~紲雷 thunder of bonds17~
敵船を遠眼鏡のレンズに映したネルガーの副官が息をのんだ。
「……手配書の似顔絵とほぼ一致しました。間違いありません、イヴァン・カストラです」
その声には激情と微かな怯えの色があった。それもそのはず、セーニアの軍人にとってあの男は邪竜にも匹敵するほどに忌まわしき存在だ。何しろ重臣たちを暗殺する過程で護衛や警備の者たちを何百人と殺めている。
多くの同輩たちには愛すべき家族が、守らなければならぬ家があった。主人が亡くなったことでお取り潰しになった家もいくつかある。彼らの家族は今頃どうしているだろうか、と考えると憐れにも思う。
ネルガーは、副官の見ている遠眼鏡が小刻みに揺れているのを見て見ぬ振りをした。
「ふむ、圧巻だな。これほど離れているのに気迫を感じさせる」
そう言いながらも視線は戦線の方に向いている。いくら相手方が数で上回っているとはいえ、この短時間で手厚い陣形を崩されていることには驚きを禁じ得ない。今までとは違う敵の手強さに、認識を一新する。
「いかが致しますか、北からの歩兵と連携して討ち果たしましょうか」
「妙に思わぬか」
「と、言いますと」
腕を組んで考えに耽るネルガーに副官が首を捻った。
「魔石でカストラが加わっているとの連絡が届いたのはつい先ほどのこと。そして、相手の切り札と言えるだろうやつが早々と場に出された。いくらなんでもタイミングが良過ぎる。一見すると裏をかかれたように見せかける敵の意図するところは何か」
「囮、ですか」
副官の即答にネルガーがにやりと笑う。あくまで勘ではあったが、あながち外れてはいないはずだ。そうとなれば、開戦前に魔石で送られてきた文面の内容は、やはり敵方が間者を捕らえた上で無理やり送らせたと見るべきだった。
イヴァンが後方から襲ってくるという伝達が遅れれば、後尾にこうまで戦力を集中させることはない。だからこそ敵は早めに強敵の存在をこちらに仄めかした。問題は、こんなわかりやすい手を相手が使うかどうか。
「シナリオとしてはある程度の戦力を後方へ誘き寄せ、中央が手薄になったところで満を持して伏兵が登場。さらには残存兵力を一点に集中させ、薄くなった外側の防衛線を突破する、といったところか。その指揮者は」
「シュイ・エルクンド」
「と、見るべきなのだろうが。相手がここまで策を捻ってくるとなると、幾つかの推測が外れる可能性も大いにあるな。もしかすると、我々が警戒するべき相手は他にもいるのかも知れん」
言葉を区切り、ネルガーがゆっくりと周りの戦況を眺める。右翼、北側に陣取る船団に動きはない。が、その周囲にいる歩兵たちは徐々に南下しつつある。十数分持ちこたえれば数千は増えそうな状況。
左翼、南側に陣取る船団は期待の新鋭、ガレット・リブライが指揮している。こちらは当初、劣勢の後方部隊の方へ向かおうとしていたが、ネルガーたちが先んじて向かっているのを確認したのか引き返す動きを見せている。どうせなら一緒に戦えれば確実に優勢に持ち込めるのだが、船団が消えれば南側はかなり手薄になる。
ネルガーもシルフィールの傭兵は何人か知っている。準ランカー以上となればいずれも百戦錬磨。ましてや相手は、寄ってたかってとはいえ常勝不敗のエミド・マスキュラスに引導を渡した男だ。ビシャの実力を以ってしても、易々と勝たせてもらえる相手ではない。
「では……しばらくはここで敵を食い止め、応援の兵が揃ったしたところで反転しますか」
「状況にも寄るから何とも言えぬが、当面ここを動くことはしない」
「な、なぜです?」
「知れたことだ、ここで連中を野放しにしたまま本陣に戻れば戦に勝てたとして万に近い犠牲が出よう」
警戒すべきは何もイヴァンだけではない。ここまで押し込んでいるのは今まで敗戦を重ねていたはずのジヴー連合の者たちだ。
今必死にジヴー軍の侵入を食い止めているのは一般階級の若い兵が多い。貴族階級の将校たちと違い、叩き上げのネルガーにとっては彼らに対する共感は並々ならぬものがある。若かりし頃、矢の雨を潜り抜け、刃に幾度となく肌を撫でられた己の姿が、敵の猛威に晒されている兵士たちに重なるのだ。
勝利を重ねている裏で出る犠牲は、ほとんどが一般階級の者たちだ。戦えども戦えども、前線に駆り出されてばかりで中後列に回されることはほとんどない。そんな中で生き残っていくのは生半なことではない。
軍隊にも格差はある、というより、軍隊ほど格差を実感させられる場所はない。何しろ身分の上下で生存率に数倍の差が生じるのだ。この状況にしても、砂船に乗っている者たちは万が一負けても逃走手段を持っている。しかし、歩兵たちはどうか。食糧や水を大量に乗せた輸送船が逃げてしまったら、三日と持たずに日干しになるだろう。砂船を全て使ったとして運べる兵数は一万五千に届くかどうかだ。
