~紲雷 thunder of bonds18~
イヴァンがネルガーたちの前から姿を消してからしばらくして、ネルガーからの警告を受けたビシャや将校たちが近衛たちを伴って船上に姿を現した。
その間の戦況の流れとしては、イヴァンが離脱したヴィレンの船団は、しかしネルガーたちに対して苛烈な抵抗を続けていた。用兵についてヴィレンの才はネルガーのそれと肉薄しており、集団戦はほぼ互角の展開に持ち込めていた。
ヴィレンの指揮は敗北の経験と地の利を最大限に活かしていた。自分たちから敵船に乗り込むような真似はせず、耐久戦に持ち込もうとばかりに一定の距離を取って弓矢で攻撃を加えていた。セーニアの騎士たちも船に接舷して何度となく切り込んできたものの、その度に足場となる船を大きく揺れ動かすよう操舵士に命じ、陣形をまともに組ませなかった。
左に右にと揺れ動く乗り物の上では一定の姿勢を保つのが難しい。砂船での移動に慣れているジヴー兵は重心移動をそれほど苦にしていなかったが、セーニア兵たちは敵操舵士が乱暴に操る敵船の上で、その真価を発揮することができていなかった。平地での斬り合いであれば確実に分があっただろうが、踏み込みもままならない状況では力を込めて斬ることもままならず、狙いもろくに定まらない。
敵の動きを観察し、予測し、その都度適切な指示により陣形を整えていく。闇と同化した弓矢の優位を活かし、船の揺れを巧みに利用する。数で劣勢になったところには後方の船に迅速な指示を出して穴が広がる前に埋めていく。ヴィレンの頭の回転の速さと統率力は、戦っているネルガーがセーニアの将に欲しいほどだ、と感嘆するほどであった。
ほどなくして、両軍の船団ではつかず離れずの間合いから遠距離攻撃の撃ち合いに移行した。双方の船には外周に沿って予め折り畳み式の鉄の盾が多く備え付けられており、軽く取っ手を引き上げるだけで弓を防ぐことができた。いかにセーニア側が技量で上回っていようとも、目標に頻繁に隠れられては中々矢は当たらない。とはいえ、相手も盾の裏から狙いをろくろく定めず山なりに撃ってくるのでやはり当たらない。両軍ともに負傷者はねずみ算式に増えていったが、戦死する者は割合少なかった。
ひとつ決定的な違いとして、セーニア軍には攻撃魔法の使い手が20人中1人割くらいの割合で戦線に出ていたが、ジヴー側には存在しなかった。矢よりも範囲が広く、船を燃やすことも可能な炎の魔法。威力こそ減衰するものの鉄の盾を貫く雷魔法によって、戦局は時間の経過と共にセーニア側にじわじわと傾いていた。
ここで、ネルガーは敵の魔法使いたちが姿を見せぬことをさほど疑問には思わなかった。今までの戦いでもそれほど数が多かったわけではなかったので、どこか他の部隊にまとめて配置されているのだろうと考えていた。
それは理に叶った思考と経験則が導き出した解であり――意に沿う結果だったか否かはともかくとして――後に彼の推察が正しかったことが証明された。
続いて、中ほどに陣取る兵士たちに目を移すと、両翼の歩兵たちは後陣への支援に回っていた。砂船が幾つも待機していたため、ロッグ・ケトゥレフが全兵を遊ばせるのは勿体ないと正式に殿への応援を要請した。加えて、砂船も二隻ずつ、周りに変化がないか当たらせていた。この二つの指示についてはビシャも強く同意した。
開戦当初は優勢に戦えていたスザクの本軍もこの頃になると数量差は完全に逆転し、疲労も重なって少しずつ死傷者が増えていった。必然的に後退しながらの戦いを余儀なくされていたが、セーニア兵たちを勢いづかせるような崩され方はしていなかった。
最後に先陣の方では、西側から光が近づいてくることはなくなり、しばらくの間は真珠のネックレスのような連鎖光が同じ場所で上がっていた。こちらについてはロッグも待機命令を外さなかった。
これによって先陣には7000人が待機。両翼に16隻の砂船と本陣の8000、4隻が戦闘地域の南北を巡回。後方に一万弱、援軍に5000余りが向かっているという形になっていた。
伝令兵から定期的に入る自軍優勢の報を聞き、しかしビシャは眉ひとつ動かさなかった。無論、今までが勝ち続きだったのも理由のひとつだろうが、それだけが理由ではない。
セーニア軍とジヴー軍では大人と子供ほども戦力差が違う。そうと知りながらも正面から潔く戦わない敵兵たちを不満に感じていたのだ。やや大人げないと思われるこの考え方は、セーニアの国民全般に見られる驕りにも似た感情に戦士特有の強者を求める本能がないまぜになったが故のことだった。
