~後継 succeeded to wishes13~
ジヴー連合国第二の都市、アクラムの首都オルドレン。この街は工業地区、商業地区、行政地区の三つに区切られている。住居は主に平地の東側商業地区と南西側行政地区に密集しており、鉱山がある高地の北西工業地区は町に住む八割の労働者たちが通う職場となっている。
世界有数の大鉱脈が眠るダミア山脈の麓。山の東側にある断崖には幾つもの坑道が並ぶ。掘削された大きな横穴には取り外しの出来る燭台を置き、長い木の板が連なる様に置かれている。重い鉱石を運び出す手押し車の往来を可能にするためだ。
資源として価値ある金属をふんだんに含んでいる鉱石は高値で取引される。特にメノアなどの魔力を含む鉱石は一山当てれば庭付きプール付きの大きな屋敷が建てられると言われている。
ごく稀に可燃ガスなどを掘り出してしまう場合もあるが、魔法技術の発達によって昔よりはずっと安全に採掘ができるようになった。ガスが噴き出した時のために採掘員のリーダーは氷魔石や風魔石を持っている。
また、中には無臭の有毒ガスもあるため、そういったものを察知する魔物も用意されている。手の平サイズの液体金属のような体を持つマテリアル・ゴーレムがそれである。彼らは食事を必要としないが嗜好品として様々な種類の気体を好む。歯をカチカチと鳴らし始めるのはガスが吹き出る兆候であり、すなわち撤退の合図だ。
さて、前線部隊がセーニアの侵攻を食い止めているのとは別に、オルドレンの斜塔ダミア・ブイでは毎日のように激論が交わされていた。ダミア・ブイとは<賢律院>の本会議場となっている七階建ての建物のことを差す。
<賢律院>に加わっている十一カ国の有識者たちは一般階級の出自の者が多い。スザク・シハラもその一人であり、主に魔法具の一般化や魔法技術の発展に貢献してきた人物だ。
彼らの決める法は加盟している各国の法と同等の強制力を持ち、その法を否決、もしくは緩和するには三分の一、四カ国の賛同を得る必要がある。ジヴー連合はルクスプテロン連邦ほど制約が厳しいわけではないが、対外的なリスクの分散を考えた場合、特に小国の政府にとって<賢律院>への依存度は高い。また、加盟している民たちにとっても精神的支柱となっている。
ルトラバーグでヴィレンたちが時間を稼いでいる間、ジヴー連合のトップである<賢律院>はオルドレンの周辺地域で『興国の存亡ここにあり』と義勇兵を招集、後詰の援軍を準備していた。実際、彼らが煽った台詞は大袈裟なものではなく、<賢律院>の者たちも次の戦を最終決戦と位置付けていた。これ以上勝ち目の見えぬ戦を長引かせれば、軍が諦めずとも連合国民の不満を抑えきることができないからだ。詰まる所、ここで相手に一泡なりとも吹かすことができなければ、ジヴー連合の瓦解は時間の問題だった。
鉱石を採掘するほど人手に余裕がなかったため、地下倉庫や近隣の町で貯蔵していた鉱石を製鉄所に回し、フル稼働させた。財宝や貴重な鉱石類も余すことなく戦費に充てていたため、装備の整ったセーニア軍にも劣らぬ質の武具が揃いつつあった。
これが自分の国だけの予算であれば出し惜しみもしただろうが、十一カ国共有の税金となれば遠慮はいらない。だが、そうして四方手を尽くして準備されつつあった援軍がルトラバーグに送られることはなかった。
年の瀬も迫った十二月二十一日。魔物の襲来を受けたジヴー軍はヴィレン・カシリの指揮の下ルトラバーグから脱出を図り、住民たちを伴ってオルドレン入りした。彼らの帰還に関しては一悶着あった。第一に、空き家や軍の施設は一月ほど前から満杯になっており、これ以上セーニアの侵攻から逃がれてきた難民たちの住居を確保するのは難しくなっていた。
苦肉の策として、町の近場にある小さなオアシスをぐるりと囲い込むように、彼らを住まわせるテントを設置し始めた。木の枠組みに幅広のフェルトを張っただけの簡素なものだが、日差しと砂吹雪を防ぐには十分なものだ。
短期間で仮住まいの住居が与えられたのは全体の二割にも満たず、特に病人や怪我人など、体力の心配される者が優先して入ることになった。
唯一の救いは、支援物資がフォルストロームを始めとする各国から続々と届けられていたことだ。満足に、とまではいかなかったが、町からあぶれた難民たちであっても必要最低限、栄養を満たすための食糧は確保できていた。
けれども、それだけで不満が払拭されるわけもなかった。彼らの多くが家族や友を殺され、住居を焼かれ、財産を奪われていた。そして、戦場に向かう意志があるなしに拘わらず働き手を戦争に駆り出され、敗色濃厚な戦いに投入されていった。徴兵された者たちの中には行方知れずの者も多くいた。彼らの家族たちは等しく、死んでいるかどうかも確認できないまま、生きている限りその悲しみを引きずっていくことを余儀なくされた。
今や鬱憤の矛先は憎きセーニアだけでなく、ジヴーの軍部にも向けられていた。そして、その絶好のやり玉として挙げられたのが、セーニア軍と戦うことなく退却してきたヴィレン・カシリだった。ジヴーは最後の決戦を前にして、一人の有能な将を失おうとしていた。
ナツメヤシが群生している道沿いでは、至る所で哀愁を誘う声が響いていた。レムース教会やルクセンの寺院で歌われているのは神を称える讃美歌ではなく、死者とその遺族を慰める鎮魂歌だ。その中に混じって聞こえてくるのは――啜る、叫ぶ、咽ぶといった違いがあるにせよ――泣き声が大半だった。
死体安置場となった大きな公会堂では、体中が傷だらけだったり肉体の一部が欠損している兵士たちが顔を布で覆われた状態で、仰向けにずらりと横たえられていた。国のために、家族のためにと剣を振るい、生きて帰ること叶わなかった者たちが。
屋内は蠅がたからぬように一風変わった乳香の匂いで満たされていたが、臓腑の腐臭は誤魔化せるものではなかった。そんな居心地の悪い空間に、しかし身内の面影を求める者たちがひっきりなしに訪れていた。
ミイラのように包帯が巻かれた遺体を見て、呆然と立ち尽くしている少年がいた。顔から布を外し、友人と思しき者らに肩を支えられながら泣き崩れる、年若い女がいた。あるいは、慎重に運び出される棺桶に縋りつく婦人も。
遺体が見つかればまだましな方だった。息子の所在がわからぬと老人が鬼の形相で杖を振り回し、混乱が起きぬよう配置されていた兵士たちに取り押さえられていた。その場にいる誰もが、施設の管理を任された兵士たちも例外ではない、悲しみの海に沈められて窒息しそうだった。
そして、公会堂から遠く離れた場所でも、今まさに、一つの命が燃え尽きようとしていた。
中心街の喧騒が届かぬ丘の上に、小じんまりとした寺院はあった。それを避けるように設けられた細道の先には離れが。玄関口の脇にノースリーブの黒いワンピースを着た黒髪の女、ヴィオレーヌの姿が立っていた。
あまり睡眠を取っていないのか目には色濃い隈が残っていたが、眠気よりは使命感が勝っているかのようだった。時折誰かの到着をを待っているかのように凛と背筋と爪先を伸ばし、寺院の方を窺っていた。
ふいに近くにあった灌木の茂みが大きくざわめいた。意表を突かれたヴィオレーヌが肩を震わせて音の方を見遣る。
「……ピエールさん、シュイさんも! ……もう、驚かさないでください」
