~紲雷 thunder of bonds~
「――君への処罰は以上とする。ほぼ勝利が約束されているとはいえ、何隻もの砂船を失った責任は決して軽い物ではないぞ」
「全くですなぁ」
「まさしく、まさしく」
左右からの不要な追い打ちに眉を潜めつつ、ふくよかな審問官ディビは長机の上に置かれたグラスの水を一気に飲み干した。外とは比べようもないが部屋の中もまた、砂漠の熱を完全に遮断できるわけではない。分厚い脂肪という服を端から纏っているディビにとっては尚更だ。じっとりとした湿気を含んだこの気候に辟易していることは、ヒトデのように指太い手で首を仰いで冷やしていることからも読み取れた。けれども、彼の落ち着きのなさは全てが熱気に起因するというわけでもなかった。
ディビ・ミョールは軍律違反者を処罰する審問官の一人だ。審問官とは国に属し、法に乗っ取って裁きを下す裁判官とは異なる立ち位置だ。主に戦時中外国で軍律に違反した者たちをその場で取り締まり、違反者を詰問して罰を下すセーニア特有の役職である。
戦場においては人死にが当たり前の世界になる。その血生臭い雰囲気は兵士たちを多分に高揚させ、代わりに法や道徳といった存在を脳裏から追いやってしまう。その際には理性を置き去りにし、常軌を逸した行動を取る者も少なからず出てくる。
実際、一昔前までは占領下の街に置いても暴行や略奪が日常茶飯事に行われていた。ただ、人としての最低限の一線を超えた者を放置しておけば国の名に傷がつくし恨みの根も深くなる。法治国家と謳うセーニアが兵士たちの手綱も握れないのか、と嘲笑されることにもなる。
面子を重んじるセーニア教国としては出来るだけ外面は良くしておきたいし、そうでなくとも対外交渉等のことを鑑みるに警戒されている状態はあまり喜ばしいことではない。そういった思惑から、いつしかセーニア軍にも厳しい軍律が設けられるようになった。
例えば、無抵抗の一般民衆に対する殺生や暴行などが発覚すれば、茨のような鉄棘のついた鞭で百回打たせたりする(出血や痛みで死することも往々にしてある)し、戦いに置ける作戦立案や陣頭指揮があまりに無謀なものだったりすれば、何名かの将軍の承諾を得て査問にかけた上で指揮官たちの役職を解任する権限も持っている。
もちろん、このシステムが完全に機能しているわけではない。大軍を運用するに当たってはどうしても目の行き届かない部分が出てくるし、網を掻い潜って何度となく犯罪行為を繰り返している狡猾な者もいる。
だがそれでも、犯罪の絶対数を減らすのには確実に一役買っている。これまでに鞭打ちや牢獄送りにした違反者は数知れず、兵士たちの間にも例外なく審問官の存在は畏怖を以って知られている。呼び出された者たちは戸惑いと恐怖をない交ぜにして審問を受けるのが常であるし、抑止力としては十分な機能を果たしている。往々にして審問官たちにはその自負があり、自分たちの存在がこの大軍を律しているのだと誇りにも似た感情を抱いていた。
だが、この日はいつもと勝手が違った。光量の抑えられた照明石の真下、長机を挟んで居並ぶ三人の向かい側に座っている見目麗しい金髪の女は、処分が言い渡される間というものただの一言も発さずに目を瞑っていた。別に船を漕いでいたというわけではなく、欠伸を交えていたわけでもない。落ち着きなく長い金髪をいじるわけでもない。
紅のタイトな軍服を誰よりも見事に着こなしたアデライード・ディアーダは慎ましやかに足を閉じ、その上に手袋をつけた手を揃え、詰問の間、身じろぎひとつしなかった。喉が渇くだろうと用意された水は手つかずのまま。ディビとは打って変わって涼しげな表情で佇んでいる。
断罪される者としては誰より正しい態度とも取れるだろうが、その潔さが審問の始まりから終わりまでディビの癇に障っていた。今まで自分に相対した者たちの大半が、己の罪が言い渡されるまでの間、落ち着きなく貧乏ゆすりをし、質疑の才には声を裏返した。意味ありげに睨みを利かせようものなら椅子毎後ろにひっくり返った者もいたほどだ。
今回彼女を呼び出したのは、巡回するセーニア軍の砂船の監督不行き届きという名目だった。彼女の下についていた者たちが監視下区域を離れてまで船籍不明の砂船を追い、逆に手痛い損害を被ったのだ。
