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~紲雷 thunder of bonds2~

 群青の空には眩いほどの白い月がぽっかりと浮かんでいた。坂の上からはルトラバーグの街並みが一望できる。空き家となったはずの家々の窓からは仄かな明かりが漏れ出していた。セーニアの兵士たちが仮住まいとして利用しているのだ。

 主のいなくなった家には食糧などもそのまま残されていたが、それらの多くは廃棄処分にさせられた。予め必要量の兵糧を用意していたという以上に、以前小国に攻め入った際、毒を混ぜられていた事例があったからだ。


 奇策によってルトラバーグを陥落させたセーニア軍は次なる目標オルドレンに向かおうとはせず、支援物資の到着を待つと共に兵士たちに休息を取らせていた。慣れぬ気候による疲労が祟ったのか、病に倒れる者が続出したことも起因していた。

 疲労による風邪などであればさして気にする必要もないが、風土病に冒される者もちらほらと見受けられた。砂漠熱と呼ばれるその病に冒されると全身が虚脱し、高熱と嘔吐を伴う腹痛を発症する。原因は半乾燥地帯に生息する肉食昆虫、ツァレフライの保有する病原菌によるものだ。

 蟻くらいに小さなこのハエは飛翔する時にほとんど音を立てず、腐肉に集るに留まらず生き物にも喰らい付く獰猛さを持つ。そして、獲物を食い千切る際に唾液から感染するのが砂漠熱の原因となる病原菌である。

 そういった風土病があることは兵たちも注意を促されて知っていたし、寝所では蚊帳を巡らすなどの防備措置も怠っていなかった。とはいえ、蝿は暑い気候であればどこにでも湧くものだ。四六時中どこから飛んでくるとも知れない虫に気を配っているわけにもいかない。この気候で過度の厚着をするわけにもいかず、知らぬ間に服の中に潜り込まれて噛まれているといったことは後を絶たなかった。


 アデライードは外で待っていた近衛のホリックを伴って大通りを歩いていた。<黒禍渦(バリー・クラウド)>が去った今も、石畳の道を歩けば砂のざらつく感触が気になった。朝方と夕方、風魔法の心得があるセーニア兵士たちが砂を除去する作業に追われていたが、まだまだ取り切れてはいないようだ。

 大通りに面している広場には、セーニア兵たちの焚火がちらほらと見受けられた。昼間の熱は遠くに離れていた。砂漠の夜は火を入れねば凍えるほどに寒いこともあり、実際にアデライードの口からは白い息が吐き出されている。

 焚火をぐるりと囲むように暖を取っている十人ほどの兵士たちは、戦わずに逃げたジヴー軍の腰抜け具合に花を咲かせていた。ある者は自分が如何に勇敢に戦ったかを大袈裟なジェスチャーを交えながら語り、階級章をつけた者はこの戦いで何人の敵兵士を倒したかを部下たちに聞かせていた。次の戦いでジヴーも最後だ、などと息巻いている者もいた。

 しばしの間、アデライードは足を止めてその様子を眺めていたが、小さく溜息を吐き出して再び足を踏み出した。

 道路側を向いている何人かの兵たちがアデライードの姿に気づき、急ぎ敬礼しようと立ち上がりかけた。アデライードは不要とばかりに手を出して制した。兵士たちは一瞬逡巡したが、アデライードが小さくうなずくのを見、納得したように腰を下ろした。

 肉の脂弾ける匂いが、アデライードのところまで漂ってきた。日干しした牛肉に塩とたっぷりの香辛料を塗し、保存食としたものだ。熟成された肉の味は悪くないがそのままで食べるには固いので、火にかけて沸かした湯を使って一旦ふやかしているようだ。

