その3 苦労したようなしなかったようなとりあえず非定型な私の人生(成育歴)
こんにちは。いつの間にか評価が2件もついていてびっくりしている旅硝子です。
みんなこっちもいいけど私の書いてる小説の方も是非げふんげふん。
まぁそれはそれとして、昨日は作業所の見学に行ってきました。
全てパソコンでお仕事する作業所なんですが、3つとも全然カラーが違っていてなかなか面白かったです。緊張と弛緩を繰り返してやたら疲れて、帰って来てからうっかりお昼寝しちゃいましたが。
最初のところは、まさしくオフィスって感じでした。でもやってることが営業電話の発信作業なんだよなー私これすごく苦手なんだよなー……と考え中です。時給が(作業所としてはかなり)いいんですけどね!
特に電話をかけながらメモを取るとかそういうのは苦手です。だからといって覚えられるかというとまた別です。
そもそも電話なんて顔が見えないということで緊張し、何を言われるかわからなくて緊張し、臨機応変な受け答えができているかどうか緊張し、脳味噌の可動域を使いまくっているのに、それ以上に何か覚えろとかメモ取れって言われても無理ですよ!
しかし、マニュアルがしっかりある上に発信専用なので何とかなるかなぁ……ならないかなぁ……研修いっぱいあるから大丈夫かなぁ……といった感じです。
2つ目は多分行きません。だってハイジに対するロッテンマイヤーさんみたいなおばさまが管理者なんだもん。
仕事の内容としてはテープ起こしとかWebデザインとか、興味がある分野だったし、お給料もそこそこ……そこそこだったんですけど……あのおばさまに叱られたら私、1週間は引きずるわ……。
3つ目は就労継続支援B型という、お給料をもらうという形ではなく工賃が支払われる形式の場所です。前の2つは就労継続支援A型といって、こちらは最低賃金が保証されますが、工賃は賃金じゃないので超やっすいです。
しかし理事長さんの説明がものすごく丁寧で、仕事内容の資料とか用意して下さっていて、しかも人当たりが良くて、うわああもうここA型だったら即決なんだけどー! とあとで同行して下さった相談員さん相手に叫んでしまいました。
というわけで人のいい理事長さんにほだされた結果、明日から体験に行くことになってしまいました。相談員さんが目を丸くする早業でした。
これからもいくつか見学には行く予定ですが……見学に行く作業所さんに、出入りしているうちに情が移りそうで、すごく、怖いです……。
というわけで今日は生い立ちなど語ってみたいと思います。専門用語で言うと成育歴ってやつですね。
私が生まれたのは1989年、元号が平成になってから1ヶ月ほど後のことです。2週間ほど予定日より早く生まれましたが、恐らく原因はその2日前に母親が雪かきをしたからではないかと言われています。お母さん妊婦なのに無茶しないで!
