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~紲雷 thunder of bonds13~

 <賢律院(ルーツ)>の本部があるダミア・ブイ。町の外から眺めると角のように見えることから竜角(ドラゴンズ・ホーン)の異名で知られている。今現在の塔の傾きは5度程度。二階から三階建ての家屋が大半を占めるこの町に地上7階建て、地下2階建ての斜塔は嫌でも目立つ。傾斜と地下階層部分は元々あったものではなく、大昔に起きた川の氾濫によって粘土層に当たる部分が水を吸って軟化し、地盤沈下を起こしたためだといわれている。


 日がそろそろ傾くかという頃合い。町の各所にある隊舎から兵士たちが参列し、ダミア・ブイの方角を目指して歩き始めた。数十分後には、行政地区に通じる四つの大通りを六列に整列した兵士たちが行進していた。隊長章を襟に光らせたラクダ騎兵二人が先導し、その後ろに足並みを揃えた歩兵たちが続いている。

 沿道には戦地に向かう彼らを見送ろうと、大勢の町民や避難民が押し寄せていた。集まっている多さに反して、場を占めているのは静寂(せいじゃく)哀愁(あいしゅう)。叱咤激励に類する言葉が発せられることはなく、紙吹雪やリボンテープが宙に舞うこともなかった。

 いよいよ出陣という段になって不安が顔を出しているのか。兵士たちに向けられている顔は揃って強張り、否が応にも悲愴感が漂う。手を組み、ぶつぶつと神に祈りを捧げる老人がいれば、これが今生の別れだとばかりに顔を覆って泣き崩れる女もいる。幼い男の子が自分の父の姿を見つけて駆け寄ろうとするのを、姉と思しき少女が体を投げ出すようにして抱き止めている。そんな光景が随所で見受けられた。

 彼らの視線を振り切ろうとするかのように、男たちは口を真一文字に結び、仲間たちの背中だけを見据え、足を踏み出していた。体の内から来る震えを誰にも悟られぬよう、いつにも増して手を大きく前後に振っていた。

 セーニア軍に一矢報いようとするも敗走を繰り返して来たジヴー軍。二万を超える兵士たちも今では半数近くになり、一度も勝ち目を見出せぬままに今日という日を迎えていた。仲間の屍を踏み越えて辛うじて生を繋いできた者たちも、今度ばかりは不帰(かえらず)の覚悟を決めているようだ。せめて、愛する家族だけでも生き延びて欲しい。沈黙の内に秘められた彼らの願いが、赤く充血した目から見え隠れしている。


 ――重い、な。

 シュイは兵士たちの様子を沿道の奥から眺めていた。ややあって列が途切れると、以前より少しだけ重くなった布包みを背負い直し、ダミア・ブイに向かって歩き出した。

 数で勝る優位性、大多数を一度に相手にすることの恐ろしさは自分も身に滲みて知っている。エスニールのみに限らず、キャノエでの大毒蜂との戦い。はたまた、エミド・マスキュラスとの死闘にしても例外ではない。シュイは人の限界を超えていただろうエミドを、それでも撃ち破る事が出来た要因は、自分の機転や力に寄るものではないと考えていた。決め手となったのは相手を一体多数という状況に持ち込めたこと。すなわち、多くの仲間たちの協力を得て、対応策を巡らすまで持ち堪えられたことに尽きるのだ。

 逆境を跳ね退けた戦は歴史にも幾つか記されているものの、数に泣かされた戦はその何百、何千倍とあるだろう。人類の歴史は戦いの歴史。それでも、後の世にまで語り継がれるような戦は千年を見渡しても両手で数えるほどしかないのが現状だ。数千の兵で二万を破ったなどと謳われている戦いにしても、犠牲者の数については触れられていないことが多い。記録が残されていないという事実は、そのまま兵士たちの不安に直結する。首尾よく撃退できたとしても大軍を相手に全員が五体満足でいられるはずはない。そして、自分が亡くなった上での勝利など誰も望んではいないのだ。