 後方からの支援物資が届くまでの間、一般兵は干し肉や干し鮭と干し飯を水に戻して湯漬けにして食している。本来であれば野菜や果物も摂った方がいいのだが、ナマモノは日持ちしないし、あったとして身分の高い者たちの口にしか運ばれない。これまでに占領した国々では町が空っぽになるような状態にはなかったため生の食糧を手に入れることも出来たのだが、今回は町が空っぽになってしまっていたのでそうもいかなかった。

 食事が豊かか粗末かはそのまま戦意に直結する。美味しい食事で英気を養えれば頑張ろうという気にもなれるだろうが、一週間もの間非常食ともなれば不満も出てくる。最低限戦うための体力と肉体。なにより戦意を維持せねばならない。戦の勝利はほぼ確定している。今気を回すべきは内乱や反乱だ。体調を崩す者も出てきている中で、このまま攻め入るよりは少しでも体を休めた方が得策と上層部が判断した。


 広場の灯が遠ざかったところで、アデライードに宛がわれた屋敷が見えてきた。そこはこの町の商業組合として使われていた場所のようで、両開きのドアを開けると大きなカウンターがあった。部下の多いビシャやディビほどの大邸宅ではなかったものの、二階の小部屋も合わせれば八部屋もある。十人くらいなら問題なく暮らすことが出来るスペースだ。

 道を外れ、屋敷のドアまであと十歩ほどとなったところで、俯き気味に追従していたホリックが意を決したように顔を上げた。

「……あの、アデライード様」

「何かしら」

 アデライードがホリックに背を向けたまま足を止めた。ぶつかりそうになったホリックは爪先でその場に踏み止まった。

「ええ、その、処罰はどのような……」

 屋敷を出てから全く喋らぬ主に、ホリックは恐る恐るといった体で話しかけた。

「……話は屋敷に入ってからでもできるのではなくて? もう目の前なのだし」

「あ、いえ、それは、その通りなのですが……」

 口ごもるホリックに、アデライードはくすりと笑い、再びピンと背筋を伸ばした。ホリックはアデライードの次の言葉を待った。

「――王都に戻って蟄居(ちっきょ)するよう命じられたわ。差し当たり、巡回任務に従事していた部隊の方々の言質を取った後で処罰を確定するそうよ。幸い小型の砂船を一隻貸してくださるそうだから、明後日には出立するわ。部屋に戻ったらグレンにも伝えて、早めに帰国の準備をなさい」

 ホリックは信じられないといった風に口を半開きにした。

「ご冗談でしょう! 命令違反した彼らは元々あなたの直属の部下ではありません。越権行為を抑えられなくとも仕方ないではありませんか」

 持ち場を勝手に離れた砂船が現れたのは事実だ。しかし、不審船を追走すべく越権行為に及んだ船とアデライードの乗る船はかなり離れた位置にいた。アデライードも任務に従事ていた以上、彼らの行動を逐一把握することは叶わない状況にあったのだ。しかも、付近にいた六隻に関してはちゃんとアデライードの指揮下で巡回をしていたという事実もある。

 声を荒げたホリックに、アデライードは表情を変えなかった。

「そんなことは上だってわかっているの。ただ、邪魔者を追いやるチャンスを逃したくないだけよ」

「……邪魔、ですか?」

 淡々としたアデライードの物言いに、ホリックは首を傾げた。受けた処分に対してあらゆる感情を抱いていないかのようだった。

「魔物を利用する策に反対したことで、作戦参謀殿の不興を買ってしまったみたいね」

「ロッグ准将の、ですか」

 ホリックの脳裏にひょろりと背の高いキツネ目の男が思い浮かんだ。


 ロッグ・ケトゥレフは四十も半ば。黒髪のぼさぼさ頭にぶかぶかの白衣といった出で立ち。色白で肌が弱いということでココナッツオイルで作った日焼け止めをふんだんに塗りたくっている。この戦における作戦参謀、ビシャのブレーンと目されている男だ。

