~躍動 throb with death5~
追手を振り切るべく緩やかな坂を一丸となって駆け上がるシュイたち。その行く手を遮るように、斜め前方から矩形の鉄壁が押し寄せてきた。正確には全身を防具で固めたナルゼリ兵たちが五百ほど、後方から追撃してくる本軍と挟み撃ちにすべく距離を詰めてきていた。
エミラ隊の面々の表情が険しいものに変わった。疲弊した状態であれだけの数を相手にするのは流石に厳しいようだった。あまり時間を取られるようだと後続の本隊に追い付かれ、いっちもさっちもいかなくなる。シュイたちの決断は素早かった。塞がれていた峠道の強行突破を断念し、南側のエスポの森に進路を取った。前方からナルゼリ兵が追い付く前にシュイを先頭にして側面の敵陣の薄い部分を突破し、軽快に堀を飛び越えて獣道に入っていく。闇雲にそんなことをすれば敵の包囲網に引っ掛かるだけだが、それを潜り抜ける当てはあった。
アマリスは攻撃魔法以外にもう一つ、素晴らしい特技を持っている。鳥笛を吹く時に微弱な魔力を音色に乗せることによって特定の鳥たちと念話のように意思疎通ができるのだ。彼女はピティリムという名の黒い鳥を常に従えており、驚異的な視野の広さと気配の察知力によって自分の周囲の状況をいち早く把握することができる。鳴き声から魔力の波長を上手く捉えることができれば相手が様々なことを伝えようとしていることがわかるらしい。
銀色に輝く嘴を持つピティリムは鳥の中でも飛び抜けて高い知能と夜の闇をも見通す目を持っている。殻の固い木の実を高所から落として割ったり、わざと馬車道に置いて馬車に轢かせたりする。多数生息している地域では転倒を避けるため、馬車道でも速度が制限されていることで知られている。
アマリス本人は主従というよりも対等な仲間だと思っているようだ。彼女にブレードと名付けられたピティリムは主から付かず離れず上空を飛んでいる。見知らぬ者が傍にいると一切降りてこないが割に親しくしているシュイの前には時折顔を出してくれることもあるのだ。
ブレードとアマリスのおかげで、シュイたちは上空から見た敵軍の位置や動きを定期的に把握できていた。地理に詳しいグレイルの意見も聞きながら、敵との接触を最小限に抑えられるルートを取り、シュイたちは起伏の多い林の中を迷いなく進んでいた。途中まで追ってくるナルゼリ兵もいたが、振り切るまでにそう時間はかからなかった。エミラの機動力と体力は伊達ではなく、鎧を着たままでは到底登れそうにない崖をも楽々と上がっていくことができた。重装備の兵では追ってこれないし、かといって数少ない軽装歩兵たちでは追いついたところでシュイたちの相手にはならない。状況を考えれば断念せざるを得ないはずだった。
小高い森丘の頂上に至ると木々の隙間からエメイルの大河が望めた。シュイたちはもう一息だとばかりに坂を下っていく。上がってきた時と違い、下り坂は幾分慎重に進路を取った。ぬかるんだ地面にエミラの長い足が取られて転んでしまうからだ。
後ろから敵兵たちが追ってくる気配はなかった。どうやらこの道からの追撃は分が悪いと判断したのだろう。
ブレードからの報告によってまだ先回りされていないことは確認済みだった。林を抜け、麓まで降りてきたところでも敵軍の姿は見られなかった。
再びブレードの鳴き声を聴いたアマリスが、追撃軍が間近まで迫ってきていることを説明した。シュイはグレイルたちに先を急ぐよう促した。昨日から碌々寝ることもなく戦っていた彼らの疲労は色濃く、呼吸からして相当に荒い。中にはうつらうつらと船を漕いでいる者もいて、心身共に限界が近づいているのは明らかだった。
隊長のグレイルだけは未だ余力を残していたこともあって少し渋ってみせたが、また部隊員を危険に晒すわけにはいかぬと考えたのだろう、その申し出を承諾した。もっとも、エメイル川では未だバータン本隊とナルゼリ軍の先行部隊が戦っていることが予想されたため、戦いが一段落するまで川の上流にある訓練所に身を潜めるということだった。
エミラ隊がその場を後にしてから間もなく、ナルゼリ軍の先鋒が東側の丘陵に姿を現した。雁の群れのような陣形を崩さずにシュイたちの方へと向かっていく。
