屋敷でやることがある。
それはもちろん、ジン様のための帯作りだ。
さすがに事情を知るのはマリカだけ、というのは不安なので、「ジン様には内緒に」ということで屋敷の執事にも相談した。
そしてジン様の今後の夜会参加予定表なども見せてもらった結果、約一ヶ月後に帝城で式典があり、ジン様も侍従兵団代表として参加する予定であることを教えてもらえた。
ライカ家の者ではなくて侍従兵として参加するので、部外者の私は当然屋敷でお留守番だ。
だからジン様に帯を作ったとしてもそれが評価される場を見ることはできない、というのは残念だけど……帯がまともな出来で完成するという自信もないので、これくらいでいい。
ジン様の衣装などを針子に作らせるのは女主人である私や執事の仕事なので、彼らにお願いして帯だけは私が作れるようにする、ということで計画を立ててもらった。
気難しそうな顔の初老の男性だけれど、私が遠慮しながら相談すると「奥様がおっしゃるのでしたら、全力でお支えしましょう」と力強く言ってくれたので、とても心強い。
ジン様は家族はもちろん、使用人にも恵まれているんだな……。
お義姉様たちが考案してくださったデザインは、ロウエン風の柄を入れつつ私のような初心者でも縫いやすいようにアレンジされていて、刺繍に曲線がほとんどない。
基本的にカクカクとした線だけでできているので、色つきチョークで布に下書きをして、それに忠実に縫っていけばなんとかなるはずだ。
これから一ヶ月掛けて、ジン様のための帯を作る。
侍従兵隊長として式に参加するジン様が恥ずかしくないような出来のものを、仕上げたいところだ。
夜になったので、馬車で帰宅する。昼組は昼食後から夜までの勤務なので、既に社の食堂で夕食も食べている。
いつも食べる昼食とはメニューが違って、昼の魚や肉のがっつり系と比べると野菜中心のあっさり系が多くて、私もあれこれ選り好みしなくても無事に食べられるものばかりだった。
屋敷に帰ると、執事たちが出迎えてくれた。今日のジン様は夜勤なので、明日まで帰ってこない。
明日は偶然私たちは両方とも休みだけど、ジン様は昼前に帰ってきて夕方まで寝るだろうから、ゆっくりお喋りをしたりお茶を飲んだりするのは、夕方以降になるだろう。
……それまでの間、私は帯作りに集中すればいい。
ということで本日は風呂に入ったらすぐに寝て、翌日の朝食後にマリカと一緒に自室に籠もることにした。
ここは私用の寝台のある寝室の隣の小部屋で、本を読んだり手紙を書いたりする書斎として使っている。
この部屋は女主人の非常に個人的な場所なので、基本的に男性は立ち入り禁止。屋敷の主であるジン様も、私の許可がなければ入ってはならないので、ここに裁縫道具や布を置いておけば、ジン様にばれることはないはず。
「それにしても……完成した帯をご覧になった旦那様はきっと、驚くし喜ぶしで感情が大忙しになるでしょうね」
「まだ、布を切ってすらいないわよ……」
マリカの目には、まだ鋏すら入れていない布が既に完成品の帯に見えているようだ。
彼女は青緑色の布地にうっとりと手を這わせて、夢見るような眼差しになっている。
「そうなれば、奥様と旦那様の仲も急接近間違いなしです! お二人が同衾なさる日も、間近に迫っているでしょうね!」
「ど、どうなのかしらね」
お義姉様が描いてくださったデザイン案をテーブルに広げながら言うけれど、ちょっと声がひっくり返ってしまった。
……結婚してもうすぐ二ヶ月だけれど、私たちはまだ別の場所で寝ている。
ジン様は、「フェリスも仕事を始めたし、時間が合わないこともあるからね」とおっしゃっているけれど……まさかずっと寝室が別ってことにはならないよね?
いつか、一緒に寝ようと声を掛けてくださるはず……。
「あ……」
「奥様? 何か気になる点でも?」
「あ、いいえ、帯のことじゃないの。……布に印を入れたいから、チョークを持ってきてくれる?」
「ちょうく……ああ、白墨ですね。少々お待ちを」
マリカが部屋を出ていって一人になったところで、私は布地の上にデザイン紙を重ねて――胸の奥のモヤモヤと戦っていた。
……私はさっき、「ジン様がきっと、一緒に寝ようと声を掛けてくれるはず」と考えた。
ジン様は私が結婚生活に慣れるまで待ってくださるということだから、いい頃合いにジン様の方から切り出してくれるはずだ、と思っていた。
でもそれって、変だ。
一緒に寝る心の準備ができていないのは私だから、「いつ慣れるか」が分かっているのは私の方。
それなのに、私は自分では一切行動を起こさず、「ジン様の方から行動を起こしてくれるはず」と責任を一方的に押しつけていた。
ジン様はお優しいから、私に無理強いはしないし何かを命じたりすることもない。それに彼はとても鋭いから、私の目線や態度で大体のことは察してくれる。
……でも、それじゃあ私はいつまで経っても受け身だ。
私が何も言わなくてもジン様の方から声を掛けてくれるはず、やってくれるはず、動いてくれるはず。
――そんな状態で……はたして本当に、私たちは互いを支え合う夫婦だと言えるの?
もしジン様が読みを誤ってしまった場合、弱い私は「ジン様が気づいてくれなかったから」「ジン様が話を切り出してくれなかったから」と責任逃れの言い訳をしてしまうかもしれない。
そんな私のことを、ジン様は許してくれるだろうけれど……それじゃあだめだ。
「……私は、ジン様にもっと近づきたい」
手を握られるだけじゃなくて、この前馬車の上でしたように私の方からも握りたい。
助けられるだけじゃなくて、ジン様が困った時には助けたい。
……やりたいことがあるのなら、ちゃんと言葉にして誤解のないようにジン様に伝えたい。
「……心が決まったら、言おう」
私がやりたいこと、ジン様にやってほしいことを、勇気を出して言おう。
そうすればきっと……物理的なものだけじゃなくて心理的にも、ジン様に近づけるはずだ。