 彼は心理学者の一面も持ち、こと対外交渉においては数々の助言で多大な功績を収めてきた。その智謀は誰もが認めるところであるが、先のルクスプテロンとの大戦、ヌレイフ湿原の戦いでは深読みが裏目に出、彼の指揮した軍は敵の突撃によって大きな被害を出した。

 戦争では駆け引きが重視されることも往々にしてある。最終的には痛み分けに終わった戦いであるし、ただ一度の失敗で揺らぐほどの経歴の持ち主でもない。だが、不本意な結果のままに終わったヌレイフ湿原での戦いは彼のプライドを著しく傷つけたようで、此度の戦では名誉挽回に燃えているらしいと聞いていた。ジヴーにとってはとばっちり以外のなにものでもない。

 王城での淑女たちのネットワークによる情報にはかなりの信憑性がある。内情に詳しいアデライードとしてはロッグに誰も注意喚起しないのを不思議に、もっというと不安に思った。差し出がましいながらも、と前置いて慎重論を述べたのである。

 あるいは、不安に思うその心情を必要以上に敏感に感じ取ったのか。アデライードの態度はロッグの気に障ってしまったらしい。反対意見を『不要』と一蹴した後も、会議中ロッグは度々不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。

 仮にも皇族であるアデライードにこうした態度を取れるのはセーニアでも一握りだ。実際、ケトゥレフ家はセーニアでも屈指の名家であり、家柄でいえば将軍であるリーヴルモアよりも格式が上。そうした家系の面子が彼のプライドを高く、もっというと増長させていたのかも知れない。


 結果として、今回の戦いではロッグの策は見事に嵌った。彼は戦が終わるとこれ見よがしにアデライードの前で胸を張って見せた。

 初参戦ではあったものの、アデライードにも綺麗事だけで戦争が(はかど)らないことくらいわかっていた。実際、敵兵に砦に籠もられたまま攻め入ればこちら側にも多くの犠牲者が出ただろう。

 だが、奇を(てら)った戦い方は良くも悪くも目立つものだ。何万という兵士たちの口からそういった話が外に漏れないとも思えない。言ってみれば外法を躊躇わずに使ったことで、例えば他国で魔物が蔓延った時にあらぬ疑いをかけられることにもなりかねない。確かに彼は今の心理を読むには長けているかも知れないが、十年、二十年先を見据えられる人物とも思えなかった。


「もしかしたら、後方支援に回されたのもその辺が理由なのかもね」

「ですが、そもそも意味不明な配置転換で発生したトラブルです。上が任命責任を問われるならいざ知らず、あなたが取る責任はないのでは?」

 アデライードは肩越しにホリックを見た。その目に微かな非難の色を見止め、ホリックが立ちすくんだ。

「やぶ蛇、ね。これはあなたの勉強不足」

「え……」

「軍律の軍令違反に関する条項の第4条にきちんと記されているわ。『軍令に背いた者がいた場合、その兵が所属する部隊、及び兵士たちを引率する者が連帯して責を追うこと』、有体に言えば監督不行き届きね。例外規定としては『おのれの指揮官の安否が確認できぬ場合に限り、誤った裁量による損害は個々が責任を追うものとする』」

「えぇと……そ、そうでしたっけ」

「その物言いは、私の言を疑っているってことかしら」

「と、とんでもありません」

 ブンブンと音が聞こえてきそうなくらいにホリックが首を横に振った。アデライードの記憶力が優れているのは周知の事実だ。以前、屋敷にいるシェフのメニューが偏っていたことを彼女が指摘していたことがあった。その際には一週間の晩御飯のメニューをそらで言っていた。

 黙りこくったホリックにこれ以上会話が進まないと判断したのか、アデライードは目線を前に戻し、扉に近づこうとした。我に返ったホリックが慌てて前に進み出、先んじてドアノブを回した。アデライードはありがとう、と礼を述べ、屋内に静々と入っていく。


