曼珠沙華の咲く海
※曼珠沙華=彼岸花の別称
私は葬式帰りに、彼女と最後にデートした海へと車を走らせていた。
彼女、裕子が死んだという知らせが届いたのは一週間前だった。付き合っていた私たちだが、お互いに仕事が忙しく、会うのは決まって週末だった。最後に会ったのは2週間前、そしてその次の週、金曜日に電話をかけてみれば繋がらず、翌日、彼女が死んだと聞いたのだ。自殺だった。私は全く知らなかったが、彼女は癌に侵されており、あと半年も生きられなかっただろうと言うことだった。享年35歳だった。
裕子は、どんな気持ちだったのだろう。最後のデートで彼女は言った。
「お寺に寄っても良い?」
何も知らなかった私はこう返した。
「願い事なら神社じゃないか?」
「ううん。お寺がいいの」
それから彼女の道案内通りに車を走らせて、くねくねと曲がりくねった細い道を行くと、それらしき場所に出た。そこは崖の上にあって、海が見える。
「ここ、私のお祖父ちゃんとお婆ちゃんもここにいるのよ。お墓参りをしようと思って」
ちょうど曼珠沙華の季節で、辺り一面真っ赤に染まっていた。彼女の病的なまでに白い肌と、黒々とした髪が映えて、さながら一枚の絵画のように美しい光景だった。
「花、綺麗に咲いてるな」
と私が言うと、
「土の養分がいいのね。昔からここあったみたいだし、土葬の死体が埋まってたりして。」
「おいおい、一体いつの話だよ」
「さあね。でも本当よ。死体の養分があると綺麗に咲くって言うじゃない」
私は、なぜ彼女が急にこの場所に来たいと言ったのかわからなかったが、彼女とゆかりのある場所に連れてこられたので、嫌でも結婚という言葉が頭に浮かんだ。
もし、彼女と結婚したら、私もこの墓に入るのだろうか。そんな考えが浮かんだ。彼女はしばらく手を合わせていたが、次は海に行きたいと言った。
私は特に行きたい場所もなかったので反対せず、彼女の言うまま海の近くへと車を走らせた。夏の過ぎ去った浜辺は人影もなく、二人きりで海風にあたり彼方の水平線を眺めた。遠くに船らしき影が見え、それは小さくなってやがて消えた。
「人は死んだらどこに行くのかしらね」
ぽつりと彼女は言った。
「空に帰ると言う人もいるけど、私は海がいいな。だって塩辛い涙でできていて、沢山悲しんで、大切にされたって感じがする」
私たちは夕方、日が落ちるまでそこにいた。
思えば、その日彼女は妙な言動ばかりしていた。なぜ私は、様子のおかしかった彼女に気づいてやれなかったんだろう。
裕子は、海に身を投げたらしい。葬式が終わって、火葬場から骨になった彼女が帰って来ても、私は彼女の両親のように、骨を抱きしめて泣くことは出来なかった。ここに、きっと彼女はいない。直感がした。
喪服のままやってきた海は、あの日と変わらなかった。人気のない浜辺に、ただ、波が寄せては返す、まるで人の心臓が脈打つかのようだ。
「裕子……」
私はここに来て初めて裕子が死んでしまった実感が湧いて来て、涙で視界が滲む。
病で苦しんでいただろう裕子、最後まで何も告げずに去って行った裕子。
彼女は何を感じ、考えていたのだろう。
夕日が辺りを照らしても、私はそこを動けなかった。足元に目を落とし、悔しさと悲しみを飲み込もうとした。そうして、次に目線を上げたとき、私は驚くべきものを目にした。
海に花が咲いていた。曼珠沙華が、まるで赤い絨毯のように敷き詰められ、どこまでも続いている。
遠くに黒髪をなびかせた白い女が立っている。
「裕子!」
私は走った。そこが海だとか、ありえないとか関係なかった。私は裕子に聞きたかった。
「なぜ、何も言ってくれなかったんだ!裕子!」
私が近づくと、彼女は逃げる。それを何度繰り返しただろう。やっと彼女は立ち止まる。私は彼女を逃げられないように後ろから抱きしめようとした。
その時彼女は振り返った。泣き笑いのような不思議な表情だった。
「裕子?」
彼女はそのまま白い指で私が元来た場所を示す。気がつくと浜辺は遥か遠くになっていた。
その時だった。足元の曼珠沙華が苦悶の表情を浮かべた人の顔へと変わって行く。おもわず後ろに下がろうとした私を彼女は浜辺の方に突き飛ばした。振り返って見た彼女の顔はどこか寂しげな、しかし満ちたりたものだった。
足場が崩れる。私は、恐怖に取り憑かれながらも、浜辺に向かって走ろうとした。だが、先ほどまで確かにあった足場は消え、身体がどんどん沈んで行く。さながら人を喰らう墓場のようだった。海は沢山の悲しみの涙で出来ている。彼女の言葉が頭をよぎる。
気づけば私は沖で溺れていた。水が肺に入り、苦しくてもがいてはまた水を飲む。私の意識は遠くなっていった。
次に気づいた時、私は小さな船に引き上げられていた。地元の人が、偶然私が溺れているのを見つけ、救助してくれたらしい。その壮年の男性は言った。
「あんた、どうやって沖に入り込んだか知らんが、運がいい。ここはしばらく浅瀬が続いた後、急に深くなる。あんたは浅瀬ギリギリのところで溺れてたんだ。あと一歩でも沖に踏み込んでいたら助からなかっただろう」
気づいたら私は泣いていた。裕子だ。裕子が最後に私を突き飛ばしたから、私は今生きているのだ!
男性は、救急車を呼ぼうかと言ってくれたが丁重に辞退して車に戻る。今は一人にして欲しかった。確か、タオルを入れていた記憶を思い出して、車のサイドボードに手を突っ込むと、タオルと一緒に二つ折りにした紙が出て来た。
“大好き。ずっと一緒に居たかった”
裕子の字だった。その紙は少しよれていて涙らしき痕でインクが滲んでいた。
もう我慢できなかった。裕子は本当は寂しかったのだ。だから最後に私を呼んだ。だが優しい裕子は私を殺すことができずに生かした。
「馬鹿だなぁ裕子」
「なんで最後までやらないんだ」
本当に馬鹿だなぁ。私の目からは涙が止まらなかった。
彼女は望み通り海に帰ったのだ。その海にはきっと私の涙も混じっている。
私は明日も生きて行く。その隣に裕子はいない。だが、彼女が生かした命を、私は決して無駄にはしないだろう。そして、死んだらあの美しい海に帰るのだ。
あの、曼珠沙華の咲く海に。