光あふれる空
とても静かな退場を促すアナウンスを聞き、瑞穂は瞬きをした。
いつの間に、眠っていたのだろうか 。
辺りを見回すと、ぼやけた視界の中で、人々は座席から遠ざかり、出口へと向かって歩いていく。
何だろう。
意識が妙にはっきりしない。
瑞穂は座席に深く座ったまま、頭を振った。
顔に手を当てると、メガネがない。
動揺して、自分の体をパタパタと手で叩き周り、シャツの胸元に引っかかっているそれに気づく。
慌てた自分を愚かしく感じながら、メガネを所定の位置に戻した。
いつになく地に足がつかない感覚に、苦笑する。
今日、ここにきた理由は簡単なものだ。
同時に、それをこなすのは非常に辛いことでもある。少し思い起こすだけで、現実が解離していくのを感じた。
瑞穂がもう一度頭を巡らせると、中央にある映写機の影から、一人の男性が現れ、瑞穂の方に向かって歩いてきた。
柔らかな金髪を揺らす青い目の青年は、プラネタリウムの中、ということもあり、どこか浮き世離れして見える。
「瑞穂! 待っていてくれたんだね」
「え……えぇ、ジェイミー、話が……あるのよ」
瑞穂は自分のメガネのフレームを直すふりをして、青年から視線をはずす。
そもそも、ジェイミーとは出会いも、このプラネタリウムだった。
その日、瑞穂は結婚を前提として付き合っていた男性に二股かけられたあげくに振られ、かなり自暴自棄になっていた。
慣れない酒を飲み、寄った勢いでこのプラネタリウムの最終上映に駆け込んだ。
客は自分一人。
涙で曇ったメガネを外して見上げる空は、光のシャワーのようで、いくつも滲んだ光点が降り注いでくるのを感じる。
美しさに言葉もなく、ただ、涙があふれる。
気がつくと、金髪の青年がそばに立ち、みずほにハンカチを差し出してくれていた。
その後、泣き続ける瑞穂に、青年は柔らかな日本語で、延々と星の話をしてくれたのだ。
名乗り合って、何度かプラネタリウムを見に来て、外でデートするようになるのに、時間はかからなかった。
だけど……。
瑞穂は二十九歳、間もなく三十路。小さな商社で事務をしていて、若い子たちからはお局様認定を受けている。
一方、ジェイミーは二十歳、輝かんばかりの大学生。しかも留学生だった。
流暢な日本語から、てっきり日本で育ったのかと思っていたが、アメリカに両親がいる、正真正銘アメリカ人だ。
環境が、年齢が、いろいろ違いすぎた。
ジェイミーは優しい。
いつも瑞穂を気遣ってくれる。
ジェイミーに欠点はない。猫舌で、子供っぽく拗ねるところさえ、欠点ではなく、愛すべき特徴だった。
欠点とコンプレックだらけの瑞穂にとって、その関係は次第に不安と重圧になってきて……。
プラネタリウムが終わり、客は誰もいない。
いつもならここでジェイミーが点検を終えるのを待ちつつ、他愛無い会話をする。
瑞穂は大きく深呼吸を繰り返して、息を整えた。
「ごめんなさい。別れましょう? あなたにはもっと相応しい人がいるわ」
ジェイミーはその大きな青い瞳を更に大きく見開く。その色合いがまるでおもちゃみたいで、瑞穂は苦笑した。
この現実味のなさも、瑞穂が不安を感じる要素だった。
良く出来た夢のようで……。
瑞穂が言葉を撤回せず沈黙を続けるものだから、ジェイミーもその言葉を疑うわけにはいかなくなったようだった。
首を傾げると、さらさらの金糸が美しい顔を彩った。
「何故? 俺が年下だから?」
優しい声音と、悲しそうな顔。
瑞穂は見ていられなくて、涙を堪えながら、俯いた。自分勝手に別れようとしているのに、自分のほうが泣きそうになっている。
こんなことは間違っている。大好きなのに、別れるなんて。
「ごめんなさい。私、自信がない。若くて綺麗なあなたの横にいる自信が……。そのうちきっと、あなたを憎んでしまう。あなたを疑ってしまうから」
堪えていたのに、雫がひとつ、頬を伝った。
目の前まで来ていた青年は、その細く繊細な指で涙をすくい、口に含む。
