~紲雷 thunder of bonds16~
シュイたちの乗る船が出撃するよりも少し前のこと。セーニア軍の後尾では、スザク・シハラ率いる本軍が交戦を開始していた。
殿にいたセーニアの数個部隊約三千に対し、雪崩打ってきたジヴー軍が倍以上の数を揃えて突撃を敢行。後方部隊の指揮官が一目で数的不利を把握し、素早く戦列交代。歩兵と入れ替わりに最前列に出た魔法使いたちが突撃してくるジヴー軍に杖を掲げた。
同時に、ジヴー軍のらくだ隊の裏でも歩兵たちが急停止。素早い動作で背負っていた弓を外し、矢を番え、星空へと向けて引き絞る。
「――よしっ、右前方からだ、――撃てぃっ!」
指揮官の指令が飛び、隊列を組んでいた魔法使いたちの杖が煌々と光を放った。炎の球体が、雷の束が闇夜に咲き誇り、宙に舞う砂粒を焦がしながらジヴー軍に迫る。乱れ飛ぶ攻撃魔法の何発かがらくだや騎手に命中し、悲鳴と嘶きと砂地への鈍い落下音が入り乱れた。その直後――
「ぐぁぁっ!」
「ぎゃッ!」
今度はジヴーの弓兵たちが上空に放っていた矢が、時間差で雨あられと降り注ぐ。防具を持っていない魔法使いたちはおろか、盾を持っていたはずの兵士たちも防ぐこと叶わず、ばたばたと前のめりに崩れ落ちていく。
「魔法……いや、射撃かっ? くそっ、一体どこから……」
「――<燃焼壁>!」
指揮官の問いを意識したのか、傍らにいた老魔法使いが炎の障壁を迅速に展開。湧き出る重油に火がついたかのように、砂地から炎が高々と吹き上げる。暗闇に光の領域が大きく広がり、倒れているセーニア兵たちの体に刺さっているものを煌々と照らし出した。
「……矢のようですが、黒く着色されているようですな」
地面に散乱していた矢を一本拾い、指揮官が指の腹を見た。長時間書き物をした後のように真っ黒になっていた。
「……念入りに尾羽まで。……味な真似を、最初から夜襲を想定していたか」
歯ぎしりする指揮官に兵士たちが身を竦ませる。夜の闇で飛んでくる物を見切ることがどれほど困難であるかは子供でもわかるだろう。ましてや、その色が真っ黒であれば。そうしている間にも黒い雨が間断なく降り注いでいる。
「た、隊長……」
「臆する必要はない! 盾を手にしている者は前に出て連帯し、空からの矢嵐に備えよ! 手の空いている者はその隙に負傷した兵を後列に下げるのだ! もう間もなく周りから援軍が到着する!」
剣で矢を断ち切りながら指揮官が叫ぶ。淀みない指示が出されたことによって隊員たちの動揺が収まった。タワーシールドを掲げた兵士たちが前に出、怪我人を庇うように上空に盾をかざす。身の半分を覆い隠してしまいそうな鋼の盾は矢のほとんどを無効化する。
だが、あくまでも空からの攻撃は後尾に取りつくための援護射撃にすぎないものだ。攻撃の止んだ間を見計らい、ジヴーのらくだ騎兵が一丸となり、槍を掲げて歩兵たちに猛突進した。腕に固定していた盾を強かに打ちつけられ、数名の兵士の腕や手首があらぬ方向へと折れ曲がった。骨折した兵たちが突っ伏して激痛に喚く。
セーニア出身の者に比べてジヴー出身の兵が格段に優れている能力。それは驚異的な視力であり、夜目が利くことにある。セーニア統治下の町は照明が至る所にあるせいで夜でもかなり明るい。反してジヴーでは、特に夏の間は太陽が出ている時にあまり長く外にはいられない。よって、必然的に夜に活動している者が多いのだ。補足すると、町の通りなどにも照明はあまり備え付けられていないので、多少暗くとも物体を判別できる能力が身に付く。
武器を黒く塗り替えるだけならばセーニア方にも出来なくはない。が、味方が近くにいる状況でろくに見えぬ武器を振るうとなればあらぬ場所で同志討ちになる。その点、ジヴー方はその心配がほとんどない。
敵の体勢が崩れたのを見逃さず、前列のらくだ騎兵の隙間から後列のらくだ騎兵が連携突撃。今度ばかりは抵抗も散発的なものに留まり、らくだ騎兵の勢いは止まらなかった。興奮して首を上下左右に振り回したらくだの群れがセーニア兵たちを片っ端から轢き倒し、しゃくりあげ、弾き飛ばす。
もちろん、セーニアの軍もやられっぱなしではない。突出し過ぎたらくだ騎兵を魔法で偏差打ちして仕留めたかと思えば、地面と平行に固定された槍の柄にらくだを躓かせ、地面に落下した兵を起き上がる間も与えずに刺し貫く。
大混戦となったところで斜め後方から追いついてきたジヴーの歩兵たちが近接武器を手に突進。数的優位に立ったところで前線を一気に押し上げていく。連なる剣撃の音。あるいは盾で剣を弾き返す音が夜の砂漠で幾度も奏でられている。
闇に乗じての奇襲にも動じなかったセーニア軍は、流石に戦い慣れているといって良かった。が、ジヴー兵たちが多くの工夫を施したことによって余裕を持っては臨めなかった。