突然現れた二人に、ヴィオレーヌが腰に手を当てて窘めた。
「わ、わりぃ、急いでた、もんで」
「右に、同じ」
僅かな時間を惜しみ、道なき道を駆けてきたのだろう。息を切らす二人の身につけている衣服には千切れた枯れ草や小枝が絡んでいた。ピエールは両膝に手を突きながらも顔を上げる。
「……ともかく、間に合って良かったです。魔石が使えないからもしかしたら間に合わないかと」
「リーズナーさんが直ぐに駆けつけてくれたからな。意識が戻ったって聞いたけど……アルマンドさんは」
未だ呼気整わぬピエールの問いかけに、ヴィオレーヌは何も答えずに俯いた。否、答えられなかったのだ。荒かった吐息の音が一瞬で途絶えた。
「……申し訳ありません、……私には、……もう、どうすることも」
聴き取るのがやっとの声に、果たしてどれだけの無念が込められていたのか。微かな希望を打ち砕かれ、ピエールは一言も発することなく目を伏せた。そんな二人を横目にし、シュイは気休めすらも口にできない自分を不甲斐なく思った。
建物の中に視線を移すと、朝日の明るさと対比的に、地の底のような闇がそこにあった。かつて垣間見た恐怖が胃の底から込み上げ、それを必死に押し戻そうと唾を呑む。命の尽きる瞬間に立ち会うことは、絶望的な戦いにも似た恐怖をもたらした。
「……お二人に是非ともお願いしたいことがあるそうです。……時間がありません。さぁどうぞ、中へ」
石造りの診療所には部屋が五つあった。一番手前が待合室で長椅子が二つ置かれ、診察室と手術室は大部屋での兼用だった。残りは全て病床の置かれている部屋だ。ヴィオレーヌは入口から向かって左側の、最奥の一室に案内した。
足を踏み入れた途端、消毒液の匂いが鼻についた。窓が開いているのか、布製の白い仕切りが陽光を吸いながらゆらゆらと波打っている。曇りガラスのドアが音なく閉じられ、肩越しに後ろを見る。細部が曖昧になったヴィオレーヌの姿が、躊躇いがちな足音と一緒にその場を去った。
仕切りをそっと左右に開くと、アルマンドが白いベッドの上で胡坐をかいていた。シュイとピエールは束の間きょとんとし、お互いの顔を見合わせた。てっきり寝ているものだとばかり思っていた。
「……やっと来たか、年長者をこんなに待たせやがって。待ちくたびれて死んじまうかと思ったじゃねえか」
笑みを象るその唇は貧血で紫がかっていたが、それでも半死半生の怪我人とは思えぬものだった。髭はきっちり剃られていたし、髪の毛も寝癖ひとつなく整えられていた。小さな窓から生温い風が吹き込む度に、オーデコロンの香りが漂ってくる。
「な、なんだよ、思ったより元気そうじゃねえか」
ほっとした様子のピエールに向けられていたアルマンドの瞳は、物悲しさに満ちていた。膝の上に置かれていた両手は小刻みに震えていた。上半身の重みを支えるので精一杯なのだとわかった。格下の、というよりは後輩にといった方が正しいだろう。弱いところを見せたくないという思いが伝わってきた。
「……本当に、助からないのか」
悲観的な言い回しに葛藤を覚えたせいか、言葉が途切れ途切れになって出てきた。ピエールの顔にあった微かな笑みが歪んだ。部屋に入る前、ヴィオレーヌから告げられた「最後のお別れを」という囁きが、二人の脳裏で復唱されていた。
彼女の診立てを疑っていたわけではない。一流の治癒術士は症例だけでなく、数多くの生と死を見続けていることを二人は知っていた。なんのことはない。彼がこれから死ぬのだという事実を、ただ否定したかったのだ。
アルマンドはぱしっと膝を軽く叩き、窓の外を真摯な目で眺めた。夜が明けたばかりで、空にある薄雲は霞みがかっていた。
「――まぁ、あれだ、あんまり気にすんな。傭兵なんて物騒な商売やってる以上、俺だっていつかこうなるのは覚悟の上だったんだからよ」
あっけらかんとした物言いに、ピエールが鼻白んだ。
「気にしないわけがねえだろ。なんでだよ、なんであんたほどの男があんなへぼい矢を避けられなかったんだ。なんで治癒術でも薬草でも、その程度の傷が塞がらねえんだよ。どう考えたっておかしいだろ」
ピエールが捲し立てるように問いかけた。アルマンドの体のことを知らされていなかったことに、苛立ちを募らせているようだった。
アルマンドの受けた矢傷はどうやっても塞がることがなかった。まるで、彼の体自体が治すことを拒んでいるかのように、治癒術も高価な薬草も受け付けなかった。
治癒術の効き目は当人の生命力に影響される。だから、老化や長期の病を経たことによって治りが悪くなることはままある。けれども、シュイの目から見てもアルマンドの年齢はまだ四十には届いていないだろう。シュイにはピエールの納得いかぬ心情を手に取る様に理解できた。
セーニアの追撃を振り切ってからオルドレンに辿り着くまでの間。砂船の中ではヴィオレーヌが出血の酷かった血管を縫い合わせ、シュイや氷系統の魔法の心得のあるルクセンの船員が交代で、包帯が吸った血液を凍らせて止血していた。強い痛みを和らげる粉薬を服用させてもいた。だが、所詮はその場凌ぎの治療に過ぎない。事実として、彼はこの四日もの間、昏睡状態にあった。
「……ヴァニラさんが目覚めた時になんて伝えれば――」
「――っだぁ、いつまでもうじうじとうるせえやつだな! しょーがねえだろ、急に体が動かなくなっちまったんだからよ!」
怒鳴り声が傷に響いたのか、アルマンドは息を掠れさせた。
「だー、そんな体でいきなり怒鳴るから」
わたわたと慌てるピエールに、アルマンドは苦笑いしながら溜息を吐いた。
「……どのみち限界だったんだよ。あいつも」
心底疲れたようなその声に、ピエールが掠れた息を漏らした。会話が途切れ、沈痛な空気が漂った。黙りこくった二人の代わりにシュイが口を開く。
「ヴァニラさんっていうのは、アルマンドの恋人か」
「……まぁな、寝たきりの状態が何年も続いていたんだがここんところ急に容体が悪化してな。もう、年を越せるかも怪しいって告知された。たとえどんなに優れた治療を施してやったところで、体を動かせない状態が何年も続いたら体のあちこちにガタがこないわけがねぇ。……むしろこんだけもったのが奇跡的なんだ」
ピエールが威嚇するように床を足を強く踏み鳴らした。
「――だったら尚更、傍にいてやらなきゃ駄目だろ! よりにもよってこんな終わり方……最悪じゃねえか」
口から失望の感情が溢れ出た。アルマンドに対してというよりも、自分への怒りが大きかったようだ。
乱戦ならいざ知らず、あの状況で事情を知っていれば、飛んできた矢から彼を庇うこともできたはずだ。そうやって、彼はアルマンドが意識を取り戻すまでの四日間、シュイの前で、しきりに自分を責める言葉を口にしていた。
「そういうなって。こうなっちまった以上説得力ねえだろうが、俺だってあいつの死に目にはきちんと立ち会うつもりだったんだ」
「ならどうして……」
「――俺にも時間がほとんど残されてねえ。貴重な時間をただ死を待つだけのものにするなんて、誰だってまっぴらだろ?」
アルマンドが遠い目をしながら呟いた。つまりは彼自身、元々健康に何かしらの欠陥を抱えていたということであり、それをちゃんと自覚してもいたということだ。そして、シュイにはその心当たりがひとつあった。
