スマホめっさ熱い
はい、と私は自分のスマホを茜に手渡した。
「は? 熱い」
茜はすぐにスマホを突き返してきた。ふたたび手の中に戻ってきたものはちょっとしたカイロみたいになっていた。いや、渡す前からすでにこうなっていたんだけれど。画面側の表面はまだしも、カバーも何もつけていない金属製のボディなんかは、例えるなら真夏のプールサイドだろうか。
「なんか熱くなっちゃった」
「変なアプリ起動してない?」
「なんにも。ゲームもしてないし」
原因不明。取り立ててスマホに詳しくない私は対処の仕方もわからない。まあ、放っておけばそのうち直るでしょう。
「あっちもこっちもアツアツで忙しいねぇ」
ベッドに横たわる茜に視線をくれながら言った。ここは大学近くの彼女の下宿先で、目の前の友達は高熱出してダウン中。額には冷却シート。私が薬局行って、風邪薬と一緒に買ってきたやつ。小さい丸テーブルの上には、スーパーで買ってきた桃缶とスポーツドリンク。
お見舞いに来たはいいものの、なんとなく帰るタイミングを逸した私は、茜のベッドにもたれてぼんやりスマホをいじっていたのだった。まあ、なにか私にできることがあればすぐ対応できるし、なんだったら晩ご飯も作ってあげればいい。邪魔なら邪魔って茜は言う。ぜったい言う。
「あのさ。あのさ」
さっそく風邪っぴきお嬢様のオーダーだあ。私は振り返った。
「それ。ニュース」
お嬢は私の正面の、点きっぱなしだったテレビを指差した。スマホに夢中でぜんぜん見ていなかったのだけど。
私はスマホの画面を消して、テレビに向き直った。
『――スマートフォンが炎上し、火傷を負うなどの軽傷を――』
「えっ」
なんだか剣呑なニュースだった。
「熱くなりすぎると爆発したり発火したりするらしいけど。知らないの」
枯れた声で、茜はさも常識のようにそんなことを補足する。
手の中で今もヒートアップしていくものを見下ろすと、私の顔からさっと血の気が引いていった。
「ば、爆発する!」
思わず床にぽいっと落としてしまい、カーペットの上を爆弾が滑る。
「人んちで爆発させないで」
この非常事態に、茜は妙に冷静な口ぶりだ。爆発するかもしれないのに!
「ど、どうすればいい? どうすればいいの?」
一方私はテンパって、低下する思考能力に反して無駄な動きだけはどんどん増えていく。
「あっそうだ! 冷蔵庫!」
私はひらめいた。導火線に火がついたスマホを指先で拾ってキッチンに向かおうとすると、後ろから茜が引き止める。
「それダメらしいよ」
「なんで!?」
「結露」
「あっ理科だ!」
つまり急激に冷やすと結露して、水分が中の機械を壊しちゃう。爆発するよりはマシだけど、私だってデータは惜しい。情報化社会に生きるヒューマンとしては。
「えっ、じゃあどうしよう! どうすればいいの!」
言ってるそばから、私はさらにひらめいた。
私は茜の手首を掴んで、手のひらにスマホをそっと置いた。土台にされた人は迷惑そうに眉を寄せている。
「なに、わたしを爆死させるつもり?」
「いやホラ、アンタ冷え性だから! 結露しないイイ具合で冷やしてくれるかなって」
「おまえ病人に喧嘩売ってる?」
「いやいやいや、手が冷たい人は心が温かいっていうじゃん!」
「……おまえのスマホは冷酷無比だね」
結局大した効果はないどころか、単に冷え性の手を温めただけだった。そもそも熱で体温高くなっているわけで。再び手の中に戻ってきたスマホはやっぱり熱い。どのくらい熱いかというと雰囲気的に爆発しそうなくらい。
私は一周してなんだかあきらめの境地にあった。爆発といってもそんなに威力はないだろうし。ちょっと手が焼けるくらいかなと思うんだけど。楽観かな。現実逃避とも言う。
「なんか、冷却アプリってあるらしいけど」
寝転んだまま自分のスマホを見ていた茜は、唐突にそんなことを言った。私は言ってることがよくわからなかった。
「冷却アプリって……?」
