10 そんなつもりではなかったのに
私が目を細めると、ハンカチをテーブルに置いたライカ様は両手を膝の上で重ねて、灰色の眼差しを私に注いできた。
「……君が、先日のお礼のつもりでこれを贈ったのは分かった。でもなぜ、手巾を贈り物に選んだんだ?」
「手巾? ……あ、ああ、ハンカチのことですね。特に深い意味はなくて……ノックス特産の絹製品のものを贈りたくて、使い勝手がいいのがハンカチだと思ったからです」
ノックス王国では他に、ストールや手袋、クラヴァットなどでも絹製のものが好まれる。
でもストールやクラヴァットはロウエン人のライカ様では使うのに困るだろうし、手袋はサイズが分からないので、誰に贈っても問題ないハンカチにした……つまりは消去法のようなものだ。
そう言うと、ライカ様は「やはりそうだよな」と苦笑をこぼした。
「まさか君が、悪知恵を働かせて俺を落とそうとしているとは思っていなかったけれど、やはり偶然だったんだね」
「わ、悪知恵ですか? というか、落とす、というのは……?」
「……悪く思わないでくれよ」
ライカ様はそう前置きをしてから、ハンカチを手に取った。
「君はロウエンの文化に疎いようだし本当に裏がないようだから、教える。……ロウエンでは古来、未婚の者が異性に衣類を贈るのは、求婚の証しだとされている」
「…………」
「その衣類というのには、布製品ならほとんどのものが該当する。手巾も、胸元に入れておくものだから衣類の部類に入る」
「……。……え?」
ライカ様がよどみなく喋る言葉が、すぐには理解できなかった。
ハンカチを贈るのは、求婚の証し。
私は独身で、この口ぶりからしてライカ様も未婚。
つまり、私は無意識のうちに、ライカ様に求婚を――
「……え、ええええええええ!?」
「まあ、びっくりするよね。演技じゃないってことも君にとっても心外だったことも、よく分かったよ」
「す、すみ、すみません! あああ、あの、私、そんなこと、全く知らなくて……!」
「分かっているから、落ち着いて。俺もそうだろうと思って、今日君を訪ねたんだ」
いかにして謝罪しようかとソファから立ち上がったり座ったり、両腕を上げたり下ろしたりしていた挙動不審な私をなだめ、ライカ様はハンカチを指先で弄びながら「だけどね」と静かに言う。
「俺は部下たちが見ている前で、この手巾を取り出した――つまり、君は皆が見守る中で俺に求婚し、俺は不意打ちとはいえそれを受け取った以上、求婚について前向きに捉えている……という解釈になってしまったんだ」
「ひえぇ……」
「大丈夫、部下たちも君がロウエンの風習に疎いと分かっているから、半信半疑状態だ。……でも困ったことに、早まってロウエンに連絡を飛ばしてしまった者がいてね」
「全然大丈夫じゃないでしょう!」
思わず全力で突っ込んでしまった。
いや、だって、もしかするとその早まった人としては、上司の喜ばしい話をいち早くロウエンへ伝えたくて、善意でやったのかもしれないけれど……それって私からするともう、後に退けない状態になったってことで……。
全身の血が凍りつき、ざあっと足元に落ちていったかのような感覚に襲われる。
遅れて胃のあたりもきりきり痛んできて、脚も震える。
「ど、どうすればいいのですか……なんとお詫びをすれば……!」
「それについてだけど」
あわあわする私とは対照的に落ち着き払ったライカ様はそう言い、細い指をピンと立てた。
「俺も、まさかこんな形で結婚問題に乗り込むことになるとは思っていなかった。でも……正直に言わせてもらうと、俺にとってはちょうどいいんだ」
「ちょうどいい?」
「ああ。……俺の実家であるライカ家は、それなりに由緒正しい名家だ。俺は次男だから家を継ぐ必要はないし、兄や姉たちも皆結婚しているし、兄にはもう子どもも生まれている。でも、両親としてはいずれ俺にも嫁を迎えてほしいと思っているそうだ」
「……そ、そうですか。まあ、そうですよね」
やっぱり帝国の使者になるだけあって、ライカ様はそれなりの身分がおありのようだ。確か、キオウ様にも気さくに名前で呼ばれていたし……同じ近衛兵なのかな?
「ああ。ちなみに俺は侍従兵隊長で、帝国の現皇妃陛下のはとこにあたる」
「全然それなりじゃないですよ!」
前言撤回してほしい。
というか、この方はとんでもないことを何でもない口調で言うのを、やめてほしい。
侍従兵隊長というのは近衛騎士団長レベルで、皇妃のはとこ――皇帝一族の血族ではないにしても、縁者になる。
あと、ロウエンには公侯伯子男のような貴族の階級がないからノックスでざくっと当てはめると、ライカ様は王妃殿下の親戚――公爵子息などに該当するはずだ。
……私、無自覚とはいえそんなとんでもない方に助けられて、しかも求婚していたなんて……!
緊張やらショックやら後悔やらでぷるぷる震えるしかない私を、ライカ様は穏やかな眼差しで見つめてくる。
「そういうことだから、俺も結婚するならなるべく、実家の……ひいては国のためになる相手を選んでほしいと言われている。もちろん、両親も皇妃陛下もそこまで俺に強制するつもりはないだろうが、俺としても祖国のためになる結婚ができれば、と考えつつ、色々考えるのが面倒だからのらりくらりと逃げていた」
「……」
「で、そんなところに君に突撃求婚された」
ライカ様はニッと微笑み、ハンカチを大切そうに胸元に入れた。
「これは、俺にとって好機だ。……君はノックス王国の伯爵令嬢で、守護神官でもある。ライカ家の妻にするには十分な身分だし、俺もこれで女性に追いかけ回されずに済む」
「は、はあ……」
「もちろん、君の意向も聞くよ。……君にとっても望んでいない結婚になるだろうから、もし俺の妻になってくれても、何かを押しつけることは絶対にしない。ただ俺にも甲斐性はあるつもりだから、君が不自由しないように手は尽くすよ」
「……」
それは、つまり。
愛情のない婚姻関係を求められている……ということだろうか?
政略結婚とは少し違うだろうけど、愛情があって生じたのではなく、双方もしくはそれぞれの家にとって都合がいいから結ぶ婚姻。
本人たちがお互いを愛しているかどうかは、不問。
……伯爵家でも不良品扱いされていた私がまさか、こんな形で結婚問題に直面することになるなんて。しかも、愛情のない、利害の一致した――
……。
……ん? 待ってよ。
もしここで私が頷いたら、どうなる?
きっとライカ様はなんとかして、伯爵を言いくるめるだろう。
あの人のことだから、伯爵家の養女としても守護神官としても役に立たない娘なんて、あっさり捨てる――捨ててくれる可能性が高い。
その結果私は、息苦しい伯爵家から逃げることができる。
ライカ様は私に妻としての立場以上、何も求めないそうだから……落ちこぼれの守護神官として肩身の狭い思いをすることもなくなる。
私は、色々なものから、解放される――?
どきりとした。
これまでは諦めていたもの、考えるのも怖かった未来、それらから逃げられる。でも同時に、私は守護神官としてのお役目を放棄することになる。
結婚するのなら神殿は快く送り出してくれるだろうけれど、めざましい成果を残せずに神殿をのうのうと去ることには罪悪感がある。
でも、それでも。
このまま能力も頭打ち状態でずるずると惰性で過ごすより、いっそできる限り早く見切りを付けた方がいいのかもしれない。
もう私には才能がないのだと諦め、この国からも離れた方がいいのかもしれない。