「あんたの体を蝕んでいるのは、もしかして呪詛じゃないのか。多分、治癒魔法が利かないのも……」
アルマンドの目が大きく見開かれた。
「ルトラバーグで、あんたの影の中に変な物が蠢いているのが見えた。確証はないが、あんたの体に起きている異変と無関係とも思えない」
ピエールは縋りつくような目でアルマンドを見た。
「……そうなのか?」
「……あの薄暗い中気づくたぁ流石に目敏い。が、これは呪いとは少し違う。そもそも、俺が自ら望んで施してもらったもんだしな」
「自ら望んだだって?」
シュイは――隣にいるピエールもだろう――その言葉を理解し損ねた。視線で先を促す二人に、アルマンドは間を置き、長々と息を吐き出してから目を瞑った。ただ呼吸するだけでも億劫そうだった。
「そう……だな、こうなっちまった以上色々と頼まなきゃならねえこともあるし、ケジメとしておまえたちには事情を知らせておかなきゃな。ちっと長くなるから、ほれ、そこに座ってくれ。ま、話し終えるまで体がもつかは保証できねえけど」
アルマンドは壁際に置いてある深緑色の、背もたれのない簡素な丸椅子を指差した。シュイはうなずき、ピエールの分と二つ、アルマンドの前に置いた。
二人が腰掛けるのを眺めながら、アルマンドはキャビネットに置いてあった水差しに口をつける。ガラスの容器に小さな泡がぽこぽこと立ち込めた。その弱々しさに、シュイは小さく呻いた。
「さてと――――初めに断っておくが、これは俺が万事承知して受け入れた運命だ。残念ながら、最後まで覆すことはできなかったが、な」
俺は、ジウー連合の一国、エリメドの生まれだ。親父のことは記憶が不確かなところもあるが、厳格な軍人だったのは間違いねえ。叱責の代わりにビンタが飛んでくるようなやつだった。お袋はお喋り好きが高じて始めた酒場を切り盛りしていた。とっくに潰れちまったがな。
夫婦仲は可もなく不可もなくってところで、弟と妹が一人ずつの三人兄弟。まぁ、ジヴーのどこにでもありそうな一般家庭ってところか。生活は決して裕福とはいえなかったが、かといって困窮してるってほどでもなかった。普通に学校にも通えていたし、食う物に困っているってわけでもなかったし。
ただまぁ、物心ついた頃からこの砂の大地だけはどうにも好きになれなかった。住んでいる町の周りは見渡す限りの砂漠。普通に呼吸しているだけでも砂が飛び込んでくるし、砂利が目にでも入りゃあ痛いなんてもんじゃねえ。暑過ぎて外で遊べるのは朝方と夕方の僅かな時間だけ。革の靴底を無視して足の裏に伝わる地熱。かと思えば夜は馬鹿みたいに冷えることもある。
他の街に出掛けるのは大人でも一苦労だ。何せ最寄りの街までは歩いて一週間近くかかったからな。ラクダに荷を背負わせ、手綱を引きながら砂漠を横断するのは、気力体力がいる。普通の道を歩くのとはわけが違う。一歩踏み出す度に足が砂に埋もれ、次第にふくらはぎが張ってきやがる。子供の足なら尚更だ。ま、そのせいで足腰は自然と鍛えられていたみたいだけどな。何で皆がこんな暮らしにくいところで生活をしているのか、幼心にどうにも不条理を感じたさ。
学校の授業で地理や生物なんかを学び始めてからは、その思いも日増しに強まっていった。世の中にはいろんな国がある。花びらや水の結晶が砂のように舞う国。年がら年中雨が降り、たわわな果実が実り、木々に埋め尽くされた国。世界各国から多くの人が集まり、商売に精を出している国。
はたまた、見たこともないような珍獣、幻獣が棲んでいる。<二つ首の竜>やあらゆる山の頂きより高き空を泳ぐ鯨、<叡鯨>。そんなことを知ったら子供の好奇心を抑えられるわけがねえ。大きくなったらこのくそったれな町を絶対に出ていってやろう。そう決めていたんだ。
そんで、確か俺が十歳くらいの時だったか。親父が仲間たちと巡回中に魔物に襲われている商隊と遭遇したらしくて、守ろうとして逆に殺られちまったらしい。それを聞かされた時は頭が真っ白になった。
ほら、子供にとっては親父の存在って絶対的なところがあるだろ。ましてや軍人で、顔つきも体つきもダチの親父なんかよりもよっぽど迫力があった。そんな親父が死ぬなんて信じられなかったんだ。お袋にとっては尚のことショックだったはずだ。金銭の工面を含めて後の生活のことまで考えなきゃあいけなかったからな。
親父が亡くなってから数年もすると、働き通しだったお袋も病に倒れちまった。本業の他にもラクダの世話やら井戸の水汲みやらも掛け持っていたからな。気負い過ぎて無理が祟ったんだ。そん時はまだ父親の残した金や慰労金には手をつけずに済んでいたんだが、働き手がいなくなったとあっちゃあそうもいってられねえ。少しずつ貯金を切り崩している間に最年長の俺が、つってもまだ十四だったが、どうにかして金を稼がにゃあならなくなったんだ。ま、その辺りはピエールの境遇とちっと似ているな。
結論から言うと、俺は学校を止めて傭兵になった。そのきっかけを作ってくれたのが俺の悪友、ヴィレン・カシリだ。
あいつとはガキの頃からの付き合いだ。俺と違って頭の回転が速くて、しかも良家のおぼっちゃん。……だったんだが、大人しそうなのは外見だけだったな。腕白で喧嘩っ早い根っからのガキ大将。現在進行形でお山の大将をやってるくらいだ。性根は大人になっても治らなかったんだろうよ。
やつと知り合った頃は親父が亡くなった時期と重なっていて、俺も結構荒れてた。周りの連中がびびって俺に近づかない中、唯一あいつだけは平然と突っかかってきやがったのをよく覚えてる。八つ当たり気味に何度も追い払ったんだが、意外としつこいやつでよ。顔を合わせるたびに喧嘩してた気がするな。それが終わるとなんだかすっきりしている自分がいて、そんな自分にまた無性に腹が立ってよぉ。
いがみ合ってばかりだったし、しょっちゅう青痣を作ってばかりだったし。疎遠にこそなれ仲良くなる要素なんかどこにもなかった気がするんだが、いつの間にかつるんでいたんだよな。おまえら二人と似たようなもんか。
まあそれはともかくとして、割の良さそうな仕事を探していたんだが、まだ中学も出てねえやつを雇ってくれるところなんてそうあるわけじゃねえ。ただでさえ、ジヴーは働く場が少なかったしな。肉体労働でも子供を雇うくらいならもっとガタイのいい大人を雇うのが普通だ。
そんな中、ヴィレンのやつが俺が働き口を探してるってどっかから聞きつけたみたいでな。俺に内緒で自分の父親に掛け合って、伝手のあるセーニアの傭兵ギルドに口添えしてくれたんだ。もちろん、四大ギルドなんて大層なもんじゃなくて――その頃はまだシルフィールも今ほどの力を持ってなかったから三大ギルドって言われてたが――それほど知名度は高くない中堅ギルドだった。腕っ節には自信があったし、傭兵なら仕送りに十分な金も稼げる。俺は二つ返事でその有難い申し出に乗った。
手を振る家族や友人たちに見送られて砂漠を後にする時、ほんの一瞬だけ、ジヴーって国も実はそんなに悪くないんじゃないかって思ったな。一人生まれ故郷を離れるとなると、余計に感慨深いもんがあった。
だが、そんな思いも少ししたら彼方に吹っ飛んじまった。行商人たちと一緒に砂漠を超えて、初めて海を見た時には本当に感動したな。その大きさもさることながら、あんなにたくさんの生き物が泳いでいるのにはびっくらこいたぜ。
