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~紲雷 thunder of bonds14~

 星くずで象られた銀河と散りばめられた大小の星が夜空を織り成していた。誰もが見惚れるだろう美しい空とは対称的に、くすんだ灰色の大地には楕円型の巨影が蠢いている。

 大勢の歩兵によって組み上げられた大きな円陣の中央には、十隻の大型船と二十隻の中型船で構成された船団が、やや距離を置いて両翼にも中型船が十隻ずつ確認できた。歩兵たちと接触するのを避けるためか、一定の距離を保ちながら低速並走している。

 個性の薄い船が居並ぶ中で、中央部のやや後方に取り分け目立つ船が見受けられた。先端には水瓶を肩に抱えた裸夫人の船首像。三本の立派な帆柱が甲板から天に向かって伸び、それぞれに横帆が掲げられている。搭乗数四百名を悠に超える旗艦『ナルヴィニ』の威容である。

 世界最大級のその砂船には、セーニア軍総司令ビシャ・リーヴルモア他、数名の将校たちと三百を超える精鋭たちが搭乗していた。


 ルトラバーグからオルドレンまでは、砂船を日夜走らせれば四日足らずで到達する。とはいっても、歩兵たちと足並みを揃えればその何倍もの時間がかかるし、行軍が遅くなる分<砂鮫人(シャーラギ)>などの魔物に遭遇する回数も増えてしまう。

 進軍速度を重視していたこれまでとは違い、どっしりと構えての行軍。短期間の内に目的地に辿り着けぬのをもどかしく思っていた将校もいたが、そういった些細な不満は日を追うごとに消えていった。ルトラバーグを出てから九日目には、オルドレンの町まで約120kmの地点に到達。士気も高い水準で保たれていた。


 革鎧を着込んだ兵士たちが一歩一歩足を踏み出す度に、彼らの履いている靴が砂地を抉り、くるぶしの辺りまでが砂礫に埋まる。今宵、円陣の先頭を進む兵士たちは松明を手にしていない。空気が澄み切って星がいつも以上に明るいためか、伸び縮む影が斜面に薄く映し出されるくらいの照明は確保されている。

 夜襲を仕掛ける際には敵の状況把握を遅らせるために、照明を手にしている者を真っ先に狙うことが多い。腕に覚えがある者でも、闇に乗じた不意打ちを防ぎ切るのは困難だ。セーニア軍には感知魔法の使い手もいるが、距離が離れていると少人数の探知は心もとない。はたまた、気配を殺せる手練に対して効果が薄いことなどから、完全に信頼できるものでもない。


 外側の兵士たちが潜伏できそうな起伏に目を走らせる傍ら、中後列に陣取る部隊には比較的穏やかな空気が流れていた。部隊の配置がどこになるかで生存率は相当違ってくる。騎士の価値観において先駆けが誉れとされているのもそういった理由によるものだ。

 勝ちを意識し始めた兵士たちは、戦のこと以外にも考えを巡らせていた。戦の褒章を頭に思い浮かべてにやける者がいれば、故郷で待っている家族との再会に思いを馳せる者もいた。はたまた、行き付けの食堂の看板娘とのあらぬ逢瀬を妄想し、鼻の下を伸ばす者も。

 油断はもっての外であるが、日がな一日戦仕事のことばかり考えるのも気が滅入る。加えて、彼らには緊急事態にも対応できるだけの訓練を積んでいるという自負があった。場馴れした兵士であれば、寝ている時でも物音が生じた瞬間に覚醒し、反射的に枕元の剣を手繰り寄せている。弛まぬ訓練により培われた実力と自信。何よりこれまでジヴーに全勝しているという事実が、彼らに落ち着きを与えていた。



 日没から二時間ほどが経過し、兵士たちが一時休憩の準備を始めようとしていた頃。ふと青白い蛍火のような魔石の光が西から飛来してきた。その光は歩兵たちの頭上を掠めるように通り過ぎ、砂船の船団へと吸い込まれていった。

