~紲雷 thunder of bonds24~
初老の男が場に現れた途端、一触即発の空気が一変したのがわかった。セーニア兵たちの顔からは、心なしか強張りが取れていた。そうした様子からも、兵士たちに信を寄せられている人物であろうことは、シュイたちも薄々と察した。
背はそれなりの高さだが、そう思わせぬほどにがっしりとした体つきだ。顔は精悍さよりもひょうきんさが勝っていて、カンナを片手に大工でもやっている方が似合いそうである。が、背にある刀傷だらけの円盾と両肩でマントを止めている高級カフスが、武人としての風格を醸し出していた。
「一応名乗って置こう。ジヴー軍の遊撃隊長、シュイ・エルクンドだ」
「……シルフィールの傭兵という言葉が抜け落ちているようだが?」
「これは失敬、認知されていたんだな」
「主に悪名の方でだがな。まかり間違っても英雄視されているわけではない。――儂はセーニア第五軍将、ネルガー・シラプスである」
軍将という言葉にピエールが眉を上げた。彼の左右に立つ部下たちが、やや誇らしげに肩肘を張った。
「他にも将軍位の者がいたのか。なら話が早い」
「……ミョール、貴様、なぜ交戦をしていなかった。まさか、リーヴルモア卿がこの場にいないからと気遅れしたわけではあるまいな」
すでに何かしらの提案を持ちかけられたことを察知したのだろう。ネルガーは視線をシュイの方に向けたまま、隣の太った軍人に声をかけた。
「ご、誤解しないでくれ。それはやつらが――」
「<圧力魔法>で機先を制した後にそいつに話を持ちかけたわけだが、どうにも聞く耳を持たぬようでな。他に人語を解せそうな者がやってくるのを待っていた。ジヴー軍の司令官ヴィレン・カシリは、双方の兵の命が徒に失われることを望んではいない。これ以上戦闘を続けるのは無意味だと考えている」
淡々とそう言うイヴァンに、ネルガーが薄ら笑いを浮かべた。
「ふん、おぬしの口からそのような温い言葉が飛び出すとは驚きだな。そもそも、我々がそちらの提案を呑むと本気で思っておるのか? こんな僻地にまで赴いているのは思うところがあってこそ。子供の使いではないぞ」
「……そちらは、自分たちを取り巻く状況をちゃんと理解しているのか?」
「……何だと?」
投げかけられたシュイの声に、ネルガーが視線の位置を元に戻した。
「こうは考えられないか。わざわざこちらが話を持ちかけるのは、そちらが申し出を呑むと判断するに足る材料があるからだ、と」
シュイはあくまで丁寧な物腰で応じた。ある程度の余裕を見せた方が、こういった場では不気味に感じさせられるということをアミナから学んでいた。
ネルガーは打算を巡らせているのか、腕を組んだまま動かなくなった。既に回りには三千を超えるだろうセーニア兵が集まってきている。新たに近づいてきた者は一瞬武器を構える素振りを見せるものの、戦闘に至っていないのに気づくと、怪訝そうな顔をしながらも武器を下ろしているようだ。
ややあって、ネルガーは鞘に当てていた手を下げると、再びシュイと視線を合わせてきた。話を聞く準備が出来たということらしい。
この場は休戦のような雰囲気になっているが、全体の戦闘が終結したわけではない。今でも外周ではヴィレンやスザクらが必死に交戦しているはずだ。遅れれば遅れるだけ双方に被害が出る。言えば、ディビにした説明を繰り返す時間も惜しいくらいだったが、シュイは不満を出さぬよう、焦りを悟られぬよう留意して口を開いた。
「では、要点だけ掻い摘んで申し伝える。セーニア本陣は我々の手によって壊滅した。ビシャ・リーヴルモア以下、主だったものは先ほどの雷により全滅。旗艦の周りに集結していた砂船の乗組員たちも例外ではないことを添えておこう」
「なんっ」
「……謀るなっ!」
ネルガーの言葉に被せるように、ミョールが鋭い叫びを上げた。
「謀る、とは? そもそも、あんたにはさっきも同じ説明をしたはずだが?」
握り拳を振り抜いたミョールに、シュイは身じろぎもせずに訊き返した。
「言葉通りの意味だ! あ、あの男がそう簡単に死ぬはずがなかろうッ!」