 夕刻。兵士が招集されたダミア・ブイ前の広場で開戦前演説が始められた。けれども始まってから数分もすると、早くも雲行きが怪しくなってきた。

 壇上の後方、中央に控えているのは未だ侵攻に晒されていない国の代表者たち。制圧された国から亡命してきた元代表者。長老衆と呼ばれている<賢律院ルーツ>の代表者たち。隅の方にはヴィレンら軍の将校数名とイヴァン、シュイが並んでいる。


『輸出も輸入もままならぬこの状況、このままでは国の形を維持することすら困難だ』

『最早頼れるのは諸君だけだ、我々も出来る限り協力は惜しまない、全身全霊を懸けて頑張って欲しい!』

 <賢律院ルーツ>の長老衆と言われる三人の老人がそれぞれに細腕を振り上げ、兵士たちを鼓舞する姿は、どこかちぐはぐな感じが否めなかった。場が白けている感じがした。整列している兵士たちから受ける印象は聞き入っているというより聞き流していると表した方が正しいものだ。

 喝を入れようと空回りを続ける老人たちの後ろにはスザクの姿も確認できた。必要ないはずの杖に、疲れた表情でもたれかかっているように見えた。


『諸君、セーニア兵たちとて同じ人間だ! 慣れぬ気候と砂漠の熱気で疲労は隠せないはずだ!』

 彼らの言っていることは正しい。かくいうシュイも優位な点を複数組み合わせた戦術を構築している。けれども、それらは前線で戦っていた兵士たちがとうに悟っていることだ。彼我(ひが)の戦力差を埋められるほど大したものではないことは、オルドレンまでの侵攻を許している時点で証明されている。

 熱弁を振るっている長老衆は、兵士たちに嫌われていたわけではないようだ。本心はどうあれ、今のところ兵士たちに敗北の責任を押し付けるような発言は一度も飛び出していない。意気消沈した兵士たちを勇気づけようとする気構えも、喉を枯らしても尚声を張り上げていることからそれなりに感じられる。ただ、この場では門外漢というだけで。

 並んでいる兵士たちの表情は優れなかった。現場を知らぬものが現場を語るな。頼むから早く終わらせてくれ。そういった拒絶の意志が、冷ややかな視線に乗せられて演説者に送られているようだった。

 静聴している兵士たちの無言の重圧に、<賢律院ルーツ>の者たちの滑舌は次第に悪くなっていく。ついには、あの、その、えー、といった間接詞の方が多くなり、どうにも収拾がつかなくなった。


 ――やはり、一筋縄ではいかないか。いくらなんでも、この雰囲気下での演説は勘弁願いたいが。

 一人行儀悪く柱にもたれかかったイヴァンは、難しい表情でジヴーの兵士たちに視線を走らせていた。ある程度予想されていたこととはいえ、実際に自分の目で士気の低迷具合を見てみると、演説するこちらの気力まで削ぎ落とされそうだった。

 自分はおろか、相手が望まぬとわかっていて、それでも演説をやらねばならないのか。そもそも、犯罪者(じぶん)の言葉が彼らの心に響くのか。イヴァンは半信半疑といった面持ちで出番が来るのを待っていた。


 更に数分が経過し、ようやく長老衆の三人が言葉を切り、頭を下げる。三十分にも渡る大演説に送られたのは、支援者と思しき者たちからの疎らな拍手。ない方がまだ救われるという類の。または、拍手した方が恥ずかしくなってしまう類の。<賢律院ルーツ>の老人たちは恥入ったように唇を噛み、足早に退場した。


「続いてはヴィレン将軍の演説を行う。皆の者、静粛に」

 中弛みした雰囲気を吹き飛ばすべく、最終決戦の総大将に任じられた魔族の男が壇上に続く七段の階段を三歩で駆け上がる。力強い足音に釣られて、兵士たちの伏せられていた面が揃って上を向いた。