 そして、霊体に込められていた情報は、のんびりと構えていた将校らを戦慄させるに足るものだった。


「……よもや、ジヴー側にイヴァン・カストラがな」

 ビシャの重々しい呟きに、将校たちの顔が自然と引き締まった。セーニアの名だたる重臣たちを葬り去ってきた悪名高き戦士。暗殺が立て続けに行われていた当時、外遊の外回りや要人護衛任務に就いた経験のある者たちは、彼の実力を嫌というほど味わっていた。

 婦女子に人気のありそうな甘いマスクとは裏腹に、一騎当千の実力を持つ暗殺者。手刀で剣戟(けんげき)を寸断し、回し蹴りで辻風(つじかぜ)をも生み出し、水上をも駆ける怪物。辰力のみならず付与魔法も使いこなし、人の壊し方にも精通していることから並々ならぬ医療知識があるのではと疑われている。

 およそ無手とは思えぬ攻撃力もさることながら、真に恐るべきはその俊敏さにある。遠方に佇んでいるかと思えば、瞬く間に視界から忽然と消えている。障害物のない場所であればまだしも、森や街中などの煩雑な場所で遭遇したら対処のしようがない。余所見をした途端にあらぬ方向から、当たれば致命傷の一撃が獲物を狙い澄ました燕のように飛んでくる。そして、実際にそうやって仕留められた仲間は数知れない。

 静謐にして精密。目にも止まらぬ速さという言葉を誰より体現する男。飛び道具や攻撃魔法を当てようにも野性の獣のような俊敏さと老獪な読みは一切的を絞らせず、一流道場の師範クラスですらその動きを見切るのが困難だと言われている。

 また、ビシャがイヴァンを撃退したという逸話にしても、逆に彼の名を高めている節がある。騎士団に所属して二十数年。今は亡きコンラッド・ディアーダに次ぐ出世頭の一人ビシャ・リーヴルモア。セーニア軍に所属している誰もが知っている基礎知識である。数々の実績の中で彼がこれまで仕留め損なった者は片手で数えるほどしかいない。小勢で数々の暗殺を成功させ、ビシャを相手にした今も生き残っていることが、彼が非凡な人物だという何よりの証というわけだ。


 そんなわけで並々ならぬ評価を頂いているイヴァンであったが、彼がジヴーに味方しているという問題の報告については、懐疑的な見方を示す者も少なくなかった。

「数年前に立て続けに起きた暗殺のようにやつらの一味だけが加わっているというのならまだ得心が行きます。ですが、そこにシュイ・エルクンドまで加わっているとなると流石に出来すぎと言いますか、信憑性に欠ける気がしますな。賞金首と傭兵は天敵同士、そう簡単に手を組むとは……」

「儂も同意見だ。定期報告が途絶えてから先ほどの報告まで、いくらなんでも時間が経ち過ぎているのではないか? 潜伏していた間者が敵方に絡め取られている可能性も否定できぬ。第一、いくらやつが我らに恨みを抱いていたとしても、由縁なしに敗北寸前まで追いつめられた国を救おうなどと考えるかどうか」

 偽物の可能性を示唆する副官とネルガーの提言を聞き流しつつ、ビシャはグラスの中にあった氷を奥歯で噛み砕いた。

「しかし、どうせならもっとましな嘘を流すような気もするな。他四大国が援軍を寄越したとかの方が我々を()らすには適している」

 太ましい審問官ディビ・ミョールの言に、何人かの将校が相槌を打った。確かに、いきなりイヴァン・カストラとかシルフィールなどと言われてもピンと来ないのは事実だ。それが回りまわって情報に真実味を与える。偽情報を信じ込ませようと思うならもう少しましな情報を流すだろう、と言いたいらしい。