呆然とそのさまを見つめていた瑞穂は、何故かとても卑猥に感じ、顔に熱が集まってくるのを感じた。
ジェイミーがクスリと笑い、その悪戯っぽい笑みのまま、瑞穂のメガネを外してしまう。
瑞穂は戸惑って、間近にあるメガネに手を伸ばしたが、メガネはつれなく遠ざかる。
「な、何を……?」
「俺こそ、あなたに謝らなきゃならない。本当に、ごめんね」
メガネを奪ったまま、ジェイミーは、視力の弱い瑞穂でもしっかり見えるほどに近づき、青い目を細めた。
「何……が?」
ただならぬ雰囲気を感じ、言葉に詰まる瑞穂。
ジェイミーは鼻がくっつきそうなほど近くにいた。
柔らかな金色の髪が、天球の太陽のように煌めき、目を開けていられなくなる。
「俺はあなたを離してあげられない。諦めてあげられない」
ジェイミーの静な声が、白い空間に響き渡る。
瑞穂の意識は緩やかに、金色の光に溶けていく。
メガネを外してみるその光景は、いつか見た光のシャワーのようで……。
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「う、うぅん……」
瑞穂は唸って両手を高く上げる。
思いっきり背中を伸ばしてから、あたりを見回した。
そこは薄暗いプラネタリウムの中で、周りには誰もいなかった。
一緒に来ていたはずの友人は、彼女が寝ているのをいいことに、置いてけぼりにしたらしい。いたずら好きな彼女達らしい行いだった。
ふと視線を下ろすと、膝にはフリースのブランケットがかかっていた。見慣れないノルディック柄。
せめてもの償いに、友人がかけてくれたのだろうか?
フリースを掴んで立ち上がると、中央の映写機の影から、一人の男性が現れた。
金髪に青い目、甘い顔立ちの背の高い青年だ。
優しく微笑んで、「そろそろ起こそうかと思った」と言われる。
その顔と流暢な日本語が結びつかず、瑞穂は小首を傾げる。
青年は、瑞穂の手に握られたままのフリースを指さし、「寒くなかった?」と尋ねた。
青年とフリースを三度見比べ、瑞穂はようやくすべてを悟った。
「あの! あの! あ、ありがとうございました! 全然寒くなかったです! 多分!」
あまりの衝撃に、寒かったのか暑かったのか、まったく覚えていない。考える暇なく、思いついた言葉を思いついた端から口にしていると、うっかり余計なことまで言ってしまう。
口を両手で抑えたって遅い。
青年が口を抑えて、背を震わせていた。
瑞穂は、恥ずかしさのあまりに真っ赤になったが、青年を見ているうちに、どんどん楽しくなってくる。ずっと昔から知っている人物のように、浮世離れしているはずの美しい男性は、当たり前のように瑞穂の心の中に滑り込んできた。
瑞穂も明るい笑い声を響かせる。
青年はしばし、驚いたように瑞穂を見返していたが、瑞穂が目を合わせて笑うと、観念したのか、より一層素敵な笑い声を響かせてくれた。
その金髪の青年はジェイミーと名乗り、日本の大学に留学している、と教えてくれた。
瑞穂も、近くの高校に通う女子高生だと自己紹介し、その日のうちに、メールアドレスとSNSのアカウントを交換する。
緩やかなお付き合いは数ヶ月続いた。
季節が巡り、木々が鮮やかな赤や黄をまとう頃、瑞穂はひとつの決意を持って、プラネタリウムを訪れていた。
ジェイミーとは、ここで合流し、そのまま一人だけが観客の贅沢な上映を見ることもあれば、二人で寄り添い、日が沈むのが早くなった街中をぶらぶら歩くこともあった。
いつもは胸ときめかせるプラネタリウムのドームが、今日はとても寒々しく感じる。
機器の点検をしていたジェイミーは、瑞穂の姿を見つけると、煌めく金髪を太陽のように輝かせて立ち上がった。
「来てくれたんだね! もうすぐ、終わるから……」
「ジェイミー、ごめん!」
青年の言葉を遮り、瑞穂は自分の言葉をかぶせる。
ジェイミーの顔からは表情が抜け落ち、手に持っていたバインダーがバサリと床に落ちてページが散らばった。