 最上段にてヴィレンは一度大きく深呼吸した。ゆっくりと左右の兵士たちを見渡してから顎を引き、今度は一歩一歩を踏みしめるように前に進み出た。巧妙な間合いの取り方だけで、囁き声を交わしていた聴衆たちが沈黙に誘われた。


 ヴィレンは魔石を埋め込んだ棒状の拡声器をすっと口元に近づけた。

『此度の決戦に際し、総大将に任命されたヴィレン・カシリだ。もっとも、私が諸君に語るべき言葉はそれほどない。我々は去年の十月から今日までの苦難を共に乗り越えてきた間柄であり、その思いも遠からぬものだという確信があるからだ』

 拡声魔法で増幅された己の声が周りに届いているかを確かめるように、兵士たちの列の最奥の方まで視線を走らせた。遠くにいる兵士が背筋を伸ばしたのに満足したのか、正面に向き直った。

『目下のところ、周辺各国を見渡してみてもセーニアの完勝を疑っている者はほとんどいまい。ひょっとすれば、現在ここにいる者たちの中にも勝利を諦めてしまった者がいるかも知れない。私も最前線にて敵軍の強さを幾度となく目にしているだけに、悲観的な考えに囚われる者がいたとして無理からぬことと考えている。

 敗戦に次ぐ敗戦。毎朝の朝礼で点呼に応じる声が日を追うごとに減っていく。下のことにも言及するならば、(かわや)で用を足す順番を待つことも少なくなり、逆に見張りなどの雑務が割り当てられる時間は長くなっていく。しょっちゅう冗談を言い合う仲だった部下の食卓に、次の日には料理の代わりにひと房の髪と花束だけが置かれている。……慙愧(ざんき)に堪えぬ。力尽きていった彼ら一人ひとりに、守りたい信念があり、愛すべき家族がいた。私は仲間を殺めた敵と同様、彼らを家族の元へと返してやれなかった己の不甲斐なさを、許すことができぬ』

 感情の込められた一字一句に、何人かの兵士たちは痛みを堪えるようにきつく目を瞑った。彼らの胸中を占めたのは悲哀に寄り添う心。一度も戦場に顔を出さなかったジヴーの長老衆たちには抱けなかった共感だった。

『かくいう私自身も、セーニアとの戦いで部下や友人を大勢失った。その中には幼少期からの付き合いだった者も含まれている。二人共に根っからのガキ大将でな、お互いに反目し合ってばかりで、言葉よりは拳で語り合った回数の方が多かったかも知れない。彼とはつい先日にルトラバーグで十年来の再会を果たしたが、二、三言葉を交わしたその日の内に、無念にもセーニア兵の矢に射抜かれた。昔話に花を咲かそうと思っていた矢先の出来事だった。

 セーニアは我々からたくさんの物を奪っていった。そして、今以って手を緩める気配はない。このままでは、やつらの軍は一週間を待たずしてオルドレンに至るだろう。現状を冷静に把握する限りでも、我々は崖っぷちに立たされている。しかし――』

 ヴィレンは言葉を置き、後ろに控えているイヴァンとシュイを肩越しに一瞥した。


『今、私の視界には見通せぬ暗闇の中に、一条の光が差し込んでいるのが見える。運命の女神が我々を完全には見放していなかった、そう思わせてくれる出会いがあったからだ。諸君らの方から見て、私の右手にいる男はイヴァン・カストラ。我々を苦しめてきた敵将ビシャ・リーヴルモアと互角に切り結んだこともある名高き戦士だ』

 群衆から驚きの声が上がるのをよそに、イヴァンが腕を組んだままぞんざいに目礼をした。

『そして、左手にいる黒衣の男はシルフィールの準ランカー、シュイ・エルクンド。かの四大ギルドの名声は今更語るまでもないだろう。今回、先陣を切る部隊の指揮を取ってもらうことになっている』