幼少時の発育は、割と普通だったといいます。ただし、母は「別に全然育て辛くなかったよ?」と言っていますが、私本人がが楽に育てたかというとまた別の問題です。
昔から、怒られると結構泣く子でした。さらに、自分の気持ちを伝えたり、弁解するのがすごく苦手でした。心に残っているのは、4歳の3月に行われた保育園での誕生会の日、自分は飲んだはずのスープを隣の子から押しつけられて、先生にも「早く飲みなさい」とか言われてわんわん泣いたことです。隣の子はあくどいことに、平気で「これ、私のじゃなくて旅硝子ちゃんのです!」と言ってるのに、私は全く弁解もできずに過呼吸を起こしていました。
ちなみに過呼吸の対処法は中学生になった時、ようやく保健室の先生から教えていただきました。それまでは完全に放置されていました。酷い話です。前も書いたような気がしますが、皆さんも過呼吸を起こしている人がいたら、そっと手ごろな大きさの袋をあげて下さい。コンビニサイズくらいのビニール袋か、柔らかい紙袋がいいです。
あとは、同じ間違いは平気で何度も繰り返しますが、言われたことはきちんと守る子でした。私の通っていた保育園は、トイレにペーパーホルダーが存在せず、ちり紙(ティッシュでもないんですよ!)を自分で持っていかなければいけないのですが、私はあっさりと忘れて行きました。そしてトイレでお尻を拭くこともできず、じっとしていたのです。
私がいないことに気付いて探しに来てくれた先生に「今度からそういう時は人を呼びなさい」と言われて、2回目に同じことをしてしまった私は「だれかきてくださーい」と結構大きな声で言い続けました。その時も何か怒られた気がするのですが、言われた事はちゃんと守っているのです。
私が保育園に行っていた頃の女の子達のトレンドは、セーラームーンでした。何代目だったかは覚えていません。だって我が家は、戦闘系アニメは軒並み禁止だったのです。あとクレヨンしんちゃんも駄目でした。
というわけで保育園でセーラームーンごっこをする時に、私は役柄の主張を出来ずに猫役を押しつけられ、にゃーにゃー言っていた記憶があります。でもそもそもセーラームーンの猫って、喋る猫なんですよね。しかも黒い方がメスで白い方がオスなんですってね。誰か本当のことを教えてくれてもいいと思いますが、教えてくれても多分演じられませんでしたので、適当に放置するというみんなの対応はあまり間違っていなかったのかもしれません。
そして小学校に入った私は、1年生の10月で家庭の事情で転校することになりますが、担任の先生にも恵まれそれなりに普通な小学生活を送ることになります。
1年生の頃は、休み時間にみんなと混じって鬼ごっこなどで遊ばずに、教室で本を読んでいて担任の先生に「みんなと遊びなさい」と言われて、大泣きしたような覚えがあります。思えばその頃から、基本的に怒られるのは苦手でした。
家でも結構よく叱られたものです。よく「父が叱り母がフォローする」と言いますが、うちは割と逆でした。躾に関わることには大変厳しく、よく正座させられて怒られたものです。何故怒られたのかは全く覚えていないのですが、こくこく頷いて聞いていると「今なんで怒られてるかわかる?」とか「今お母さんが何を言ったかわかる?」と聞かれて、答えられないとお説教が追加されるというなかなかのスパルタ教育でした。その割に、私の「話を聞いて覚えておく能力」が低いのは残念なところです。
小学校のときは、私は全く緊張というものを知らない子どもでした。委員長などの仕事があれば積極的に手を挙げ、学期の終わりには作文を読みたがり、学芸会の演劇では主役を奪いに行ってじゃんけんで撃沈しました。校歌斉唱はがっつり大きな声で歌いましたし(ただし非常な音痴でした。どのくらいかというと、オリジナルソングを歌っているにも関わらず、明らかに音程が外れているという4歳の頃の凄まじいビデオが残っているほどです)、授業中も積極的に手を挙げて発言しました。緊張を知らないどころか、かなりの目立ちたがりでした。生徒会選挙は出馬コンプリートです(ただし、当選は1回のみ)。