シュイがアマリスにあとどのくらい余力があるか訊ねると、彼女は少し疲れた顔を作りながら右手のひらに左の人指し指を一本加えようとし、少し考え直したのか二本に増やした。
組んでいる回数が多いこともあり、シュイはアマリスの性格をよく掴んでいた。活発で何事にも自ら進んで挑戦する頑張り屋である反面、平気な顔をして無茶するようなところもある。七割と言えば六割。言葉を濁せばもう限界に近い、という具合だ。詰まる所、あまり時間はかけられないということを認識していた。
若干遠巻き気味に、ナルゼリ軍が足を止めた。先ほどまで一緒に行動していたエミラ兵たちがどこにも見当たらないことに兵たちが訝る。どこかに伏兵が潜んでないかと周囲を隈なく見回すが、どこにも大人数が隠れられるような場所は見当たらなかった。
「……きさまら。まさかこの数を相手に戦う気か?」
半信半疑といった面持ちで、兵たちの一人が訊ねた。
「この数、ね。そう楽観できるほどの数には思えないが?」
言葉と共に鋭い眼光がナルゼリ兵たちを横断した。千を超える軍勢を前にして悠然と得物を構えるシュイに、ナルゼリ兵たちが慄いた。まともな神経をしているとは思えないと言いたげに。
どんなに優れた使い手でも永久に戦い続けられるわけではない。息継ぐ暇も与えられずに戦っていればいずれ必ず力尽きる。こうしている間にも後続の兵たちがちらほらとやってきている。それを遠目に眺めていたはずのシュイとアマリスは、しかし終ぞ動揺を態度に表さなかった。
ナルゼリ兵たちの大半はそんな二人に近寄ることを躊躇っていた。滲み出ている余裕が、何か策があるのでは、或いは本当にここにいる皆が倒されてしまうのでは、と思わせていた。
仮に首尾よく倒すことができたとして、その前に何百という者たちが犠牲になるだろうということは明らかだった。そして相手の疲労が未だ見受けられぬ以上、今仕掛けたところでその何百のうちに自分が加わるだけなのも。彼を仕留めたという栄誉をたった一人が手にするために自分の命を犠牲にするなど愚かなことではないか。そんな打算が頭の中で駆け巡っていた。
どうぞどうぞ、と譲り合って前に出ぬ兵の中から、割り入るように同一の部隊と思われる兵たちが進み出た。
「ちょっと有名な者が現れただけでこの有様か。存外腰抜けが多かったのだな、我が軍は。……我々が相手になる。他の臆病者は手出し無用だ」
「へぇ。おまえたちだけで戦う、か」
肩を竦めるシュイに、先頭の男が鉄仮面をスライドさせ、口元の部分を開いた。
「一対一で、と言えぬのが心苦しいところではあるがな。そこまでは自惚れておらぬし国を背負っている以上負けるわけにはいかん。――我が名はナルゼリ第二軍中隊長トビアス。たった二人にしてやられたとあっては騎士の名折れ。悪いがここで死んでいただく」
威勢よく、どこかで聞いたような啖呵を切った隊長に続き、一歩後ろに居並ぶ兵たちが打倒の意志を表すように剣の切先をシュイに向けた。シュイは隣にいたアマリスに下がるよう指示した。いざという時のために体力を温存させるためだ。
「その心意気は買うが――手加減はしないぞ」
鎌を逆手に構えたシュイは、時計の振り子のようにそれを振るう。魔力の込められた鎌の先端が地面に穴を穿ち、長々と線を引いた。
「元より覚悟の上! いくぞっ!」
トビアスは再度鉄仮面をスライドさせ、口元を覆い隠した。間を置かずして頭を一段低くすると地を強く蹴り出し、鎧を身に付けているとは思えぬ速度で間合いを詰めてきた。シュイは束の間フードの奥でその身のこなしに目を細めたが、すぐさま対応するべく<ゲイル・リロード>を詠唱し、鎌刃に旋風を纏わせた。
効果範囲が広いとはいえ、この付与魔法の選択は一部隊のみを相手にするならば模範解答ではない。固い鎧を身に包んでいる者が相手ならばクインに付与した<ライトニング・リロード>の方が効果的であるし魔力の消耗も少なくて済む。
それが分かっていながら尚<ゲイル・リロード>を用いたのは、周りを取り巻いているナルゼリ兵たちを牽制するためだった。広い攻撃範囲によって隙を少なくし、出来心を起こし難くするために。或いは、いつどこから飛来してくるともわからない遠距離攻撃を叩き落とすために。