「全てとは言わないけれど、後で読み直しておいた方がいいわよ」

「……面目ございません。ですが、それとこれとは」

「心配しなくても、本当に我慢できなかったら私だって抗弁のひとつくらいしているわ」

「……しかし、あなたの軍歴に傷がついたことになるのでは」

 廊下を歩いていたアデライードが足を止め、突き当たりのドアノブに手をかけた。寝台の整えられただけの、飾り気のない部屋がドアの隙間から覗いていた。ホリックが部屋の様子をちらりと窺うのを横目にし、目を瞑った。

「平気よ。自慢にもならないけれど、傷つけられることには誰より慣れているもの」

「――――アデラ……」


 拒絶の意を示すように、パタンと強めにドアが閉められた。ホリックは無意識に差し出されていた自分の右手を呆然と見つめた。次いで、自分自身に対して怒りが込み上げてきた。束の間、寂しそうに見えた彼女を慰める言葉が、どこにも見当たらなかったことに。

 その半面、彼女が受けた処分をやぶさかではないと感じてもいた。主君の手前、声高らかに言えることではないが、本心を言えば危険な戦場など一刻も早く立ち去って欲しかったのだ。

 年頃の貴族の娘であれば嫁入り、早ければ子を産み育てている者もいる。事実、アデライードの同年代にもそういった婦女子が多くいた。彼女たちが嗜むことといえば読書や裁縫、またはお菓子作り。活動的であればハンティングや男装、菜園の管理。夜であれば夜会で優雅にダンスを踊る。

 だが、アデライードは剣の道に生きることを選んだ。尊敬する父の背を追っているというのもあるだろう。そして、叶わぬ願いを抱いてもいるのだろう。いつの日か家族を奪った憎き男をその手で殺めるべく、彼女は剣の腕を磨いているのだ。ホリックはそう信じて疑わなかった。

 ホリックとしては、アデライードには、己が仕える美しい主人には人を殺めて欲しくないと思っていた。彼女が思っている以上に罪なき人を殺めた時のショックは、大きい。弱きを助け、強きを挫く。戦争に出れば誰もが、騎士になった時の青臭い誓いを破らねばならない。セーニア以上に強いといえる国など、今は存在しないからだ。

 仮にも五、六年前まで王城の庭園で花を愛で、犬と戯れ、吟遊詩人の語らいに感動して泣いていた少女が。自分が陰で仄かな想いを寄せていた少女が、人を殺してその血を身に浴びる。考えたくもないことだ。

 おそらく人を殺した瞬間から彼女は変わってしまうだろう。万が一変わらなければ、自分は変わらなかった彼女に絶望してしまうだろう。どちらにしても堪えられることではない。ホリックは彼女のそんな姿を目の当たりにする日が来ることを心の底から恐れていた。


 ――それも、これも、全部。

 自然と拳が握り込まれていた。全ては、あいつが悪い。彼女の兄を。父であるナイト・マスターを殺めた罪深い少年が、彼女の負う不幸の、おのれの憂鬱の元凶なのだ。


――――


 さざ波すら立たぬ水鏡は世界を正しく反転させていた。風の音すら聞こえぬ静寂にひとつ、またひとつと波紋が生じていく。水面に浮かび広がる金髪が月の光を浴び、サファイアの如き青い煌めきを放った。しなやかな体躯の女が夜の水鏡に寝そべるその光景は、神話にも出てきそうなほどに幻想的なものだった。


 少し遅い夕食を終えたアデライードは屋敷を抜け出し、近場のオアシスで一人ひっそりと水浴びをしていた。水面を手で書きわける度に、数多の雫が肩から体のラインを撫でながら落ちていく。

 まだ深夜というには早い時間帯で、これ以上夜が更けると水が冷え過ぎる。湿度が低い場所では空に向かって昼間溜めこまれた熱の放射が迅速に行われる。これが水蒸気や雲などがあれば熱が留まるのだが、砂漠のように雲が無く、湿度も少ない場所では一気に冷え込む。砂漠の温度差が激しい所以である。


