~後継 succeeded to wishes6~
朝日が地平線からゆっくりと離れていく。夜明けの瞬間、空は青と赤のグラデーションで幻想的な色合いだった。そんな景観に目を細める余裕もなく、船員たちは暇なく右往左往していた。
セーニアとの追走劇が始まってからおよそ2時間余り。徹夜明けということもあって船員たちの顔にも疲労の色が濃い。その間にも追ってくる敵船は増え続けていた。
「本当にしつこいなぁ、ある意味感心しちまうぜ」
「意図しているかは別にして、連中は正しいことをしている。我々の助力なくしては万が一にもジヴーに勝ち目はないからな」
ピエールとイヴァンが肩越しに追ってくる船を一瞥しながら言葉を交わす。シュイは周辺の景観を見渡してから口を開く。
「ラードックさん、ソロンとかいうところはまだなんですか」
「もうとっくに入っていますよ」
「え、ここがそうなのか? 危険な廃墟っていう話だったけれど、建物らしきものはほとんどないような」
首を傾げたピエールの言う通り、所々で白い柱が地面から突き出ている場所はあるが、傍目には船の航行を妨げるほどではない。想像していた、打ち捨てられた町とは異なる風景に二人は困惑を隠せなかった。
「ソロンは雨水がより溜まるよう盆地に作られた町でしてね、今では建物のほとんどは砂に埋もれてしまっているんです。それにしても……六隻もいましたか、少し数が多いですね」
「……まずいのか?」
「あぁいえ、ただ、勿体ないなぁと思いまして」
「勿体ない? 何が」
シュイの問いかけにラードックは苦笑いを返すだけだった。その間にも船員からの報告が引っ切り無しに飛んでくる。
「――第六、第三共に距離500メードを切りました。南東側から第四、第二もやや離れて追走、いや、これは……諦めたかな? 転座しています」
「賢明なことですね、他の方たちもその船を見習ってくれればありがたいのですが――もう時間切れですか」
「時間切れ?」
「目指していた場所についたということです、稼いだ距離も使い果たしてしまいましたから、ここからが正念場ですよ。――さて、今から少しばかり集中します。内緒話も含めて一切の雑音を立てないよう願います」
それは船員たちもなのか、と言いかけたシュイに、ラードックは真剣な表情で口に指を立てる。これでは押し黙る以外にはない。いつの間にか、船員たちも会話をぴたりと止めていた。ラードックの言うことに対して絶対的な信を置いているのだ。
風と船の駆動音以外聞こえない領域においてラードックが目を瞑り、何やらぶつぶつと呟き始めた。
――これは、魔法の詠唱? 発音が特殊だから古語か。ていうか、目を瞑って操船って危なくないか。
頭に浮かぶ数々の疑問にシュイは首を捻る。間を置かずして、魔力の波がラードックから揺らめくのを感じた。それは操舵室を通り抜け、船全体に行き渡り、周辺へと拡大していく。ほどなく終の言霊で魔力の波が球面に固定された。おそらくは感知魔法の類だろうが、自分の知っているものとはどうも種類が違うようだ。
ラードックは目を瞑ったまま操舵輪を動かし、白髪から覗く三角耳を忙しなく動かす。障害物が見当たらない状況で、船が左に、あるいは右に小刻みに揺れる。船底が砂に滑らかな線を引く。
直行で追ってくる敵に対して、ましてや速度で負けている敵に対して蛇行を繰り返せば、距離は当然のように縮まっていく。シュイとピエールが後ろを見ると予想通り、先ほどまで豆粒大だった敵船は林檎大にまでなっていた。
その意図を問い質したいところだが、船員すら黙々と働いている状況で言葉を発するわけにもいかない。操舵しているラードックもよほど集中しているのか、遮光レンズ越しに見える険は深く、額からはふつふつと汗が浮き出ている。こうなっては事の成り行きを見守る以外に他なかった。だが、その時は存外早く訪れた。
突如として、こちらの船に一番接近していた敵船が、縦に大きく揺れた。続いては緩慢に横に傾いていき、砂の上に横倒しになり、砂の波濤を四方に撒き散らす。よくよく見ると一隻だけではない。奥の方でも連鎖するように白い巨船が傾き、あるいは停止を余儀なくされている。
次々に航行不能になっていくセーニアの砂船を視界に収め、シュイとピエールはあんぐりと口を開けていた。
――どうなっている? ここに罠でも仕掛けてあるのか?
