~後継 succeeded to wishes7~
空一面を覆いつくす暗幕の裏では太陽が頼りない光を放っていた。
薄暗い砦の内部、白い石階段を駆け下りていたジヴー兵たちの前方で砂地が縦に割れる。地面に両手を突いてずりずりと這い出てきたのは、土色の人型魔物、<砂鮫人>たち。褐色肌の男たちは腰の剣に手を伸ばそうとするが、矢継ぎ早に現れる地割れを見て思い留まった。
「くそったれ、こっちもだめか! 後から後から湧いて出てきやがる!」
背後から近づいてくる足音に気づき、やむなく通路を右に曲がって路地に入り、広場に出た。砦の敷地内を巡回しているはずの衛兵たちはどこにも見当たらない。相手はそこまで敏捷ではないが、追ってくる数はこうしている間にも増える一方だ。足を止めて考えている暇などない。
「――おいっ、あそこに人がいるぞ!」
手に杖を持ち、焦げ茶の外套を纏った男が、敵の手が回っていなそうな路地を指差した。顔は建物の影でよく見えなかったが、革鎧を着ているのが遠目からでも確認できた。兵たちは目配せし合い、直ぐにそちらへと移動する。そして、建物の壁に寄りかかっている人影に数歩ほどの距離まで歩み寄り、絶句した。
仲間と思って近づいたそれは、下顎から上の部分を無残に噛み千切られた死体だった。顔は見えなかったわけではなく、元々なかった。
どろっとした脳漿と血に濡れた紫色の舌、奥歯までくっきりとした下顎の骨を見て兵士たちの背筋が凍りつく。中には思わず口元を抑える者も。未だ血がとめどなく流れていることから殺されてそう間もないことがわかった。
ふと、路地の先の土肌に視線を凝らすと何箇所か色が変わっていた。明らかに土を掘り返された跡があり、耳を澄ませば呼気の音が微かに聞こえた。そちらに足を踏み出した途端飛びかかってくる腹積もりだろう。みえみえの罠とはいえ、この視界の悪さでは気づきにくい。実際、無残な姿になった兵士はそうして殺されたのだろう。一応知能だけは優位に立っていることを再認識し、少しだけ落ち着きを取り戻す。
<砂鮫人>は砂漠に生息している魔物の一種であり、川やオアシスの周辺に潜んでいることが多い。集団行動を好み、水を飲みにやってきた動物や人間たちを餌食にする。総じて知能が低いが食欲が非常に旺盛で攻撃的。
眼孔は垂れ下がった皮膚に覆われており、目の役割を果たしていない。骨ばった高い鼻と歯が剥き出しの大きな口。そして、側頭部には軟骨のない穴だけの耳がある。その姿形に違わず視力はなきに等しいが、その分鋭敏な聴覚と嗅覚を備えており、地中にいても獲物の居場所を正確に特定できる。
体を覆う黄土色の分厚い鱗は首から上以外を満遍なく覆っている。その装甲は打ち据えた鉄の剣が欠けてしまうほどの硬度を持ち、天然の鎧を身につけているようなものだ。手足の器用さはさほどでもなく、指がないので道具も扱うことができない。しかしながら魚のヒレのような手は非常に固く、地殻をも掘り進められるほど。もちろん武器としても充分な役割を果たすため、油断すれば直ぐにでも首と胴が切り離されることだろう。
ジヴー兵たちの不幸は早朝の巡回場所が砦の入口から一番遠い北側の区域だったことに尽きる。石を積み上げて作られた要塞の傍は昼間の熱をたっぷりと吸いこみ、夜間でも蒸すような暑さだ。<黒禍渦>の強風のおかげで少しは緩和されていたが、代わりに上から砂が降ってくるので貧乏くじに変わりはない。
そして、隣の区域を担当していた部隊員が変わり果てた姿で横たわっていることに気づいたのがつい先ほどだった。両膝の裏を深々と切り裂かれ、こちらは下顎も残さず頭部を丸々喰われていた。
砂嵐のせいで味方の悲鳴も聞こえず、いつの間にか砦の最奥に取り残された形になっていた。魔物に襲撃されている中、律儀に巡回していた自分たちを愚かしく思った。