俺たちは色々な町を巡って商品を卸し、仕入れながらセーニアに向かった。道行く人々の珍しい格好や異国情緒溢れる建物を見ているだけで退屈しなかったな。
出発したのは年明けだったが、目的地についたのは春頃だったな。二月近くの旅だったけれどあっという間だった。俺は商隊に礼を述べて別れ、二、三日宿場で旅の疲れを癒したところでヴィレンの親父に紹介してもらったギルド・フォルランの入団試験を受けて、晴れて合格したんだ。
ヴァニラ・ハインドはギルドの準マスターだった。言ってみればマスターの補佐役みたいなもんで、中規模のギルドにはそういった存在も珍しくない。大手と違って支部がいくつもあるわけでじゃないからな。
彼女は魔族ってこともあってひよっ子の俺よりずっと年上でな。確か十二、三歳は離れていたんじゃないか。武器よりは赤い薔薇でも持っている方が余程しっくりきそうで、ウェーブのかかった金髪と紫色のつぶらな目が印象的だった。スレンダーで背丈も当時の俺よりは高かったっけ。赤いリボンの付いたシャコールグレーのブラウスに、両サイドにスリットの入った黒のロングスカートを好んで穿いていた。
初対面の時は見下されてる感じがびんびんした。期待を裏切られたというか、お嬢様然としているのは外見だけで、槍の名手にして付与魔法も扱うバッリバリの武道派。そんでもって新米傭兵の指南役でもあった。俺が槍を主要武器にしたのもその辺りが原因だ。魔獣に縄で繋がれて引っ張り回されたり、大小の鎧を二枚着込んで真夏の町中を走らされたり。今思えばかなりのスパルタだったよ。
話を元に戻すと、仕事の身入りはそこそこだったが楽じゃあなかった。フォルランと比べると、今のシルフィールがどんだけ恵まれてるのかがよくわかる。雲泥の差ってやつだ。
当時は連絡用魔石なんてものはなかったから他パーティとの連携もままならなかったし、絶体絶命の時に援護も期待できない。加えて、入り込んでくる依頼の難易度も曖昧なものが少なくなかった。一時の油断が死に直結することもあって、仲間が死傷する頻度はシルフィールの比じゃなかった。
かくいう俺も二度ほど死にかけたことがあった。確か、そのうちの一回は偶々ヴァニラに助けられたんだ。命からがらギルドに戻ってこれたはいいけど、その後に一晩中の説教が待っていた。
「一月以内に同じ任務を受けて、しかも連続して失敗するなんて、アンタの頭って飾りものなの? あらあら、随分といい音がするわねぇ」
説教中、彼女は椅子に座ったまま、正座中の俺の頭を槍の柄で何度となく小突いた。
普通、任務に失敗した時は力不足と判断して、ある程度力をつけてから挑むもんだ。失敗したのは運が悪かっただけだって過信していた俺に言い訳の余地はなかった。が、いくらなんでも叩き過ぎだろとは思っていた。鏡を見たわけじゃあないが、コブの三段重ねくらいは絶対にできてたはずだ。
「そんなに心配してくれたのか」
そう訊いたら、思いっきり鼻で笑われた。
「有り得ないわね、私は人族って連中が大嫌いなの。なんだかやたらと群れたがるし、虫みたいじゃない」
こってこての純血主義魔族がこんなところにも。って、これはまぁ本心だったみたいだ。親しくなった後で、俺に厳しい訓練を課したのは半ば辞めさせるための嫌がらせみたいなものだったって言ってたからな。どんな顔を返せばいいのかわからなかったけどよ。
「そんならどうして助けたんだよっ」
そう訊いたら「口の利き方がなってないわね」って左右の頬をゴンゴンってなもんだ。鼻血まで出てきたもんだから、流石に我慢ならなくなってな。ガン付けた俺にヴァニラは気を悪くしたのか、仏頂面になった。何でわからないのか、って感じだった。
「指南役である私が教えた新人君があっさりと死んだら私の評価がガタ落ちでしょ。アンタが死ぬとこっちにまでとばっちりが回ってくんのよ。そこんところわかってるの? 不慮の事故とかであれば、いくらでも死んでくれて構わないけどさ」
あー、ちくしょう。思い出したらまた腹が立ってきやがった。どうしてそんな性格の歪んだ女を好いちまったのか。……やっぱ外見に騙されたのかなぁ。あんな綺麗な目をした女だから実は心も澄みきっているはずだって、まじで思ってたもんなぁ。口にすんのもこっぱずかしいぜ。若気の至りってやつだな、あれは。
兎にも角にもそんな女だったもんで、告白するまでには並々ならぬ葛藤があった。魔族と人族が付き合うパターンは今に輪をかけてなかったし。実際、俺が告白した時のあいつの呆れ顔といったらなかった。十秒くらいは時間が固まっていた気がするな。
立ち直って一言目には
「顔を洗ってきなさい」
言いつけ通りに顔を洗ってきたら
「……話す価値もないって暗喩のつもりだったんだけど、それくらい悟ってくれないかしら」
それでもどうかと食い下がったら
「自分より弱い男と付き合え、ですって? ……なんていうか、流石は人族ね。恥という言葉を知らないのかしら」と表情筋を目一杯引きつらせながら嫌悪感てんこ盛りで見下された。
そこまで言われてすごすご引き下がっちゃあ男が廃る。なんとか俺の実力をヴァニラに認めさせてやろうと以前にも増して死に物狂いで槍を振るった。手にはいつも血マメが出来ていて、それが破れて固くなって、更にその上に血マメが。……半ば意地になってたな。
それから何年かして、俺は彼女との賭けに勝った。模擬戦でついに一本取ったんだ。その頃は俺も二十歳くらいになっていて背丈も追い越していたから、外見上は釣り合う感じにはなっていた。あいつは三十をとうに超えていたはずけれど、人族の俺からすれば外見はまだ二十半ばにもいってないくらいだったしな。
「約束は約束だし、しょうがないか」って感じで、ヴァニラは自分が取り落とした練習用の棍棒を見て何度となくうなずいていた。嫌そうな顔をされたらどうしようかと思ってたけれど、それがなかったのが救いだな。
付き合い始めてからも気苦労は絶えなかった。恋愛の教本をお手本にするくらい馬鹿丁寧に、と言えばわかるか。一歩一歩段階を踏んで、一緒に買い物や食事に出掛けるところから始めてよ。
武一辺倒で生きてきた女だったから料理の出来も壊滅的だったな。卵料理くらいは人並みに作れるようになったけど。旅行にも何度か誘ったんだが「任務中にいくらでもいけるでしょ?」って取り付く島もねぇ。
それでも、曇り空の下で知らぬ間に溶けていく雪みたいに、ヴァニラは少しずつ、本当に少しずつ、俺に心を開いてくれるようになった。その過程が快感だったってことは、やっぱべた惚れしていたんだろうな。だが、破局の足音は直ぐそこまで近づいてきていた。
今から十二年近く前。ヴァニラと付き合いだしてから三年くらいは経っていて、真剣に一緒になることを考え始めた頃だ。当時の裏ギルドの最大手、バイルワールドがギルド潰しと称してセーニア北部一帯の傭兵ギルドを総浚いするように襲ったんだ。当時は国ぐるみで傭兵による犯罪者の取り締まりがかなり活発化していてな。総元締めとしては目障りに思っていたんだろう。