「あの、ごめん! 私、受験生だから……。これ以上、つきあっていけない。別れよう!」
随分と早口で、ここに来るまでの間、胸の中で何回と繰り返した台詞を吐き出す。
ジェイミーがどういう顔をしているのかなんて、もう見当もつかないし、見返すのも無理だ。
「……受験が終わったら……」
ジェイミーの意外に冷静な声が聞こえる。
瑞穂は激しく頭を振った。
「違うの! 受験生だからってのは切っ掛けで……私、ジェイミーの横にいる自信がどこにもない。ジェイミーの横にいて、ずっとジェイミーみたいになろうと背伸びし続けて……疲れちゃうの! 結局、ジェイミーみたいにはなれないし……」
スタイルがいいわけでも、頭が良いわけでもない。性格だって普通だ。
見栄っ張りの瑞穂はそれでも、何とかジェイミーに釣り合おうと頑張ってきた。
だけど、限界だった。
ジェイミーと瑞穂が歩いているところを見たクラスメイトが、「西洋人形と金太郎かと思った」と笑っているのを聞いてしまった。
「また……だめなの?」
また、といった言葉の意味が分からなかったが、だめなの、という部分に、瑞穂は大きく頷いた。
「本当にごめん! 悪いのは全部私だから……ジェイミー?」
瑞穂は真正面に立つジェイミーに気づき、思わず顔を仰ぎ見る。
逆光の中、美しい金髪はプロミネンスのようにゆらゆらと揺らめいていた。
「ごめん。ごめんなさい、ジェイミー。私……」
「ううん。いいんだよ。瑞穂。大丈夫。何度でもやり直せるから。その意味のないプライドが邪魔するんでしょう? じゃぁ、今度はどこにしようか……」
ジェイミーの手が、瑞穂の顔から優しくメガネを外した。
星々が金の雨を降らせる。
視界が白く染まった。
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四十代の瑞穂、まだほんの小さな瑞穂、時間を変え、時代を変え、どれだけ出会いを繰り返しても、瑞穂はジェイミーを拒絶する。
ある時は既にいる家族を盾に、ある時は母を求めて泣き叫んで。
次第に、ジェイミーの心は黒く濁り、美しい金髪はいつの間にか夜闇のような色をまとって、自分が何を求めていたのかも忘れがちになる。
それでも、深い記憶の底、情動の端緒となった瑞穂のことだけは忘れられず、出会いと別れを繰り返し続けていた。
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「ジェイミー? ジェイミー? 大丈夫? 具合、悪いのかしら?」
問いかける柔らかい声。
真っ直ぐ届く、思いやる気持ち。
ジェイミーは瞬きをして、空を仰いだ。
灰色の小さな天球があり、その手前には投影機の巨体があった。
頭を軽く振り、手元を見下ろす。
グレーの車いすには、膝掛けをした真っ白い髪の老婆がいて、ジェイミーを見上げて微笑んでいた。
「えぇと……あなたは……」
「やぁね、忘れちゃったの? それとも得意のアメリカンジョークなのかしら? 瑞穂よ。ここはプラネタリウム。思い出した?」
しわ深い手が車いすを押すジェイミーの手に重ねられる。
あぁ、そうか。
ジェイミーは心の中でつぶやいた。
いつの間にか、随分と年を重ねた瑞穂のところにきてしまっていたようだ。
つまりずっと、瑞穂から拒絶されて……。
「もちろん、覚えてるよ、瑞穂。ごめんね、ちょっと疲れたみたいだ」
最早、愛情なのか憎しみなのかも、ジェイミーには区別が付かない。
目の前にいるのは、ジェイミーが求め続け、追い続け、この天象儀の檻に閉じこめ続ける、たった一人の女性。
「やぁね、もう。そういうのは私の専売特許かと思っていたわ」
瑞穂はころころと笑い、近くの観客用のイスをジェイミーに勧める。
「あなた少し、働きすぎなのよ。介護士ってとっても体力の要るお仕事ですもの。
少し休んでいきましょう? 今日の上映はこれで最後でしょう?