 拡声魔石によって増幅された声が響くと、イヴァンの紹介の時にも負けぬほどに会場がどよめいた。シュイは手を脇に添え、ゆっくりと頭を傾いだ。


『時間が限られている故に今回は二人のみの紹介にさせてもらったが、他にも確かな実力を持つ傭兵が数名加わっている。彼らは敗色濃厚なジヴーの窮地を知っても尚、此度の戦に馳せ参じてくれた有志の者。上級傭兵の中でも生え抜きの者にしか太刀打ち出来ぬと言われる、成竜(ドラゴン)にも比肩せし実力者である。我々とは立場が違う故に思惑も様々だろうが、彼らの協力を仰げたことは勝利に向けての大きな進捗と言えるだろう。

 もし仮に、ジヴーがこのままセーニア軍によって滅びる運命であったのならば、果たしてかような幸運がもたらされるだろうか。(いな)、おそらくこの戦始まって以来、初めて我々に追い風が吹き始めている。決戦に向けて準備に余念のなかった諸君らと、世に名を馳せた彼らの力を以ってすれば、きっとセーニア軍とも互角以上の戦いが出来る。私は、そう信じている』

 兵士たちの反応を窺い見るようにして、ヴィレンは溜息の音が拡声魔石に入らぬよう口元から遠ざけ、一つ大きく息を継いだ。些細なことながら配慮に事欠かぬヴィレンに、シュイは感心しきりだった。


『此度の決戦においては彼らの助言も得、著名な戦術指南書にも記されていない革新的な戦術を採用することになった。全てが初めての試みだが何事にも最初の一歩はあるもの。不安に思う者たちのために補足しておくと、規模を縮小した実験は成功しており、この戦術が実質的に可能なものであることは確認済みである。

 来たる最終決戦に向けて諸君らに要求する働き、役割の比重は非常に大きく、まさしく勝敗を左右する。一糸乱れぬ連携と冷静な判断力が求められるし、不測の事態が起きぬとも限らない。しかれども、此度の作戦を徹頭徹尾、成し遂げられた暁には、今ここに断言しよう。――我が軍は必ずやセーニア軍に勝てる!』

 勝利宣言。敗北に対して死という罰を課したヴィレンにとっては文字通り命懸けの発言だっただろう。その峻烈な決意にあてられたのか、兵士たちの側からは歓声に混じってどよめきが後を絶たなかった。

『私の演説はこれにて終了となるが有志の戦士たちを代表し、イヴァン・カストラから一言諸君らに挨拶がある。実戦経験においては彼に勝るものはこの場にいまい。足も疲れてくる頃合いだろうが、もう少しだけお付き合い願いたい』


 ヴィレンが兵士たちに一礼すると、兵士たちから一斉に軍隊式の敬礼が返された。士気が確実に向上しているのを兵士たちの挙動から感じ取ったのだろう。ヴィレンは兵士たちに背を向けてから微かな笑みを浮かべた。

 一方で、先に演説した<賢律院(ルーツ)>の長老衆たちは揃って頬をひくつかせていた。ヴィレンが今回演説した内容の、そのほとんどが彼らにも伏せられていたからだ。このことがきちんと知らされていれば、失笑を買う様な姿を晒すことはなかったかも知れない。

 彼らの本心を曝け出せばこの場で声を大にして罵ってやりたいところだろうが、先だってオルドレンに間諜が入り込んでいたことを考慮すると、身内に対しても情報を洩らさなかったヴィレンの判断は間違っていなかったことになる。階段を下りたヴィレンは当て馬にされた彼らに申し訳なさそうに目礼をし、それからイヴァンに魔石の粒が埋め込まれた棒状の拡声器を差し出した。イヴァンは黙ってそれを受け取り、壇上に上がっていった。


 砂漠の中央部という立地からして、異国の者が壇上に立つ例はあまりないのだろう。珈琲色の髪の美男子に向けられる数多の視線は、ヴィレンに向けられた類の物とはまた少し違うようだ。好奇、畏怖、期待の感情が複雑に配合(ブレンド)されていた。