 けれども、もし仮に全てが本当だと頭の痛い問題が出てくる。勝ちが揺るがないにしても四大ギルドの一角が本格的な支援をしているとなれば相当な被害が出ることが予想される。犠牲者が多くなればルクスプテロンとの戦を前にして、一旦収束した反戦論が三度息を吹き返してしまうかも知れない。


「けれども、ヌレイフでも静観に徹していた連中が敗色濃厚なこのタイミングで動きますかね?」

 若年将校が真向かいで頬杖をついている軍師、ロッグ・ケトゥレフにお伺いを立てる。

「そうさな、私もどちらかといえば独断行動の線が濃いのではと睨んでいる。所詮は傭兵など無頼者に過ぎん、金と名誉の匂いがすればどこにでも現れるものだ」

「でしたら、エルクンドがカストラを狙っているというのはどうでしょう。エミド・マスキュラスの次に狙いそうな犯罪者といったら彼奴くらいしかないのでは」

「油断させて寝首を掻く、か? そこまでいくと飛躍しすぎではないかな」

「待たれよ、二人に思わぬ接点があったとしたら今までの仮説は全部破綻するぞ。兄弟とか友人とか」

「そこまで疑い出したらキリがないわ。ただ我々を混乱させるためのはったりという方がスマートな発想だと思わんかね」


 およそ推論ばかりが羅列され、会議は一向に収束する様子を見せない。しかれども、現状こちら側からオルドレンに探りを入れる術がないのも事実。潜伏している間者に返答を促そうと思っても、夜に使う連絡用魔石は目立ち過ぎる。敵の手に落ちてないと仮定して、潜伏先が敵側に露呈したら目も当てられない。


 会話が途切れた合間を見計らって、ビシャが持っていたグラスを円卓に戻し、ドアの前に立っていた伝令兵に横目を送る。

「敵の本軍は、もうオルドレンを出ているのだったな」

「ふぁはっ! ……し、失礼致しました! 町人に扮しております間者によれば三日前に町を発ったとのことです」

 突然の声かけに出かけていた欠伸を飲み込み、伝令兵がきまり悪そうに報告書に目を走らせた。ビシャは溜息交じりに椅子にふんぞり返る。

 現状から判断するに敵軍が打って出てくることはほぼ確実。オルドレンの町はその大きさ故に全体を覆い尽くすほどの塁壁(るいへき)が存在しないため、町を焦土にする覚悟がない以上防戦に徹するのは不可能。ジヴー連合の鉱業の生命線をそう簡単に諦められるわけがない。

 オルドレンを出たのが三日前だとすると、そろそろ自軍と接触していてもおかしくない。ただ、もし本当に一流どころの戦士が加わっているとなれば、ひとつどうしても納得のいかぬことがある。そもそも相手にとってはこの情報を伏せていた方が何かと都合が良かったはずなのだ。兵の質が総合的に劣っている以上、間隙を縫って強力な手駒を指揮系統にぶつけるというのは有効な策だと思われる。ここに集う将校たちの多くはそれに気付いている。ただ、ネルガーが指摘したようにこのタイミングで送ってくるのも不可解。だから余計に混乱する。


 これ以上時間をかけても最終的に出る案にさほど変わりはないだろう。そう考えたビシャは皆の出していた提案を総括して善後策を思案。即断即決する。

「念には念を入れ、やつがいると考えて行動した方がよかろう。両翼の砂船を歩兵の外側に出し、広めに展開して多方面からの敵の出現に備えよと伝えろ」

「はっ」

「それからもう一点。万が一手に負えそうもない敵が現れたら、すぐに旗艦に知らせるようにと付け加えておけ。こちらでも精鋭の二個小隊を派遣できるよう手筈(てはず)を整えておく」

 ビシャが語尾を結ぶと、伝令兵は「かしこまりました」と一礼し、足早に部屋を出て行った。


 それからほどなくして、小高い丘陵に建てられたオベリスクが見えてきた辺りで、早くも左翼側の砂船から魔石による報告が入った。砂船の通った痕跡が複数、丘陵地一帯に残っているとのことだった。

