些細な夢を望む者
大人の夏休みは、あっという間だ。それも夏も盛りの酷暑の頃で、暑くて家から出たくない。しかし、ねだられると弱かった。私は妻を助手席に乗せ、ドライブに繰り出す事となったのだ。
家を買ったのは五年前。
土地の事など、知らない方がまだ多い。ともかく涼を求めて山側へハンドルを切ると、看板にはダムの文字。この時期に行っても水位は低く、目玉の放水は見られまい。そのまま冒険気分で、進路を更に奥へと向けた。
道に迷ってもカーナビがある。
最悪、Uターンでも楽しめるに違いない。そんなつもりで道を進むと、カーブの続く山道がナビに現れた。二車線あっても下手をすれば事故になる。慎重に走っているというのに、妻は圏外だとはしゃぎっぱなし。妊娠三ヶ月とはこんなものかと、私は溜息の出る思いがした。
「家が無いからだろう?」
「だってあなた山奥よ」
彼女はスマホの画面を見せてくる。
「後にして」
危ないので短く叱ると、それで機嫌を損ねたらしい。しゅんと口を噤んで、静かになってしまった。右へ左へと車はカーブに沿って、揺れ動く。
「気持ちわるい…………」
「…………酔ったのか」
妻は瞬く間に酔っていた。
「ちょっと待ってろ。こういう道にはタイヤチェーン用の空きスペースが…………」
励ましながらハンドルを切る。窓を開けたいと言うので、冷房を消して全開にした。
風が涼しい。
妻には悪いが、やっぱり山に来て正解だった。夏の緑が目にも鮮やかだ。チラリとナビを見ると、道沿いに建物の姿が現れる。施設名が無いので私有地かもしれない。
けれど、こんな山奥に?
頭に疑問が過る。対向車も来ないし、観光施設では無いだろう。どうしたものかと思っていると、舗装された広場が見えてくる。と言っても、林にアスファルトを流したような変な広場だ。しかし車止めがある。一応駐車場らしかった。
迷う余地はない。
妻に吐かれる方が問題だ。端の方に車を止めて、安堵の溜息が出る。
「しっかりしろって、外出るか?」
「うん…………トイレ、あるかしら」
「トイレ」
これは重症だ。先に車から降り、広場の奥へと足を向ける。トイレは無理でも、自販機くらいはあるかもしれない。そんなつもりでいたのだが、木立の影に白い建物がちらりと見えた。美術館のような少し凝ったデザインだ。
ナビが古いせいで、施設名が出なかったのかもしれない。私達は一先ず、その建物に立ち寄る事にした。
「美術館?」
妻も同じ事を思ったらしく、すぐにスマホで探し始める。しかし施設名称は出て来ない。
「すぐそこだ。行けば分かるよ」
「…………そうね」
不安そうな表情を浮かべて、彼女はスマホの画面を消した。暗くなったディスプレイに、森の緑が映り込む。蝉でも鳴いていれば良かったのに。何故か、そう思った。
夏の日に照らされた白い建物は、資料館らしかった。耳慣れない名前が記されている。天上は高いが平屋のようで、その奥庭には、モニュメントがひとつ見えた。
青空に突き刺さるような純白の塔。
その足元を飾るのは色とりどりの花――――ではなく折り鶴だ。線香の匂いが仄かに漂い、思わず立ち竦む。
慰霊塔だ。
観光気分で来た事が後ろめたくなる。ところが妻は興味を持ったようで、すたすた先に行ってしまった。賽銭なんか置いてるし、何を弔っているのかも分からない。間違っても願い事などしてくれるなよ。嫌な気分で見ていると、青空を背景に木々が葉音をたてる。ザワザワと静寂が乱された。風が冷たい。
きっとこの辺りの山で、遭難事故でもあったのだろう。真夏にこれ程涼しいのだ。冬の厳しさは想像にかたくない。
安直に結論付けて、妻に手を振る。
「もう戻ろう」
「せっかくだもの、そこも無料なら見ていきましょう?まだ、車に戻りたくないわ」
彼女は資料館を指差した。
「そこは…………」
止めようとしたが、確かにせっかく来た場所だ。一応地元の隅である。酔い覚ましにしろ、何にしろ、あれがどんな慰霊塔かくらいは、知って帰っても良い気がした。
後に続いて中に入ると、壁一面に白黒写真が並んでいる。遺影のようで気味が悪い。そもそも事故の資料館だ。楽しい事など無いだろう。
静まり返った建物内に、妻のヒールがコツコツと鳴る。
何故、誰も居ないのだろう。勝手に入っても良いのだろうか。入口で躊躇していると、手を引かれる。数歩進んで写真の前に進み出た。
なんだ?
