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16 これから少しずつ

 食事を終えると、使用人たちも集合して皆でロウエン帝国の始祖が記したという詩文を読み上げることになっている。


 ロウエン帝国のおこりは今から数百年以上前で、ノックス王国ほどではないけれど大陸中でもかなり歴史の古い国家だといえる。


 当時争いの絶えなかった平地を統一した若き武人が、国の永き平和を祈って綴った詩。

 ノックス人である私にはちょっと読みづらいところもあるけれど、マリカと一緒に個人的に練習することで皆と調子を揃えて朗読できるようになった。


「さて、それではそろそろ休もうか。夜の番の者は、支度はできているか?」


 詩集を手に椅子から立ち上がったジン様が尋ねると、私たちの前方に並んでいた使用人たちの中から、数名が挙手した。


「はい。明日の旦那様の出発の仕度も完了しております」

「ごゆっくりお休みください」

「ああ、ありがとう。皆、今日も一日ご苦労だった。フェリス」

「はい。皆様、今日も一日ご苦労様でした。明日もよろしくお願いします」


 ジン様に促されたので、私も皆に女主人としての言葉を掛けた。

 まだぎこちないところはあると自分でも思うけれど、マリカを始めとした使用人たちは揃ってお辞儀をして、「奥様も、ごゆっくりお休みください」と挨拶を返してくれた。


 伯爵家では使用人たちからも空気のように扱われていた私なので、最初のうちは皆に指示を出したり挨拶をしたりするのもたどたどしいし、何かの折にはすぐに「申し訳ありません」と謝ってしまった。


 でも、その都度ジン様が私を優しく窘め、女主人としての振るまい方を教えてくださった。

 使用人の皆も、頼りない女主人を馬鹿にしたりせず、私がきちんとできるまで静かに見守ってくれた。


 ジン様はいつも私をよく見て、適切な声を掛けてくださる。


 甘やかして「できなくてもいい」と言うことはなくて、「こうすればもっとよくなる」「こうすればできるようになる」と、私が前を向けるように助けてくれることが……とても嬉しい。


 ジン様と揃って、私は階段を上がった。

 ほとんどの使用人は階下で見送ってくれて、ジン様付きの小姓の少年とマリカだけが無言でついてくる。


 夫婦用の寝室は、屋敷の二階にある。

 元々はジン様が一人でゆっくり休むための部屋だったようだけど、私と結婚したことで色々と家具を増やして、寝台も大きめのものに替えたのだと、マリカが教えてくれた。


 でも、まだそこに二人が並んで寝ることはない。


「では、フェリス。俺は明日、少し早く出発するので、君は俺のことは気にせずにゆっくり寝ていてくれ」


 主寝室の前で振り返ったジン様に言われて、私は頷いた。


「はい、お言葉に甘えさせていただきます。お戻りは遅くなるでしょうか?」

「明日はおそらく泊まり込みだ。戻れる目処が立ったら使いを寄越すから、夕餉などの時間はその時に使用人たちに采配するよう願いたいが、頼んでもいいか?」

「もちろんです!」


 ジン様は少し申し訳なそうな顔をなさったけれど、逆に私は張り切る。


 夫の帰宅時間に合わせて夕食の仕度をするように、使用人たちに指示を出す。

 それは貴族の奥様としては当然の仕事で……最近になってそういうことを任せてくれるようになったということが、私にとってとても喜ばしかった。まずは、こういうところからこつこつと仕事をこなさないとね。


 ジン様は私を見下ろして目尻を和らげると、そっと右手を伸ばしてきた。


 大きな手が近づいてくる。

 その手は私を殴ったり頬を叩いたりするために伸ばされたものではないと分かっているから、私は大人しく動きを止めた。


「……おやすみ、フェリス」


 どこに触れられるのだろうか、と思っていたジン様の手は、私の左頬に伸ばされた。何かを摘む仕草をしているからきっと、そこにくっついていた髪を払ってくれたんだろう。


 ジン様は優しい声で就寝の挨拶をするときびすを返して、小姓を伴って寝室に入っていった。


 ドアが閉まる音を確認してから、私もマリカを連れて自分の寝室に向かった。こっちの部屋が、私の寝る場所だ。


 マリカが、部屋に明かりを灯した。


 ロウエンの寝台はノックスのベッドよりも低くて、全体的にぺたんとした見た目をしている。

 ノックスで使っていたベッド用の上掛けは中に綿などを詰めて保温効果を高めていたけれど、こちらでは薄い生地の掛け布団を何枚も重ねることで体を温める造りになっている。


 マリカの手を借りて、ネグリジェ代わりの柔らかい素材の服に着替える。

 シエゾンのようにぴったりとしていなくてむしろ、ノックスでよく着ていたワンピースのようなデザインだから、私はどちらかというと普段着よりもこっちの寝間着が気に入っている。


 マリカが部屋の明かりを落としてから去っていき、私はそっと上掛けの間に脚を滑り込ませた。使用人の少女があらかじめ温めた石炭を入れてくれていたので、ほんのり温かい。


 ……そうして暗くなった部屋の中で、さっきジン様の指先が掠めた左頬に、そっと手の平を添える。


 いつか。

 私も、あの部屋で休むことになるんだろう。


 それがいつになるのか、どういう状況でそうなるのか、その時の私のジン様に対する感情はどんなものなのかは、ちっとも想像が付かない。


 でも、ジン様とは素敵な人だと思うし……少しずつでいいから、距離を縮めていきたい。


 そして彼の優しい微笑みを、これからもずっと見ていたかった。

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