これはおそらく、「みんなが私と違う人間だということを自覚していなかった」ことに起因すると思います。つまり私の世界に、他人の目と言うものは存在しなかったのではないでしょうか。
これを裏付ける思い出として、「給食で肉を残す人がいる理由を理解できなかった」というものがあります。私は肉が大好きで、残すなど思いもよらなかったので、他に「肉が嫌い」なんていう人がいるとは気付かなかったのです。
その他、私は小学校時代「クラス全員、ひいては学年全員が自分の友達」だと思っていました。上級生や下級生にも友達(だと、少なくとも私は思っていました)がいましたから、「私は友達100人超えている! 歌の通りだ!」とご満悦でした。たぶんその『友達』の大半は、私のことなど眼中になかったでしょう。だから自分と関係のない会話が交わされていても、自分の知っている話題であればそこに入り込むことに、躊躇は全くありませんでした。今思えば、かなり鬱陶しかっただろうなぁと思います。
つまり私は、自分以外にも人間がいて自分とは全く違う思考を持っているということにあまり気付いていなかったようなのです。さらに人の気持ちをうまく感じられないという特性が働いて、全ての人が私の好意を持っていると勘違いした私の人生はある意味薔薇色でした。
しかしそんな薔薇色人生に陰りが走ったのは、中学生になった頃です。
相変わらず目立ちたがり屋でしたが、ステージに立った時や何か重大なことがある時、動悸がするようになったのです。何か体調不良かなー、気のせいかなー、と気楽に考えていた私ですが、ある日はっと気づきました。
「あっ、私緊張してるんだ!」
それ以来、私はようやく、自分と関係のない話に割り込んだ時のみんなの反応が冷たいことや、給食で肉を残すのが不自然ではないことにだんだんと気付いて行ったのです。同時に小学生時代、体育以外は何でもできて(と思って)いた私は、吹奏楽部に入部してまず『呼吸法ができない』という一番最初の段階でつまづき、出来ない子へと転げ落ちていくことになりました。
吹奏楽部時代の思い出は、楽しいこともあったような気はするのですが、いまいちな思い出が多いです。入部したての頃に先輩の顔が全く覚えられず、部活の外で挨拶しなかったことで4人くらいの先輩に囲まれて怒られたりとか、ことあるごとになんかミーティングやったりとか、2年生の頃に、後輩と先輩が私を置いてきぼりにして好きな人の話をしていたりとか(どちらもサッカー部に好きな人がいて、教室からはグラウンドが良く見えたのです)、自由参加の朝練に来なかったら「やる気があるのか!?」と怒られて例の過呼吸を起こしたりとか、重たいホルンを持って帰って親に「それどうするの……」と言われたりとか、合宿のときに誰かが禁止されていた携帯電話を持ち込んだとかで顧問の先生が「俺、顧問辞めようと思う」と言い出したりとか(そこで「辞めたいならやめればいいじゃないですか」と言わなかった私は、だいぶ空気が読めるようになっていたと思います!)、今までみんなとうまくやれていて(と思い込んで)、何でもできた(と思い込んでいた)私には、非常な衝撃でした。
ですが吹奏楽には感謝しています。担当楽器だったホルンが大好きになったのと同時に、小学5年生の頃から始めたピアノと合わせて、私の音痴を矯正してくれたのです。正直チューニングは苦手でしたし、今でも耳コピとか大苦手ですけど、一応ニコニコ動画でオリジナルソングをいくつか上げれたり、カラオケで自分で音程調整できるくらいには、音感というものが身に付きました。
中学生の頃には、ようやく「求められていない人の輪に入って行くと嫌な顔をされるらしい」と学び、基本的には輪の外でぽつんとしているような人と仲良くなることが多くなりました。ぽつん同士ですからね!