『航跡は一直線に西の方に続いている。おそらく敵軍を偵察に来ていた砂船が近づいてくるこちらの大軍に気付いて慌てて引き返したのでは』

 左翼の船団を率いるガレット・リブライからの魔石の文面を確認し、しかし将校たちは釈然としないものを感じていた。付近一帯は比較的開けた場所にある。奇襲を仕掛けてくるとしたらもう少し先ではないかと読んでいたのだ。「この先で待ち構えています」と言わんばかりに、わざわざ砂船の痕跡を残すような真似をするだろうか。

 あれこれと考えを巡らせる将校たちを嘲笑うかのように、船外ではまたしても大きな異変が起こっていた。



 帆柱に備え付けられた見張り台でまどろんでいたセーニア兵が勢いよく起き上がった。籠から身を乗り出すようにして、彼方にある地平線に目を細める。

 ――なんだ、今の。……夢、じゃないよな。

 見張りの男は自分の頬をつねり、痛みがあることを確かめてから左右の砂船に目を走らせた。見れば、並走している船の見張りたちも遠眼鏡を手にしたり、甲板にいる船員と連絡を取り合ったりしている。

 これだけの人数が一斉に見間違えるはずもない。確信を得た男は、腫れぼったい目蓋を腕で拭い、懐に忍ばせていた遠眼鏡を取り出した。


 先ほど男の視界に映ったのは光の軌跡だった。地平線の少し上辺りを、小さな光が南の方から北に向かって移動していった。

 オルドレンの町の明かりか。真っ先に浮かんだその考えを、男は即座に投げ捨てた。地形図を見る限りではまだ三、四日の距離があるはずだ。照明を確認出来る距離ではない。

 ならば箒星(ほうきぼし)か、とも疑ってみるが、それにしては尾が異様に長く、光の動きからも何やら人工的な匂いがした。ニュアンスとしては流れていたという感じではなく、連なっているように見えた。遠眼鏡の狭い視界に映るのは闇ばかり。周辺に異常がないかと見回すも特別変化はないようだ。耳を澄ましてみても、砂船の駆動音以外には何も聞こえない。


 消去法で導き出された結果は、敵軍の照明魔石による合図。連鎖したように見えたのは人が魔石の光を目視しながら連続使用したことで起きたタイムラグによるもの。そうだとすれば一応の説明がつく。

 けれども、敵の合図が何を意味するものかまではわからない。加えて、地平に大きく展開するほどの軍勢を備えているのかという疑問、もっというと不安が残る。

 そこまで考えたところで、男はふと、中央付近の砂船の窓から漏れている明かりを眺めた。周りの船の様子から察するに、今の光は相当に目を引いたようだ。司令部の方も気づいているか、そうでなくとも報告がいってるだろう。ほどなく次の支持が届くはずだ。

 男は毛布を肩に羽織ると、眠気を覚ますべく己の頬を挟んで揉み解した。



「地平線に光、か。確かに、敵軍の可能性が一番高いだろうな」

 甲板にいた兵士たちからの状況報告を聞き終え、ビシャは周りの意見を聞くべく将校らの顔に視線を走らせた。

「こちらも敵兵力を完全に把握しているわけではありませぬ。一先ずは歩兵を部隊単位で先行させて確認してみてはいかがでしょうか。何かの罠であったとしても、それが露見したところで包囲戦に持ち込めば……」

 ロッグがそう言うと、ビシャは顎を手で支えながら検討に入る。ジヴーの兵たちだけならともかく、上級傭兵に類する者が敵兵たちに混じっていれば短時間で各個撃破されぬとも限らない。この場で兵力を下手に分ければ被害が拡大するだけに終わる可能性もある。かといって、何もしないで進むのも少し気持ちが悪い。