シルフィールはこの戦いで唯一損耗を抑え、かつ敵に大打撃を与えたギルドだ。現マスターの付き人であるランカーNo2、ビリー・スタンレーはその筆頭だな。攻めてきた幹部連中を単独で三人も仕留めたそうだぜ。ギルド潰しを阻止したシルフィールの名は一気に知れ渡り、四大ギルドに数えられるようになるまでになったってわけだ。
だが、そんなのは例外中の例外。他の大多数のギルド同様、フォルランも連中の餌食になった。
敵の人数が予想以上に多かったのも一因。マスターが不在だったのも一因。いや、言い訳だな。俺が強けりゃ何の問題はなかったんだ。少なくとも今くらいの腕がありゃあ、皆を守るのに不足はなかったはずだ。
けれど、現実はどこまでも残酷だった。あの日ギルドにいた二十八名は、俺とヴァニラ以外殺されちまった。必死に戦い、力尽きた彼女の口にやつらは実験と称して妙な草を無理矢理詰め込みやがった。
――あの時のあいつの悲鳴は、俺の名前を呼ぶか細い声は、今でも忘れられねえ。耳を塞いだって聞こえてくる。あの気位の高い女が助けを求めるなんて、どんだけの恐怖に晒されたのか。俺は掴まれていた腕を無理矢理に振り解いて、何とか助けようと立ち向かったんだが、胸元をざっくりと抉られたところで意識が途絶えちまった。俺は――――あまりに弱過ぎた。
目が覚めた時には傷病病院のベッドの上にいた。起きた瞬間に胸が痛んで、顎を引いてみると、傷口を乱暴に縫った跡が見えた。多分、五十針くらいはやったんじゃないか。致命傷と判断されたのか、とどめまでは差されていなかった。……運が良かったんだか、悪かったんだか。
窓際のベッドにはヴァニラが眠っていた。驚いたことにちゃんと息していて、今すぐにでも起き上がってきそうな穏やかな寝顔だったよ。だから、一瞬ぬか喜びしちまったんだよな。
マスターのハルゲンは俺が目覚めたのを見届けて椅子から立ち上がり、呪いの言葉を吐きかけて姿を消した。毒を呑まされて無事でいられるはずもねえのに。ヴァニラは、ただ呼吸をするだけの生きる屍になっちまっていた。
叱責は当然のことだと受け止めている。ヴァニラはハルゲンの実の妹だ。好きな女を守れなかった俺に非があるのは誰より自分がよくわかってる。あれほど自分の不甲斐なさを嘆いたことは、ない。
悪循環はそこでも終わってくれなかった。ギルド潰しの二週間後、ハルゲンは出払っていて無事だったギルドメンバーを結集して、被害にあった他のギルドと共同でバイルワールドの本部にかち込みをかけていたんだ。
その結果は、言わずともわかるよな。幹部の一人に重傷を負わせて、そこまでだった。翌日にはバラバラにされた肉片が袋詰めにされ、広場に放置してあったそうだ。見せしめのつもりだろうが、本当、度を越してるよ。
それと前後するようにして、呆然自失と療養生活を続けていた俺に差出人不明の手紙が届いた。三行しか書かれていない文を読んで、俺は全てを理解した。
『あの日は頭に血が上っていた。なんら落ち度のないおまえをこっ酷く傷つけ、そのくせこんな形でしか謝れない俺を、許してくれ』
気づいたら持っていた手紙がしわくちゃになってた。人目もはばからずに俺は泣いた。あんときばかりはみんなの後を追おうかと思っちまった。いっそ肉片にされても良いから、俺も連れて行ってくれりゃあなぁ。
時間は雑多な感情を沈殿させる。激情が抜け落ちた俺には、高純度の憎悪と怜悧な思考だけが残っていた。ヴァニラの治療とバイルワールドへの報復。それらをどうやって成し遂げるか、俺は熟考を重ねた。
数日後、退院した俺はとある傭兵ギルドに向かっていた。シルフィールだ。何故かは薄々察しがつくだろう。あの抗争で唯一勝利を収めたということもそうだが、シルフィールはバイルワールドのギルド潰しに際して少なからず傭兵を殺されていた。やつらに対して強い恨みを持っていても不思議じゃない。ギルド潰しの騒動から間もないうちに大々的に傭兵の募集があったから、確信はより深まった。ここにいればいつか必ず、連中に復讐できる機会がやってくるはずだと。
傭兵ギルドに入ったのは、高名な治癒術師を探すのに都合が良かったのもある。もちろんヴァニラを治すためだ。仕事中に怪我する傭兵は決して少なくないからな。成り行きで治癒術士と知り合いになってるやつが多いってわけだ。
シルフィールに加入してからしばらくすると、同期のエヴラール・タレイレンからある治癒術士を紹介された。デニス・レッドフォードだ。そん時あいつはまだシルフィールにいなかったが、治癒術に関しては右に出る者がいないって聞かされていた。俺が事情を話すとあいつは快く引き受けてくれたよ。
けれども、あれほどの術者をもってしてもヴァニラは目覚めなかったんだ。期待していた分落胆も大きかった。そん頃には彼女も衰弱しきっていて、度々引きつけも起こしていた。俺も一度は諦めかけた。だが、稀代の魔法使い、ニルファナ・ハーベルの加入が、俺に思いがけぬ希望をもたらした。
「ニルファナさんが?」
シュイが思わず話を遮った。
「あぁ、彼女とは結構長い付き合いだ。俺が二十八の時だからもう九年近くになるか。有名な魔法学院を首席で卒業したエリートで、現マスターのラミエルがVIP待遇でうちに引っ張ってきたんだ。目を惹く容姿も相俟って当時は男共が騒ぎまくっていたが、今とはうって変わって近寄り難かった。お高くとまっているってのとはまた違って、常々拒絶のバリアを張っている感じだ。……そうだな、エヴラールを数倍に冷たくした感じって言えばわかるか」
「彼を数倍って、彼女がか? ……とても想像できないや」
「だろうな、ハーベルの人当たりがあそこまでよくなったのはおまえも一役買ってるはずだ。そんだけ目をかけられているってこった」
アルマンドのその言葉に、シュイはどこかくすぐったさを感じた。
「でも、彼女が希望って? 確かに魔術全般使いこなす人だけど、治癒術のみに言及するならデニスが彼女の腕に劣るとは思えないが」
「まぁ、そうだな。それが、呪詛の話に繋がるわけだ。……彼女の代には魔道の才能に溢れたやつがたくさんいて、そいつらの卒業年度には各国の軍部や有力傭兵ギルドも熱視線を送っていた。取り分け、ハーベルに関しては魔法学院の在学中に新魔法を作っているって噂があってな。その詳細を耳にして、それがヴァニラを救う手段になるんじゃないかって考えたんだ。何にでも縋り付きたかったってのが正直なところだけどよ」
「一体どんな魔法なんだ」
シュイが興味深々といった風に椅子から身を乗り出した。未知の魔法に触れる時にはどうにもわくわくしてしまうのを止められなかった。
「おまえがエミド・マスキュラスとの戦いで使ったっていう、<汝、我と共感せよ>。あれと似たようなものらしい。エナジードレインつって、生命力を呪詛によって吸い取る魔法があるそうだが、それを逆手にとった術法。彼女は<命脈供与>って名付けていた」
「……ハーベルさんが未完成の魔法を使ったってのか? ……あんたに?」
「おいおい、早合点すんなよ」
顔に怒りを滲ませたピエールを見て、アルマンドが慌てて手を横に振った。
「別にモルモットにされたわけじゃねえ。彼女は最後の最後まで渋っていたんだ。まだ開発途上で人に試すには早過ぎる、どうなっても保証できるものではない、最悪、命すら落としかねないってな」
ならば、無理矢理食い下がったのはアルマンドの方ということだろう。ピエールは沈黙し、腰を深く下ろした。