そう言いながらも、ディビの口調には信頼と迷いとが混在していた。彼自身、ここにビシャがいないことを不審に思っているのだ。己の目でビシャの死を見届けたわけではない。その一点が、彼らを支える、しかし儚い望みだった。それを知ってか知らずか、沈黙を守っていたピエールが肩をすくめた。
「残念だが、ここに本人がいないのが何よりの証拠だぜ。顔を間近で突き合わせたのはさっきが初めてだったが、自陣の最奥で敵が好き勝手に振る舞うことを許す男には、見えなかったけどな」
ネルガーの眉がぴくりと跳ねた。新たに来た兵士たちの反応はそれ以上だ。ビシャ・リーヴルモアはセーニアの象徴となりつつあった存在。屈強な騎士たちが束になっても叶わなかった総大将が、まさか小勢の敵に破れるとは思いもつかなかったのだろう。
けれども、驚き竦む兵たちを見てもシュイたちの表情は崩れていなかった。達成感に浸る余裕などは毛筋ほどもなかった。むしろ、ここからが本題だったからだ。
実際、予想に反してセーニア側は強硬な態度を崩さなかった。構え、とネルガーが手を挙げるや否や、兵士たちが一斉に剣柄を握り、弓に矢を番えた。後ろにいるジヴー兵たちから動揺が伝わってきたが、シュイは毅然とした態度を崩さずに顎をしゃくった。
「……なんの真似だ? 今のは前置きに過ぎないぞ」
「よしんばお前たちの言葉をそのまま信じたとして、大勢は覆っておらぬ。そなたらをここで叩いてしまえば、もはやジヴー軍に成す術はあるまい」
ネルガーが正論を口にし、兵士たちの動揺を取り払った。現実の戦いは遊戯と違い、どちらかが総大将を討ち取ったからといって終わるとも限らない。そして、今目の前にいるジヴーの兵たちは、シュイを除いては無傷ではなかった。イヴァンやピエールも少なからず傷を負っていたし、ジヴーの兵士たちの負傷の度合いはより深刻だ。背に矢が突き立ったままの者もいれば、腕を骨折している者もいた。旗艦での激しい戦闘と、船から飛び降りたことによる手傷だった。敵はただでさえ少数。その上に半数近くが半病人となれば、勝てぬ道理はない。
シュイは距離をじりじりと詰めてくるセーニア兵たちを一瞥しながらも、努めて穏やかな口調を保った。
「あくまで頑なだな。これ以上戦いを続けるメリットがあるのか?」
ある、とネルガーは即答した。
「大将が討ち取られたとなれば弔い合戦をせねばならん。先ほど、双方の犠牲を望んでいないと言ったが、このまま戦えば犠牲が出るのはそちらのみ、儂らにはなんら関係のない話よ。先陣や右翼を含めれば未だ無傷同然の兵士たちが一万近くおる。どちらが有利かは――」
「――一目瞭然とも言い切れないぞ」
ネルガーの語尾を引き取り、シュイが抑揚を殺して呟いた。相手は総大将を失って少なからず気落ちしているはずだ。一方こちらの兵は、予め周知していた策が目論み通りに成功しているため士気は高い。疲労の影響も少しは薄まるというものだ。
とはいえ――影響力こそビシャには及ばないだろうが――ネルガー・シラプスも一国の将である。少し考えればわかることをあからさまに口に出しては、こちらが戦いを避けたがっていると受け取られかねない。意味ありげな一言に含めるだけの方が有効なこともある。
シュイは不安と焦りを抱きながらも、一歩前に出て仁王立ちした。その迫力に、セーニア兵たちの歩みが止まった。
「確かに、数の上ではそちらが有利だ。が、もしこのまま殲滅戦に移行したら、おまえたちの大半はこの砂だらけの大地が生涯最後の光景になるぞ。千の魔道兵からなる魔法攻撃を受ければ、ビシャ・リーヴルモアですら耐えられぬことが証明されたんだからな」
「なっ……千人、だと。どうやってそれほど大勢の魔法使いを……まさか貴様ら、第三国の援護を得ているのか!」
「軍人の代わりに一般人を戦力として動員しただけだ」
ネルガーの目が驚きに見開かれた。戦闘経験のない者を緊迫した戦場に出すなどということは発想の外にあったのだろう。見方によっては殺人にも等しい行為だ。セーニア教国の理念においてもそれは憚られる行為に違いない。
シュイたちも安全面には最大限配慮したつもりだった。なればこそ、交戦ポイントから数キロも離れた場所に陣取らせたし、イヴァンに匹敵する強さを備えたアミナを彼らの護衛に回したのだ。