 結局、ビシャはロッグの提案を受け入れ、伝令兵に歩兵の陣形を広げるよう指示させようとした。だが――


「……あれ、……おかしいな」

 伝令兵の焦りを含んだ呟きに、円卓に座っていた将校たちがそちらを向いて首をかしげた。

「……すみません、その、連絡用魔石が発動しないのですが」

 戸惑う伝令兵の表情に、将校たちの目が見開かれた。

「――ちょっと貸してみろ」

「あ、はい」

 石を差し出した伝令兵の手に日焼けした太い手が伸びた。魔印の掘られた石を受け取り、中年将校が念を込めようとする。だが、一向に石から光が放たれる様子はない。

「な、なぜだ?」

「まてまてまて、ちゃんと確かめてみたのか? 普通の魔石と間違えているわけではあるまいな」

 手に乗せた黒い石をまじまじと見つめる将校に、ディビら数名の将校が不安げに駆け寄った。

「い、いえ、そんなことは。ちゃんと選り分けてあった物ですし。今朝までは確かに使えていたはずなのですが」

 伝令兵が俯き気味に頭を掻いた。

「……もしや、敵も結界を?」

「それはありえぬ、こちらとて結界を構築するにはかなりの準備期間と人手を要したのだぞ。考えついたところでそうそう実行できるものではない」

 ネルガーとロッグが難しい顔で視線を交わす。

「――可能性としては」

 ビシャが話を切り出した瞬間、将校たちの注目が一斉に彼に集中する。

「我々が<妨魔の柱(アンチ・マジック・ピラー)>で形成した結界を逆に利用したのかも知れぬ。こちらが張った結界は連絡用魔石が使えるぎりぎりの出力に抑えていたからな。柱を何本か継ぎ足せば出来ないこともないはずだ」

「なるほど、それならどうということもないですな」

 ビシャのわかりやすい説明に周りの将校から安堵の息が吐き出された。だが、その台詞を吐いた本人の顔から険しさは抜け切っていない。

 結界の構成は支点を足しただけで効果が増大するような単純なものではない。式の組み方を知り、魔力を増幅する流れを正確に把握する必要がある。少なくとも数日そこそこで出来ることではない。水面下では早くからこちらの裏を掻こうとしていたのだろう。

 ――敵もただ敗北を重ねていたわけではない、か。少し侮っていたな。多少のリスクは追わねばなるまい。

 ビシャは素早く頭を切り替え、伝令兵の方へと向き直る。

「――拡声魔石にて周囲の船舶に通達。急ぎ連絡手段を切り替えるよう支持を出せ。こちらから発信する手筈を整えるのも――」


 ドン、と船室のドアが蹴破られたかのような勢いで開いた。間断なく、鞘走りの音が室内に乱れ飛び、侵入者が近衛兵の象る刃の格子で迎えられた。

「あ……」

「――ばっ、馬鹿者がぁ! ノックくらいせんか!」

「も、申し訳ありません」

 見知った伝令兵ということに気付き、危うく斬りかけた近衛兵が、唾を散らす勢いで怒鳴りつけた。将校たちの視線から緊張が抜け落ちていく。ビシャとネルガーを除いて。

「……それで、何事だ?」



「――感知魔法領域内に侵入者だ! 方位……南南東!」

 西瓜ほどもある水晶を触媒に用いて感知魔法を展開していた老人が興奮気味に声を高めた。机の上に置かれ、軸で固定された地球儀のような水晶球に星屑のような細かい光が端から少しずつ混在していく。旗艦『ナルヴィニ』のやや後方。船団の最後尾の砂船では魔力が次々に感知されていた。