不思議な写真に目を奪われる。
それは地上絵に見えた。白と黒が曖昧なコントラストで描き出すのは、どうやら航空写真らしかった。尾根の道が、鳥の足跡みたいな形になっている。苦笑に肩から力が抜けた。
そこで手を握り返すと、何もない。
妻は食い入るように奥で壁を見上げており、私は自分の手を見つめた。
今さっきまで繋いでいたという感覚が、しっかりあった。細くて小さい、女性の…………いや、まるで子どものような。
――――馬鹿な。
妻以外に誰が居る。コツンと小さく音がする。彼女の歩く音は、奥から響いた。
早くここから出なければ。
そう思うのに、大きな声を出す事も憚られ、私は息を殺して奥へと進む。壁の写真はブレていたり、ピントが合っていないものも多く、素人撮影にしても精度が悪い。
この静かな場所で、何があったのだろう。
色のない世界。しかし人は沢山写っているし、はっぴ姿の男衆もいる。荒野みたいな場所に、大小の破片。ヘリコプターで吊り上げられる被災者らしき人々。ずらりと並ぶ麻袋。中身はご遺体か。
やっぱり場違いだったのだ。妻はと探すと、更に奥へ行っていた。ぽつんと立つ姿が、焼野原に一本残る、糸杉の写真と重なった。
「千愛!」
小声で呼ぶと、彼女はこっちに来いと手招いている。事故現場に慰霊塔。風化させてはならない出来事と、鎮めるべき霊の象徴ではないか。それにやっと気が付いた。安易に訪れて良い場所では無かったのだ。観光など以ての外。それを胸で懺悔した。
「千愛、帰ろう」
もう一度呼んだが、彼女は微笑みのまま手招くだけだ。図太いやつめ。車より此処が良いと言う訳か。
「あなた見て。大きな事故だったみたい」
壁には名前が刻まれていた。犠牲者名簿だ。町の小学校ひとつ分はありそうな、膨大な数。私は腕を擦った。今までそれを知らずにいた事が、恐ろしい。たとえ風化の波が押し寄せて、事件が水底に沈んでも、過去は消えない。犠牲者は無かった事にはならないのだ。
「帰ろう千愛、ここは私達が来る場所じゃない」
「そうかしら。こんな大事故が知られずに埋もれるなんて、おかしいわ」
「いいから帰るんだ」
私は妻の腕を掴むと、建物から連れ出した。
「あなたどうしたの?」
不思議そうな彼女が心底羨ましい。あれを見て、何も感じなかったのだろうか。逃げるように車を出すが、とても家には戻れない。気分転換したかった。
肌にまとわり付くような、あの空気。
寒気が止まらない。私達のような部外者が、面白半分に行くものではないのだ。霊感がなくても異様だと感じた。蝉が鳴いていれば良かったと、静寂を恐れる程に。
「怖がりねぇ」
「…………恐竜の化石に興味はあるか」
知らぬが仏というものだ。私は、ダム以来となる看板に注意を逸らした。化石に鍾乳洞。これこそ正に観光だろう。
ホッとしてハンドルを切る。その時、後部座席から子どものはしゃぐ声がした。
バックミラーには無人のシート。ラジオは今も付いてない。
――――あんな所へ行ったからだ。
気を紛らわせようと、ラジオを付ける。雑音交じりの音楽に、明るい男性アナウンサーの声がした。今はそれさえ癒しに思う。早く離れなければ。早く忘れなければ。窓の外は良い天気だ。クーラーの効いた車内に居るから、空気が悪いに違いない。
「窓を開けないか?」
「そうね、ちょっと寒いかも」
返事にすぐさま冷房を切る。ぶぉぉっと生暖かい風と共にクーラーがついた。横の妻がすぐさまスイッチを切る。
「なにやってるの」
「…………ああ」
声が掠れた。だらりと顔に汗が流れる。寒さは、空調のせいじゃなかった。バックミラーには無人のシート。誰もいない。当たり前だ。
開けた窓から、風が車内に入り込む。それで吹き飛びはしないかと願ってしまう。
「あなた、後ろの窓は片方閉めてくれる?」
後部座席の窓は、いつの間にか全開になっていた。
こういう時に鍾乳洞とは如何に。
暗い場所には行きたくないが、妻はすっかりその気のようだ。化石はどうしたんだ。せめてそっちだろう。思いはしたが、先に鍾乳洞に行きあたったのだから仕方ない。
回りには、他の観光客の姿もちらほら見える。
どうにか空気を変えなければ。
「結構長いみたい」
「下り階段? 私が先に行くよ」
妻に何かあっては困る。冷たい風の吹く洞穴に、私達は足を踏み入れた。
場所的に仕方ないが、人の声がよく響く。特に子どもの声には背筋が冷えた。世は夏休みだ。子連れが多いのは不可抗力である。
「おかあさんー!」
順路の先で、女の子がひとり手を振っている。咄嗟に振り返ると、後ろの夫婦が頭を下げた。
「私達も来年は、パパとママなのね」
足を止めた私に妻が笑いかける。
「あの子達みたいに、元気な子だと良いわね」
「…………ああ」
彼女に霊感があるのかは、今聞く勇気なんてなかった。しかし、もし見えているなら、それはある意味都合がいい。居なければ見えないという事だ。