 一頻り水浴びを堪能したのか、アデライードは砂浜に上がり、水に濡れたスレンダーな肢体をタオルで覆い隠して身震いした。

 ――流石に、かなり冷え込むわね。

 小さな湖の水温は肌に心地良いくらいであるが、外気温は5度前後といったところだろう。朝昼だと一部の兵士たちが交代で水浴びをしているため、この場所は使いたくとも使えない。もちろん自分がどくように言えば彼らは従うだろうが、兵士たちのささやかな楽しみを奪うのは気が引ける。加えて、どこに衆目の目があるとも知れないのに真昼間から裸体で泳げるほど(はしため)ではないつもりだ。


 念入りに体を拭いたところで、濡れた髪の毛を軽く手で絞る。続いてはもう一枚の細長いタオルで髪を叩くように、優しく丁寧に水気を取っていく。そうして最後に携帯瓶からツバキ油を手に取り、母譲りの美しい金髪に丹念に塗り込んでいった。

 そうしながらも、アデライードの目線は直ぐ脇にある大きなヤシの木に向けられていた。

「いるんでしょう、出ていらっしゃいな」

 束の間の沈黙を経て、ヤシの木が言葉を返した。

「……気配を読むのが大分上手くなられましたね。折角の申し出ですが、ここから失礼させていただきます」

 正確に言えば、その裏にいる男からのものだ。太くてちくちくとした棘のある幹にもたれかかったまま、灰青髪の男は微動だにしなかった。


「そうよねぇ、私の貧相な体じゃ目の保養にもならないわね」

 アデライードはがっかりしたように自分の小振りな胸を下手でもてあそびながら、芝生の上に畳まれている着替えの隣に座った。

「いえいえ、逆ですよ。高貴な女性の瑞々しい肢体を私のような下賤の者が見れば、目が潰れかねませんので」

「ふぅん、そうやって褒めながら逃げるのね。――――首尾の方は?」

 するりと、衣擦れの音がレイヴの耳に届いた。

「言いつけ通りに彼らに同行し、隙を見て始末致しました。打ち合わせ通りに別働隊の数人は見逃がしましたが」

「上出来ね。それで、妨害者はいたのかしら」

「御意、他ギルドの傭兵たちが魔遺物ヴァイーラの守護に手を貸していましたよ。仲間が彼らだけとも思えませんし、別働隊が泡を食って逃げ出したのを確認しております。少なくともセーニア兵の手には渡らなかったと見て良いかと」

「そう、ご苦労様。報酬の支払いは戦争が終わった後の予定だったけれど、もう少し早く出来そう。部下の尻拭いで王都へ帰還することになったから」

 闇の中で純白の下着を穿き、同じく純白のレースつきブラに胸を収める。次いで背中のホックを填め、折りたたまれていた長袖のシャツを手に取った。

「それはそれは、なんというか――幸運(ラッキー)でしたね」

「……どういう意味?」

 少しばかり刺々しい声に変化したのに気づき、レイヴが苦笑いした。

「あぁ――もちろん、貴女の受けるであろう罰則のことを申し上げたわけではありません。ただ――」

 レイヴは小さく息を継いだ。熱病人のような苦しげな吐息に、アデライードが小さく首を傾げた。

「私が相対した方々も、決して侮れぬ力を持っていましたので。仮に彼らが形振り構わずセーニア軍に敵対するとなれば、一度や二度くらい危うい事態に陥ることも否定できませんから」

「あら……辛口のあなたが随分と持ち上げるのね」

 黒いレギンスを穿くべく右足を持ち上げ、脹脛(ふくらはぎ)まで通したところで左足を持ち上げる。腰の所で留め具を引っ掛けると、アデライードはゆっくりと立ち上がった。

「まぁ、口で言うよりはこれを見て頂いた方が納得していただけるでしょう」


 レイヴが木の幹から体を起こし、着替え終わったアデライードの前に進み出た。腰布を緩め、上着の襟元をすっと横に引く。

 ――ちょっ。

 いきなり上半身を露にしたレイヴに、アデライードが闇の中で赤らめた顔をそむけた。続いては照れたのを悟られなかっただろうかと危惧する間もなく、目を丸くする羽目になった。