 当のイヴァンは落ち着いたものだ。二歩ほどの余裕を保って足を止め、細めた目だけを動かすと、普段よりも気持ちかったるそうに口を開いた。


『さて――将軍殿は俺を気遣って戦士などと紹介したが、これだけの人数がいれば俺がどういった生業の者か知っている者もいるだろう。俺はセーニアに莫大な賞金をかけられている第一級の犯罪者だ。成りゆきでこんなところに立つ羽目になったがな』

 ――カ…………カストラ殿!

 開口一言目の爆弾発言にヴィレンが絶句する。声を掠れさせて注意を促すも、イヴァンは背後からの窘めを意に介した様子もなく、淡々と言葉を紡いでいく。

『まあそれはどうでもいい。国が傾いていれば体面を気にしている余裕などないだろうからな。こちらとしてもセーニアに必要以上に出しゃばられるのは面白くない。ここらでひとつ、(きゅう)を据えねばならんと思っていたところだ。共闘するのはお互いに共通の敵を持ったため、ただそれだけに過ぎん』

 ヴィレンが目を皿のようにした。今のイヴァンの発言は、ヴィレンを庇っていると取れなくもなかった。素直じゃないやつ、とばかりにシュイは唇を曲げた。

『先ほど将軍も少し触れられていたが、俺は以前にセーニア軍の将、当時はやつも部隊長に過ぎなかったが、ビシャ・リーヴルモアと一戦交えている。巨躯に見合わぬ俊敏さと見切り。攻守両面に隙のない手強い男だった。その時は双方共に決め手を欠いて物別れに終わったが、今まで俺が戦った相手の中でも間違いなく五指に入る実力者だ。とはいえ、絶対に勝てぬというほどではない。俺でなくとも隣でぼけっと突っ立っているエルクンドであれば互角に戦えるだろう。想定外のことが起きねば俺が抑える段取りになっているがな』

 言葉から感じられる自信を酌み取ったのだろう。兵士たちの表情の強張りが少しずつ解けてくる。一方で、シュイはぼけっとなんかしてないぞという反発を押し殺しつつ、乱れていた足の向きを均一にした。

『断るまでもないことだが、互角というからには相手も同程度の実力を持っているということ。やつを相手にしている時に他の敵まで相手にする余裕はないし邪魔が入れば不覚を取らんとも限らん。先ほどから再三将軍殿が言っているように、この戦いの勝敗はおまえたちの働きに全てがかかっている』

 期待と不安のどよめきが、茫々と言葉の輪郭を打ち消し合っていく。

『ジヴーに大規模な戦が起きたのは今回が初めてのようだが、砂漠に蔓延る魔物共の討伐任務はおまえたちも散々こなしてきたはずだ。これまで勝ちを拾えなかったのは敵の実力もさることながら、おまえたちの優位性が活かされていなかったことも一因。今回採用された戦術に関しては、おまえたちが砂漠で培ってきた経験が物を言う。卑屈にならず、過信もせず、持てる力を存分に発揮して役目を果たして欲しい。――以上だ』


 場は緊張感に満たされ、先ほどよりもひりついていた。しかし、決して悪い空気ではなかった。ヴィレンが兵士たちに冷静に現状を把握させ、イヴァンで難敵ビシャ・リーヴルモアに対する恐怖を和らげ、気を引き締めさせる。二枚看板での士気向上は成功に終わった。


 ――おぉー、何だかんだできっちりとまとめてきたか。よしよし、偉いぞイヴァン、やれば出来る子だったんだな。

 イヴァンの体がぴくりと動き、後ろを振り返った。円らな瞳で音無き拍手を送っているシュイをじと目で睨み、それから意地の悪そうな笑みを漏らした。

「あぁ、どうやら最後に、シュイ・エルクンドから締めの言葉があるそうだ」


 ――ぶっ!

