~後継 succeeded to wishes12~
人生最大のピンチというやつだろうか。ラードックは両手で舵を握り締めながらそんなことを思っていた。体に生えている毛という毛が、それぞれに意思を持ったかのようにざわついている。
数珠繋ぎに大船が並ぶ様は壮観の一言に尽きる。これほど多くの砂船が一同に会すことなど前例がない。まさか全ての兵士を詰め込んでいるわけでもないだろうが、それでも五十隻を超える大船団だ。一隻に百五十人ほどが乗っていたとして八千人前後。逃げるジヴー軍を壊滅させる兵力としては充分に過ぎる。ソロンに誘導する手も今回は使えまい。喉が焼け爛れたばかりなのに再び煮え湯を飲む馬鹿はいないだろう。
もしテクラ・エモンが生きてここにいれば、この窮地を難なく切り抜ける手立てもあった。ご婦人としてはお世辞にも誉められた性格ではなかったが、風使いとして高い素養を持つ彼女の魔法を利用すれば、操船で絶対的なアドバンテージを得られたのだ。
ふとした時に失った仲間の存在価値を知らされるのは初めてではないが、だからといって慣れるようなものでもなかった。
ルトラバーグを出航してから間もなくして、十四隻からなるジヴー軍の船団は二列に並び、砂漠を一路西へと進んでいた。脱出の邪魔になるだろうと思われていた<砂鮫人>の大群は、スザクの指揮する数隻の軍船から砂地に投げ込まれた数多の拡声魔石に恐れをなし、散り散りに逃げていった。
そして、シュイたちを乗せたルクセンの砂船はジヴー軍の船団から南、やや離れたところにあった。戦闘状態に巻き込まぬよう一定の距離を取りながらも並走状態を維持している格好だ。敵から一番近い位置についての撤退戦。とどのつまり、自分たちが殿であるということだ。
殿は動きを止められたその時が最後だ。追いついてきた敵に対応している間にあれよあれよと後続の敵に群がられ、包囲戦に持ち込まれて全滅する。そして、概して逃げる方よりは追う方が勢いがつき易いものだ。
本隊の後退を助けるこの行為は、古来から栄誉と忌避の両面を持つ。策略は例外として、撤退とあらば敗色濃厚な状態、もしくは確定している状況に追い込まれていることが常である。そんな味方を危機的状況から救い出すために身を挺するとなれば、それが誉れとされるのも当然だ。ただ、戦力の大半は本隊を守るために保持せねばならず、結果としてなけなしの戦力しか与えられない。命を犠牲にして時間稼ぎをする。大を活かして小を殺す。そんな側面があることもまた事実だ。
ラードックは左手の薬指に嵌っている銀の指輪に視線を移す。自分の齢もすでに六十三。戦場に立ち、桜の花弁のように儚く散っていった仲間たちに比べればよく生きた方だ。数年前に病で妻に先立たれてからというもの、そこまで生きることに執着しているわけでもない。まだまだ頼りないとはいえ、周りには後継者になれそうな者たちも育ってきている。
別に死にたいと願っているわけではない。肉体であれ精神であれ、死には苦痛が伴うものであるし、仲間や客に自慢のカクテルを振舞い、喜んでもらう今の生活も悪くないと思っている。
ただ、仮に死んでしまったとしても、エスペランの中に還れば愛する妻の魂に寄り添うことができるだろう。いつどこで、どのように朽ち果てようとも最悪の可能性は既に除かれている。それがラードックの心境だった。
いささか皮肉なことではあるが、そうと割り切れている精神の境地が、砂船の操縦にことのほか役立っていた。たとえどれほどの窮地に追い込まれようとも冷静に自分の取り巻く状況を、空から見下ろすかのように把握できるのだ。だから、常人であれば踏み込むのを躊躇うだろう一線を、ラードックは容易く越えることができる。それこそが彼の強みであり、また危うさでもあった。
南の方ではジヴー軍が西へ逃げていくのを視界に捉えたセーニア船団が新たな動きを見せていた。真ん中よりに航行していた砂船が船首を西側へと傾け、それに遅れることなく、左右の船が連なるように船首を西側へと向けた。斜めに向けられた白塗りの船体が陽光を次々に反射し、光が大きな光の帯となった。