兎ばかりを狙う獅子が弱くなるのと同じように、ぬるま湯に浸かり続けていれば己の歩幅が著しく狭まることを、ややもすれば後退すらしかねぬことを知っていた。たまに自らが戦線に加わるのも、少なからず命を失う可能性に身を置くことによってこれまでの経験で培われた戦闘勘を鈍らせたくないがためだった。
船上に出てきたビシャは、楽観的な雰囲気が漂う兵たちを尻目に内周に敵が侵入していないかしきりに辺りを見回していた。警戒するその様子を一歩引いたところから、ロッグが呆れ気味に見つめていた。
「司令、流石に敵がここまで至ることは考えにくいかと。いかに強くとも一人ではどうにもなりませぬ、相手とて身のほどは弁えていましょう」
ビシャの頭の動きがぴたりと止まった。
「ケトゥレフ、おまえはイヴァン・カストラを知らぬ」
「……確かに面識はありませんが、実力のほどは耳にタコができるほど知って――」
「百聞は一見に、という格言もある、やつの力を人間の枠内で捉えない方がいい。俺は以前に若いドラゴンを相手にした経験もあるが、やつから感じた威圧感はその上を行っていたと記憶している。この巨船ならいざ知らず、中型程度の砂船なら一人で沈めかねん」
「……そこまで、ですか」
ロッグが声の調子を落とす中、ビシャが己の腕に辰力を巡らせ、巨剣をゆっくりと星の光にかざした。人の腕ほどはあるだろう太さの剣を軽々と扱うビシャに、兵士たちが感嘆の息を吐いた。
ロッグは兵士たちが見惚れるのを見回し、溜息交じりに口を開いた。
「万が一乗り込んできたとして、以前のように手出し無用とは仰らないでいただきたいのですが」
「ふん、つまらぬことを言う。おまえにとってヌレイフのことはよほど重かったようだな」
束の間、ロッグの奥歯が噛み合わされた。だが、数瞬もすると普段と変わらぬ表情に戻っていた。
「そうではない、とは申しません。しかし、我々が負ける可能性としてはセーニア軍の柱であるあなたが討ち取られる以外にはありえない。これは断言できますぞ」
ロッグのこの忠言は決して大げさなものではない。かつてセーニアの至宝と謳われたコンラッド・ディアーダが失われた時、軍部ではひと悶着の一言では片づけられぬ軋轢が生じた。絶対的強者が存在したことで辛うじて成り立っていた秩序が瞬く間に崩壊、熾烈な派閥争いが勃発したのだ。
コンラッドの後釜に据えられんとする将校たちは、おのれに至誠を誓えぬ者に対して容赦のない制裁を加えた。各部署に放たれたスパイがもたらす情報によって不穏分子と見なされた兵士たちは謂われのない罪を着せられた。降格させられたり地方の支局に飛ばされるなどして出世争いから落伍する者が後を絶たなかった。その程度で済めばまだましな方で、闇討ちに遭って再起不能の怪我を負った者もいた。
密告に次ぐ密告で軍人たちは疑心暗鬼になり、身の置き場がなくなり、疲れていた。ナイトマスターがなくなってからの一年間というもの、セーニアの強みだった統率力は完全に失われていたと言っても過言ではなかっただろう。その隙を見計らうようにして、立て続けにイヴァン・カストラに要人を暗殺され、警備を司る軍の面目は丸潰れになっていた。詮ずる所、内部淘汰に費やすエネルギーばかりが先行し、遠征どころの話ではなくなっていたのだ。
ビシャはその中にあって、将校たちの誰一人として干渉出来ぬ男だった。純粋に強さのみを追求してきた剣術と戦術観は、陰謀や権益獲得に全力を注いでいる軍人たちの中において一際異彩を放っていた。
懐疑渦巻く状況に嫌気が差した兵士たちは――ビシャの思惑がどうであれ――次第に彼の元に集うようになった。そんな折に彼が天敵イヴァン・カストラの襲来を食い止めたことが呼び水となり、反抗勢力が一気に膨れ上がったのだ。
身の危険を感じた将校たちは軍を退役し、あるいはビシャの暗殺を企てた挙句に返り打ちに遭い、指揮官の席が大量に空いた。結果として、いわゆる中間管理職の位置にあり、なおかつ有能だった者はビシャと共に出世の階段を駆け上がっていった。
そのような経緯もあり、ビシャに寄せられる感情は信頼と言うより畏敬や恩が先に立つ。けれども彼が名将であるという事実に変わりはなく、類稀なる戦闘能力を有していることも敵味方を問わず誰もが認めていた。