シュイはエヴラールが以前言っていたことを思い出した。アルマンドが支部長に選ばれずに済んだ理由。呪詛を長期間持続させるにはかなりの困難が伴う。半年もの間任務に拘束されることになれば、その間に彼女に術式を施すのが不可能になる。特例を認められたのもそういった事情を考慮されてのことだろう。
「でも、ヴァニラの容態はもう一刻の猶予も許さなかった。デニスの治癒魔法で騙し騙し体力を回復させてはいたが、何年も寝たきりになっていれば当人の体力の絶対値が下がってきちまう。優れた傭兵という礎がなければとっくに亡くなっていたはずだ。
ハーベルの新魔法は、諦めかけていた俺に未来を提示してくれた。その<命脈供与>って魔法だけじゃない。魔法や薬草の研究如何によっては、今は駄目でもヴァニラが助かる方法が編み出されるかも知れない。……俺はあいつの未だ温かな手をどうしても手放したくなかったんだ」
頑なに態度を変えないニルファナに、それでも俺は何度も頼み込んだ。雨の日も風の日も、標的を狙う刺客みたいに付き纏った。感知魔法で避けられていることがわかってからは気配を消した。
道端でいきなり飛び出して土下座したこともあった。形振り構わなかったってのは、まぁ俺の勝手な言い分で。彼女の心底迷惑そうな表情には、流石に申し訳ない思いだった。大の男がいきなり道端で女に土下座するのを見れば、通行人たちだって色々と勘ぐっちまうからな。
すったもんだの末に――半ば渋々って感じだったが――根負けした彼女は条件付きで俺の申し出を受け入れてくれた。一つには、魔法に使用する触媒となる薬草や動物の骨の提供。これはまぁ当然のこったな。呪詛の触媒を集めるのは案外手間がかかるもんだ。そしてもう一つが、二年間のみの限定使用だ。これは最終的には反故にしてもらったんだけどな。
<命脈供与>ってのは人から人へ、生命力の源を移し換える術法だ。ただ、十取り出したとして十受け渡せるわけじゃない。彼女のいう未完成ってのは、特にその部分が大きかった。生命力を魔力に見立てて説明すると、提供者の体内で<同調>を行い、変換する時に繋ぐ魔力でできた命脈って菅に<解放>。命脈を通る過程で余計な部位を<削除>して、相手の体内にある生命力と<結合>。対象者に適合する力だけを分け与えるわけで、いうなれば大幅なロスがある。人種が違うこともかなり影響するらしくて、渡せるのは精々半分だって話だった。
しかも、相手は生死の境を彷徨っている人間だ。それを立ち直せるには健常な状態で生きている人間の何倍もの生命力がいる。引っ張り出す際には苦痛が伴うし、十年分の生命力を与えたとして寿命が二年弱伸びるのがいいところだ。そうやって何度も念を押された。
けどよ、俺はその話を聞いて胸が震えた。だってそうだろ。明日をも知れなかったやつが二年も生き長らえるんだ。それは誰がみたって大きな前進じゃねえか。十年分の寿命がなんだってんだ。その二年の間に、もしかしたら新種の薬草が見つかるかも知れねえ。ひょっこりと彼女が目覚める可能性だってあるじゃねえか。ごく偶にそういった説明のつかない奇跡が起こるってのは聞いてたからな。
生命力を分け与えるのは相当な負担がくる。初めてそれを施された時は大変だったぜ。肋骨の隙間から手を入れられて心臓を無理矢理引っ張り出されるようだった。女が出産する時もあんな感じなんかな。気が遠くなりそうなほどの痛みと嘔吐感は、食い縛っている歯が欠けちまうくらいのもんだ。
でも、それが終わって顔を上げると、あいつの青白かった肌にほんのりと赤みがさしていたんだ。あん時は嬉しかったなあ。そうやって気ぃ抜いたら一気に安堵感と疲労感に体を埋め尽くされて、そのまま気を失っちまったんだ。目が覚めたらベッドの上にいて、タオルケットがかけられていた。ハーベルがやってくれたんだろうな。
その後も俺は寝る間を惜しんで依頼をこなし、しこたま金を稼いで、ありとあらゆる薬草を買い集めた。時には新種の薬草を探し求めて世界中を回った。デニス以外にも名立たる医術師や薬師を呼んで、書物も読み漁って、思いつく限りの限りの治療法を試してもみた。他の傭兵連中にも一肌脱いでもらった。
最初のうちは、俺が諦めなきゃいつかは必ず目を覚ましてくれる。漠然とそう信じてた。怖かったんだ。二度も死なれるのが。女々しいと思うだろうが、微かな希望に寄りかかっていなければやっていられなかった。一向に進展しねぇ現実を直視するのが我慢ならなくて、ずるずると引き摺っちまって、今日に至るってわけだ。客観的に分析するなら、俺のやったことはただ単に、ヴァニラが苦しむ時間を長くしちまっただけなのかも知れねえけどな。
五年前には、フラムハートとシルフィールが共同で裏ギルド、バイルワールドの掃討戦が行われた。かねてからの宿願だ。もちろん俺も参戦を表明した。
フラムハート側は当時のマスターが直々に参戦したし、現マスターのアークス・ゼノワを始めとした名立たる上級傭兵が討伐隊に加わった。シルフィールの方も、おまえらが知っているだけでも錚々たる面子だったぜ。ハーベル、マクレガー、エヴラール、ランベルト、アミナ、その時には入団していたデニスもいたな。それに倍する傭兵たちを投入したんだ。いやでも気が引き締まるってもんだな。
自慢にもならねえが、バイルワールドのマスター・ジリアンにとどめを刺したのは俺だ。屋根の上から路地を逃走中のやつを発見して、これまで抑えていた感情が一気に爆発した。
気がついた時には槍を掲げて相手に向かって走り出していた。迷う暇すらなかったってのが正直なところだ。体がどうなろうと知ったこっちゃねぇ。フォルランの仲間を死に至らしめ、ヴァニラをあんな姿にされた恨みを晴らす絶好の機会だ。むざむざ逃してたまるもんかよ。
俺は一時間近くに亘ってジリアンと切り結んだ。どんな顔だったかはほとんど覚えてねえが、やたらじっとりとした灰色の目が気に障ったのは確かだ。
やつも各国にその名を知られた辰力使いだったが、実力は肉薄していた。幹部にあっさり負けたはずの俺が、マスタークラスと一歩も引かずに闘えていたんだ。依頼を無茶苦茶にこなしている間に、以前とは比較にならない地力がついていたんだな。
俺たちの体から発される辰力が渦を巻き、巨大な竜巻を生んだ。お互いの槍から放たれる衝撃波は路面を叩き割り、家々を何軒もまとめて貫通した。歴史ある時計台が崩落し、備え付けられていた鐘が地に叩きつけられ、不協和音を町中に轟かせた。
間合いを無視した必殺の一撃を至近距離で連続して繰り出し続けたんだ。町の建物の何割かは倒壊して、一般人にもかなりの負傷者が出たよ。アークスやマクレガーが早くに強力な広域結界を張っていなければもっと悲惨なことになっていただろう。
長々と戦っていた割に、決着はあっという間についた。俺が相手の視線に気を取られて、一瞬の油断だった、槍持つ方の腕を肘の辺りからばっさりと切り離されたんだ。流石にこいつは負けたかと思った。ところが、二撃目の槍が俺の腹を深々と貫いた瞬間。やつの勝ち誇った顔が見えた。
そうしたら、足が勝手に動いてくれた。腹の肉が抉れるのを無視して間合いを詰め、喉笛が間近に迫った瞬間、顎にありったけの辰力を込めて喰らい付いた。生温い血が喉に滴って、遅れて鳥の軟骨を噛み千切るような感触が下顎に伝わってきた。