人数は少しサバを読んでいたものの、相手もジヴー側の非戦闘員の数まで正確に把握しているわけではない。ビシャを打ち果たした後であれば、多少のはったりにも信憑性を持たせられる。ネルガーたちも戦線を離れて状況を確かめにきたくらいだ。先ほどの雷撃の凄まじさは遠目からでもわかったはずだった。
「馬鹿な、有り得ぬ……。よりにもよって、あの男が一般人の手で葬られたと言うのか」
「因果応報、俺たちが手を下すよりも妥当で、より納得のいく結果だと思うがな。何しろ自分たちの生活をことごとく台無しにし、父や兄、息子を奪ったセーニア軍の総大将だ。ジヴーの者らにとっては憎んでも憎み切れない相手だろうよ。おまえたちはジウー軍の力を正当に分析する一方、軍人以外の力を度外視し過ぎていたんだ」
――
この戦いを迎えるに当たって、ジヴーは兵の質、数共に圧倒的不利な立場に立たされていた。だが、オルドレンには避難民も含めて数十万に上る民がいる。彼らを戦力として数えられるようにすれば、セーニアにも抵抗できる方策が見出せる。シュイたちはそこに活路を見出した。
対人戦の駆け引きは一朝一夕で身に付くものではない。魔法の心得があること以外は一般人となんら変わらぬ者たちが、人殺しのエキスパートが入り乱れる戦場で立ち回るのは実質的に不可能だ。
それでもどうにか彼らを戦力として――いささか言い方は悪いが――利用する方法がないだろうか。シュイやヴィレンらは、大勢の町人たちから魔法の才があるものをスザクらに見出してもらう一方で、彼らに駆け引きなどを気にせず戦ってもらう作戦を煮詰めていった。
敵を全滅させることはほぼ不可能だとわかっている。必然的に、勝利するための最低条件としては、ビシャ・リーヴルモアという屈指の将を排除することに重きが置かれた。作戦行動に当たる際には敵の中枢を駆逐する必要がある。とすると、広範囲に及ぶ強力な援護攻撃が不可欠だという結論が出る。
そうかといって、敵の感知魔法領域内で魔法を使用したら攻撃の予兆を難なく悟られてしまう。一度でもこちらの策を悟られれば、経験豊富なセーニア軍のことだ。即刻退避行動に入るか、妨害工作を仕掛けてきただろう。兵数に劣るジヴー軍にそれを防ぐ余力は残っていない。
この苦境をどう乗り切るか。どうにかして感知魔法の範囲外から強力な魔法を叩きこみ、敵を壊滅に追い込む手立てはないものだろうか。
ピエールと再会し、<黒禍渦>の存在を知っていたシュイは、ここに一計を案じた。ジヴー連合の中でもオルドレンは鉱山の町として非常に名高い。大量にある金属を媒介することで、遠距離からの雷を敵中枢に届かせることが出来るかも知れない。その考えに基づいて構築した作戦が、ヴィレンやイヴァンと共に編み出した<紲の雷>だ。
電気が金属を伝うことは子どもにも知られている。が、一口に金属と言っても電気を通しやすい物と通しにくい物が存在する。アルマンドとの最後の別れを済ませた後で、セーニア軍と戦う決意を新たにしたシュイは、効率よく雷を伝えられる金属を知るべく図書館へ赴いた。そこで様々な文献を漁っているうちに、一般にも馴染み深い金属が、電気をよく通す性質があることがわかった。魔法触媒にも使われる金や魔を払う力を持つ銀。そして、様々な日用品に使われている銅。
空気中を走る電流はかなり速度が落ちるが、金属を介して走る電流は音の何倍もの速さを誇る。鉄などは雷魔法を完全には通さないため――至近距離であれば問題ないが――距離を置くと威力が一気に落ちていく。
反して金銀銅を使った場合には、理論上では瞬く間に世界を踏破するとも言われているらしい。環境によって多少の減衰はあるだろうが、これなら仮に感知魔法で悟られたとしても、注意を促す声が発せられた瞬間には敵軍に到達させることができる。
威力面に関しては事前に行った小規模な実験によりなんら問題がないことが示された。伝う距離は離れるほどに威力が低下するが、数キロ圏内であれば充分な威力を伝えて目標を駆逐することが可能だった。
総合的なメリットを踏まえた上で、シュイはヴィレンやスザクらに銅や銅鉱石を確保してもらい、長い銅の鎖を作るよう依頼した。一繋ぎの銅線にすれば使用量も少なくて済んだだろうが、そこは応用が利かなくなることを恐れ、無理を聞いてもらった。