ピエールのその予想はあながち外れでもなかった。ラードックにはその卓越した操船技術とは別に、誰にも真似できぬ業があった。振動波を広範囲に放ち、それに触れた時の反響音を驚異的な聴覚で捉え、砂の中に埋もれている質量がどこにあるかを探り当てることができる。あまり小さいものだとわからないが、船に影響を与えるくらいに大きいものであればおよその場所を掴めるのだ。
ソロンの町は砂の下、地下20メートルほどのところにあった。一見するとだだっ広い砂地に見えていたこの場所は、本物の海で例えるならば暗礁地域のようなものだ。邪魔なく通れる場所はごく限られた場所でしかない。水みたいに透けてもいないのでまさしく見えない迷路である。
ややあってラードックが目を開け、古い砂海図と外の景色と、忙しなく視線を往復させる。左、右、右、左、左。不規則な船の動きに何やら眩暈がしてくる。荒波に揉まれているのとは違う、経験したことのない切迫感が食道の辺りに感じられた。端的にいうとシュイは今、とても気持ちが悪かった。
一方で、追ってくるセーニア側も猪ばかりではなかった。二隻の船が連なるようにして、シュイたちの乗る船が引いている線をなぞりながら追ってきた。一向に座礁しない不審船が何かしらの方法で砂に埋もれている瓦礫を避けていることに気づいたのだ。万が一を避けて余分にマージンを取っているラードックの航路は、大型船でも座礁せずに追ってこられるだけのスペースがあった。
――ふぅむ、中々判断が速い。――が、果たして次の罠にも対応できますかね。
後ろから追ってくる敵船にラードックが口の端を持ち上げ、額のゴーグルを持ち上げる。仕草で速度上昇を伝えたのだろう。制御棒が力強く輝き始めた。敵船もこちらの速度上昇に気づいたのか、遅れることなく追ってくる。
緩やかな上り斜面に差しかかった。船首の突端は青い空を向いていた。ほどなくして、その傾きが水平に戻り始め、束の間船尾側から敵船が見えなくなった瞬間、ラードックがゴーグルを戻し、素早く面舵を切る。それが合図だったのだろう。急激に砂船が速度低下し、乗っている者たちの体が斜め前方に振られ、危うく倒れかけた。減速した船は小高い丘の頂上部分を過ぎたところ、目の前に横たわる下り斜面のすれすれで踏み止まり、平地と下り坂の接ぎ目に沿うように移動する。
後を追ってきたセーニア兵たちは、まさか登ってきたそこが地獄の入口だとは思いもよらなかっただろう。崖すれすれのところで針路変更していたルクセンの船を横目にして、二隻の船は速度を殺し切れなかった。
方向転換する間もなく、二隻共に船首が斜め下へと向く。上ってきた斜面より角度のきつい下りに差し掛かっていた。その船体の重さゆえに止まることは叶わない。自重で斜面を滑り降りていく。
突然、穴の底から砂が大きく盛り上がった。砂を掻き分けて現れたのは、巨大な生き物の頭部だった。衝撃的なその光景にシュイとピエールの顔色がはっきり強張った。
それは竜よりも鯨よりも巨大な、黒い艶のある皮膚に覆われた魔物だった。どこか昆虫じみた外観をしており、ガチガチと鋏のような牙をかち鳴らす音が、斜面の上まではっきりと聞こえてくる。シュイは対岸を見回し、そこがただの斜面ではなく、すり鉢状の穴だということに気づいた。穴の底を見渡せば、遠方からでも確認できるほどに大きな白骨がそこら中に散らばっている。砂漠に生息する魔物を餌にしているのだろう。
――こいつは、やばすぎる。
喉から胃の腑へと冷気が駆け下りていった。初めて見た魔物からは、エミドやレイヴから感じられたものとは違う、純然たる野性の力が感じられた。何より驚くべきは、そんな巨大な魔物が姿を現すまで一切気配を悟らせなかったことだ。