やつの黒目が空に向かって反り返ったのを見て、俺は復讐を成し遂げたことを確信した。成り行きを見守っていた周りの連中はちょっと、いやかなり、ひいていたけどな。
デニスに腕を繋いでもらった後、俺はその足でフォルランの連中の墓に向かった。墓前で事後報告して、ひとつ区切りはついた。だが、誰かが俺に声をかけてくれたわけじゃねえ。死者は生者の呼び掛けには応えねえ。労いの一言だけでもあれば、少しは報われたんだがな。後に残ったのは虚しさだけ。俺のしてきたことって、結局なんだったんだろう。今もそうやって、自問自答を繰り返す毎日だ。そして先頃――
「――希望は潰えた。彼女の延命のために生命力を提供し続けていた俺も、そう長くはない。気がつけば俺もこんなおっさんになっちまって。……はは、これじゃあ万が一目覚めたとしても、俺が誰だか判らねえかもな」
「そんなこと、あるわけねえだろ!」
ピエールの語気の荒さに、さしものアルマンドも目を丸くした。次いで、ばつが悪そうに頭を人差し指で掻いた。そのくせどこか嬉しそうでもあった。
「……あー、わりぃ、ちっとばかし自虐的だったな。んー、まー、でもあれだ、おまえがジヴーの出身だって聞いた時にはびっくりしたぜ。なんだか昔の自分と境遇を重ねちまってよ」
「だから面倒見がよかったってわけか?」
「それも理由のひとつではあるが、才能は早くから認めていたぜ。負けん気強いし、練習が苦にならないタイプってのはいそうで中々いないしな。ゆっくり登っていくけど天井知らず。いずれ一角の戦士にはなるだろうと思ってた。ただまぁ、その前に無茶しておっちにそうな感も否めなくってな。ほれ、おまえってばどうも向こう見ずなところがあるだろ。新米のくせに意気揚々とBランクの依頼書を受付に持っていったりとか」
その光景がやたらと鮮明に脳裏に浮かび、シュイは辛うじて噴き出すのを堪えた。
「い、今はそうでもねえよ」
――どの口が言ってるんだか。
「……シュイ、今何か言ったか」
「いや? 幻聴じゃないか」
心外だとばかりにシュイは睨んでくるピエールに眉を上げてみせた。
「……おまえらって、あれだな。……まぁ、俺も人のことは言えないか」
アルマンドは言いかけた言葉を呑みこみ、苦笑いと自嘲を半々に織り交ぜた。
「十二年――――か」
シュイとピエールはほぼ同時にアルマンドを見た。徹夜仕事を終えたばかりのような、疲れ切った顔がそこにあった。
「治らねえ現実を突き付けられるには、十分に過ぎる時間だ。……情けねえ話だ、必死に治療法を探している裏で、俺はあいつと一緒に休めるこの時を、心のどこかで待ち望んでいた。……一刻も早く、この苦しみから解放されたかった」
それは、彼が初めて零した弱音だったのかも知れなかった。ランカークラスの腕を持ち、若い傭兵たちの羨望を集める男の、ひたすらに隠していた心の内だ。
「だから死ぬこと自体は怖れちゃいない。……でもよ、最後まであいつを助けられなかったんなら、俺のしてきたことは全て無駄だったのか? 俺は何のために、誰のために命を削ったんだ? そんな考えが浮かんだ途端、居ても立ってもいられなくなっちまった。せめて、最後に誰かの力になって、俺の人生に何かしらの意味があったんだってことを確認したかった。なんのことはねえ、セーニアに攻められた<故郷>を救うって構図は、俺にとって絶好の捌け口だったのさ。ヴィレンのやつに借りを返せなかったのが、悔いと言えば悔いだが」
「俺の言葉なんかじゃあ気休めにもならないかも知れないけれど、あんたのしたことは無駄じゃないと思う。それに……意味ならあったさ、存分に」
「……そうかねぇ?」
シュイはうなずく代わりに隣で座っているピエールの肩に手を伸ばし、ポンポンと叩いた。
「な、なにすんだよ、シュイ」
「こいつ。あんたの背中に憧れ、あんたのようになりたいと願い、ものの見事に準ランカーになってみせた男がいるだろ。――それにさ、あんたは<地縛巨霊>から女の子を、俺たちの救えなかった命を華麗に救ってみせたじゃないか」
すらすらと出てきたその台詞は、頭で組み立てて出したものではなかった。社会から見れば、一人を救うのと大勢を救うのとでは付加価値が異なるだろう。けれど、本質は一人を救うも大勢を救うも変わらない。それは、目の前にある命を全力で助けようとしたという姿勢であり、その行いはどんな英雄の偉業に勝るとも劣らない。一人を救うも、大勢を救うも、視点を変えれば天秤は等しく傾くはずだ。あの少女は、アルマンドがジヴーに駆けつけたことで、未来という無限の可能性を潰されずに済んだのだ。
アルマンドは目を細め、それからピエールの照れ臭そうな顔を見て、にやりと笑った。
「……そうだな。そんならちったぁ救われる――――おっと」
一瞬、アルマンドの体がふらついた。慌てて立ち上がりかけたピエールに、アルマンドが「心配ねぇ」と告げた。しかし、傍目にも顔からは先ほどよりも血の気が失せていた。
「……あんま時間がなさそうだな。――その机の、引き出しの一番上に、手紙が二通、入ってる」
アルマンドはベッドの横の可愛らしい木机を指差した。羽ペンとまっさらな便箋のほかに、身だしなみを確認出来るよう鏡が置かれていた。
「一枚目は、ヴィレンに宛てて書いた。万が一、セーニア軍に対抗できそうな策が見つかったら、やつに力を貸してやって欲しい。そうすりゃもう心残りはねぇ。だがもし、見つからなかった場合は、その手紙は火にくべて支部に戻れ」
「それだけは聞けねえな」
ピエールがアルマンドの方に手を掲げ、握り拳を作る。それが本心だとわかっているだけに、そのくせ無念さが痛いほど伝わってくるだけに、反骨心が滾るのを止められぬようだった。
「この戦いはあんただけのものじゃねえ。せめて、ジヴーが降伏するまでは戦い抜いてみせる」
「入れ込むのもほどほどにしとけよ。命あっての物種だぜ」
「この後に及んで人の心配してんじゃねえよ。アルマンド・ゼフレルの愛弟子が敵に背を向けられるかってんだ」
「……ったく、恥ずかしいやつめ。自分で愛弟子とか普通言うかぁ? 忠告はしたからな。 ――――もう一枚は、ハーベル宛てだ。ある意味では俺を殺してくれと迫ったようなもんだし、できれば直接会って謝りたかったんだがな。手紙にも謝罪の文はしたためてあるが、シュイ、おまえからも伝えておいてくれ。長い間済まなかった、……最後まで付き合ってくれて感謝してるって」
「承った。……他に言い残したことはないか」
「んー、じゃあ、迷惑ついでにもうひとつ。俺が死ぬと同時に<命脈供与>は解除され、繋がっている命脈もじきに途絶える。ヴァニラも一両日中には息を引き取るだろう。後のことはデニスに任せてあるが、墓にあいつの好きだった花のひとつでも添えてやって欲しい。ピンク色のジプソフィラをな。出来れば――」
「――あんたと一緒の墓に入れてやる。絶対に生きて戻って」
ピエールが即答した。
「……へへ、上出来。物分かりのいい後輩を持って、俺も幸せだぜ」
「ったく、調子いいよな」
「否定はしねぇ。――――ピエール・レオーネ」
