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オカルト研究会の有閑な日常  作者: 賀来文彰
想い出に沈む
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 七月に入ってもう一週間が過ぎたというのに、朝方や夜には早くも涼しげな風が身を包むようになってきた。しかしながら日中は当然の如く日差しが強いので、季節外れの寒暖差に身体が追い着けなかった学生が多く、マスクを着けている者が多い。

 和葉もその一人で、呼吸をする度にマスクにこもる熱気が眼鏡を中途半端に曇らせることを腹立たしく思いながら、重い足取りで部室に向かう。


「まあ、過去問とかもらえるって話だし、悪いことばかりじゃないか」


 思わず出た独り言が自身への慰めに聞こえて、また自分の心を締め付けた。

 夏休み前のテストの為にもここが踏ん張りどころだと自分に言い聞かせながら、和葉は重い足取りで部室を目指した。


 文化系の部活やサークルが集う建物はそのまま「文化会館」という名前である。何のひねりも無いネーミングセンスに相応しく、五階建ての建物でエレベーターは付いていない。お洒落な外観の建物が多いキャンパスの中で、時代に取り残されたかの如く無骨で灰色一色な建物を指して「ネズミ会館」と揶揄されることも多い。


「ああ。階段が辛い……」


 三階まで階段を上がったところで、けだるさが増していく。その階のサークルのメンバーらしき数人のグループが目を細めてこちらを見てくるのが煩わしい。

 彼らに対して何でもないといった風に微笑みかけながら、やっとの思いで階段を上り終えた和葉は、部室の玄関に吊るされている見慣れぬ小さな籠に目を向けた。そこには丸みを帯びた手書きの字で「持ち出し厳禁」と書かれた紙が留められている。

 部室に入った和葉は、ぼんやりとした様子で椅子に腰かける彩夏に声を掛けた。


「この香り……何ですか、これ」

「ローズマリーよ」

「へえ。で、何でローズマリーがあるんですか」

「最近、季節外れの風邪が流行ってるそうだから」


 何でも抗菌作用や抗ウィルス作用があるらしい。得意げに話す彩夏の言葉を上の空で聞きながら、和葉はすっかりくたびれたパイプ椅子の一つに重い腰を下ろした。


「あなたも風邪を引いたの?」

「引き始めだと思うんですけどね。ここまで来れましたから」

「それだったら、ローズマリーを増やしましょう」


 言いながら彩夏は、玄関に吊るしてある小さな籠と同じものを和葉の近くに置いた。


「いや、過去問もらったらすぐに帰りますから」

「ああ、過去問ね。岡田から預かってるのはどこだったっけ……」


 しばらくして彩夏が過去問を持ってきたが、その量の少なさに和葉は面食らってしまった。レポートが多い学科とはいえ、いくらなんでも少な過ぎる。


「ああ、岡田から伝言も預かってるんだけど、臨床心理学概論と神経科学基礎論は毎年問題が、授業内で自分が興味を持った事柄や人物に対する自由記述になるから、過去問として渡せるレベルじゃないんだって」

「うわ……マジか……」


 思わずこぼれた溜息に、彩夏が苦笑する。


「まあ、大学の講義ってこういうものだから。答えが決まっていないから、自分の頑張り次第でいくらでも点数を稼げるのよ?」

「出来たら統計みたいに答えが出る方が、簡単で気が楽なんですけどね」


 文学部心理学科というだけあり、統計学もしっかりと卒業認定単位の一つとして数えられている。また、どの様な専攻にあたっても統計は絶対に必要とされる。数学を避けてこの学部に流れ着いた同級生の大半は入学後のオリエンテーションで絶望していたが、元々数字やデータが好きな和葉にとっては、寧ろラッキーなことだった。

 それ故に、自由記述の様に答えが幾通りもあるものに対する忌避感は同級生より強いものがある。まして過去問が意味をなさないという事実は体調不良で弱っている和葉の精神面に追撃をくらわせるのに充分だった。


「ここに入ってきた時よりも顔色が悪くなってる気がする」

「多分、その通りだと思いますよ。自信あります」


 もう、明日の授業は全てサボってやろうかな。風邪だし良いよね。そんなことを考えながら和葉は家に帰ろうとした。


「全く……。心理学を習ってるくせに」


 彩夏は相変わらず苦笑している。


「え?」

「顔色が悪いって言われてそれを肯定したら、本当にそうなっちゃうよ」

「いや、事実ですから。風邪なんで」

「病は気からって言うでしょ?それに本当に辛かったら、こんなに喋れてないよ」


 言われてみれば確かにそう思うが、病は気からなんて余りにも前時代的だ。そんな根性論みたいなことを、如何にも体力や忍耐強さのなさそうな彩夏が言うのは意外だった。


「本当かどうかは知らないけれど、こんな話を聞いたことが無い?目隠しをした犯罪者に対して独特な死刑宣告をするって内容なんだけれど」

「なんかテレビで見た気がします。言葉で誘導するんでしたっけ」

「そう。「今から血管を少し切る。血は少しずつ出ていくが、時が経てばその量は致死量につながる」とか言って、大体十分後くらいみたいな具体的な時間を伝えてから……」

「切ったふりをして、スポイトかなんかでずっと水を垂らしていくんですよね。で、頃合いの時間になったら致死量になったことを告げると、相手は自分が死ぬと思ってショック死する」

「そう、それと同じだと思わない?」

「いや、流石にそんな簡単に思い込まないですよ」


 そんなガバガバの内容で本当に相手をショック死させられるとは思えない。どうせミステリードラマの創作だろう。


「まあ、私もそれは信じていないけれどね。でも、この話を知っている人が多いのは、内容がどうこうとかじゃなくて、それに関連する思い込みのエピソードや考えを紐づけているからじゃない?例えばだけど、長距離トラックの運転手と言われたら男の人を自然と思い浮かべるでしょう?でも、実際は女性ドライバーだっている」

「まあ、そうですけど」

「それと同じ。いくら過去問を受け取るって用事があったからって、風邪だったら普通はこんなエレベーターもないところまで来れないよ?」


 彩夏が言いたいことは分かるが、和葉にはそれが全て詭弁にしか思えなかった。


「まあ、今は信じられないと思うけれど、和葉自身が思い込みを始めたのは事実よ。だって、部屋に入って来た時は引き始めだと思うって言ってたのに、顔色が悪いって私に言われてから言葉に出て来る症状とかが重くなってるよ。まして「風邪なんで」って断言したし」

「それは……」


 全くこの人は何を言いたいんだろうか。こっちは体調が悪いんだからさっさと家に帰して欲しい。


「思い込みってのは、人を明るくもするし暗くもする。それは人以外にも通じることなんだから、意識的にプラスのことを思い浮かべないとね」


 彩夏がにっこりと笑った。窓の外からは夕暮れの明かりが静かに部室を橙色に染め上げてくる。


「まあ、ローズマリーの効果も直に出て来るでしょうし、時間つぶしと思ってちょっと付き合いなさい」


 あ、これはオカルトの話に入る流れだ。でも、今はそんな気分じゃないんだけどなあ。

 そんなことを思いながらも、和葉は自然と椅子に深く腰掛けていた。


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