「いや、そこまで悲観することもないのか。こういった回りくどい策を用いるということは、敵側からも徒に被害を拡大させたくないという思いが読み取れる。もちろん、まともにやっては勝ち目がないという理由が先立っているだろうがな。ここは無駄な犠牲を抑えるためにも、敢えて敵の策に乗ってやろうと思う」
ネルガー個人としては、こちらの数がある程度揃ったところで敵軍が撤退を指示することは有り得ないと読んでいた。先にオルドレンを制圧してしまえば敵の退路はどこにもない。国が滅びる瀬戸際では敵も死に物狂いで向かってくるだろう。まともに食いあって消耗しては、ルクスプテロンとの戦いが頓挫するかも知れない。
ジヴー側が遊撃隊での奇襲を目論んでいるとして、両翼にも兵士たちはいるから早々突破はされない。万が一中枢にまで至ったとして、完調から程遠い状態であの男に、ビシャに勝つことなど絶対に不可能だ。それを認めるのは少し悔しくもあるのだが。
最後の心情を端折って説明するものの、副官はどこか複雑な顔だった。
「し、しかし、敵とて無策で中枢に乗り込むとは思えません」
「当然だ。されど、中枢の機能不全を目論むには多くの強兵の動員、もしくは強力な対艦攻撃が必須。ここにいる敵兵がざっと見て一万足らず。ならば、敵の温存兵力は多く見積もったとして数千。中枢はとても落とせんよ。本陣は厳しい訓練と実戦に耐え抜いた者たちがごまんといる」
「船を一撃で沈めるくらいの大魔法や召喚獣を用いられたら?」
ネルガーはやんわりと首を振った。本陣には感知魔法や防御魔法の使い手も多い。単発なら心構えさえしていれば防ぐのはそう難しくないのだ。仮に外周を打ち破ったところで敵方が魔法を使おうとした時には必ず魔力を増幅させる必要がある。それを感知魔法に気取られればそこまで。結界を展開することで被害は最小限に抑えられるだろう。
「確かにやつらが旗艦を沈めることが出来れば勝負はわからなくなるかも知れん。が、はっきりいってそれが成功する確率は著しく低い。そんなことのために動いて一万の兵の命を失うような真似はできんし、それに――」
「それに?」
「仮に中枢まで攻め込まれたとして、そこは儂らの領分ではない。本陣の連中が今こうやって高みの見物をしているように、儂らも我らが司令の戦いを見届けるまでだ。慢心でリーヴルモア卿が敗れるようなことがあれば、それはやつの器量が不足していたというだけのことよ」
ネルガーの厳格さを肌で感じ、副官が喉を震わせた。元々、彼は貴族階級の者たちをあまり快く思っていない節がある。出世競争に遅れたのはビシャが台頭したということ以上にお偉方に取り入ることを嫌ったからだというもっぱらの噂。彼としては、せめて自分だけでも不遇に扱われている一般兵の味方をしたい思いがあるのだろう。
「超遠距離からの広範囲魔法ということであれば」
「それほどの使い手がいるとなれば、100%奇襲と一緒に仕掛けているはずだ。不意打ちが一番被害を見込めるチャンスだからな」
「あぁ、それもそうですね」
もちろん、遠方からの魔法であれば間違いなく結界術師たちに遮られる。仮に大魔法使い手がいたとして、なるべく接近して仕掛けようとするはずだ。好戦的なビシャがのうのうと中枢に陣取っているかはまた別だが。
「合点が行きました。ネルガー様には軍略の才能もおありだったのでは?」
「命令するよりは好き勝手に動く方が性にあっておる。我儘を通すためには偉い方が都合がいい」
――いや、それも一概には言えぬか。
ネルガーは頭に浮かんだ考えをすぐに修正した。魔石という連絡網を封じられた状態で指揮所があちらこちらに動くのは無理がある。闇の中で密集していれば狼煙も非常に伝わりにくい。昔は矢文などという手段も用いていたが、年々編成に弓兵が加わっている部隊は少なくなってきている。連絡手段をひとつだけに限定する弊害が、今のこの状況ということなのだろう。
――この戦、ルクスプテロンとの前哨戦に過ぎぬと思っていたが、案外良い薬になったかもしれんな。
「……ネ、ネルガー様」
横からの声にネルガーが応じる。
「うん、なんだ?」
「その、イヴァン・カストラの姿を見失いました。先ほどまでは船上にいたはずなのですが、今はどこにも」
「なんだと? 後方に下がったか?」
そう訊ねつつも、ネルガーは先ほどの威圧感が忽然と消えたことに気づいていた。
――殺気が完全に消えておる。最後まで本命の策を絞らせぬ気か。
ネルガーが素早く周囲を見回す。が、闇の中で、しかも人ごみの中からたった一人を探すことなど出来るとも思えない。
「船を下りたのでしょうか?」
「あの男ならやりかねんな。夜で外気温もかなり下がってきておる。多少走ったところで疲弊すまい。本陣に一隻下がらせて警戒するよう伝えよ、それくらいの義理は果たしてやらねばな」