中学生時代に仲が良かったのは、吹奏楽部に途中入部してきた先輩と、オタクの同級生でした。同級生によって腐女子に染められた私は、先輩も同じジャンルにハマる腐女子だということを知り、ほんの小さい頃からの空想世界をBL一色に染めてしまいます。この頃から私は、文章を書くことを覚えました。小学生の頃から作文などは好きで(あっでも感想文は嫌いでした!)、小学2年生の頃の「教科書に載っている物語の続きを考えて書きなさい」という課題で先生に「ちょっと書き過ぎじゃないかしら」と言われてやっぱり過呼吸を起こしたり(ちなみに次の日先生は「好きなだけ書いていいよ」と言ってくれて、結局原稿用紙20枚ほど書きました。いい先生でした)、保育園時代に書いた絵本が本棚から発掘されて赤面したり、小学5年生くらいの頃に鉛筆と消しゴムが主人公の4コマ漫画を描いて友人に見せたりしていましたが、本格的にものを書くということを覚えたのは、この頃だったと思います。
吹奏楽部でのホルンの腕前もそれなりに上昇し、成績も割と安定していて、一度落ち込んだ自信を回復させて私は高校受験に臨みました。根拠のない自信は、いつでも私を支えてくれています。
さて、無事に志望校に合格した私ですが、そこはかなりの進学校でした。
そこに集まった生徒達の学力が、いろんな学力の生徒が集まる中学校と同じなわけはなく、私は初めて取った数学50点台という点数に打ちのめされることになります。
しかし、小学時代からの勉強しない習慣はなかなか変えることが出来ません。
さらに1学期が終わり、夏休みの講習会が終わり、2学期の最初のテストでなぜかだいたい数学がわかるようになってだいたい問題が解けてそれなりの点数が取れたので、結局勉強習慣はさっぱり身に付きませんでした。
なお、ようやく得意科目と苦手科目の差が出てきたのがこの頃だと思います。国語や世界史は得意でしたが、英語はかなり苦手でした。特にリスニングは、聴覚があまり良くない私には地獄の時間でした。背景に効果音が入っているともうダメです。聞き取れません。
高校時代は放送局に入部し、アナウンスを志したのですが、全道大会常連、全国大会に駒を進める人もいる放送局の中で、一度も地区大会を突破できなかった私は、吹奏楽を始めた頃のように再び出来ない子に叩き落とされることになります。それでも番組部門の内容を考えるのは好きでしたし(知らない人に話しかける街頭インタビューはかなり苦手でしたが)、親友と言えるほど仲良くなった友人もいたので、総合すると放送局は楽しかったかな、と思います。
しかし、人間関係は結構ズタボロでした。放送局での人間関係作りも親友が出来た以外はいまいち上手くいかず、クラスでは空気でした。どのくらい空気かというと、昼休みに席を占拠された挙句に、置いておいた帽子で「叩いてかぶってじゃんけんポン」という、要するに私の帽子を! 無許可で! ひっぱたかれる可能性のあるゲームをやられていたのです。しかも毛糸の帽子だから、乱暴に扱われたら伸びるじゃないまったくもう! ……すみません、怒りが再燃してきました。
授業中も結構そのメンバーのお喋りがうるさくてイライラしていた私は、文系志望にも関わらずクラス分けでは理系を選びます。理系クラスは静かでした。本当に静かでした。さらに担任の先生が怖いし数学の授業は厳しいけれど良い先生で、理系を選んで本当に良かったと思っています。
しかし、精神的に不安定な面が出てきたのも、高校時代です。特に冬になると登校するのがかなり辛く、よく学校を休みました。1年生の頃の休みは、半年くらいかけてやるはずの家庭科の課題をすっぽかしていたことによりますが、2年生の頃はクラスで孤立無援だったことが結構響いていました。休んでもいいと言ってくれたはずの親に「もうちょっと学校行ったら?」と掌を返されて、重い体を引きずりながら「インフルエンザになって堂々と休んでやる……」と学校に通ったこともありました。その後何とかインフルエンザになってガッツポーズする私がいたのでした。
この頃は、自分でも精神的に不安定になっていることを自覚しており、精神科に通わせてほしいと親に頼んだこともあったのですが、結局断られていました。地元はあまり大きくない街で、いい精神科に通うにはそれなりに遠出する必要があった、などの事情があるのかもしれませんが、当時は結構苦しんだのも事実です。