向けられた真剣な表情にピエールは顔を引き締め、佇まいを正した。死にゆく師とその遺志を継ぐ弟子、二人の視線が交錯する。
「これから何年か先、おまえがちゃんと生きてさえいれば、必ず俺が到達できなかった高みに立てるはずだ。弟子は師の到達点を超えてなんぼだからな。努々研鑽を怠るな。己の敵は空白の時間と知れ。……と、いけねいけね。言い忘れてたが、ミルカの嬢ちゃんを悲しませるようなことだけは絶対にするんじゃねえぞ。日常の中にこそかけがえのないもんがあることを忘れるな」
「……わかった」
「ならば、よし。あとは――シュイだな」
「……俺?」
訝るシュイにアルマンドは胡坐を崩し、床に足をつけてシュイの顔を見据えた。
「こうして腰を据えて話すのはこれが最初で、最後だな。顔、見せてくれるか」
「……わかった」
シュイは肩口で留められている黒いクリップを四つ外し、フードを取った。線の細い顔が露になると、アルマンドはシュイと視線を合わせた。前髪が大分伸びていて目にまで被さりそうだった。シュイの瞳の輝きに微かな陰りを見止め、アルマンドは寂しそうに笑った。
「お節介な先輩からの最後の忠告だ。――おまえは俺が望んでやまず、それでも手に入らなかったものを掴みかけている」
「……何を掴んでるだって?」
「おまえくらい察しのいいやつが周りの連中の感情に気づいてないなんて有り得ないと思うけどなぁ。それとも、気づいてない振りをしてんのか? なら、ちぃとたちが悪いぜ」
アルマンドの厳しい視線が目を射抜くかのようだった。自然と口から溜息が洩れ、シュイは小さく首を振った。
「俺は、人殺しだ」
「……あん? そりゃそうだろ、傭兵なんだからよ」
アルマンドが顔をしかめた。今更当たり前のことを告げる意図が読めぬようだった。
「傭兵になる前もだ。多分、あんたが思っている以上に、俺は数多くの人を殺めている」
どれだけの恨みを買ってるかもわからないのに、他人の人生を巻き込むなんてできるはずがない。好きな人なら尚更だった。怖かったのだ。自分への恨みが周りにまで及んでしまったら、と思うと。
「つまりは、あれか? 幸せにする自信がねえってのか? おまえは自分が幸せになりたいと望んだことはねえってのか」
「血に汚れた手で誰かを幸せにできるはずがないだろう。俺は、人並みの幸せを願う資格なんかとっくに失っている」
「……ったく、おまえも馬鹿さ加減は俺に負けず劣らずだな。その汚れた手でもいいって言ってくれるやつがおまえの傍にいるなら、構わねえだろうがよ」
「……それでも」
「自分を慕ってくれる女を幸せにできる。これほど男冥利に尽きることはねぇ。しかも俺の見立てじゃあ誰かさんと誰かさんは、相思相愛とみているんだがなぁ」
あえてぼかしたのは反応を見ているからか。知り合った時と変わらぬ快活な笑みだった。死に際にしてこんな表情で笑えるアルマンドを、シュイは羨望ともつかぬ眼差しで見ていた。
「……どうしたって戦う力は、必要だ。綺麗事だけで回るほど世の中は甘く作られちゃいない。だからこそ、伝えておく。――――己が戦う理由を死者に求めるんじゃねえ、……虚しいだけだ」
「……っ」
絶句したシュイに構わず、アルマンドは穏やかに言葉を続けた。
「おまえが身を切って培ってきたのは、今を生きるやつらのために振われるべき力だ。忘れろとは言わねえが、割り切れ。俺の二の轍を踏むのは、俺に対する冒涜だぜ」
頭の中までも見通すかのようなアルマンドの言に、シュイが肩を震わせた。
「あんた、どこまで知って――」
「舐めんな、この俺が覆面如きで第一級の賞金首を、イヴァン・カストラを見破れないとでも思ったのかよ。……あんなやつとつるめるガキがそうそういるはずもねぇ。おまえが傭兵になった時期を思い返せば、ちょいと勘のいいやつなら境遇にも気づくはずさ」
詰めの甘さを指摘され、シュイはぐっと口を噤んだ。
「なんてな、そんなことを言いたかったわけじゃねえ。あの場にイヴァンがいなけりゃ俺も気づかなかったしな。――――シュイ、ありがとな」
「……え」
「最後の最後で、おまえは俺の心を救ってくれた。おかげでこうやって心穏やかに笑って逝ける。――胸を張って生きろ、今のおまえはちゃんと正道を歩いてるさ。……アミナの嬢ちゃんも、ハーベルも……それを望んでる……はず」
「……アルマンド?」
ふと、アルマンドの視線が自分からずれていたことに気づいた。
「――――明けたと思ってたら……もう夜、かぁ。……ちっとばかし……喋り過ぎた、かな」
ピエールは窓の方を振り向きかけ、全てを察したのだろう、今一度アルマンドに向き直った。その目には涙が溜まっていた。室内には一条の日差しが差し込み、それでもアルマンドの目は虚空を映していた。彼は今、どこまでも深い、光届かぬ闇の中にいた。
「……までだ。……ちっと、休むわ」
「…………くっ」
アルマンドの囁きと共に、ピエールの目から堰切ったように涙が溢れ出した。板の間に雫がぽつぽつと垂れ落ちた。腹に力を込めて、声を殺して泣いていた。死にゆく師に対して泣き言を聞かせられぬという配慮であり、意地だった。
二人の姿に感極まったシュイは宙を向き、きつく目元を抑えた。涙が零れぬようにしながら、最後まで自分の身を案じてくれた彼にしてやれることがないのかと、混濁する頭で考えていた。
ややあって、シュイはゆっくりと息を吐き出すように、言霊を紡ぎ始めた。
――永久なる記憶の狭間に埋もれし聖霊よ 彼の者らに慈母の恩寵を伝え
「……デボ……ト?」
ピエールがぽつりと呟いた。記憶を呼び覚ます干渉魔法、<身も心も委ねよ>の詠唱が室内で反響した後に、耳の奥で慈愛を尊ぶ聖女たちの祈歌が響き始めた。その選択が、ともすれば余計なことをしているのかも知れないと迷いながらも、シュイは言霊を終へと導いていく。
――過ぎ去りし日々を今一度 其の心に蘇らせよ
どれくらいの時間が経ったのだろう。数秒か、数十秒か、それとも瞬きほどの時間だったのか。ふいにアルマンドが、光届かぬはずの瞳をシュイとピエールの狭間に向け、子を慈しむような優しい笑みを浮かべた。ピエールが息を呑んだ。
「アル――」
「――ニラ。…………待……た」
まるで寝言のように、茫漠とした声だった。何かを掴もうとしているかのように、アルマンドの手がゆっくりと掲げられていく。それを握り返してやりたい衝動を、ピエールは唇を噛むことで堪えていた。仮初めの夢を覚まさぬように。
ややあって上昇を止め――支えていた糸が切れたように――彼の大きな手が組まれていた足を叩いた。空気の抜けるような音がして、それっきり彼の口元は動くことを止めた。その体は、ありとあらゆる音を遠ざけていた。
「…………ピエール」
「…………あぁ、……お疲……様、……だよな」
ピエールは肺に溜め込まれた息をゆっくりと吐き出し、立ち上がった。零れ落ちる涙を拭うことなしに、ベッドに腰かけたままのアルマンドに歩み寄り、向かい側のシュイと一緒に両脇、両の膝裏に手を入れた。
脳裏に過ぎっただろう懐かしき記憶の断片が少しでも慰めになったことを祈りながら、二人は悲しみの内に、アルマンドの体を慎重にベッドに横たえた。
ピエールの手が両の目蓋をそっと閉じる。窓から吹き込んだ砂漠の風が、人の手には決して成し得ぬ優しさで、安らぎに満ちた顔をそっと撫でていった。