 と、思い切り吹き出すシュイに構わず、イヴァンが拡声器を無造作に放り投げた。立て続けの条件反射を余儀なくされ、目が勝手に魔石を追い、手が勝手に落下点へ移動。無事に受け取り、落とさなかったことに安堵し、そして激しく後悔した。


 ――な、何やってくれてんだよ! 台本と違うだろ!

 ――助力を頼んだおまえが暢気に傍観しているのを見ていたら、少しばかり不愉快になった。

 ――だからって気まぐれでアドリブ入れるなよ! 原稿だって用意してないんだぞ!

 ――知らん、いつも通りに適当に喋ればいいじゃないか。屁理屈を()ねて口車に乗せるのはおまえの十八番(おはこ)だろう。


 読唇を交わす二人に、ヴィレンはどうしたことかと視線を左に右に揺り動かした。止まってしまった出陣式に、兵士たちがにわかにざわつき始める。後ろから発される戸惑いの声に、ヴィレンは焦った様子で声なき口論を繰り広げているシュイに近づき、耳打ちする。

 ――エ、エルクンド殿、悪いがここはひとつ頼まれてくれんか。カストラ殿が口にしてしまった以上、やらないと上の統一見解がないのではと勘繰られかねない。ようやく高まってきた一体感をここで損なったら取り返しがつかん。

 ――ヴィ、ヴィレンさんまで。そんなのは何かの間違いってことで片付ければ――

 ――つべこべ言ってないでさっさと行って、こい。

「どわ!」

 言いざまに、一瞬にしてシュイの背後に回り込んだイヴァンがシュイの脇腹を突き飛ばした。ヴィレンとのやり取りに気を取られていたシュイは、つんのめりながらも壇上の手前でぎりぎり踏み止まる。

「ってて! この野郎よくも――って……あ……」



「さっきから何ごちゃごちゃやってんだ? って、あれ、シュイが前に出てきたぞ?」

 アミナたちと一緒に広場の隅っこの方で演説を聞いていたピエールが、壇上の人影を指差した。アミナがピエールの示した方に赤い目を細めた。

「……ふぅむ? 当初の予定と違うようだが。 ――まぁよいか、折角あの場にいるのだし。言いたい事があると申すならば聞いてやろう」

 アミナが腰を支えるようにして壇上のシュイに視線を合わせた。どことなく誇らしげなその様子に、ヴィオレーヌがくすくすと笑う。



 ――ど、どうするんだよ、これ。

 夥しい数の視線が、一斉にシュイの姿を捉えていた。何とか口を動かそうと試みるが、いつもは遠慮を知らない言葉がここぞとばかりに奥ゆかしさを発揮し、喉の奥に引っ込んでしまっている。喉がやたら渇いているのも熱気のせいではなさそうだ。フードがあるからこそ辛うじて立っていられるが、顔まで凝視されていたら逃げ出しているかも知れなかった。



「うわぁ……完全にびびってるっつうか、遠目から見てもガチガチだな」

「……なんと惰弱な、出てきたからにはもっとこう、ビシッとした姿を見せぬか」

 隣から吐き出された厳しいお言葉に、ピエールがうへっと息を漏らした。

「なんだその反応は? 私などは14の成人式に王城のバルコニーで10万もの群衆に向かって富国論を説いたのだぞ。大の大人がこの程度の人数にびびってどうするのだ」

「……いや、そりゃアミナ様の度胸が異次元なだけでしょ。いい加減自分の凄さを自覚してやらないとシュイが可哀想っすよ」

「私見ばかりを述べているわけではない、甘やかしてばかりでは男は大成しないと巷で人気の小説にも書いてあったのだぞ」

「へえ、小説なんかも読んでおられるんですね」

 ヴィオレーヌが会話の合間に口を挟んだ。アミナは少し得意気に胸を張る。

「うむ、文芸のみならず、ファッションも追っている。今のリーズナーの格好は去年の旅ファッション誌に出ていた人気スタイルだ。民がどのような考えに共感し、どのような物を欲しているのかは、上に立つ者が常に気にしてやらねばならぬことだからな」