「――かなり多いぞ! 密度からして数千以上! 急ぎ各船舶に連絡せい!」

 老魔法使いが喉を潰さんばかりの勢いで伝令兵に叫んだ。伝令兵が棚に置いてあった連絡弓を鷲掴むと、慌ただしく階段を上っていく。


 時を同じくして、セーニア軍の斜め後ろにて入道雲のような砂煙が巻き起こった。中央から左右に広がるようにして、丘陵に灰色の壁が築かれていく。

 高々と舞い上がった灰色の砂煙を穿つようにして、漆黒の大河と化した軍勢が姿を現し、怒涛の勢いでセーニア軍に接近してきた。一番近い歩兵部隊との距離は既に1㎞足らず。異変を知らせる照明魔石が船の上空で二度、三度と明滅し、間断なく響く拡声音が広範囲に響き渡る。

『総員、第一級臨戦態勢に入れ! 繰り返す、第一級臨戦態勢に入れ!』



 『ナルヴィニ』内部にて将校たちが敵襲の報告を聞いている最中、開いたドアから警戒音声が漏れ聞こえた。

「――具足を持て!」

「儂のもだ! 急げ!」

 舌打ちを交えつつ、ビシャたち将校らが慌ただしく席を立ち上がった。壁際に佇んで空気と化していた小間使いたちが、急ぎ足で出ていく将校たちに混じって部屋を後にする。

「ようやく仕掛けて来ましたな、どうやら敵も覚悟を決めたようで」

 部屋に残っていたロッグ・ケトゥレフが肩間接をこきこきと鳴らす。

「今までと同じようにはいくまい。――策はおまえに任せるが捕虜は不要だ、全員始末するよう伝えろ」

「御意」

 劣勢にもめげずに牙剥く者を放置しておけば、後々セーニアの禍の芽になりかねない。ビシャの言葉の裏にあるものを正確に読み取ったロッグは、上階の兵たちにその旨を伝えに行く。


 ――我が軍を相手に兵力を分散するほどの余裕はやつらにはないはず。となると、先ほどの光はフェイクか? イヴァン・カストラがいるというのも……いや。

 肌を痺れさせるような緊張感に汗がひいていく。今まで培ってきた戦闘勘が、自分に匹敵する存在が傍にいると告げていた。そうと意識しただけで口の端が持ち上がっていく。全力で剣を振るえる相手がいることはささやかな幸福だ。


 小間使いの二十歳前後の女たちが四人がかりで鎧を抱えて戻ってきた。ビシャは振り向きざま笑みを消し、その場で足を軽く開くと両手を横に伸ばした。失礼しますと一言断りを入れると、女たちは手慣れた様子で分厚い肩にサスペンダーを通し、きつくなりすぎないように腰紐の締まりを調整していく。

 部屋の外からはどたどたと、足音がひっきりなしに聞こえる。まるで祭りのような慌ただしさに、ビシャは内心ほくそ笑んでいた。皆口にはしなかったものの、歯応えのない戦いにいい加減飽いていたのだろう。対ルクスプテロン戦への景気づけにはちょうど良いかも知れない。

 ジヴーの者たちにしても、カストラやエルクンドに寄せる希望が大きければ大きいほどに、二人を踏み潰された時のショックも大きいだろう。完膚無きまでに叩き潰しておけば領土制圧を一気に進められる。考えようによっては二度と断ち切れぬ鎖をつける絶好の機会だ。

 必要以上に気負う必要はない。平常心と自然体こそが力を効率よく発揮する最たる要素。どれほどの達人であろうと心を乱せば不覚が生じる。多少の犠牲は出るだろうが、こちらとて最大規模の兵力で戦いに臨むのだ。持久戦に持ち込めれば負けの目はない。


 ――<魔遺物(ヴァイーラ)>が我が手中に収まるのも間近か。さすれば、ナイトマスターなどとケチ臭いことを言う必要も、ないのかもしれんな。

 鎧を纏い終えたビシャは鋭い犬歯を野獣のようにギラつかせ、供の者らが心臓の動きを止めかねぬほどの殺気を纏って船室を後にした。

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