シュイは口でいうほどにはトビアスの言を信用していなかった。というより、その言葉がたとえ嘘であっても構わないと思っていた。数多の戦場から学んだことの中に、相手の言葉を鵜呑みにして敗れることほど間抜けなことはないという不文律がある。正々堂々と口にしながら平然と卑怯な手を使う者は存外多い。あらゆる可能性に対応するべく、シュイは油断と慢心を心から消し去っていた。
剣の切先を天に向け、トビアスが真正面から一気に踏み込んでくる。その後ろからは更に三人の兵たちが、左右には二人ずつ、一定の距離を取りながら回りこんでくる兵がいる。その迷いのない動きから高い練度が窺えた。
間合いに入るや否や、シュイが鎌を素早く、だが僅かに引いた。そのフェイントにトビアスは素早く反応した。一瞬にして足を止め、鎌の外側に向かって回り込むように斬りこんでくる。
体重の乗った剣がシュイの側頭部目掛けて速やかに振り下ろされた。シュイが鎌の柄を手の甲に乗せて上に弾く。反動で柄の部分がしなり、トビアスの剣の腹の部分を真下から強かに叩いた。腕にまで伝わってきた痺れにトビアスが仰け反るようにして後退。息を付く間もなく、シュイの視界の両端に時間差で飛び込んでくる三名の敵兵が見えた。
手首を返し、突きを繰り出してきた兵にシュイは体を半歩横にずらした。心臓を狙った一撃が脇に逸れると同時に飛び込んできた兵の鎧の腹部に膝を曲げた状態で足を置く。
足を思い切り伸ばして分厚い鉄板を押し出す様に蹴り飛ばした。相手に尻餅を突かせると同時にその勢いで後ろに三歩分ほど後退。距離を取ったところで残り二名の方に旋風を従えた鎌刃を薙ぎ払った。後を追うように風が逆巻き、衝撃波が空気を切り裂いてゆく。
「風障壁!」
側面に回り込んでいた兵が高らかに叫んだ。正面右よりの二人に向かう大きな三日月型の衝撃波の前に風の壁が生じた。これには流石のシュイも唸らざるを得なかった。完全に相殺しきれたわけではなかったが、回避行動に移行する時間は稼がれていた。障壁が掻き消されると同時に敵兵たちが左右に散り、二人共に直撃を避けることに成功していた。
今度は背後から殺気を感じた。遅れて風の音に<燃え盛る炎>の詠唱が重なるのを耳にし、シュイはそちらへ目を移すことなく、一回転するように鎌を大きく振り翳した。描かれた黒い輪から衝撃波が四散し、シュイへ向けられていた炎が強風に煽られて吹き消された。前方から接近していた二人の敵兵たちも衝撃波を避け切れずにたたらを踏み、後方へ吹き飛ばされる。少し離れていた側面の兵は咄嗟に腕を交差させて前かがみになり、押し遣られるのを防ぐのがやっとだった。
唯一人、衝撃波の軌道を見極めて宙に跳躍していたトビアスが台風の目、シュイの頭上から獲物を狙う猛禽類の威容で襲いかかった。敵兵を退けたシュイも素早く踵を立て、土を抉るようにして回転を強制的に制止。トビアスに向かって斜め下から鎌を振り抜いた。
予想していた一撃だったのだろう。旋風を纏う鎌刃をトビアスは剣の角度を変え、盾変わりにして受け止めると同時にシュイの頭目掛けて蹴りを放った。刹那シュイの左腕が掲げられ、体重の乗った蹴撃を受け止めた。トビアスが目を見開いた途端に付与による衝撃波が生じ、トビアスの左半身を襲った。
錐揉むようにして横に弾き出されたトビアスが地面に転がり落ち、勢いが弱まったところでうつ伏せになった。
「トビアス隊長!」
隊員たちから悲鳴が発されたが、トビアスが地面に伏せたまま片手で制した。間近で衝撃波を受けたのだからダメージがないはずはないのだが、意外に早く地に両手を付き、すくっと立ち上がった。
鎧を付けているとは思えぬ身のこなしに加え、技量、連携共に鍛えられた兵たちだった。部隊単位での実力ならエレグスやフォルストロームの正規軍にも匹敵するかも知れぬと思わされた。
「……ぐぅ、我々の連撃がこうもあっさりといなされるとはな。噂に違わず恐ろしい男よ」
「タフなやつだ。なるほど、ナルゼリにも少しは気骨のあるやつがいるようだな」
「ふ、死神なんぞに褒められても嬉しくはないがな」