「あなたが敵に対する切り札であることを疑う者はおりません。が、同時に我が軍のアキレス腱であることも忘れないでいただきたい」
「心配せずとも変に無理する気はない。おまえが思っている以上に、俺は負けずぎらいなのでな」
心配性の軍師にビシャが軽く応じたところで、西の地平が何度目かの強い光を放った。
待機していた先陣の兵士がおのれの目を細めた。次いでわずかな疑念が確信に変わるのを感じた。一際大きな砂丘の裏から8隻の砂船の群れが連なるように姿を現し、遠くで舳先を自分たちのいる方角へと向け始めた。
それがジヴー側の船であることは確かだった。果たしてどれだけの兵士が乗っているのかはわからなかったが、海を航行する船と変わらぬ大きさの猛威に違いはない。生身で轢かれればほぼ確実に命を失うだろう。
自分たちのいる方角を目がけて突撃してくるのを見て、幅広の防衛線を築いていたセーニア兵たちが瞬時に散開。針路から逃れて小高い砂丘に移動し、素早く複数の陣形に組みかえた。
二重、三重の防壁を展開した上で魔法の詠唱を開始。船の横腹が見えた部隊から一斉に、これ以上の侵攻を止めるべく船体を直接狙い、風の魔法を解き放った。
砂の輪が幾つも生まれ、台風のような突風が渦を巻きながら船の横腹に直撃した。鉄板が耳障りな音を立てて軋んだ。単発では少し傾く程度だったが、続けざまに魔法弾がかなりの精度で飛来し、体勢を立て直す暇も与えない。兵士たちの真横を少し過ぎたところで、ついに船が横倒しになった。超重量による衝撃で大きな砂の棺が現れ、巻き上げられた砂が船に被さっていく。
後方の部隊が倒れた砂船を素早く取り囲む傍ら、敵船団は友軍の船がやられたことに臆することなく、次々と突進してきた。
先陣のセーニア兵たちは冷静に、しかし完璧な仕事ぶりを見せた。連日の行軍で魔法を連続使用するのは体力的に厳しいものがあったが、それでも結果的に7隻を無傷で沈め、残った一隻を引き返させることに成功したのだ。後ろには船首の株をでこぼこにされた敵船が7隻、横倒しになっていた。その手際は大いに誇ってしかるべきことだった。逃げ帰っていく砂船を見届けた部隊は歓声で湧いていた。
撃退に当たっていた部隊も一隻が遠ざかっていくのを確認し、今度は7隻を囲む兵を援護するべくそちらへと走り始めた。船に乗っている兵士たちが生きていたとすれば始末せねばならなかったからだ。
けれども、倒れた砂船に向かった兵士たちは思わぬ事態に直面することになった。
「……敵がどこにもいないだと? 操舵士すらもか?」
呆れて棒立ちになってしまった女顔の部隊長に、探索に回っていた厳めしい顔つきの部隊長が肩をすくめる。
「今のところは、な。今は五隻目を確認させているが、多分こいつも外れだろう。そりゃあまっすぐ向かってくるはずだ、連中、臆病風に吹かれたのか砂船を置いて一人残らず逃げちまったらしい。船尾の死角側に縄梯子が吊るされていた」
「梯子、それはいくつぶら下がっていた」
「……ひとつだが?」
「なるほど、それで逃げたとなれば、予め船に乗っていたのはごくごく少数だったってわけだ」
「……なんでそうなる?」
「バカ、少し考えればわかることだろう。逃げる時いっぺんに何人もぶら下がれば梯子の縄が切れちまうだろう。少なくとも縄が切れない程度にはゆとりをもっていたはず」
おお、と何人かの兵士たちが相槌を打った。
「連中も鬼だな、そんなに少ない兵士を敵陣に突っ込ませるなんて」
「おいおい、砂船って水に浮かぶ普通の船よりも値が張るんだぞ? なんかの作戦じゃなきゃ使わないだろう」
「作戦って、薄々察しつくけど例えば?」
「油が撒いてあって火計を仕掛けるつもりだったとか」
「油どころか、荷物もまともに入ってなかったよ。水の入っている樽が一つあるだけだった」
「……水だけ? 毒とかじゃ」
ない、と長身の男が断言する。
「カナリアにも飲ませてみたが何の反応もなかった、ありゃあただの水だ」
動物虐待反対という言葉を飲み干し、女顔の男は額に手を当てて考え込む。敵戦力の大半は後陣へと投入されているようだが、先陣への対応には手抜かりが多過ぎる。敢えて砂船を用いる理由があったとすれば。
――時間稼ぎ、か? でも、連中は未だに手も足も。
無謀な突撃に先陣のセーニア兵が疑念を抱き、嘲笑っているまさにそのとき、本陣の真南では一隻の黒船が、友軍の船と共に左翼の突破を図っていた。