10万年後は魚が歩く 5
日も暮れてあたりに灯りがつきだした頃に僕は重大なことを忘れていたことを思い出した。
「アンモナイトを海にかざさなきゃ……食べられる……!!」
自分の命がかかっていることをすっかり忘れるほど僕には余裕がなかったようだ。危なかった、もう少しでぱっくりいかれてしまうところだった。
「でもなあ、これをかざしても何も起こらないと思うんだけど」
いやいや、ここは未知だらけの10万年後だ。この緑のアンモナイトがなにか重要な意味を持っているに違いない。
「えいっ!!」
海に向かってかざしてみた。
「……?」
何も起こらない。おかしいな。きっと何かが起こるはずなんだ。
「えいっえいっ!!」
なんとなく振ってみた。でもうんともすんとも言わない
「……なんだあ……ただの儀式かあ」
メッカへの礼拝みたいなものだったのか、つまりは通してやる代わりに敬えよってことなんだな。そういうことかあ……いや、むしろ何も起こらなくてよかった。特にお咎めなしってことに変わりはないんだ。それでも気が抜けてしまった。
「ふぅ……」
疲れてきたので座り込んで緑アンモナイトを眺めた。気づかなかったけど内側のほうは宝石みたいにキラキラしていてきれいだなあ。
『おそい……少し苛立ったゆえ……手荒にいくぞ』
あれ、手首に水が絡まってる。液体が絡まる?なにこれ?
「うわあああああああああああああああ!!?」
海に引ひきづりこまれた、とても抵抗できるような力じゃない!!僕はただ目を白黒させながら身を任せるしかなかった。
「ああああああああ!?」
少しして空気のある空間に放り投げられる。空中にいたのは少しだけ
「っ!?」
『ふん、妾を待たせた報いだ。むしろその程度で済んだことを幸運に思え』
腰と背中をしたたかに打ち付けてしまった、衝撃が突き抜けたあとに痛みがやってきた。
「かはっ……!?けほっ……!?」
呼吸が満足にできない……痛みで目の前がかすんできた。どうしてこんな目に合うんだろう……僕は言われたとおりにしただけなのに……。
『あわわわわ!!?そんなに脆いのかお前!?てっきり先祖還りだと……!?』
どうしてだろう、今まで大丈夫だったのに涙がでてきた。
「うっ……ぐすっ……ひっく……うわあああああああああん!!!」
『いや、妾はそんなつもりじゃ……泣かないでおくれ……』
だめだ、一向に涙が止まらない。海神さまが何か話かけてきているけれどなにも頭に入ってこない。
『妾はただ久しぶりに話がしたかっただけで……傷つけるつもりなんてなかった……信じておくれ』
なにかひんやりとするものに包み込まれた、ふかふかとしていて不思議と安心できる。
『すまなんだ……これは妾の無知が招いたこと……なにか願いはあるか?妾ができることならなんでもしよう。だから泣き止んでおくれ』
覚えてもいないはずの記憶が蘇ってきた、あたたかな腕の中にいた幸せな頃を。赤ちゃんだった時のことなんて覚えていないはずなのに、母親の顔だって覚えていないのに。なぜか今まで言ったことのない言葉が口から出た。
『お母さん……』
『へぁ!?お、おかあさん!?』
なんだか安心したら急に眠くなってきた。このふかふかの中で眠ってしまえたらどれだけ心地いいだろうか。その欲求に抗えるほど僕は強くなかった。
『……は、母とはな。予想を遥かに超える望みだが……叶えてみせよう』
〜〜〜〜
歌が聞こえる。とても温かい歌だ。子守歌だろうか、僕は歌ってもらったことはない。でもいい歌だなあ。
『めぐれめぐれや、海の波、我が子の涙を連れて行け、ぐるりと回って幸いを、連れて帰ってきておくれ、愛しい我が子の幸いをたんと連れて来ておくれ♩』
歌が聞こえてきたと思ったら一気に意識がはっきりとしてきた。
『ん……』
目を開けた時に飛び込んできたのは海神さまの胸だった。顔が見えないほどに大きかっただろうか、僕の記憶では流線型といった感じだったのだけれど。
『おお、起きたか。どこか痛むところはないか?』
『ありません……けど。どうして僕は膝枕されているのでしょうか』
『ん?子には膝枕をするものではないのか?』
いつの間に僕は海神さまの息子になったのだろうか。それとも母なる海から見たらみんな息子なのだろうか。
『あのう、僕は海神さまの子なのでしょうか?』
『海神さまなどという他人行儀な呼び方はするな。妾のことはモルトと呼ぶがいい。母と呼んでもいいぞ?』
どうやら海神さまの本名はモルトというらしいけど、どうしてこんなに近いのかは分からない。なぜ僕は息子扱いを受けているのかも分からない。
『お前は妾に母を望んだ。故に妾が母となってやるしかあるまい?』
……!?一体僕は何をしたんだろう。この海底洞窟っぽいところに来たあたりの記憶がない。
『なのでとりあえず形から入ってみた!!』
あ、胸が大きくなってたのはそういう……。