敵船までの距離は千メード前後といったところで、未だ魔法の射程圏内にはない。最上位の魔法使いや賢者がいれば話も変わってくるが、シュイがレイヴ・グラガンに聞いた話によればジヴー遠征に高名な魔法使いはほとんどついてきていないとのことだった。強力な召喚士団を有するルクスプテロンの反撃を警戒し、宮廷魔術師がセーニアを留守にすることに対しては反対意見が根強かったらしい。言い方は悪いが、たかがジヴーごときを制圧するのにそんなに強力な陣営で臨む必要がないと考えた可能性もある。無論、砂漠という世界で最も過酷な環境のひとつに足を運ぶのが億劫だった者も少なくはないだろう。
三十分ほども引っ張っただろうか。ついてきていた敵船の動きに再び変化が生じた。
「――敵船が二手に分かれた模様です! 二、四、六……、確認できる限りでは追ってきているのは十五隻ですね。後の船はルトラバーグの方に転座していきました。針路を変えて回り込もうという気もなさそうです」
筒状の遠眼鏡を左右に素早く動かしながら、船員が状況報告をする。
「意外と早く引き返したな」
「十五隻ってことは多く見積もっても敵の兵数は二千強。こちらを殲滅しようとまでは考えていないということでしょうか」
幾分表情が明るくなった船員を横目に、ラードックは敵船を映し出す両側の鏡に視線を戻しながら答える。
「確証はありませんが、物資が足りていないのかも知れません」
「あぁ、気がつきませんでした。それはおおいにありそうですね」
当然のことながら、砂船を運用するには乗組員たる兵士たちの兵糧や水、寝具、そして大量の魔鉱石を搭載しなければならない。だが、あまりに荷物が多過ぎると、今度はその重みで船の機動力が落ちてしまう。こちらの船のように船員を含めても二十に届くかという人数であればそこまで気にする必要もないが、敵側はかなりの大所帯だ。戦いが始まってから二カ月以上が経過している現状、残っている物資が心許なくとも不思議ではない。
加えて、オルドレンまではルトラバーグから砂船で四日ほどとかなり距離がある。万が一、ルトラバーグを放置してこちらを追ってくれば、敵の補給線は間違いなく今よりも長細くなるだろう。短期決戦で事が片付けば取り越し苦労で済むが、この苛酷な環境で長期戦に持ち込まれ、水や食糧の不足を招けば死に直結する。裏を返せば、今こちらを追ってきているのは水や食料に余力のある船だと推察することができる。
セーニアとしては戦力を温存したままルトラバーグから兵士たちを追い出すことに成功しているわけであるし、それだけで十分な成果と言えるだろう。よしんばここでジヴー軍に逃げられたところで勝負を急ぐ必要はない。となれば、砂船に乗れなかった歩兵たちが他の町からルトラバーグへ物資を運んで来るのを待つことも考えられる。
――けれど、本来なら逆の運用をするのが最善だ。……ここにきてようやく一つ、綻びが見え始めたな。
盤石と呼ぶに相応しかったセーニアの戦の進め方に、微細ながら変化が生じている。それを感じ取ったシュイは船員から紙を一枚拝借し、思いついたことを忘れぬようつらつらと記述を始める。
机を挟んで向かい側では美女二人、リーズナーとヴィオレーヌが窓辺に寄り、箱庭のように小さくなったルトラバーグを眺めていた。
「セーニア軍は、ジヴー軍がルトラバーグに籠もって応戦する可能性をも考慮していたはず。結果としてジヴー側は町を明け渡す判断を下したわけだが、相手にしてみればどちらに転んでもいいように準備していたはずだ。町にあるだろう水や食料などの物資もあてにしていたのかも知れないし、相手もジヴー側の戦力を完全に把握していたわけでもないだろうから、伏兵の可能性も捨て切れなかっただろう」
「勝ちが決まったような戦ですし、挟み打ちで被害が大きくなるのを嫌った、という推論ですね。物資に関しては、先ほど結構な量の荷物を積み込んでいましたからほとんど残っていないとは思いますけれど」