まず、黒く塗られていたのは矢だけではなかった。歩兵たちが携えている剣の刀身、槍の穂先までも真っ黒に塗られていたのだ。相手の手が振り切られた時には防御していないと確実に深い傷を負わされる。セーニア兵たちは必然的に、ジヴー兵たちの腕の動きを見てからの防御に追われていた。相手が自分たちよりも劣っていたという認識が狂わされたことにより、守勢に回らざるを得なくなったのだ。勝ちが決まっていると言われている戦で殺されては誰だってたまったものではない。
もうひとつ、先陣や本陣からの援軍が遅れているのにも理由があった。後方部隊が戦闘に突入する前に西の地平の先を横断した光が、今度は明らかに距離が縮まった場所で、つまりはセーニア軍のより近くで光っていたのだ。
考え得る最悪の状況は西側からの敵兵の接近。もしくは伏兵の可能性を捨て切れず、本陣より西側に位置する兵士たちは挟み撃ちを警戒してその場を動けなくなった。兵士たちの数が多すぎる故に細かい指揮を浸透させることができず、先陣の指揮官たちも指示なしで持ち場を離れることを躊躇ったのだ。いくら個々の腕に優れていようとも、連絡手段なしでは力を存分に発揮することが出来ない。それはセーニア軍唯一の弱点といって良かった。
だがそれも、自分たちの数が多いことをちゃんと頭に入れているのであれば適切な判断と取れなくもない。守備に集中して被害を減らし、反撃の機、相手の疲弊を狙う。大昔から使い古されている<単純な手>だが、それがいつまでも戦術書の教本から絶えないのは効果的な手段だからだ。
セーニア軍も不利な状況での戦い方を良くわかっているのだろう。随所で時間稼ぎの照明魔石が投じられ、両軍が入り乱れた戦場で光が間断なく煌めいている。視界を確保することで敵の武器を一時的に可視化し、防御しやすくすることでなんとか陣形の崩壊を食い止めていた。
ここで、この決戦における一つ目の節目が訪れた。敵の援軍に先んじてヴィレンの船団がスザク隊に追いついたのだ。援軍で駆けつけた歩兵たちの更に斜め後方から横に並ぶように接近。北東から南側へと移動していたセーニア兵たち数千がそれに気づき、進路を変えて防御陣形を張る。迎撃態勢を整えたセーニア軍に対し、ジヴーの船が足並みを揃えて減速した。ただ一隻を除いては。
――単独で突っ込んでくるだと? ……舐めるな、一瞬で沈めてやる。
自分たちの方に真っ先に突っ込んできた砂船を見据え、セーニア側の魔道隊長が攻撃準備を指示。若手の魔法使いたちがずらりと立ち並び、合成魔法を展開する。ほどなくして<吸収>された魔力の<同調>が完了し、上空への<解放>と共に広範囲上級魔法<高貴なる緋の爆砕>が発動。地上から10メードほどの高さに直径5メードほどの大火球が出現する。
敵の船からもその様子は確実に見えているはずだが、それでも船は構わず突っ込んでくる。一旦減速して先頭の船とやや距離を置いていた他船も、再び先頭の船を追うように加速を始めていた。
「後続にも対応せねばならん、あの船を仕留めたら即座に次の詠唱に入れ! 狙いは船首の中ほどだ、絶対に外すなよ!」
敵の姿が目視でおよそ200メードの距離になったのを見計らい、魔道隊長が迅速に指揮棒を振り下ろした。夜空に色めく紅蓮の大火球が急加速し、一直線に先頭の船へと向かっていく。この距離では方向転換は間に合わない。万が一回避しても後列にいる船が確実に巻き添えを食うだろう。セーニア兵たちが直撃を確信してほくそ笑んだ刹那――
「――はぁあああぁっ!」
砂船の先頭に立っていた珈琲髪の男が火球の軌道を見切り、裂帛の気合と共に腕を薙ぐ。分厚い甲板が浅く踏み抜かれた直後、不可視の巨腕が迫り来る大火球を打ち据えた。
歪にたわんだ火球が数秒の衝突を経て、ついに左方向へといなされる。猛烈な突風が吹き荒れる中、弾かれた火球が砂丘に接触。三角形の輪郭が幾重もの射光と共に霞み、大爆発を引き起こした。
結界を使わずにたった一人の手によって大魔法が防がれたのを目の当たりにし、魔道部隊に激震が走る。
「……な、なんてでたらめなやつだ! 10人からなる合成魔法を……」
「――あ……、た、隊長! 駄目ですっ、早く逃げてくだ――」
兵たちの切迫した声に、しかし反応は遅れていた。咄嗟に顔を上げた魔道隊長の全身が、色濃い影に覆われる。一瞬の思考の空白が、敵船の更なる接近を許していた。
咄嗟に身を翻そうとした瞬間、網を引き千切るような音が鼓膜を震わせた。高さ10メードほどの壁が砂を巻き上げながら一気に迫り、左前腕部を千切り飛ばしていた。日に焼けて真っ赤な腕が、緩慢に回転しながら地面に落下していき、砂に突き刺さる。
足元から聞こえてくる絶叫を意に介した様子もなく、イヴァンは正面から近づいてくる砂船の群れに目を光らせた。胸中を占めるのは敵の迅速な支援に対する称賛の声。本陣に寄せられた支援要請に即断即決したネルガー・シラプス指揮下の船団が、まるで翼を広げるように展開を始めていた。