序章 母の喪失
ベッドに横たわる母様は、私の手を取って言った。
「トレーフル家の女たるもの、弱みを見せてはいけません」
「はい、母様」
「堂々・毅然・高尚。常にこの三つを忘れず。分かるわね?」
「もちろんです」
「あら、既に忘れているじゃない」
私の瞳から零れる涙を掬い取ろうとした母様の腕は、途中で力が抜けたように下ろされてしまった。
「……もう、ダメね。ペッシェ、後はよろしく頼んだわ」
「…………嫌です」
「何が嫌なの」
「嫌です! 母様が、……母様が、居なくなるなんて、考えられません!」
声を荒らげながら、ほとんど骨と皮膚だけになってしまった母様の手を、そっと握る。外聞なんてどうでもいい。周囲から厭われている第三夫人の部屋なんて、誰も近寄らない。
生まれつき病弱だったにも関わらず、命を削って私を産み、もう少しで学園に入れるというところまで育ててくれた。つり目がちなのは父様に似てしまったけれど、それ以外は母様譲り。たとえ紅色の髪が忌憚で、鼻筋に散るそばかすが醜く見えても、それを口に出す者は母様の敵だ。この容姿を貶されて堪るか。
「…………ねぇ、ペッシェ? お願いがあるの」
「……はい」
「穏やかに、逝かせて頂戴」
その言葉に首を横に振りそうになるも、昔からずっと芯のある眼差しに射止められて、言葉に詰まる。
「……貴女が嫌がるのなら、自分でやるわ」
「っ、やります!……私が、やります。私じゃないと、ダメです」
そう告げれば、母様は優しく微笑んだ。いつもそうだ。私が弱った時には、いつもこの笑顔を向けてくれた。そのお陰で、私はここまで育つことが出来たのだ。
瞳を閉じながら、ゆったりと右手を持ち上げる。乾いた唇は震えているのに、私の意思に反して言葉を紡ぎ出す。
「──嗚呼、この国を守りし太陽神、イーソルーチェ、守護神を束ねる月の女神デームンルミエ。我が名はペッシェ。トレーフル家の末端に属する者。愛する者を導く力を、どうか我が身へと与え給え」
身体を襲う浮遊感に瞼を上げれば、母様が涙を流していた。
「……母様、……ここまで育てて頂き、ありがとうございました」
「いいえ、ペッシェ。……これだけは覚えていて?」
私の掌から伝わった力に包まれて、母様の周囲が光り、ぼやけていく。
「…………貴女は、私の自慢の娘よ」
そう言い残した母様は、ゆっくりと光の粒子と共に消えていった。
止められない涙は、幸いにも誰にも見られることは無い。他の温もりが消えた部屋で、私は声を押し殺して泣いた。
はじめまして。斑な更新頻度になると思いますが、お付き合いください。