高校1年生、2年生の冬は、学校に行こうとしても足が向かず、街をさまよってから遅刻して登校したりして結構いろんなところに迷惑をかけていたのですが、3年生の冬は受験勉強というやることがあったせいか、不思議と元気に登校していました。友人と校長室の前で大声でお喋りしながらお弁当を食べて、怒られたのもある意味いい思い出。
自学自習があまり得意ではない私は、積極的に放課後の講習を入れることで、なんとか受験勉強をこなしました。受験が本当に迫ってからは、ダウンロードしたフリーの単語練習ソフトで単語練習を繰り返し(受験直前の時期に単語練習ってのも何ですね)、小さめの漢字参考書で漢字を練習し、センター試験の過去問をネットで見て解いていました。普通の参考書で勉強しない私格好いいとちょっと思っていたことは否定しません。
ちなみに、高校生になってからは基本的にノートは取りませんでした。必要な事項があったら、教科書に直接書き込みました。メモを取るのが苦手な癖と、関係しているのかもしれません。
大学受験は山場もなくあっさり終わり、大学時代からは独り暮らしを始めました。少し離れた都市の大学を受けたのは、北海道内だしいろいろ研究室もあるしついでにTRPGサークルもあるし、という理由ではありましたが、親元を若干離れられるという利点があったのも事実です。
実家を離れてから気付いたのですが、私は実家ではある程度緊張して過ごしていたようなのです。独り暮らしを始めてからは非常にのびのびと過ごし、ホームシックにかかったことはありませんでした。親に怒られて委縮することもなくなりましたし、私と家族との関係が一番いいのは、少し離れて暮らしている時なのではないかと思います。面白いことに、私と同じように「離れて暮らしてから親との(特に母親との)関係が良好になった」と言う人は、女性に多いようです。
大学ではTRPGサークルのRPG研究会、文芸部、そしてなぜか居合道部を兼部し、割と心地良く過ごしていました。高校時代は上手く友人関係を作れずにいましたが、大学に入ってからはある程度仲の良い友人も結構多く出来て、人間関係では非常に充実していたと思います。
しかし、冬から春にかけて精神的な不調が訪れるのは、あまり変わっていませんでした。またRPG研究会は新人勧誘の時期に非常に力を入れており、それが勢い余って意見を言う時に企画立案者を責めるようになってしまうということがあったように思います。それもあって3月から5月くらいの私の精神状況は最悪でした。自分を責めるような声が聞こえる、とかいきなり奇声を上げて走り出す、とか、雪の中に裸足で出て行く、とか、これは二十を超えてからですが雨の日にウィスキーを持って外に飛び出し、1000回ブランコをこいで帰って来るとか、結構な奇行に走っていました。
結局耐えかねて大学の保健管理センターを訪れ、そこから紹介状を書いてもらってメンタルクリニックを訪れたのが、私の精神科デビューです。そこには5年ほどお世話になり、病める時も健やかなる時も三角関係に巻き込まれた時も、アルバイトした結果「これは毒を飲んで死ぬしかないっ!」と栄養ドリンクに煙草の葉を詰めて「バイト先の前で死んでやるっ!」と出かけようとして恋人に止められた時も、お世話になりました。
この中で一番きつかったのは、やっぱりアルバイトでしょうか。
発達障害の私にとっては、無理ゲーすぎる指令がたくさん出されてほとんどいつもパニックでした。
その頃はまだ診断受けていなかったし、私も特に言ってなかったから仕方ないんですけど。
「考えるほどのこともない雑用してる時なら、他のこと考えられるでしょ? 考えられるようになれ」
料理を2品同時に作るのも苦労する私には無理です。
「(喋っている途中で)あ、今後ろでラジオが良いこと言ってたんですが、聞いてましたか? 聞いてない? もっとアンテナをたくさん張り巡らせなさい」
そんなことしたら両方曖昧になるじゃないですか!