「何、それ。……痣、のようにも見えるけれど」

 鍛えられた胸筋の中央に映ったのは黒い満月だった。少なくとも直径二十センチはあるだろうと思われた。

「まさしく痣ですよ。今回の戦いでつけられたものでして。治癒魔法は施していただきましたが、痕が残ってしまったというわけです。ついでに言うと骨折から熱も併発していますが、まあこれは慣れっこですので」

「……まさか、レイヴ・グラガンともあろうものが手傷を負わされたと?」

「買い被られては困ります、私とて怪我は日常茶飯事ですよ。とはいえ、傭兵生活苦節十年、命の危険を感じたのはこれで二度目ですけれどね。もう少し左にずれていたら、心臓が潰されていたかも知れません」

「……負けたの?」

「ええ、負けてしまいました」

 にこやかに笑うレイヴに、アデライードは怪訝そうな顔をした。

「随分あっさりと、敗北を認めるのね」

 落胆した風でもなく、アデライードはそう呟いた。その辺りは騎士との在り方の違いだろうと理解してもいた。

 傭兵は面子以上に実益を求めるものだ。負けたにも拘わらず命があったのは幸いというレイヴの考え方は決して珍しいものではない。これはアデライードの預かり知らぬことだったが、レイヴとシュイとの闘いが後腐れのないものであったことにも起因していた。

「それで命があったってことは、敵に見逃されたということでしょ? 悔しくないの? 私の目が曇っていなければ嬉しそうに見えるのだけど」

「悔しいのは山々ですが、仰る通り、嬉しくもあるのでしょうね」

 レイヴはばつが悪そうに、それでもどこか楽しそうに露になった上半身に服を纏った。アデライードは芝生に置いてあった剣を拾い、腰に差した。

「変なの。男の人ってよくわからないわ」

「そのうち嫌でも知ることになりますから、ご心配なく」

 セクハラ。余裕を取り戻したアデライードが薄く笑い、芝生に腰を下ろす。レイヴはそういったつもりではないのですが、と咳払いし、腰紐を結び直した。


「しかしまぁ、敵の仕業に見せかけて同胞を始末せよ、でしたか。このような依頼を申し込まれたのが貴女のような可愛らしいお嬢様とは、いやはや、夢にも思いませんでしたよ」

「支配するのに過ぎた力を求めるのは愚行。その力と技術を奪い合う争いが始まるだけ」

 わかり合えない者たちとは交わらなければいいだけなのに、無闇に圭角を立てて傷つけ合のは何故か。全ては権益と自己満足のためだ。

「権力のある赤子のお守りほど始末に負えないものはないわね。首輪に括りつけて戦場の最前線に放り出してやりたいくらいだわ」

 一向に悪びれた様子のないアデライードにレイヴは肩をすくめた。 

「ご先祖様が偉大だと、背負う物も生半可な重さではないのでしょうねぇ」

 その言葉に軽い揶揄の響きを認め、アデライードは目を細めた。


 セーニアは過去におけるジュアナ戦役時、ザーケイン帝国から独立した国であるが、それから50年ほどは今のルクスプテロンの南部、四分の一ほどがセーニア領であった。それを取り返されたのが穏健な三代目のセーニア教皇の時代だ。元々管理するには広過ぎる領土だったということで、ルクスプテロンに領土を明け渡したのだ。一方で、単に戦いを嫌って逃げただけ、という説もある。