追い出されるまでにまだ時間があるわ」
笑いじわに沿って目を細める瑞穂に、ジェイミーは戸惑う。
これまでの瑞穂の中で、この老婦人はもっとも優しく、穏やかに見えた。
すべてが、同じ瑞穂のはずなのに。
「瑞穂は、プラネタリウムは嫌いではないの?」
勧められるままに座ると、瑞穂と目線が合う。
瑞穂はふふ、と笑って、薄明るい天球を仰ぎ見た。
「そうねぇ。プラネタリウムには辛い思い出もあるし、楽しい思い出もあるわ。
でも、ほら、私、おばあちゃんだから。
イヤなことは全部忘れることにしてるのよ。
だから、プラネタリウムには楽しい思い出ばかり。
初めておつきあいした人も、ここで出会ったわ。初めて結婚を考えた人も。家族のことで苦しんでいる私を慰めてくれた人にも。
遠い昔すぎて、名前も姿も思い出せないんだけどね。
あなたみたいに、瑞穂って優しく呼んでくれたわ」
瑞穂は淡い光を浴びながら、目を閉じている。
その瞼には、プラネタリウムのように、過去の二人の映像が映し出されているのだろうか。
ジェイミーは居心地悪くなり、体を揺すった。
「あらあら、ごめんなさい。若いあなたにはつまらない話だったわね」
「……あの、その人のこと、いや、その人たちのこと……愛していたんですか?」
瑞穂から視線をはずし、唇をかみしめる。
口からでたのは、言うべきことではなかった。
だが、ジェイミーの後悔を知らないまま、瑞穂は歌うように言った。
「えぇ、愛していたわ。誰よりも、欲しかったの」
枯れ枝のような手が宙に伸びる。
ふるえる指先が、天球に触れることはない。
「じゃぁ、何故……」
ジェイミーは投影された幻の星ではない。手を伸ばしてくれれば、すぐに触れたのに。
悔しさのあまり、震える問いかけに、尚も瑞穂は柔らかく答える。
「私も彼も、努力しなかったのね。……努力したつもりになっていたわ。でも、ずっと、それは報われるべきって思っていた。だから、報われるはずがない、とわかったとき、無理な努力を続けられなくなったの」
「俺は! ……いや、彼は……努力をしたんじゃないですか?」
「いいえ。悲しいくらい、何もなかったわ。さようならの後、彼はもう、私の前に現れてくれなかったもの」
ジェイミーは頭を殴られたような衝撃で、思わず立ち上がった。
確かに、別れ話を切り出された直後の瑞穂に会いに行ったことは、一度としてなかったのだ。
蒼白になったジェイミーの手を、瑞穂は温かく握りしめ、下から笑いかける。
「お互いに、もっと時間をかければ良かったのよ。性急に答えを出そうとせず、本当に思っていることを、誠実に伝えなければいけなかったの。
お若いあなたは、間違わないようにね。後悔に自分を閉じこめてはダメよ?」
心の中にたまっていた怒りや恨みが、瑞穂の温かい手の中で、じんわりと解けだしていく。
ジェイミーは頷いた。
「ありがとう、瑞穂。俺、やっぱり、君が好きだ」
「そういうことはおばあちゃんじゃなくて、もっと可愛い恋人に言ってあげなきゃ……あら、あなたの髪、こうして光に透けていると、光を編んだようにきれいな金髪ね。
私の大好きな、あの人みたいだわ」
光が天球を満たしていく。
これが最後の跳躍なのだ、とジェイミーは悟った。
そして、行くべきところはわかっている。
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別れ話の後、瑞穂は近くのコンビニでビールを買い込み、一晩中、飲んでいた。
何もかも忘れたくて。
でも、空き缶が増えるごとに、パッケージに描かれた麦がジェイミーのきれいな金髪を思い出させて、よけい切なくなるだけだった。
結局、一睡もできないまま、カラスの鳴き声で朝がきたことを知る。
昨日が金曜日で良かった。
洗面所の鏡に映った自分の無惨な姿に、吐き気がする。
この顔で出社してたら、顔面テロ認定を受けるところだ。
アラサーの技術を持ってしても、覆い隠すことはできない。
トイレで一晩詰め込んだものをすべて吐き出し、気持ち悪い酸っぱさを押し流そうとうがいをしているところで、呼び鈴が鳴った。
「このかっこで客前とか冗談でしょ」
瑞穂は苦笑して、居留守を決め込む。
すると、今度はどんどんと扉をたたかれた。
朝を迎えたとはいえ、まだ早朝だ。
やすいアパートの隣近所から苦情が殺到する!