「ねぇ千愛、子どもは多い?」
「そうでも無いと思うけど」
なんで、という顔で問い返される。妻は怖くないらしい。悪いものではないのだろうか。私は、そう思う事にした。
「ほら、子どもの声は響くだろう? 気分は悪くならない?」
「そうね。こんなにあちこちで聞こえていると、ちょっとは、気にはなるけれど」
聞かなければ良かった。
善か悪かは別として、やはり近くには居て欲しくない。胎教にだって良くない筈だ。
「ちょっと冷えるね、先を急ごうか」
「そうしましょう。長く居ると風邪を引きそうよ」
どちらからともなく腕を組む。体温が暖かいと感じる程に、鍾乳洞の気温は低かった。長居は無理だ。精神的にも。
順路に沿って要所を巡り、出口の文字が見えてくる。その案内板の横で、先ほどの女の子が手を振っていた。
「おかあさん」
心細そうな呼び声に、またかと夫婦を背後に探す。けれど見当たらなかった。
「はぐれたの?」
私が声を掛けると、分からない、と泣きそうな顔をした。小学生くらいだろうか。ノースリーブが寒々しい。
「オジサン達と一緒に、外に出るかい? ここは暗くて寒いだろう?」
「――――あなた」
妻に腕を引かれる。その顔は、不審者に向けるそれだった。失礼な。
「だって可哀想じゃないか」
「ねぇ、誰と話しているの?」
ハッと振り向いたそこには、暗がりがある。馬鹿な。確かに見えたのに。
「もしかして私の事、脅かそうとしてる?」
「違うんだ。本当に…………」
それ以外に言葉が浮かばない。立ち尽くす私達を、数組の親子が抜いて行く。寒がる大人に対して、子どもはみんな元気で明るい。まるで場違いだ。
「行きましょう? お風呂掃除で許してあげる」
クスッと笑う妻に、私は真実を話せなかった。怖い思いはさせたくない。彼女に見えないのなら、用があるのは見えてる方か。
しかし何故?
母親を探す幽霊ならば、女性に見えてもいい筈だ。
時々背後を振り返る。思い切って、手を繋げるように片方下げた。けれどコンタクトを試みると、全く反応が返って来ない。もう居ないのだろうか。
「どうかしたの?」
会話もそぞろな私に、妻は首を傾げた。
「なんだか後ろが気になって」
「まだそんな事言ってるの? 今日はなんだか変よ?」
足を止め、彼女は来た道をじっと眺めた。何かいるとか、そういう事だけは言わないで欲しい。視線を逸らしていると、バシンと背中を叩かれる。
「いたた、何するんだ」
「背中に手形がついてるわ。やぁね、どこの子かしら」
「…………いいよ跡くらい」
力無く笑う。一緒に外に出ようと誘ったのだから、居る方が自然だ。背負っていたのは予想外だが、重くも痛くも無かった。
「ねえ千愛? 母親を探しているのに、父親を頼るのって、何でだと思う?」
「今度は何を思いついたの? そんなの、母親が近くに居ないからに決まっているでしょう」
――――父親といるのに、母親を?
違うな。だったら「おとうさん」と呼んでも良い筈だ。
酷い事故。生存者はほとんど居ない。どんな状況だったのだろう。何故、すぐそばの父親を頼らなかった? 昔の事なら、今よりずっと亭主関白の家庭が多い。頼れないような父だったのか?
「ここは寒いわ。早く出ましょう?」
妻が先に歩き出す。数歩の差でも、片方が手を伸ばさなければ届かない。そんな距離だ。
子どもなら、尚更届かなかったに違いない。
「千愛」
私は妻を追いかけた。
子どもは母を呼んでいる。けれど一人では届かなかった。だから誰かを頼るんだ。けれど頼るべき父は、隣で息をしていなかった、としたら。
「献花を持って、またあの慰霊塔に行かないか」
振り向く顔が次の瞬間、笑顔に変わる。
「小銭用意しなくちゃね」
「…………賽銭置くのはやめないさ」
怖いもの知らずも、ここまでくると手が付けられない。
「なぁにその目は。三途の川を渡るには、お金がかかるんですよ?」
「は?」
妻は、胸を張って見上げてくる。
「ひとり六十円。あんなに亡くなっているんですもの、きっと足りていないわ」
そんな馬鹿な。
変な顔、と千愛は笑って駆けだした。鍾乳洞にヒールの音がカンカン響く。そろそろスニーカーを履かせなければ。私は追いかけて、その手を掴んだ。暖かくて柔らかな手だった。
「冷たい手。やだわ、そんなに怖かった?」
「君が怖がってくれないから、私が怖くなったんだ」
「変な言い訳!」
くすくす笑う。そんな姿に癒される。一緒に居たいから結婚して、子どもを望む。当たり前の事だ。寄り添いたいと願って、私達は家族になった。その当たり前は、何時崩壊するか分からない。
事故とはそういうものなのだ。
小さく「おとうさん」と呼ばれた気がした。私は振り返らずに、妻の手を引く。
生ける者の日常が、些細な夢となる前に。
小説家になろう 夏のホラー2018提出用
(c) Hoduki
何人でもお持ち帰りください。
2018/08/06 加筆