鎖の形状にした主な理由は、複数の溶鉱炉で分担作業をしても継ぎ合わせが容易になる点。また、万が一作戦実行時に切断されてしまったとしても、予備の鎖を継ぎ足すことで収拾がつく点などが挙げられる。
結局、オルドレンに備蓄されていた在庫分だけでは足りなかったのだが、町の者たちがそれぞれに銅製品を持ち寄ることによって、何とか必要最低限の量は確保された。
鉄火場は昼夜を問わずフル稼働し、流れ作業で溶かされた銅を鋳型に入れ、出来上がった鎖から工場に集められていった。そこで町民の協力者たちの手によって、鎖がおよそ100メードになるよう継ぎ合わされた。
みなの協力を得て完成した拳大の太さを持つ銅鎖は、開戦前に更に継ぎ合わされ、指定した複数の砂船の滑車に括りつけられた。中枢へ突っ込む役を担ったシュイたちの乗っていた黒船にも、両端までの距離が一キロに達する鎖が搭載された。その重量の関係で最初は船の速度が出なかったのだが、鎖を垂らし始めてからは少しずつ速度を増していった。
左翼を突破されたガレットの船団が囮の黒船を追い始めたところで、シュイたち遊撃隊の乗る船は船尾から砂地へ、鎖を垂らしながら航行を始めた。囮の船を使った理由は、搭載した鎖の重量の関係で、最初はどうしても速度が上がらなかったためだ。もっと言えば、事を成すまでに他の船に轢かれるか気づかれるかして、鎖を断ち切られるのを防ぐ目論みもあった。もし追従されるようなことになれば、その可能性は非常に高かったと言えるだろう。
また、この作戦は地形が柔らかく、摩擦の少ない砂漠だったからこそ可能なものだった。海中では雷魔法が触れた塩水を電気分解してしまう関係で充分な威力を出せない。逆に岩盤がしっかりした地形だと、鎖を引く際のちょっとした弾みで段差や岩に引っ掛かり、簡単に千切れてしまう。わざわざ奇襲に適さぬ場所を戦場に選んだのも、砂船が問題なく航行できるくらいには砂の量が豊富だったためだ。
かくして、シュイの乗る船はガレットの船団の最後尾から鎖を地面に垂らしつつ、夜の闇に紛れて敵本陣へと向かった。イヴァンが派手なパフォーマンスで全体の目を引くことで注意が中央へと傾きかけている間、ラードックは巧みに船を操り、密集していた敵船を潜り抜け、見事敵旗艦までシュイたちを誘った。そうして船首角と船の中を通していた銅鎖を接続したものを、敵旗艦の後方から勢いよく突きつけた。
後は、シュイたち戦闘員が敵船に乗り込む一方、ラードックら乗組員はイヴァンがどうやってか手に入れたセーニア軍の革鎧、それを元に作られたレプリカを着込み、折りを見て脱出を果たした。もっとも、彼らにはもう一つ、極めて重要な任務があったのだが。
シュイたちが戦争開始直前に待機していた場所では、アミナ他数十名の護衛に守られた魔道兵と町人たちが、蜘蛛の巣状に並べた鎖を囲むように立ち、限界まで魔力を練り込んでいた。ざっと見て、蜘蛛の巣の大きさは直径五十メートルほどはあっただろうか。
<怒れる雷の渦流>の雷により、シュイたちが本陣に至ったことを察した魔道兵は、自分のもてる分の魔力を一撃に込めるべく無心に祈った。シュイたちは――アミナが巡回船を駆逐しに向かっていたことを知らなかったが――彼女が再び魔道兵たちと合流してからわずか数分後、遠くからでもわかるほどの大量の照明魔石を投じた。
攻撃の合図を目視したアミナたちは、上空にある黒雲を見上げ、声高らかに魔法の詠唱を告げた。
『これだけ目標が近ければ外す心配もない。この一撃にそなたらの思い全てを込めよ。奪われた日常は己が手で取り戻すのだ!』
アミナの叱咤激励を受け、全身に勇気を漲らせた魔法使いたちは三秒のカウントダウンを経て、目の前にある鎖に向けて全身全霊を込めた魔力を解放した。手から、杖から雷が迸り、目の前に横たわっている銅の鎖に到達。雷は蜘蛛の巣の外周から中央へと収束し、戦場の方に伸びた太めの鎖に通電した。
南東から放たれた蒼雷はまず西に向かい、それから直角に曲がって北へと向かった。
鎖を連結する作業に当たったのはシュイたちの船を含めて四隻存在した。鎖を伝う雷は、衰えるどころか益々その力を増していくようだった。職人たちの手によって仕上げられたジヴーの思いの結晶は雷光を帯びて、セーニア本陣に牙をむいた。