シュイは、リーズナーの口調に妙な親近感を感じた。どうしてだろうと壁に寄りかかって宙を見遣るが、中々納得のいく解答に行き着かない。取れそうで取れない、歯間に挟まった食べカスのようなものか。
「連中もこっちと同じように不確定要素をしらみ潰しにしてるってところか。ルトラバーグが落ちたとなれば十一カ国のうちの五ヶ国を手中に収めているわけだし、妥当な判断だ。堅実に過ぎて面白味には欠けるけどな」
アルマンドがいかにもつまらなそうに首を振った。
「シュイ、現時点で考え得る最悪のパターンは?」
ピエールが腕を組みながらシュイに訊ねた。シュイは黙考し、しばしのうちに口を開く。
「俺たちが捕まるのは問題外として――逃げているジヴーの船が一隻でも拿捕されることじゃないか。軍の機密に詳しい者が囚われれば脅迫や拷問によって抱えている事情や人間関係を漏らされる芽も出てくる。今ジヴーが最も警戒すべきは調略や裏切りで結束力を弱められることだ。ただでさえ少ない勝算をこれ以上引き下げられたら困る」
「結局、相手が諦めるまでジヴーの船団を守らねばならねぇってことだな」
「砂船の見た目はそっくりだから、この船が純粋にジヴー軍の船だと思われていたとしてもおかしくないけどね」
シュイの意見を肯定するように、後方からの砂船たちは船の後方にぴたりと貼り付き、それより北、船団の方に向かう様子はなかった。現在はやや強い西からの風。南から北西に向かう敵船と、真西に向かっているこちらの船とでは速度差がつくだろうが、反面こちらの走る距離は短くて済む。また、後ろから追ってこられた場合には飛び道具の扱いで優位に立てる。局所戦という観点で考えれば分は悪くない。
「――ラードックさん! やたら速い船が一隻、左舷側から追ってきます。気づくのに遅れて申し訳ありません、既に250メードほどの距離しかありませんが、どうしましょう」
「――今確認しました。これは、ちょっと振り切れそうにありませんね。中型船、いや、こちらよりも小さいくらいか。……申し訳ないですが皆さん」
ミラー越しに舵持つラードックと入口近くに立っているイヴァンの視線が交錯する。
「一隻や二隻の船くらいはこちらで何とかする。船の操縦に集中していてくれ」
「わかりました、ご武運をお祈りしています」
甲板に出たシュイたちを待ち受けていたのは橙色に染まった砂漠と、南東方向から接近してくる砂船だった。船員の言葉通り、今まで見た船とは比べ物にならない速度だ。肉眼でも敵船の乗組員の服装がわかるくらいに距離が詰まってきている。大きさは五十から六十人乗りといったところで、船体は少し水色を含んでいた。甲板には弓を担いだ大勢の兵が並んでいる。
ふいに、リーズナーが立っていた位置から素早く一歩下がった。その爪先の少し先で、飛んできた矢が敷き詰められた板を貫いた。
「向かい風でこの距離を届かせる弓兵か、あまり歓迎できんな」
イヴァンが髪を撫でつけながら呟く。届いたのを確認して距離が十分と判断したのだろう。外壁の上に並んでいた兵士たちが一斉に矢を番え、弓を空へと傾けた。
油断するなよ。イヴァンのその言葉と同時に、防戦一方の戦いが幕を上げた。
「<烈風壁>!」
シュイが甲板に風の障壁を展開し、上空からの矢を弾き飛ばす。流れ矢のことを考えると<氷結壁>を行使したいところだが、この気候では薄壁しか作れそうにない。<燃焼壁>など使おうものなら矢を燃やす前に船が燃えてしまいそうなのでこの選択はやむなしといったところだ。
その横ではアルマンドが槍の柄の中央辺りを握り締め、手首を捻る様にして回転させていた。飛来してきた無数の矢が渦巻く巨大な盾と化した槍に阻まれ、シャフト部分を折られながら地に散らばっていく。
そこから少し距離をおいて、船室に近い場所に陣取っていたイヴァンが、脇から飛来してきた矢を手刀で手早く弾き飛ばす。ヴィオレーヌがその後ろで手を組み、結界を張ろうとしたところで、イヴァンが肩越しに彼女を見た。