瑞穂はパーカーを着て、マスクをかけて、玄関に向かう。
「瑞穂! いるんだろう? ねぇ、返事をして、瑞穂!」
「ジェイミー!」
瑞穂は仰天して、思わず裸足で玄関に降りると、急いでドアを開けた。
ドアの向こうには、いつも王子様のように颯爽としていたはずのジェイミーが、目を充血させ、髪をぼさぼさに乱し、額の汗を拭いながら肩で大きく息をしていた。
「どうしたの、ジェイミー!」
驚きすぎて声が裏返る。
だが、ジェイミーは質問を無視して、瑞穂をぎゅっと抱きしめる。
「ねぇ、俺の悪いところあったら教えて? 全部直す。瑞穂がそばにいてくれるなら、全部直すから! 俺を捨てないで……」
震える声。瑞穂の肩口に温かい水滴が降り注ぐ。
その温もりが、瑞穂の頑ななプライドを解きほぐし、欠片が目からこぼれ落ちた。
「……捨てられるのは私の方だと、思ってたの。……ジェイミーが格好良すぎるから。
ねぇ、お願い、そんな情けないあなたも見せて? これからは、私の前で格好付けないで」
瑞穂の熱い滴も、ジェイミーの白いシャツを濡らす。
「いいの? だって瑞穂……、マーベラスコミックに出てくるような格好いい男が好きって!」
「は? 何それ!」
思わず瑞穂が叫ぶと、隣家からうるさいぞ! と叱責が飛んだ。
二人は慌てて家の中に入り、リビングに移動する。
ジェイミーはそこにあったビールの空き缶の本数に目を丸くしたが、瑞穂はそれどころではなかった。
「ねぇ、私、アメコミが好きなんて、あなたに言ったことあった?」
どう記憶をほじくり出しても、そんなことを口にした記憶がない。
第一、瑞穂がアメコミにはまっていたのは、アメリカに留学した十代の頃だ。
「……ん? 留学?」
何かが記憶の端っこに引っかかる。
考え込む瑞穂を見て、ジェイミーはしつけの良い犬のように、期待に目を輝かせて待っている。
「待って……遠い昔に、誰かにそれを言ったことがあるわ……。共通の話題を探して……あれは確か、天使みたいに可愛い……男の……子」
ホームステイ先の家には、瑞穂よりも十才くらい年下の、可愛らしい少年がいた。
日本に帰るとき、泣きじゃくって別れをいやがる少年に、瑞穂は言ったのだ。
「ヒーローは泣かない。いつも格好良く、胸を張れ」
瑞穂の記憶の中の台詞を、ジェイミーが淀みなく答える。
「瑞穂が言ったんだよ。ヒーローは諦めたらダメだって。諦めたらそこで試合終了って」
過去の自分のオタクな格言を人生の指針にして、ジェイミーは日本まで、瑞穂を追いかけてきたのだ。
瑞穂が信じ込んでいた王子様は、過去の瑞穂によって作られた虚像で……。
体中の力が抜けて、瑞穂は座り込んだ。
何と言っていいか、全くわからない。
それを、ジェイミーは心配そうにのぞき込んでくる。
いつも超然としていた王子様の仮面がはがれ、素のジェイミーは、きれいな容姿はそのままに、不安と恐れを目に宿した普通の青年に見えた。
そして、その青い瞳にうつる自分は、困ったような笑顔を浮かべていると、それほどオバサンっぽくもないような気がしてくる。
「わかったわ。私の負け……ううん、私は、自分で勝手に作ったジェイミーに負けていたんだわ」
「瑞穂だけじゃないよ。俺も、自分で作った俺に振り回されてた。瑞穂の不安なんて、何もみようとしてなかった」
ジェイミーは瑞穂の手をしっかりと握る。
車いすの瑞穂の姿が、一瞬脳裏をよぎった。
「瑞穂のこれからをください。おばあちゃんになっても、俺はやっぱり、瑞穂がいい」
「やぁね、おばあちゃんになったら、さすがのジェイミーだって、恋が冷めるんじゃないかしら」
「おばあちゃんの君は素敵だよ。瑞穂はいつだって、幾つになっても素敵なんだよ。だから、俺だけの瑞穂になって。これからの瑞穂を全部、独り占めさせて」
熱烈な口説き文句だと感じた瑞穂は首まで真っ赤になって照れたが、ジェイミーにはこれまで会ってきた瑞穂が皆、優しく微笑んでいる姿が見えていた。
朝食を買い出しに行くというので、ジェイミーは瑞穂をもう一度しっかり抱きしめた後、二人で外にでた。
途中の河川敷で、ジェイミーはポケットに入っていた古びた鍵を取り出す。
「それ、何の鍵?」
「ん? プラ……何の鍵か忘れちゃったよ。だから、もう、必要ないんだ」
大きく振りかぶって、川の方に投げる。
鍵は、きらきらと光る放物線を描いて、宙に消えた。
「なんか……流星みたいね……」
「そうだね」
二人はまた、歩き出した。