脱出口を見出すべく遁走していた兵士たちだったが、目にしたあらゆる通路を塞がれており、結局元の場所に引き返すしかなかった。包囲網を形成する<砂鮫人>は数十匹にも膨れ上がり、彼らは広場の四隅の一角へと追いやられていた。
「――完全に囲まれた、な」
「はは、ま、まいったな、俺嫁さんに絶対に戻るって約束しちゃってるんだよね」
乾いた笑いを漏らす中年の髭男に魔法使いが、それは死亡フラグ、と嘆きつつ杖を掲げる。
「味方、どこにもいませんでしたね。俺たち……、見捨てられちゃったんでしょうか」
視力に頼ることなく行動出来る彼らは<黒禍渦>の砂嵐も苦にしない。かといって、人里を大軍で襲うような前例は今までほとんど報告されていない。軍の指揮系統が乱れていてもなんらおかしくはなかった。
などと考えているのは、単に見捨てられたと思いたくないからだ。助かる可能性から目をそむけたくないからだ。
「拡声魔石も残ってない、……なるようにしかならんな」
「よりによって安全なはずの砦の中で魔物に生きながらにして食われるなんてな、ついに現実が想像を飛び越えちまった……」
居並ぶ<砂鮫人>たちが鋭い歯の隙間から尋常ではない量の唾液を滴らせた。きっと自分たちは高級羊肉くらいにしか思われていないのだろう。自らの体がこれからその口に収まるのかと思うとぞっとする。
生理的嫌悪感に身を震わせつつも、ジヴー兵たちは剣の切っ先を相手に向け、雄叫びを放つと共に一斉に走り出した。<砂鮫人>たちは叫び声に身じろぐも、獲物の接近に気づいたのだろう。両腕を掲げ、逃がさぬよう左右に体を揺らしながら間合いを縮めてくる。その直後、上空で稲妻が走った。
黒い空に白い影が断続的に浮かび上がる。雷の落ちた場所が相当近かったのか、凄まじい轟音が鳴り響いた。驚異的な聴覚を持つ<砂鮫人>だけに、これはかなり効いたのだろう。こめかみの辺りを抑えながら悲鳴を上げ、次々に昏倒する。
「――走れ!」
誰かが息せき切って叫んだ。兵たちが包囲の崩れた箇所に雪崩打って出る。敵の数はあまりに多く、いちいちとどめを差している余裕などない。足を切り裂かれぬよう祈りながら倒れている<砂鮫人>たちを踏みつけにしていく。
「よし、抜けたぞ!」
「――! グアラ隊長、あそこを!」
狭い下り階段を上ってきた複数の人影に気づき、兵士たちが収めようとしていた剣を慌てて持ち上げる。だが、そこに現れたのは見知った人物だった。
「良かった、おまえたちも無事だったか!」
「ヴィレン将軍!?」
数人の護衛を引きつれて現れた人物に兵たちが我が目を疑う。鼻の下と下顎にちょび髭を生やした魔族の男はジヴー連合の雄、ヴィレン・カシリその人だった。未だ三十台半ばだが武勇に優れ、部下の信頼も厚い。平凡な家庭の生まれであるが、数年前にビスレノームに襲ってきた砂竜の群れの討伐に加わり、多大な武功を立て上にのし上がった。今現在のジヴー軍において最年少の将でもある。
「よ、よくぞご無事で。まさかこんなところまで救援にきてくださるとは」
ジヴー兵たちが一斉に地に片膝を突き、畏まろうとする。それをヴィレンが手を出して制する。
「話は後だ、連中との消耗戦に付き合っている暇はない。通ってきた道に敵の手は回っていなかったがいつまでもつかもわからん、急いでここを離れるぞ!」
ヴィレンは直ぐに後ろを向き、駆け昇って来た階段を二段飛ばしで駆け下りていく。ジヴー兵たちは安堵の表情を交わし合い、将軍の後に続いた。
「将軍、今現在の状況は……」
後ろからの質問にヴィレンは足を止めぬままわずかに俯き、溜息を落とす。
「あまり良くない、魔石で連絡を取り合えなかったのが痛恨だった。助けられなかった者も大勢いるはずだ」
「そう……ですか」