「矢の対処は俺たちでもできる、おまえは念のため対魔法防御と治癒魔法の準備をしていてくれ。今のところ弓による射撃のみだが、いつ織り交ぜてくるとも限らないからな」
ヴィオレーヌは無言でうなずき、詠唱を破棄して即座に別の詠唱に映る。
執拗とも言えるくらいに、セーニアの船からの射撃は止まなかった。ピエールが横薙ぎにした剣で風を起こし、連続して撃たれた矢を失速させる。続いてアルマンドが長槍を大きく振り上げ、巻き起こる上昇気流で空の彼方へと跳ね飛ばす。矢の雨が落ちてくる頃にはこの船はその場にいないだろう。
「延々と撃ってきやがるな、キリがねえ」
「かなり腕の良い弓騎士を揃えているみたいだなぁ、もうちょい近づいてくれればこっちにもやりようはあるんだが」
夕焼けに赤く染まっていく空の下で、その攻防はおよそ三十分に亘って繰り広げられた。敵船は機動力を活かして時に左舷側に、時に右舷側に回り込み、シュイたちに数多の矢を放ち続けた。
その間、ひたすらに攻撃を堪え凌ぐことを余儀なくされたシュイたちだったが、局面を打開する機会がやってきた。一向に倒れる様子のない船上の者たちに業を煮やした敵船が、接舷するべく近づいてきたのだ。
段々と前に出てくる敵船を目の当たりにして、シュイは温存という概念を捨て去り、すぐさま次の行動に移った。距離が狭まれば矢の軌道予測をしづらくなる半面、あの攻撃が届く。
狙い通り、敵船は横並びになるように接近を試みていた。盾と剣を持った歩兵たちが何人か、船室から出てくるのが見えた。弓兵たちが乗り込みを援護すべく、再度矢を番えた間隙を縫うようにして、アルマンドとピエールが投げナイフを取り出し、手が霞むほどの速度で投擲。柄のないナイフは見事、兵士たちの首元に次々に吸い込まれていった。敵軍に動揺が走ったのを尻目に、更なる追撃をせんとシュイが魔力の五線譜を引く。初めて目の当たりにするシュイの威容に一同が注視した。
おそらく、敵船からではただの煌きにしか映らなかっただろう。レイヴとの闘いを経て洗練された<刻穿ちし閃>の魔弾が神速というに相応しい速度で敵船に殺到。船首の下部辺りに着弾した。耳障りな轟音が響いた。敵船が大きく横に揺れ、何人かの弓兵たちが砂の海に落ちていくのが見えた。
転倒させるほどの一撃ではなかったが、前面の金属板にいくつもの穴を穿たれた敵船は、目に見えて挙動不審になっていた。重量のバランスが崩れたのだろう。左右に蛇行しながら追ってくるのがやっとという有様だ。近づいていた距離がまた少しずつ遠ざかり、船は艫の方へと下がっていく。
「……見事な技だ」
「……厄介な技を」
リーズナーとイヴァンが声を重ね、互いの顔を見合わせて不敵に笑う。
「へっ、何とか……切り抜けたか」
アルマンドが槍を下ろし、大きく一息ついた。甲板や船室の壁に突き刺さり、あるいは散らばっている夥しい数の矢が、短時間のうちに発生した攻防の凄まじさを物語っている。
黄昏が砂漠の輪郭を弱めていく最中、二本の矢がマストの脇をすり抜けて飛来した。速度も矢の大きさも、別段先ほどと変わらない。なんの変哲もない射撃だった。
甲板に出ていた者たちの誰もが、その矢の存在に気づいていた。放り投げられた蜜柑を叩き落とすよりも簡単なことだ。その共通意識が、回りの者たちの反応を薄め、そして――
長身の体が、前後に揺れ動いた。
「……え」
呆けたような声は誰が放ったものか。うざったいくらいの熱を吸った船上に、極寒の嵐が吹き抜けた。
アルマンドはおのれの軽鎧の金属部分を避けるようにして、脇腹に突き刺さった一本の鉄の矢を見下ろし、微かに笑い、溜息と一緒に血を吐き出した。
「…………まいっ……たな、もう、時間切れ、か」
「――アルマンド!?」
ピエールの悲痛な叫び声は果たして彼の耳に届いていたか。鉄の矢に脇腹をアルマンドは、虚ろな目で矢の飛んで来た方向を睨みながらその場に片膝をついた。