雷が敵船団に到達するまでには、数秒もかからなかった。風よりも迅速に砂漠を切り裂き、鎖に触れていた砂地回りは一瞬にして黒ずんでいった。
その後、シュイたちの乗る黒船に到達した雷は、ビシャ・リーヴルモアらが乗る旗艦に至り、暴威の限りを尽くした。
――
省みれば、軍だけでは到底成し得ぬ作戦だった。剣を握れぬ者たちが、それでも何とか自分たちが出来ることをやろうと行動し、結実した結果だった。大切な家族が無事、自分たちの下へ戻ってきてくれるように。そんな願いを込められて完成した鎖は、ジヴー連合の窮地を救う武器として如何なくその力を発揮した。古来、紲という言葉は鎖の意味合いをも含んでいる。それを捩り、ヴィレンが<紲の雷>といった作戦名をつけたのもうなずける話だった。
一方で、事の成り行きを知らされたセーニア兵の反応は十人十色だった。ざわめきは一向に収まる気配がない。こうして手を拱いている間にも、後方にいる部隊は戦っている。時間をかければかけるほどに無駄な犠牲が増えていってしまう。シュイは本題に入るべく、声を大にした。
「ショックで目が向かないのは無理もないが、俺たちが潰したのはビシャ・リーヴルモアだけじゃない。数多の砂船を航行不能にしているのはもちろん、おまえたちの生命線をも断ち切っている」
「……生命線」
「先ほど説明したように、本陣の砂船のほとんどは雷撃によって大破している。人の体内の水分が数秒で蒸発するくらいだ、船内に積まれている水や食料もほぼ全滅したはず。俺の言っている意味が、わかるな」
シュイの言わんとしていることを理解し、ネルガーは唇を大きく震わせた。このままセーニア軍がジヴー軍と決着をつけようとすれば、たとえ勝てたとして一握りの兵士しか生き残れないのだ。
決戦の舞台となったのは砂漠のど真ん中だ。近くには川やオアシスなども見当たらない。ジヴー軍は予め、そういった場所で戦いに入るよう取り決めていた。
砂船のみであれば一両日中にもオルドレンに辿り着くかも知れないが、徒歩でとなると二、三日はかかる地点にある。ジヴー軍との死闘を乗り切ったとして、水と食料がろくにない状態で、砂船に乗れぬ大半の兵士たちが過酷な砂漠を横断することができるのか。そうと断言できる者はいないだろう。
今までセーニア軍は、本陣の砂船の幾つかを輸送船にし、そこから兵士たちに必要分の水と食料を配給してきた。大軍を運用するにはそれがもっとも効率的だったからだ。
旗艦を落としただけではセーニアを止めるに足りぬと考えたヴィレンは、兵士たちに危険を冒させてでも本陣の船を隈なく潰そうとした。セーニア船籍に偽装した三隻の船を使い、乗組員にセーニア軍の鎧を装備させ、セーニア兵船に取り付けていた鎖分銅を敵船に括りつけたのだ。これについては敵方の被害を拡大させ、申し分ない戦果を上げた。が、しかし、終戦の後に不審な行動を目撃されて皆殺しにされた船が一隻存在したと報告されたことも、申し添えておかねばならないだろう。
さておき、セーニアは要の将であるビシャとガレットを失っていたが、ジヴー側の主力は未だ健在。兵数は劣っているし疲労も否めないだろうが、総大将であるビシャを打ち取ったことで士気は限界まで上がっていた。通常時であれば圧倒的優位なはずの戦いが、ここにきて勝敗の行方は確定しているとまでは言い難かった。実際、待機している魔道兵たちに果たしてどれほどの力が残っているかは怪しかったのだが、そこは駆け引きのうちである。
ネルガーの頭の中では算盤が慌ただしく弾かれていた。ルトラバーグの町は、セーニア軍が持ってきた物資と数千の兵士を除けば空っぽに近い状態。仮に歩いたとして二週間弱、破壊を免れた砂船の食糧のみでは、三万もの兵士たちを飢えさせぬには足りな過ぎる。もし戦いを継続させたところで、持久戦に持ち込まれてしまったらセーニア方にも相当数の死者が出るはずだ。
善後策としては、先に砂船をオルドレンに向けて制圧に向かい、水や食料を確保した後でここに戻ってくる。これなら二日と経たずに戻ってくることができる。もちろん、相手の妨害がないことが前提ではある。