彼女の指揮下にあった十二からなる船団のうち、実に半数の六隻が任務を逸脱。追及を諦めて帰還したのは一隻のみ。残りの五隻のうち二隻は砂に埋もれていた岩礁で座礁、一隻は辛うじて航行可能ではあったが損傷。後の二隻は深追いした挙句に魔物に破壊され、乗組員のほとんどが帰らぬ者になった。しかも、肝心要の砂船にはまんまと逃げられたという。
ことに破壊された二つの船に乗っていた乗組員は合わせて二百九十二名。ジヴーとの戦における死者が未だ三千に届いていないことを考えると、被害は決して軽微ではない。これが任務外での出来事となれば監督すべき立場の者が責任を取らされるのは至極当然である。
なのに、アデライードは審問の最初から最後まで、怯えを全く見せなかった。質疑に対してのみ流暢に応答し、後は沈黙を貫いていた。ディビは毅然とした彼女の態度に得体の知れない威圧感を感じ取っていた。自分の娘ほどの齢の女にそのように思わされていることが不快でもあった。じっくりと構えて横柄に裁きを言い渡す普段の態度はなりをひそめ、自然と早口になっていた。一刻も早く、この場を立ち去りたいという風に。
ふとディビはアデライードの横、備え付けられている鉢植えの時計花に目を移し、内心で舌打ちした。入室した時の桃色と全く変わっていない。とどのつまり、いつもならたっぷり二時間を超えるだろう審問で一時間を切っていたということに他ならない。普段、自分の身分は決して高いものではないが、この一時に限って言えばどれほどの立場の人間であろうと自分が最高位であり、場の支配者となる。反論のできない相手をネチネチと責め句でいたぶるのが好きな彼にとっては不本意な出来事と言って差し支えなかった。
そんな上司の苛立ちを過敏に感じ取ったのだろう。両隣りに座っていたやせぎすとのっぽの審問官補佐が顔を見合わせた。二人ともに齢三十を超えたくらいの顔立ちで、どこか狡猾そうな顔をしていた。いかにも人に取り入るのが上手そうなタイプだ。
「は、反論の一言もなしかね!」
「そうだそうだ、黙ってばかりではわからんぞ!」
慌ててそうやって凄んでみせる男たちだったが、やはりアデライードはこれといった反応を見せなかった。これには流石のディビも腹立たしさを覚えたようで
「おい、ちゃんと人の話を聞いているのかね! 寝ているんじゃないだろうね、ディアーダ君!」と怒鳴った。
机の上にあったグラスが小刻みに震え、水面に幾重にも波紋が生じた。部屋の壁を突き抜けるほどの声で名を呼ばれたアデライードは薄らと目を開き、左右の審問官に申し訳程度に視線を走らせた後、ディビを見据えて微笑んだ。向かい合う三人の眉間に当惑のしわがよった。
「もちろんですわ、ミュール大佐。先の件の罰は軍律に従い、甘んじて受けさせていただく所存です。戦時中にこのようなことでお手数を煩わせてしまい、私お詫びの言葉もありません」
折り目正しい言葉を返され、三者三様の溜息が漏れた。年若い女に小首を傾げながら微笑を浮かべられると、しかもそれが絵として飾られそうな麗人ともなれば、男たちとしても責める気が萎えてしまう。そして、おそらく彼女はそれを計算ずくで行っている。ディビは忌々しそうにシャツの上から二つ目のボタンを外し、大きく息を吸い込んだ。ふと、アデライードが身に振りかけていたであろう微かな香水が鼻を通り、脳で知覚された。薔薇の香りの中にもどこか甘味が感じられた。年頃の女特有の、色香というやつだ。
皇族としての風格と目上の人物を立てる恭しさを併せ持つ女傑。近衛たちに勝るとも劣らぬ剣技と宮廷魔術師仕込みの魔法の使い手。しかも詩人が一目見れば歌にしたくなると言わしめる美貌。愛妻家のディビとしても、彼女に夢中になる将校たちが多いのは無理からぬことのように思われた。
その完全無欠さが、反ってディビを冷静にさせていた。フォルストロームの王女アミナ・フォルストロームが獣姫と呼ばれ愛されているように、アデライード・ディアーダもセーニアの民たちに強く慕われている。そんな彼女に必要以上に不快感をもたれるのは得策ではない。打算と防衛本能が頭の中で自分の歪んだ趣向を押し退けた。その結果が短い審問という形となって表れていたのだ。
「――もういい、色々と準備もあるだろうからこの辺にしておこう。退室を許可する」
「――はい。それでは、失礼いたします」
突として話を切られ、アデライードは躊躇いがちに目を伏せながらも椅子を引いて立ち上がった。
――そうだ、格別の譲歩というわけでもあるまい。半ば濡れ衣に近い軍紀違反だからな。
ディビは退室していく彼女の後ろ姿を見送りながら、そうやって自分を慰めていた。