皆が皆、信じられないといった表情を浮かべている。恐るべき速射であったとか、誰かを庇っての負傷ならばまだ納得もいっただろう。だが、彼を貫いたのは百歩譲って受け止められずとも避けるには問題ない射撃。つい先ほどまで数多の敵の矢を余すことなく叩き落とし、投げナイフで見事な反撃にも転じた男が、そんな稚拙な一撃でやられてしまうなどとは誰が想像できるだろうか。
「――誰か……誰か早く治してくれ!」
ピエールがそう叫ぶなり、屈んだアルマンドの壁となるべく前に立った。その裏で、声に促されたヴィオレーヌが側面をイヴァンに守られながらアルマンドの脇に跪き、急いで呼吸と傷の程度を確認する。吐血していることから内臓の損傷はほぼ確定的だが、彼の鍛え上げられた体躯は自身の何十倍もの大きさの<地縛巨霊>を押し返すほどだ。ならば、助かる見込みは充分にあるはずだ。
そんな考えとは裏腹に、それほどの猛威を振るったアルマンドがたかだか一本の鉄の矢に傷つけられたという事実に、シュイは例えようのない気持ち悪さを感じていた。
とどめとばかりに、再び二本の矢が敵船の船首から放たれた。ピエールの左右の目がぎろりと動き、矢の描く軌線を完全に捉えた。弧を描いて飛来してきた矢を眼前で、左手右手とテンポ良く掴み、ダーツを持つ要領で矢の柄を掴み直す。
「こん……のっ、くそったれがああああぁぁぁ!!」
激昂に合わせて投擲。辰力で筋力強化をしていたのだろう。放たれた矢が飛来時の数倍の速さで射手へと戻っていく。咄嗟に身を翻そうとした弓兵二人の肩を見事に貫き、体ごと後ろの木板に張り付けた。
「ちぃっ、外したかっ……!」
殺意を込めての投擲だったことを窺わせるように、ピエールが忌々しそうに舌打ちした。投げ慣れてないものでそれだけやれれば上出来だと思わないでもなかったが、気持ちは痛いほど理解できた。自分とて目の前でニルファナやアミナが深手を負わされれば、決して傷つけた敵を許そうとはしないだろう。
それでも、ピエールが弓騎士にとどめを刺すべく投げナイフを取り出そうとしているのを見て、シュイが努めて穏やかに言った。
「――ピエール、先にアルマンドを船室に運ぶ、そっち持ってくれ」
そう言いつつ、シュイがアルマンドの足側に回る。一兵卒の殺害と仲間の介抱。どちらを優先するべきか誰だってわかる。
「……そう……だな。ヴィオレーヌさん、とりあえず出血だけでも止められるか?」
ピエールは一瞬だけ目をきつく閉じ、ゆっくりと開く。出しかけていた投げナイフを仕舞うと座っているアルマンドの方に向き直り、手をかざしているヴィオレーヌの横に屈み込んだ。
「……どうして?」
一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。ピエールが、否、その場にいた皆が言葉を失った。拒絶の言葉かと勘違いしたのだ。
ややあって、シュイはヴィオレーヌの問いが、ピエールの発した言葉に向けられたものではないことに気がついた。今迄みたこともないほどに見開かれた彼女の目が、驚愕の度合いを物語っていた。
「ヴィオレーヌさん、一体どうし……」
「……駄目……いつもと同じようにやっているはずなのに、傷が一向に塞がらないんです。……この人、治癒魔法を……全く受け付けて、いない」
彼女の言葉を呑み込むには数秒の時を要した。ざわりと悪寒が蠢き、毒のようにゆっくりと全身を冒していく。足早にシュイがヴィオレーヌの向かい側に回り、既に矢の抜かれている傷口に手をかざした。ピエールが藁にも縋る思いを視線に乗せてくる。その期待に応えようとシュイが治癒術の詠唱を始める。
――――そんな……なぜだ。――慈悲深き神々よ、我が祈りに耳を傾けたまえ。……神々よ、我が祈りに。
紡ぎ慣れたはずの治癒術の詠唱が、空々しい響きを伴って耳道を行き来していた。白い魔力光は確実に傷に向かって放たれている。なのに傷が治る気配は微塵もない。
血に濡れて艶を帯び始めた甲板が、脇腹から今も止まる様子を見せぬ鮮血が、どうしようもないくらいの死の臭気を漂わせていた。