魔物は頭部にある23個の複眼をゆっくりと、不規則に回転させる。ほどなく全ての目に、滑り落ちてくる二つの白い船が映り、鋭い牙に装飾された口が開かれる。口から滴り落ちるのは強い酸の唾液。垂れた場所から砂が茶に変色する。
間もなく、止まっていた砂が少しずつ穴の底へ向かって流れ始めた。空気を吸い込む音を何倍にもした音が、大気中に響き渡っている。驚異的な肺活量で流砂を形成し、獲物をより早く引き寄せているのだ。余程腹が減っているのだろう。
小さい町がすっぽり収まってしまいそうな穴の底で、魔物は牙を剥き出しにし、自らやってきた獲物を手ぐすね引いて待ち構えていた。滑り落ちている船に乗っているセーニア兵たちの顔がどうなっているか、容易に想像がついた。
「古来種の魔物と相対して少し頭と肝を冷やすがよろしい、苦痛に満ちた叫びが死んでいった同士への鎮魂歌となりましょう」
沈黙を破ったラードックの辛辣な一声。皆が操舵輪を握り締める彼を注視する。左舷側を見下ろすその目は、どこまでも冷やかだった。
迂闊にも忘れていた。ラードックの操船技術ばかりに気を取られていたが、セーニア兵たちはジヴーやルクセン教にとっては憎き仲間の仇。今までの戦いで一人や二人、友人を失っていてもおかしくはない。笑顔の下に激情を秘めていたとしても不思議ではないのだ。
『戦場へまいりましょう』
酒場を後にする時にラードックが口にした台詞が今になって思い出された。獲物を追い詰める狩人を気取っていた彼らに容赦せねばならぬ理由は、ない。彼は砂船という手慣れた武器を用いて戦場に立ち、そして勝利したのだ。
Uターンし終えた砂船が、すり鉢状の魔物の巣から少し離れた場所で停止する。魔物に驚いて縮んでいた胃が前後に揺さぶられ、肩が戦慄く。ついでに大きなげっぷがひとつ出た。
後ろから歓声とも悲鳴ともつかぬ声が発せられた。魔物より船の方が大きいからよもや丸ごと食べられることはないだろうが、乗員が助かるかは神のみぞ知るといったところか。何より、シュイたちからは敵のことを気遣う余裕が失われていた。
「う、うえっぷ……」
三半規管を苛め抜かれ、ピエール君は完全にグロッキーの模様。睡魔に襲われた赤子のように、身を丸めてこてんと床に転がった。その隣にいるイヴァンも少なからず酔いが回っているのだろう。口を半開きにしたまま、しきりに首を振っている。ただ一人、ヴィオレーヌがいそいそと吐きそうな船員に麻袋を配って回っている。なんというか、恐ろしくタフな人である。胃が鉄でできているのだろうか。
げぇ、げぇ、げぇ。蛙ならぬ嘔吐の輪唱。その声を聞いただけでお腹一杯胸一杯。
――もう、駄目……限界。
俺の嘔吐物はおまえの嘔吐物。貰いゲロから逃れるべく、頬を膨らませたまま我先にと外へ飛び出す船員たち。その流れにシュイも加わった。
外に出る寸前、室内からの酸っぱい臭気が鼻に纏わりついた。日差しの暑さも手伝って嘔吐感に一層拍車がかかる。世界の全てが自分を吐かせようとしていた。
急ぎ鉄柵から身を乗り出し、シュイがフードを脱ぎ、船員たちと一緒に口を縦に開く。喉までせり上がっていたそれがすんなりと、どぼどぼと垂れ流された。幾重にも連なる黄金色の滝が朝の柔らかい陽光を受けて宝石の如く輝いている。
そんな阿鼻叫喚の地獄の中、静々と操舵室から出てきたラードックが一人帆柱に寄りかかる。胸ポケットから取り出した葉巻に火をつけ、空にある太陽に目を細めている。
シュイは晴れやかな表情で葉巻の煙を燻らせ始めたラードックに、得体の知れない化け物を見るような面持ちを向けるのだった。