15 異文化に馴染むために
マリカの言っていたとおり、夕方になると城から「夕餉には帰る」というジン様の伝言が届いて、日が沈みきるよりも前に屋敷の戸が開いた。
ロウエンでは、既婚の家主が帰宅した時には妻が出迎えることになっている。だから私は庭に馬が止められるのを確認するとシエゾンの裾を整え、玄関に向かってジン様が戻ってくるのを待っていた。
これも、貴族の奥様としての……私の数少ない仕事の一つだ。
「……おかえりなさいませ、ジン様」
「ああ、ただいま、フェリス」
私が迎えると、被っていた帽子を脱いだジン様が柔らかい口調で答えた。
彼から上着や鞄などを受け取り、まずは湯を浴びるように促す。
ノックスでは貴族の入浴は朝が基本だったけれど、こちらでは夕方から夜の間に浴びるものらしい。
「まずはお湯を浴びてくださいね」
「そうするよ。……フェリスはもう入った?」
「はい、先に入らせていただきました」
私が答えると、ジン様は「それでいいよ」と安心したように頷いた。
実は、ロウエン帝国では一番風呂に入るのは家主の特権だった。
この屋敷はジン様の所有物だから、当然家主もジン様。よってきれいな湯を使うのはジン様であるべきなので、私も最初の頃は帝国の風習に従って、自分が風呂に入る時間を遅らせていた。
でもそれを聞いたジン様は難しい顔になり、「君が先に入ればいい」とおっしゃった。
せっかく早めに湯を沸かしても、ジン様が帰宅するのが遅くなったら湯は冷め、何度も沸かし直さなければならない。使用人たちの労力も必要になるし、私が入浴する時間も遅れるばかりだ。
でもそれだと家主を蔑ろにしてしまうことになる、と私も遠慮したけれど、結果としてジン様に押し切られる形で頷くことになった。
そうして話し合った結果、ジン様の帰宅するタイミングと風呂の準備ができた頃合いを見計らい、ちょうどよさそうなら先に入るということになったんだ。
こういう細かいところでも、ジン様は気を遣ってくださる。
何かあればすぐに私に相談して、私が困っているようだったら色々な解決策を提案してくれる。
ライカ家の皆もとても優しくしてくれるけれど、とりわけジン様は私に優しい。
もっと雑に扱ってくれてもいいと思うのに、これでもかというほど細やかに気を回してくださる。
薄手のシエゾンを恥ずかしがる私のために上着を着ることを許してくれることや、風呂のこと。
その他、ロウエンの文化に馴染めない私のために心を砕き、折衷案を出してくれていた。
たとえば、食事。
「では、偉大なる祖神に感謝して、いただきます」
「偉大なる祖神に、感謝を。いただきます」
風呂から上がってゆったりとしたローブのような姿になったジン様と共に食卓を囲み、食前の祈りを捧げる。
同じような祈りはノックスにもあったけれど、ロウエンに嫁いだ身である以上、私も帝国式の祈りを捧げるようにしていた。
ロウエン帝国の食事の間には基本的に、一人一つずつ小さめのテーブルと椅子がある。
長いテーブルに一家の者がずらりと並んで使用人に給仕されながら食事をするのではなくて、自分のテーブルの上にそれぞれの料理が載ったトレイ――ロウエン風に言うとお膳が運ばれるようになっていた。
ノックス王国にあるものよりも低いテーブルの上には、料理人たちが作ってくれた料理が並ぶ。
基本的なメニューではジン様と私で差がないけれど、私のお膳には向かいに座るジン様の皿にはないものや、味付けの違うものが用意されていた。
ロウエン帝国の主食は、米粉で作った餅だけれど……この餅、ロウエン人は軽く焼いただけで調味料を付けないものをおいしそうに食べるものらしい。
私も最初は同じように食べていたけれど……残念ながら一ヶ月経った今も、私はこの味をおいしいとは思えなかった。というか、味らしい味がしない……。
他にも川魚を焼いたものや椀に入った汁物、薄味を付けた海草や野菜の和え物など、馴染みのない料理ばかりで……申し訳ないけれど、それらが全て私の舌に合うわけではなかった。