しかし、相手方の砂船のほとんどは今も健在。本陣を陥れた魔法使いたちが無傷で砂船に乗せられるとなれば、被害のほどは予測がつかない。どうしたところで戦いを続ければ、多くの犠牲を強いられるのは確実だと思われた。
シュイたちにとってはここが正念場だった。継戦にせよ退却にせよ、相手方にとってはどちらも苦渋の決断。逆に言うと、どちらの選択肢を選び取っても不思議ではないのだ。
仮にセーニア軍がこのまま退却すれば、ビシャやガレットら有能な騎士たちを失った上に、得られる物もないという踏んだり蹴ったりの状態。ジヴー連合の五カ国を制圧しているものの、当初の目的であった<魔遺物>の入手には至っていない。軍をジヴーに派遣した者たちは、決していい顔をしないはずだ。
逆にこのまま戦えば、極力被害を抑えたとして半数が生き延びられるかどうかも怪しい。しかも、今までとは違って勝利が確約されている状況ではない。食糧の問題は言うに及ばず、ビシャと互角に戦えるイヴァンを始めとして、屈強な傭兵たちが敵に回る。
二年半前のヌレイフでの戦いでは三万もの兵の命が失われ、当時軍を指揮していた者たちに対して大勢の国民から非難が紛糾したらしい。命を賭けて戦った将校たちは周りから罵声で迎えられ、果ては見せしめ人事で第一線から退くように命じられた。今まさに、悪夢のような光景が目の前で繰り返されようとしているわけだ。
犠牲は覚悟の上で当初の目的を果たすべく戦うか。培ってきた名誉をかなぐり捨ててでも兵士たちの命を重んじるか。今や両軍の兵士たちの命運は、ネルガーの判断に委ねられているようなものだった。
「こちらは既に五カ国を失っている。その上にオルドレンまでも渡すわけにはいかない。そちらが全てを踏み躙るまで止まらぬと言うのなら、こちらも腹を括るまでだ。こちらの交渉を受け入れるか否かは自由。だが、破棄するならばそれなりの扱いをさせてもらうぞ。少なくとも、今俺たちの視界に映っている者たちは、一兵たりとも故郷の土を踏めると思うな」
明らかに悩んでいる素振りを見せるネルガーに、シュイは脅し文句を言い添えた。これも半分以上はったりだった。心持ちとしては負けることなど考えていなかったが、大軍を相手に神経をすり減らしたジヴー軍に果たしてどれほどの余力が残っているのかは疑問だ。戦うことになれば、おそらくほとんどの兵士たちは、家族の元に帰れなくなるだろう。
エスニールでの惨劇が脳裏を掠め、シュイはぐっと鎌を握り締めた。後ろに控えているジヴー兵たちにしても、この交渉は心底望むものではない。理不尽に国土を荒らし回り、大勢の仲間を殺めてきたセーニア軍には腸が煮えくりかえっているはずだ。本音を言えば、ここにいる者たちを全員撫で切りにしてやりたいはずなのだ。負の感情を抑え、事態の収拾を図ろうとするシュイを見守っているのは、ひとえに家族のためであり、志半ばで倒れた戦友たちのためでもある。
「俺は元々部外者だし、正直言えばどう転んでも構わん。が、戦えば両軍ともに無事では済むまい。よしんばおまえたちが勝てたとして半数以上の兵士たちは砂の地に埋もれる。それくらいの覚悟はしておくことだ」
「……う……ぬ」
流し眼を含むイヴァンの横槍に、剣と腰の間で太い手を往復させていたディビが、呻くように反応した。
「そっちにも体裁はあるだろうが、体裁と兵士たちの命を秤にかけるようなことはして欲しくねーな。あんたらにだって家族はいるんだろ。そいつらを残して勝手に逝っちまうのは無責任じゃねえか? それとも何か? セーニアって国には、家族の幸せをないがしろにしてでも尽くす価値があんのかよ」
ピエールが苛立たしげに砂を蹴った。家族の、という言葉には将たちより兵士たちの反応が顕著だった。一家の大黒柱が倒れ、それでも家族が裕福な生活を維持していける。そんな余裕のある家庭はほとんどないだろう。
「あくまで他国の侵略を、俺たちの苦痛に満ちた顔をお望みだってんなら、もういい。てめえらをただの虫けらとしか思わねえ。体が動く限り、潰し尽くしてやるぜ」
本音と建前を織り交ぜ、ピエールが言葉を結んだ。中枢を制圧せしめた以上、これ以上戦うのは不毛だ。この状況で相手が戦いを望めば、たとえ首尾よくセーニア軍を全滅させることができたとしても、シュイたちの立場としては、戦いが再び始まった時点で敗北を意味しているのだ。
