前方に大波、後方に断崖(Ⅰ)
「ん……?」
ユーリはパチッと眼を開ける。
起き上がって時刻を確認してみれば、深夜とも早朝とも呼べる微妙な時間帯。外はまだほの暗い頃だろう。
なぜこのような時間に眼を覚ましたのか、自分でもよくわからない。日課の剣術の修行の時間はもう少し遅い。
だが、なぜか意識は完全に覚醒していて眠気は綺麗に消えていた。
仕方なしに寝床から出て、いつもの服を着ていく。
気晴らしに外にでも出てみることにしよう。
地上に出てみれば、やはり辺りはまだ少し暗い。
だが日の出も近いのだろう。早朝独特の霧が立ち込めていた。
そんな中を、なにともなしに歩いていく。
「……静か、だな」
無理もない。アーフェンの村にすでに人はなく、魔人族もこの時間帯に動く者はそうはいないだろう。
魔人族は闇と月を、天人族は光と陽のもとで生活する。
そうでなければ生きられないということはないが、体が重くなるくらいはあるだろう。
が、その両方の血を引くユーリはどちらもたいして好きとは思えず、またどのような時間帯でも体が重くなる、といったことはなかった。
嬉しいことなのか悲しいことなのか。
どちらにしろ、このような体だからこそどの種族にも疎まれるのだろう。
「ご主人様……?」
霧の向こうから聞き慣れた少女の声。
眼を凝らして見てみれば、そこには艶やかで少し色の抜けた長い髪を垂らした少女、アリスの姿があった。
「アリスか。こんな夜も明けない時にどうした?」
「はい。なぜだか眼が覚めてしまいまして、こうして散歩に来ていました」
どうやら同じような経過でここに至るらしい。
ユーリは苦笑するとアリスの隣まで歩を進めた。
「俺も同じようなものだ。なぜか眠気が起きない」
「それなら、その……ご、ご主人様も、一緒に散歩はいかがですか……?」
伺うように見上げるアリスは、やはりどことなくおどおどした雰囲気は取れない。
しかし、それもあってのアリスか、とも思う。
「そうだな。たまにはお前と歩くのも悪くない」
「あ……、はい!」
本当に嬉しそうに頷くアリスに、ユーリは知らず笑みを浮かべていた。
そうして歩くアーフェンの村。人のいない村というのはどうにも儚い感じがするものだ。
霧に包まれているせいもあるのだろうが、そこはひどく頼りなく、どこか悲しい風景でもあった。
「……どこか、懐かしい光景だな」
「ご主人様?」
「覚えているか?お前を買ってすぐ、お前の頼みで訪れたお前の実家のことを」
「あ…………」
王都キャルよりわずかに外れた街の奴隷市で競り落としたアリス。
触っただけでも壊れそうに見えた、あまりに儚い少女はしかし、ユーリに買われた途端その雰囲気とは裏腹に強い眼差しであることを頼み込んだ。
『わ、私の……私のお家に連れてってください。見るだけで良いんです。だ、だから……』
いつものユーリならなにを言うのかと振り払ったのだろうが、その少女の真摯な瞳にやれやれと息を吐いたのはいまでも覚えている。
そうして向かった家はいまのアーフェンの村の家々のように、寂しい風貌そのままに立っていた。
どこが壊れているわけでもない。ただ、夜になっても明かりが点かず、人のいない家というのはそれだけで儚いものなのだ。
「ご主人様こそ、覚えていたんですね。……そのような昔のこと」
「いや、忘れていたよ。いまこの光景を見るまではな」
「……それじゃあ、その後ご主人様が言ったことは覚えていますか?」
「俺が言ったこと?」
「はい。……誰もいなくなった我が家を呆然と涙のたまった瞳で見上げていた私に、ご主人様がかけた言葉です」
「…………忘れたな」
「あ、嘘です。いまの間は覚えていたはずです」
クスッと笑い、アリスは視線をユーリから外し空へと向ける。
ただその瞳に映るのは明け始めた水色の空ではなく、あのときのこと。
誰もいなくなった家、朽ち果てたと言っても良いその家を眺め、涙を流しながら膝を着くアリスの肩に手を置き、ユーリが言ったこと。