最初の頃は私も、残したり味や食材に文句を言ったりするなんてとんでもないと思って、我慢して全て食べていた。
慣れない食感に戸惑っても、料理人に味を聞かれた時には「とてもおいしかったです」と答えていた。
……でも、そんな虚勢や嘘もすぐにジン様に見抜かれた。
彼に丁寧に、それでいて容赦なく問い詰められた結果、私はいくつかの食材がどうしても体に合わないこと、味付けによっては食べるのが辛くなることなどを正直に説明するしかなかった。
ロウエンの食事を貶すなんて、妻失格だ。
ジン様も、郷土料理をまずいと言われて腹を立てるに違いない。
そう思って私は震えながら説明したけれど、ジン様は私を責めたりせず、真剣な眼差しで最後まで聞き、「教えてくれてよかった」と言ってくださった。
そして料理人たちとも相談して、私でも食べやすい献立や味付けを考えてくれたのだ。
そのため私の皿にある餅は小さなブロック型に切られていて、ノックスでもよく使われていたソースをからめて焼かれている。
臭みが強めの川魚には香草がまぶされ、野菜の和え物には舌触りのいい胡麻のタレが掛けられた。
ぬるぬるとした海草や足の数が多い軟体動物はどうしても食べるのが辛いので私の皿からは外されて、代わりに甘く煮た柑橘類が添えられていた。
「おいしいか?」
ナイフとフォークとは違う、スプーンもどきの匙と金属製の串を使ってもたもたしながら食事をしていると、正面から尋ねられた。
餅を串に刺した状態で、ジン様がこちらを見ている。
「はい……おいしいです。本当に、ありがとうございます」
「献立を変えたことか? それなら、君が気にすることではない。料理人たちだって、君がおいしそうに食事をする姿を見られる方が嬉しいようだからね」
そう言ってジン様は串を皿に置くと、「実はね」と内緒話をするように声を落とした。
「俺も、ノックスで君と同じような状況になっていたんだ」
「……ノックスの料理に馴染みがなかったということですか?」
「そういうこと。俺は立場上外交の役割を担うこともあるから、ノックスを始めとした異国についての知識は書物から得ていた。でも、その国の料理は実際に足を運ばないと食べられないからね」
ジン様はそう言うと、照れたように笑った。
「ノックスの料理はロウエンよりも味が濃い、っていうのは知っていたけれど、実際に食べた宮廷料理は匂いも味も濃くて、最初の一口目は飲み込むので精一杯だったこともあるんだ」
「ああ、確かにノックスでは冬に備えた保存食を作るという目的が根底にあるので、どうしても味が濃くなると聞いたことがあります」
ノックスは真冬の寒さが厳しいから、夏の終わりから秋にかけて食料などの備蓄を整えるようにしている。
春まで食料を保たせようと思ったら、砂糖や塩、ソースなどをこってりと掛けて保存の効くように作る必要がある。そのためにどうしても、ノックスの料理は味が濃いめになってしまうんだ。
私の言葉にジン様は頷き、私のためにアレンジされた皿の上の料理を目を細めて見つめてきた。
「だから、君がそんなに気にすることじゃない。君は十八年間ノックス王国で暮らしてきたんだし、今すぐにロウエンの風習に馴染めるわけじゃない。ちょっとずつこの国のことを知ってくれれば、俺は十分だよ」
「……ジン様、本当にありがとうございます」
礼を言うと、「どういたしまして」と柔らかい笑顔を向けてくださった。
本当に、ジン様はお優しい。
私の我が儘を咎めることもなく、柔軟な発想でうまい折衷案を出してくださる。
私が困っている時には察して、手を貸してくださる。
私は伯爵家では厄介者扱いされていたし、神殿では基本的に自分のことは自分でやっていた。
人生なんてそんなものだと思っていたくらいだから、今の至れり尽くせり状態はありがたいけれど……ちょっと、申し訳なくもなってくる。
たとえお飾りの妻だとしても、ここまで優しくしてくれるジン様のために、私にできることがあればいいけれど……。