「<砂鮫人>だけならそれでもなんとかなったが、<地縛巨霊>までもが町に出没しているらしい。総力を結集すれば打ち勝てぬ相手ではないが多大な被害も出よう。セーニアとの決戦を控えている今、やつとまともにやり合う余裕はない、私の部下たちは残っている民間人たちの避難誘導に当たらせている」
「そ、そんな。じゃあ……」
「私の権限においてルトラバーグ中の砂船を全接収した、この町から撤退して西に向かう」
<黒禍渦>は積乱雲の塊であり、その中で放電現象が起きていることも珍しくはない。<砂鮫人>も落雷の音を酷く嫌っているため、嵐が発生している最中に地上に出てくるのは稀だ。それだけに、この仕業が人為的なものだと疑わざるを得なかった。もたもたしていたら包囲戦に持ち込まれるのは避けられない。ヴィレンの判断はあらゆる角度から見て正しかった。だが――
「……最後の砦と言われたここを、撤退? ……戦わずしてこの国を明け渡すのですか?」
呆然自失とした顔がヴィレンの目を射抜く。ヴィレンは辛そうに目を細める。防備に優れているここで少なからず敵に打撃を与えるはずが、よもや自分たちに被害を出しただけで撤収することになるとは、彼自身認めたくないことだった。
「……もう、勝てないんですか? どうすることもできないんですか!」
「うるさい、少し静かにしろ! そんな大声を出してたら<砂鮫人>共がまたやってくるだろうが!」
部隊の仲間が声を押し殺しながらも諌める。だが、若い兵は口を止めようとしない。
「それなら、初めっから降伏すれば良かったじゃないですか! そうすりゃ少なくとも仲間たちが無駄に死ぬことは――ぐぅ!?」
その言葉は続かなかった。若い兵は足を止めたグアラに胸倉を掴まれていた。
「貴様は一体今まで何を学んできた! いかに大国からの要求とはいえ、無理難題にへいこら従ってばかりいたら国など守れん! 重税でも課せられようものならそこに住まう民たちはこれから先、生まれる者たちも含めて何十、何百年と不幸になるのだ! 貴様は子供たちがこの地に生まれたことを嘆いて暮らすような国になってもいいのか!」
「そ、それは……」
「少なくともこの戦いは私利私欲のために始めたものではない。ましてや、ここにいるヴィレン将軍は安全な場所におらず、最前線に立って指揮を採っておられるのだ。断じて、責任転嫁の対象にしていい人ではない!」
「――グアラ、もういいから、それくらいにしてやってくれ」
肩を引かれたグアラが辛そうな笑顔を浮かべるヴィレンを見遣る。グアラはきつく目を瞑り、掴んでいた襟から手を離して二歩下がった。ヴィレンは愚痴を零した若い兵を見据える。
「君の苛立ちは、良く理解できる。私も、同期の者を大勢失っているからな」
「あ……」
宙に遠い目を向けるヴィレンに若い兵が俯き、申し訳ありません、と謝罪の言葉を口にする。
「多くの者たちが家族のために、この国のために戦い、命を落とした。敗北にしろ、降伏にしろ、この戦いを投げ出す時がくるならば、それは私が首を括る時だ」
死ぬ覚悟を口にしたヴィレンに、兵たちが息を呑む。
「たとえ良かれと思ったことであれ、それが結果として民を不幸に導いたならば誰かが責任を取らねばならない。それが国策というものであり、上に立つ者の負うべき責だ。私が死ぬことで皆の溜飲が下りるのならば、喜んで犠牲になろう」
「……将軍」
「――ふっ、私としたことが喋り過ぎてしまったな。さぁ、手遅れにならないうちに砦を出るぞ。助かるはずの者が助からないとあっては、志半ばで死んでいった者たちに顔向けできんからな」
押し殺した声から感じられる強靭な意志。その峻烈な気概に晒され、兵たちが沈黙する。けれどもその熱は、彼らの心の奥に消えかけていたはずの炎をしかと蘇らせていた。