『帰れる場所を失くしたか』
ただ涙するアリスに、それでもユーリは言葉を続ける。
『俺もついこの前まで帰れる場所などなかった。だが、いまはある。そしてお前もこれから作れば良い、新しい帰るべき場所を』
到底魔人族が言うことは思えない言葉に振り返るアリスの顔に映ったのは、優しい笑顔でも同情の悲しい表情でもない。
ただ強く。真っ直ぐに前を見据える魔人族の少年の瞳。
『これからは俺がお前の帰る場所だ』
「―――その言葉があったから、私はこうしてご主人様に仕えていられるのです」
再び視線をユーリに。そのユーリは気恥ずかしいのか、そっぽを向いているけれど。
アリスは笑みを浮かべる。
あのときの言葉は似たような境遇であったアリスを見て、自分に言い聞かせるために言った言葉だったのかもしれない。
そうだったとしても、ここに救われた少女が一人いる。
その言葉に安心させられ、帰ることの出来る場所を見つけた一人の少女が。
「ご主人様」
「……なんだ?」
「……いえ、なんでもありません」
人間族を、天人族を、魔人族を恨み憎むユーリ。復讐のために剣を取り、突き進むは血の道。
間違っているとは思わない。彼にはそれだけの権利がある。
自分だって少なからず人間族は憎い。主人であるユーリを蔑む天人族や魔人族も。
……けれど。
できることなら、屍で埋まる道よりも、もっと綺麗な、平和な道を歩いてほしいとも思う。
そうでなければ、報われない。
それは“幸せ”ということを感じたことのないユーリにこそ、あるべき権利だと思うから―――。
「「!」」
と、唐突にユーリとアリスの表情がほぼ同時に険しくなる。
「感じたか、アリス」
「はい」
二人の睨む先。濃い霧のその向こうにはなにも見えないが、しかしはっきりと伝わってくるものがあった。
それは、体全体に圧し掛かるほどの圧倒的な量の殺気。
―――日が、昇る。
途端、地鳴りかというほどの怒号とともに人の群れが霧の向こうに見えた。
「敵か!」
ちっ、と舌打ちするユーリ。
まさかこんなに近付かれるまで気付かないとは……。使い魔はどうしたのか。
「過ぎたことを考えても仕方ないか。アリス!」
「はい!……ロリス!」
魔力を込めて印を組む。瞬間、アリスの足元に魔法陣が出現する。
そして召喚されるはレジェンド種、フェンリルの子供、ロリス。
「いまアイン様に思念を飛ばしました。これで向こうも気付くと思います」
「上出来だ。地下迷宮から増援が来るまでのおよそ一分、二人で足止めをする。良いな?」
「御意に。私はどこまでもご主人様のお傍に」
ロリスを肩に乗せ、魔力を迸らせるアリス。
……その頼りになる様は、あの頃からは到底考えられない。
そんなアリスを見て気付かれないくらいに小さな笑みを浮かべること数瞬。しかしすぐにそれは戦に赴く気高き戦士のそれに変わった。
「アリス、いけるな?」
「はい、超魔術で先手をしかけます。ロリス!」
アリスの言葉にロリスは頷き、その体を宙に躍らせる。
光に包まれるロリスの体。そして光が晴れたその場所に立っていたのは、アリス―――の姿に変身したロリスだった。
まるで鏡に映したかのように完璧な変身。だが、頭に猫耳だけは残ってしまってはいたが。
アリスとロリスが並び立つ。手を固く結び、残ったほうの手を眼前に捧げ、瞳を閉じる。
「ザイファの名において願う。気高き白亜の結晶よ、我が手に集いて力となれ」
第一小節。
「白きは牙、青きは刃。我が呼び声が届くのならばしかと聞け。安息を与える者、そこに脈動するものはなく、ただ静寂のみ。眠るもの、それを残す雲黎の衣こそ氷の力」
二小節、三小節。荒ぶるマナは留まるところを知らず、既に魔力は視認できるほどに結晶化している。
そしてそれは上級魔術を越え―――、
「そしてその名を真に呼びし者はここにあり。其の力は絶対。いまこそここに、ザイファに契り願うは深淵の零度……!」
四小節を越え、第五小節。
―――ここに超魔術が完成する!