「そう嫌ってくれるな。俺が生涯最後の会話相手かも知れないぞ?」
軽口を叩き合う間も、シュイは周りに素早く視線を走らせつつ鎌に新たな付与を施そうとした。
ふと、強い殺気が向けられていることに気づいた。周りのナルゼリ兵からのものとは違う、期待と微かな迷いが入り混じっている。距離がある程度離れており、場所を特定するには至らなかったが、辺りに視線を走らせ、唯一こちらの戦闘状況を観察できそうな北東側の崖辺りかと目星を付ける。
――ルー・イ・ファラ・クラム・クラムス。
湧き出た最悪の可能性を忖度したシュイは付与魔法を取り止め、囁くように祈歌を紡ぎ始めた。
――――――
「おぉ、まだ戦っているようですな。バータンの兵は見当たらぬようですが……」
トビアス隊と戦っているシュイよりやや北東、崖上から戦況を見る部隊長の後ろで、ネデルは周囲にある微細な魔力を全身から少しずつ吸収していた。取り込んだ力の微粒子を、全身を巡っている血流に含ませるようなイメージを描き、自分の魔力と同質のものに同調させてから両手の方へと移動させる。
――今兵を呼び戻せば、やつらがこちらの思惑に気付いてしまうかも知れんな。
「……え? ネデル殿、今何か仰いましたか?」
「いや、気のせいではないのか」
適当にあしらいつつ、ネルデは眼下にいるシュイに間断なく視線を送る。彼とて全員を倒そうと思ってここに留まっているわけではないだろう。時間稼ぎに徹され、適当なところで打ち切られてはバータンの連中の狙い通りになってしまう。
ネデルは焦りを感じていたのと同時に、大殊勲を目の前にして心が高揚していくのを止められなかった。レッドボーンを壊滅させた立役者を討ち取ったとなれば相当な箔が付くのは間違いない。死神の悪名を呑みこんだ者として、表裏双方の社会から一目置かれる存在になるだろう。
ややあって兵たちがシュイに群がり、戦闘が再開されたのを期に、ネデルが意を決して両手を大きく掲げた。周りにいた兵たちがそんな彼を見てぽかんとした。
両手から吸収していた大量の魔力を解放、集約した魔力から紅蓮の炎を創造。十指から放たれる炎の帯が渦を巻きながら小さな火球に絡みつき、みるみる内に巨大化していく。
周りの兵たちの視線が手を掲げているネデルと眼下で戦っているシュイたちとを素早く行き来した。
「ま、まさかネデル殿! おやめくださ――」
「――煉獄火球!」
兵たちの制止を振り切って詠唱が結ばれる。ネデルの作り出した巨大な火球が振り下ろした手に誘われ、戦場に落ちていった。
――――――
唐突に、地面が紅に染まった。周囲の景観が目にきつい色合いに変化し、トビアスたちが頭上を見上げ、そのまま硬直した。
<――後ろへ下がれ!>
膨大な魔力の接近にいち早く気付いたシュイが頭上を注視することなくアマリスに念話で命じた。アマリスの身体が頭で理解するより先に地面を強く蹴っていた。
迫りくるもう一つの太陽に、シュイを取り囲んでいたトビアスたちがようやく我に返った。だが、逃げようとしたところでもう手遅れだ。火球から逃れるべく後ろに飛びのいたアマリスは、シュイが兵たちに囲まれて未だ逃げ切れていないのを目の当たりにし、切羽詰まった声を上げた。それに連鎖するようにナルゼリ兵たちの悲鳴が辺りに響き亘った。
巨大な火球がシュイたちを呑み込み、下半分が地に沈むや否や、大爆発が巻き起こった。爆心地からドーナツ型の衝撃波が低空を駆け抜け、爆音が撒き散らされた。刹那、大地の表面が泡立ち、融解して溶岩が盛り上がった。燃え盛る炎の壁の中からこの世の全てを呪うような絶叫が迸った。ドーム状に広がった爆発領域内で人影がくの字に折り曲がり、次々に消失していく。
爆風で弾け飛ぶ砂や岩の破片から顔を庇いつつ、アマリスが力の限りシュイの名を叫んだ。その声も地の底から轟くような爆音にむなしく掻き消されてしまう。体全体に押し寄せてきた衝撃波に足を踏ん張り切れず、後方に吹き飛ばされた。何とか宙で体勢を整え、四つん這いになって地面にしがみ付いた。再び前を向いたアマリスの視界に飛び込んできたのは、熱を帯びた光の花が咲き、辺り一面を白で覆い尽くしていく凄まじい光景だった。