「まあ、スマホを冷やしてくれるんじゃないの」
「は!? どうやって? アプリを起動しただけで内部から冷気が出るの? 私のスマホにそんなポテンシャルが!?」
ためつすがめつしてみても、帰ってきたのは茜の苦笑だけだ。
「や、熱の原因を解決してくれるんでしょ。裏で動いてるアプリとかを止めてくれたり」
「あっ、つまり風邪薬だ」
「言うなればそうかもね」
私はさっそく冷却アプリとやらを探してダウンロードした。
ブーストだとかキャッシュのクリアだとか、スマホ得意じゃない私にはよく分からない機能も多々付属していたけれど、ともかく目当ての機能はすぐに見つかった。「CPU冷却」。CPUが何なのかは分からないが、これに違いない。雪の結晶のマークが書いてあるし。
タップすると、温度計のアニメーションがしばらく表示されたあと、あっさりと「冷却完了」の文字が現れた。……現れたが。
「完了してない!」
スマホは相変わらず怒り心頭だ。いや、ほんの少し温度が下がっただろうか。なんとなく。きも~ち。
茜は呆れ顔で答えた。
「そりゃ風邪薬なんだから飲んですぐには効かないでしょ」
画面を見下ろすと、「冷却までの時間」が表示されている。
「待てって書いてある」
「待てってことでしょ。……ちょっとソレ取って」
「あい」
指さされた先のスポーツドリンクを手渡すと、茜は体を起こしてちびちびと飲んだ。
「ぬるい」
「冷却しな」
軽口を返しつつスマホを丸テーブルに置き去りにして、風邪の回復を待つことにした。うん、周りが騒いでても眠れないし、できることはやったと思う。それでも治らなかったら、茜用に買ってきた冷却シートでも貼っつけてやろう。あんまり悪いようなら病院に連れて行こう。もとい、携帯ショップ。
手持ち無沙汰になって、ふと訪れた沈黙に、もうひとりの病人のことを思った。
「うるさくしてごめんね」
「いーよ」
少し冷静になって、私は馬鹿騒ぎを後悔した。
再びベッドに体を横たえた茜は、熱で赤らんだ顔に汗を滲ませていた。目の焦点も合っていないように見える。これ以上睡眠妨害するのもなんだし帰ろうかと思ったけれど、こう弱っているとそれも考えものだった。
茜が風邪を引くのは初めてだった。いや、そりゃこれまでの人生で風邪を引くことくらいあっただろうけど、私たちは大学からの付き合いだったし、私の方も至って健康体だったから、こういう形で会うのも初めてだ。
お互いウェットよりもドライな感じだったから、ほどほどの距離感が気持ちよくてつるむようになった。くっつかないくせに離れない、猫みたいな関係。だから、こういう非常時の彼女を前にすると、今ひとつ接し方を測りかねた。
――風邪引いて、人恋しいとか、この子も思うんだろうか。
女丈夫というほどでもないけれど、茜は結構強いヒトだ。誰にも頼らないとかじゃなくて、むしろ冷静に誰かを頼れる方。
私がお見舞いに来たのも、本人に頼まれたからだったりする。風邪薬がないから買ってきて、と、スマホに届いた短いメッセージ。ちょっとよく思われたくて色々買っていったら、「払うからレシート出して」なんて寂しいことを言われてしまった。
まあ、そういう性格のヒトなのだ。
だから、用が済んだら風邪がうつるから帰りなさい、なんてセリフも覚悟の上だった。
でも結局茜は何も言わず、私はここにこうして居座っている。もしかして、なんて期待しながら。
――なんだ。それって、つまり、この子に頼られたかったんじゃん。
ため息が出る。なにがウェットよりもドライだか。
寝かせておいたスマホを手に取る。まだぬくもりは残っているが、もう危険な熱は感じられない。
つまりはそう、熱の行き場を失っていたのは私の方でしたとさ。
スマホをジーンズのポケットに入れて立ち上がる。もぞ、と背後で毛布が擦れる音がする。
「雑炊かなんか、つくっとくね」
アツアツのやつをだ。
はい、放熱完了。超おいしい卵雑炊ができた。余り物の市販麺つゆで作ったにしてはうますぎる。