開かれる瞳。
溢れ出す魔力を吸収、マナを取り込み再構築。魔道機関はアリスとロリスで半分ずつを補うが故に暴走はせず、コントロールも失わない。
「いくよ、ロリス!」
頷くロリスを横目に、アリスは前へ。そして、発動。
「『深淵の氷結道』!」
閃光。そして轟音。
二人の手から放たれるのは万物を凍らせる絶対零度の放流。
突き進む白亜の閃光は通った部分を根こそぎ凍らせ、群れを成す人間族へと突き進む。
触れた者はたちどころに凍りつき、そして風化していく。自分が死んだことすら気付かないほどに一瞬。それは正に氷神が通っていった道のようだった。
「う、うわぁ!」
「逃げろー!」
傭兵集団はいきなりの先制攻撃に浮き足だっていた。
しかもそれは超魔術。防御などすでに意味はなく、死にたくないのならばよけるしかない。
「いきなり!?」
「しかも超魔術ですね。ですが、こうも安定して放てるとは、相手は化け物ですか……!」
その進行上に留美とシオン、さくらもいた。
目の前を埋める白と青のマナの塊を見て、ただ戦慄する。
その幅が狭いとはいえ、中途半端に回避したとしても余波で十分に即死だろう。
いきなりここでお陀仏か、と思った瞬間、黒い外套を靡かせて進路上に踊り出る小さな人影。
「「ソニア!?」」
「二人とも、ボクの後ろにしっかり隠れててよ!」
魔術師装飾に身を包んだソニア。
手は前に。ありったけの魔力を込めて魔術を展開する。詠唱なんてしている時間はない。そんな過程は魔力で押さえ込んですっ飛ばす。
第一、二小節を無視。第三小節さえも跳び越えていきなり第四小節に突入。
工程を無視されたマナがソニアの身を内側から切り刻むが、それは肩に乗る使い魔、メデスの魔力で防御、キャンセル。
「お母様、ボク、ほんの少し解放するからね……!」
呟いた瞬間、ソニアの瞳が青から血よりも深い紅に変色する。
それは―――魔眼。
「『断罪の業炎壁』!」
景色が赤に染まる。
ソニアの足元から突如として灼熱の炎が立ち昇り、いまにも飲み込まんとしていた氷の超魔術を受け止める。
超魔術の攻撃が、超魔術の防御によって抑えられる。
「えぇぇぇぇぇい!」
ソニアの深紅の魔眼が輝く。
すると業炎の壁はそのまま白亜の閃光を包み込むと、大きな破砕音と共に消滅した。
……周囲の兵士はおろか、留美やシオンですら愕然としている。
無理もないだろう。留美やシオンさえソニアがこれだけの魔力を持ち、魔術を使いこなすとは知らなかったのだ。
「みんな、乱戦に持ち込んで!そうすれば向こうもそう簡単にはあんな魔術は使えない!」
ソニアの言葉にハッとした傭兵たちがすぐに体勢を整えて突っ込んでいく。
あの超魔術を見て萎え始めていた戦意が、ソニアという味方にもそれだけの魔術を使用できる者がいたということで再び戻ったのだ。
「すごいね。ボクに本気を出させてくれる魔術師がいるなんて……」
その頃にはソニアの瞳はすでに元の青い瞳に戻っていた。
「ソニア!」
「……すごいのですね、ソニア。まさか超魔術ほど集中力と魔術を使用するものを、工程を無視してかつあれだけの威力を出すなどと……。力ずくもここまでくるといっそ清々しい」
駆け寄ってくる留美とシオン。
ソニアはそんな二人を見上げると、
「気をつけたほうが良いね。どうやらこの敵さん、半端じゃないよ」
「みたいね」
「仕方ありません。乗りかかった船です」
剣を抜き放ち留美、光剣を取り出してシオンは同時に疾駆する。
その二人を追う形でソニアも走り始めた。
こうして、ユーリ軍にとっての長い戦いは超高度な魔術合戦から火蓋を切った。