「大学で勉強して来たことで仕事に生かせることとかないのか?」
中国文化論とケータイ小説研究をしていた私にんな無茶な。
「旅硝子さんのいいところは、育ちのいいこと(だけ)です(そしてその後にいっぱい続く悪いところ言葉責め)」
いまいち言い返せないですが育ちは別に良くないです。
「片付けが出来ない奴は仕事も出来ない!」
ごめんなさい。
ちなみにオフィスは1階だったのですが、昔4階にあった頃は「ここから飛び降りて死ね」と従業員に言うような社長だったらしいので、まぁ私にだけ厳しかった(?)わけではないのですが。
社長に怒られるんじゃないかとびくびくすると、今度は「いつまで緊張してるんだ」と怒られ……1日1つずつやらなきゃいけなかった、自分で作った目標を1日目から達成できなかった地点で「これはもう死ぬしかないっ!」とまで追い詰められていました。止められなかったら翌日のニュースの社会面辺りを飾っていたのではないでしょうか。
結局それをきっかけにそのバイトはやめましたが、私には就活・就職への恐怖が刻み込まれました。そして2回目の4年生(1回目は卒論が書けなくて留年しました)を無為に過ごした私は、卒業してからようやくハローワークに通うようになります。一応、無為に過ごしつつも資格は取っておいた私が志したのは、臨機応変・人手不足・即戦力重視の介護の世界でした。
――これだけ向いてないところに飛び込むのもどうかと思いますが、その時の私には「お年寄りとお話するのは好きだし、案外介護行けるんじゃないか」と父と交わした会話しかよりどころがなかったのです。ちなみに言い出したのは父ではなく私なので、全責任は私にあります。
なお、介護に従事したことのある発達障害の人は、案外多いように思います。私が会った中では半分くらいの方に介護施設で働いた経験があるような。
最初に特養老人ホームで2週間働いた後、配置換えで新しくできた有料老人ホーム部分に行ったのですが、仕事が出来ないことや気が利かないことをそりゃもう責められました。
どうも特養の方で働いていた時に、利用者さんが思わぬ行動を起こしたので私がパニックになっていたのを、「車椅子から立ち上がろうとするお爺さんを押さえつけて怒鳴っていた」と解釈され、それゆえに「問題の人」として引継ぎが行われていたようなのです。本当に押さえつけて怒鳴っていたのかは、私はそのつもりではなかったとしか言えません。客観的にどうだったのか証言してくれる人もいませんしね。
というわけで、配置換えからやめるまでの2週間は、私の中では地獄でした。
昼食後に煙草を吸いながら雑談する習慣は、煙草を吸わない私は着いていけずに一人ぼっちでした。
食事の介助では、どうしても私の手からは食べてくれないおばあさんに、「練習だから」と言って毎回付かされ、結局他の人に「すみません、もう無理です」とお願いして、すいすい食べさせている主任さんの手元を見ても、何が違うのか全くわからないでいました。たぶん一番辛かったのはおばあさんです。
利用者さんとお話をしていてはおむつ交換のタイミングを逃して怒られ、ついに泣き出して過呼吸を起こしては怒られ、「旅硝子さんは学歴があるんだからもっと違う仕事を目指しては」とか「同じお給料をもらっている人が、旅硝子さんみたいに仕事ができない人と一緒だと不満を持つんじゃないでしょうか」と怒られ、こりゃ介護業界から人が減っていくわけだと思いつつ、私もやめました。無理でした。
そもそも「人の気持ちを汲み取って」「臨機応変に」「表情を見て」「自分から空気を読んで仕事を探して」とか、私の苦手分野だということになぜ気付けなかったのか……。
今でもフラッシュバックしてぐでぐでと思い出しますが、それでも配置換えの前に「寂しくなるわねぇ」って涙を浮かべてくれたおばあさんと、その旦那さんで言葉ももう不自由なのに泣いてくださったおじいさんとの思い出は、いい思い出です。
思い出していると嫌な思い出も出て来てしまうのでいつもは大事にしまっておきますが、いい思い出なのです。
結局それ以来、私はちょっとした在宅のアルバイトだけをやって、ぐだぐだと過ごしていたわけです。
一応在宅のアルバイトは超頑張れば10万円くらい……頑張らないと歩合給なので0というなかなか極端な給与形態で、もちろん親の脛も齧っていました。
病院を転院したのは介護施設をやめた歳の11月、診断を受けたのは1月頃だったと思います。
そんなわけで、ここまで読んで下さった方は、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
「発達障害ってことでこういう苦労をしてきたんだよー、他にもこういう苦労してる人がいるかもしれないんだよー」とくだを巻いていると受け取っていただければ嬉しいです。
もしも、もしもちょっとでも参考になれば、もっと嬉しいのですが!
次の予定は未定です。何かリクエストありましたらメッセージとか感想に書いてくれたら私が非常に喜びます。
ご読了ありがとうございました!