ついでに、自分でもばかだなーって思うようなもやもやした気持ちも、換気扇でさらさらーっと放り出しておいた。
キッチンから部屋に戻ると、毛布から顔半分だけ出した茜がこっちを見ている。
「いいにおい」
「超うまいぞ。お腹へったら食べてね」
丸テーブルの上に置いていた財布を尻ポケットに詰めて、「あとなんかやることある?」と締めの台詞を読み上げた。
「テーブルこっち寄せて」
「あいよ」
言われたとおり、二リットルのスポーツドリンク置きっぱなしのテーブルをベッド脇まで引き寄せる。ま、私がいないと飲み物取るにもいちいちベッドを降りなきゃいけなくなるしね。
あとなんかある、と茜の顔を伺うと、珍しくぼうっとしているようだった。茜でも風邪を引けばこうなるのだろう。うん、よい経験になった。
「じゃ、ちゃんと寝なね。冷却シートも変えなよ」
私はさっさと退散しようとして、
「……今日なんか、あるの」
――背中に投げられたか細い声に、膝から崩れ落ちそうになった。
……よし、ちょっと待て。私の勘違いだ。私の勘違いだ。私の勘違いだってことにしようとしたじゃん今。
「別にないけど……」
おそるおそる振り返ると、変わらず毛布にくるまる女の子がいた。心なしか拗ねた子供のように見えるのは私のフィルターだそうに違いない。
悠久の時が流れた。いや、たぶん実際は五秒ぐらい。たっぷり溜めに溜めて、茜が返した言葉は、
「そう」
だった。
……勘弁してください。
いや、だって、あなた今テーブルをベッド脇に寄せさせましたよね……。私が帰るってこと承知してやらせたんですよね……。
玄関では最近買ったカッコいいエンジニアブーツが待っている。待っててブーツ今行くから――!
うん、ごめんブーツ。
私は部屋に戻って、揺らさないようにベッドに腰掛けた。
勘違いじゃありませんように勘違いじゃありませんように勘違いじゃありませんように勘違いじゃありませんように
「茜、ワガママある?」
うわー恥ずかしい! 死ぬ!
「ワガママあったら聞くよ、なんでもいいよ」
と思いつつ頭とか撫でちゃう私であった。こめかみにかかった髪をかき上げて、額に触れるとやっぱり熱い。
横向きに寝転んでいる茜は流し目でこちらを見上げた。ヤメロ、ちょっとエロい。
「もう色々やらせたでしょ」
そう言うと思った。あれは茜的にはワガママなのだ。でもそういうことじゃない。遠慮とか貸し借りとか、そういうの全部なしにして、アンタがして欲しいこと、なんでもしてあげるって言ってるんだよ。
「こんな日くらい、好きなこと言っちゃいなよ。熱に浮かされたことにしてさ」
迷いを露わにするかのように、茜は身じろぎして、顔を毛布で隠した。
翼、と腫れた喉で私の名前を呼んで。ほんのかすかに聞き取れたのは、こんな言葉。
「さびしい」
うん。
風邪のときって、そうだよね。
あのな、でもな、私はな、そんな可愛い言葉が返ってくると思わなくてな、自分の中のけだものを抑えるのに今すごく必死なんだよできれば言葉を選んでほしかったなああああ。
破けそうなくらいシーツを握りしめて、ようやく私は言葉を紡いだ、もとい、ごまかした。
「桃缶、たべる?」
「うん」
スマホ騒ぎも、なんだかお嬢様の心のお慰みにはなっていたようで。今になって「急に黙るのやめて」とダメ出しされた。そういえばテレビがずっと点きっぱなしだったのも、人の声がしてないと不安だったみたい。
何いまさら可愛いこと言ってんだろうね、このヒトは。
子供みたいな顔で缶詰の桃をもくもくと食べている茜を見て、私は思った。
「他、なんかいる?」
「お金」
「私も欲しいわ」
なんて漫才をやっていると、そういえば、と最後の桃をつまみながら茜は言った。
「スマホ、十円玉貼るといいらしいよ。熱伝導性が高いから排熱効率がいいんだって」
私は手元のスマホを凝視して、絞り出すように声を上げた。
「金か、おまえも金なのか……!」