「……それはそれとして、たまには飴をあげないと」

「馬とて餌で釣らぬとも鞭打てば走るであろう。こんなことでは国民へ向けての演説も覚束ないではないか」

「いやいや国民て……、あいつがんなことをする機会が後にも先にも――」

 と、そこまで言いかけたピエールはアミナが(おそらくは無意識に)言い含めているものに気づき、ふふーんと鼻で笑う。

「な、なにがそんなに可笑しい」

「いえいえ? 別に」

 頬を紅潮させるアミナに、ピエールは手の平を空に向けながら首を振った。その直後だった。


『あーっと……その……本日はお日柄もよく』

 音声がピエールの脳に辿り着き再生された。口を両手で押さえるのと噴き出すのが同時だった。指と口との隙間から放屁にも似た音が鳴った。

「……な……な」

 ――なにをやっておるか! 結婚式典の挨拶ではないのだぞ!

 口を抑えてぴくぴくと肩を上下させているピエールをよそに、アミナは真っ赤になった顔を両手で覆ったまま俯いた。すっかり縮こまった姿は、演劇の最中に致命的な失敗をやらかした我が子を目撃してしまった親のようだ。

「あ、あはは、ちょっとあがってしまっているようですね」

 ヴィオレーヌのフォローの言葉も、今のアミナの耳には届かぬようだった。


『……じゃなくて、……ええと、そう、右手を上げてくれるか』

 意図が不明な指示に、兵士たちは戸惑いの表情を浮かべつつおずおずと手を上げる。一斉に兵士たちの手が上げられたのを見て、ピエールはもはや呼吸もままならぬようだった。

「ぷひゅっ……く、くく……な、なんだそりゃ、新しい体操か? ……ちなみに、俺の予想だと今度は左手――げほっ」

「ええい! そなたも少しおちょくり過ぎだ!」

 ついに我慢し切れず、アミナがピエールの脇腹を肘で小突いた。床に突っ伏したピエールは打たれた腹を両手で抑え、ぴくぴくと痙攣を繰り返している。

 しばしの間、アミナは腕を組んでそっぽを向いていたが、一向に起き上がらぬピエールの様子をちらりと見下ろし、流石に心配になったのだろう。ばつの悪そうな表情で手を貸そうと屈み込んだ。けれども、良過ぎる三角耳に届いたのは痛みによる苦鳴ではなく、必死に押し殺した笑いとたどたどしい息使いだった。

 ――ば、馬鹿にしおって!

 まるで自分が直接扱き下ろされたかのような腹立たしさがあった。怒りに身を震わせながら、アミナがゆっくりと片足を持ち上げた。このままピエールを踏み抜きかねないと思ったのか、ヴィオレーヌが手慣れた様子で二人の間に入り、興奮したアミナを取り成し始めた。



『……ありがとう、下ろしてくれ』

 そのようなことが外野で起きているなどとは露知らず、シュイは拙い時間稼ぎをしつつ一生懸命に頭を回転させていた。ヴィレンが兵士たちに現状を把握させ、イヴァンで難敵ビシャに対する恐怖を和らげる。そこまではいい。そこで完成されている気もする。その二点について、彼ら以上に上手く説明できるとは思えないし、二番煎じは高まりつつあったテンションを盛り下げてしまうだろう。

 彼らになくて自分にあるもの。彼らよりも上手く話せるもの。考え抜いた末に、答えは出た。ひとつだけ。けれども、それは士気を上げるには逆効果になるかも知れないものだった。

 そして、頭のどこかではそう考えつつも、口が勝手に動いていた。



『俺は――全てを失ったことがある。他ならぬ、戦争で』

 ピエールの震えがピタリと収まり、下に向けられていたアミナの赤い目が素早くシュイの姿を追っていた。

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