シュイは今をおいて、自分の表情が隠れていることを知られずに済んで感謝していることはないだろうと思っていた。外は冷気に満ちて息が白いが、額から滲み出た冷や汗の珠が目に被さってくる。弱気を見せれば、セーニアも撤退を考慮しない可能性が高くなる。このやり取り次第では、万を超える犠牲が出かねないのだ。これほどに胃が痛くなる状況などそうはない。
――疑うな。交渉は成功する。絶対に、させてみせる。
シュイはゆっくりと唾を飲み込み、乾いてきた喉の調子を整えた。想定内の被害に抑えられたとして、亡くなったジヴーの兵は千を超えているだろうと思われた。対するセーニアは、本陣の掃討が成功した時点で五千を下回らないのは確実。この差に相手が納得できるかははなはだ疑問だ。が、状況的に敵兵の命が風前の灯であることは疑いない。
それでも万が一、セーニア軍が戦いを望んだのならば、ニルファナからの破門を、アミナから絶交されることをも覚悟した上で、<滅祈歌>を用いて見せしめを作るつもりでいた。
そんなシュイの葛藤は露知らず、苦渋の表情を浮かべていたネルガーが、ふいに周りにいる兵士たちを見渡した。彼らの表情は揃って浮かなかった。見知らぬ土地で迷子になっているかのように心細そうだった。仮に命からがらオルドレンに辿り着いたとして、家族を失った町の者たちが牙を向かぬとは限らない。ここにシュイたちがいる以上、シルフィールの傭兵が他に待機している可能性も考えられる。高い確率で自分たちが死の瀬戸際に立たされるとわかっていながら、勝負に身を委ねられるほどに、命知らずではなかったようだ。
「……仕方……あるまいな」
呻くように言ったネルガーに、ディビが仰天した。
「……い、いけませぬぞ、シラプス将軍! このまま国に帰れば我々の立場が!」
ブチッ、と何かが切れるような音が聞こえた気がした。ふと隣を見れば、ピエールが今にも飛びかかりそうな表情でディビを睨みつけていた。
「言うに事欠いて立場だ!? こ……んのッ、てめえには情ってもんがねえのか!」
「貴様に何がわかる! 知ったようなことを言うな! 私には何より大切な妻がいる! その妻が、後ろ指をさされるような事になって欲しいと誰が思うかッ!」
「そんなら尚更だッ! なんで俺たちにも、てめえをそうやって護衛している連中にも、大切な存在がいるってことを考えられねえんだよッ!」
怒りを漲らせるピエールの剣幕にディビがたじたじとなり、数歩後ずさった。顔には脂汗がふつふつと滲み出ていた。
「……薄情な人間には、理解できないかも知れねえけどよ。俺の尊敬する傭兵は、たった一人の女のために、自分の生涯をなげうったんだぜ。……結局、救うことは叶わなかっし、一時は止められなかったことに後悔もしたさ。……だけど、だけどよ、今だからこそわかる。おっさんは、アルマンド・ゼフレルは、国のためだとかほざいている今のあんたらよりもずっと格好良かったッ! 最後の最後まで、自分の心に殉じたッ! てめえらにそんなのっぴきならねえ事情があるならまだしも、だ。部下の命よりてめえの外面を気にしてるやつなんかに容赦するつもりは一切ねえぞ!」
怒声が場に響き渡った。ピエールの熱弁はジヴー兵のみに及ばず、セーニア兵たちの共感をも呼び寄せたようだった。顔を見合わせているその様は今も少し不安げではあったものの、ピエールの心根にあるものを垣間見たが故に、騙し打ちされるのではといった考えは幾分拭われたようだ。
この時をおいて好機は他にない。シュイはかねてより温めていた言葉を口にした。
「武器を捨てれば、ルトラバーグまでの道のりは保証しよう」
「……ふ、ふざけるなっ! 蛮族に身の安全を委ねろというのかッ!」
「いつまでも頑固というか、学ばない男だな。武器を捨てたら最低限の食料と水を渡してやると、そう言っている。三万もの軍勢を捕虜として監視するつもりはない」
「そ、その手は食わんぞ。大方食糧や水に毒でも混ぜているのだろう! 大体、先ほどまで殺し合いをしていた者たちを信用できるわけがなかろう!」
「それを言うなら、庭先どころか家の中にまで上がり込んで凶器を手放さない者をあんたは信用できるのか。性根が腐っていないことを示すためにも、最低限それくらいの誠意はあってしかるべきだろう」