 以来、好戦的な教皇や大臣が初代の領土回復を謳って度々出兵することはあったが、一向に決着がつくことはなく、現代にまで至っている。もっともそのエピソードも300年前の話であるからして、どこまでが本当のことだか疑わしい。

 そもそも凝り固まった選民思想は百年以上に亘って植えつけられてきたものだ。そう簡単に取り除けはしないだろう。今のセーニアにはかつてのような崇高な目的がない。兵士たちは人参を目の前にぶら下げられた馬に等しい。上層部に巣食う狸たちがとろけるように柔らかい肉を食らい、若い女を抱くために、未来永劫達成されることのない張りぼての目的に向かって邁進させられ、命を落としていく。

 四大国と言わしめる力を得て、暮らしは平均的に豊かになったかも知れないが、その一方で精神は堕落していくばかりだ。これ以上の力を得れば、国の腐敗の進行に歯止めがかからなくなるだろう。


「叔父……教皇様も昔は聡明な方だと思っていたけれど、病が目を曇らせているのかしらね。側近たちの言いなりになって挙兵してしまうなんて。こんなことなら早く御隠れになってしまわれた方がよほど幸せなのに」

 アデライードの予見では、遠からぬ内にセーニアは内から瓦解する。そうなればルクスプテロンも奪われた領土を奪還すべしと兵を挙げるだろうし、最悪こちらの領土まで侵されかねない。目下のところ、最大の敵は自国にいる。

「辛辣なお言葉ですね。ですが、万が一のことがあれば――貴女が第一皇位継承者ということになります。ゼノン様も亡くなられていることですし」

「兄の話は、しないで」

 今までになく強い口調でそう言われ、レイヴは一瞬面喰らったようだった。

「これは失言を」

 いち早く立ち直ったレイヴは胸に手を添え、優雅に頭を下げた。確かにゼノン・ディアーダの存命時、その素行についてはあまり良い噂を聞いていない。一目見て気に入った貴族の女に手を出し、お家ぐるみで揉めたことも何度かあったと聞いている。逆らった家がお取り潰しにされたという噂もある。話題を持ち出された時のアデライードのしかめっ面を見るだけで、どう思っているのかくらいは容易に読み取れた。


「大体、私は皇位を継ぐつもりなんてないのよ」

「……と、仰いますと?」

「セーニア教国は私も含めて家族に不幸しかもたらさなかった。あんな国の存続のために人生を捧げるなんて、一言でいって馬鹿げてる」

 この発言は意外だったのか、レイヴが微かに眉を上げた。

「ですが、皇位不在となれば先ほども言われていたように他国の介入は避けられないかと」

「それは、あの国が今後も存在すれば、の話でしょ」

「……どういう意味です」

 訝るレイヴに言葉を返すことなく、アデライードはキュッと唇を噛み締めたまま空を見上げた。幼い頃に見た丘の上からの夜景がはっきりと思い出された。そう、あの時は隣に――


 ブチン、と何かを引き千切るような音が響いた。一瞬何事か、とレイヴが戸惑った。そうかと思うと、立て続けに音が聞こえてきた。

 ――ブチン――ブチン――ブチン。

 アデライードが足元の芝生を素手で毟っていた。両手で鷲掴み、引っ張り上げ、手放す。その繰り返し。その動きは留まる様子を見せない。

「あら、変ね。千切っても千切ってもなくならないわ」

 段々と力が込められてきたのか。その内に、雑草の細い根が引き千切られる音まで混ざり合った。土に覆われた白い根が露になり、細かく千切られた草の破片がぱらぱらとアデライードの腰に、太腿に纏わりついていく。


 ――おかしい、おかしいわよ。こんなに頑張っているのに、こんなに我慢してるのに、何で私の傍には誰もいないの。

 その様は、拾ってきた捨て猫を親に戻してくるよう命じられた子供だった。物言わぬ草花に向かって暴虐の限りを尽くすアデライードの姿に、レイヴは微かな薄気味悪さと深い憐みとを抱いた。

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