ディビの体が憤怒と屈辱に膨れ上がった。体表を覆う脂肪を大きく震わせ、ついに引っ込めかけていた剣を抜き放った。今にも切りかかってきそうな形相で。
シュイはディビを鋭く睨みつけ、溜息交じりに大鎌を傾けた。黒刃が松明の炎を映し取り、不気味に揺らめいた。
省みれば今この瞬間が、この戦争における最大の危機だった。どちらかが折れねば遠からず均衡は崩れる。一度始まってしまったら全てが水泡に帰すのだ。ジヴーは働き手の多くを失って滅亡に向かう。一方で、弱体化したセーニアがルクスプテロンからの進撃に晒される可能性も飛躍的に上がるはずだ。
そして、その沈黙に耐えかねたように、砂を穿つ音が鳴った。
ディビから距離を置いたセーニア兵が二歩、三歩と前に出、砂の上に剣を投じていた。
「な、何をして――」
止める間もなく、また一人。ディビの視界とは逆の方角にいた兵士が目を瞑り、両手で握っていた槍を砂に投げ捨てた。
振り返っている間にまた一人。今度は腰から鞘毎抜き取り、地面に放り投げた。
戦争中に武器を捨てることは任務放棄と見なされる。ましてや、将の命令なしにそれをやるのは反逆罪に当たる。兵士たちもそのことを承知の上でやっているのだろう。ディビとは目を合わせようともしなかった。
「……お、おまえたち……正気か? 許可なくこのような真似をしてただで済むと……」
「……ミョール大佐は、我々が死んでもいいと仰るのですか?」
「そ、そんなことは……ない」
ディビは目を泳がしながらもそう呟いた。
「なら、わかってくださいますよね。私の子供はまだ幼い……妻だって私が無事帰るのを信じて待っている。……万が一にもこんなところで死ぬわけにはいかない」
「お、俺にも、故郷に年老いた母が……」
「私も――」
口々に意見する兵士たちに、ディビの顔が暗闇の中でもわかるほどに赤く染まった。
「き、貴様らは……恥ずかしくないのか! 今まで散々敵を打ち倒しておきながらその開き直った言い草はなんだ! それでも誇り高きセーニアの騎士か!」
まるで、ジヴー側に立ったようなディビの物言いだった。そうしている間にも、砂が掘られる音は後を絶たなかった。武器を捨てる者はさざ波のように広がっていった。砂に突き立った数多の武器は墓地のようでもあり、犠牲になった兵士たちを慰めるモニュメントの様でもあった。
「くっ、リーヴルモア卿さえ……」
生きていてくれれば。そう継ごうとしたディビだったが、他の兵士が別の意味に捉えた。
「そ、そうですよ。あのリーヴルモア将軍でさえも殺されてしまったんですよ。ここにいる誰もが、あの人の足元にも及ばない。たとえ戦争に勝てたとして、自分が殺されてしまったら意味がないじゃないですか」
「……ど、どいつもこいつも。……こうなれば一人残らず軍律に則って――」
「――もうやめておけ、ミョール」
「シ、シラプス将軍、しかしっ……ぅ」
ネルガーは未だ言い足りなそうなディビを睨みつけ、無言で太い首を振った。それ以上ごねれば、兵士たちの不信感は増すばかりだ。戦場の倣いとして部下に殺されかねない。視線に含むものに、ディビは口を噤まざるを得なかった。
「……本当に兵士たちの身の安全は、保証してもらえるのだな」
ネルガーの視線に遅れて、兵士たちの視線がシュイに集中した。戸惑い、怒り、悲しみ、恐怖、そして期待。ありとあらゆる感情が同居していた。
シュイはセーニア兵たちの不安の極力払拭すべく、適切な言葉を選びつつ口を開いた。
「準ランカーアルマンド・ゼフレルは、力が及ぶ限りはこの国を守って欲しい、その言葉を俺たちに託してこの世を去った。シルフィールの傭兵は約を何より重んじる。死に際の彼から依頼を受けた以上、その望みにそぐわぬことはしないつもりだ。ジヴーの名を貶め、危機に晒すような真似をする気は更々ないし、誰かにさせる気もない。――これでいいか」
シュイが示した誓いにネルガーは目を細め、それから深々と息をついた。
全軍に告ぐ。ネルガー・シラプスが拡声魔石を用い、戦場に落ち着いた声を轟かせたのは、それから間もなくのことだった。
10月15日、10:30若干修正。