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~後継 succeeded to wishes4~

 船室へと続く板接ぎの階段を軽快に降りていく。酒場への通路を進む間にも船体が左右に傾いていたため、両側の壁面に手を突っ張って転倒を阻止しながら進まねばならなかった。


 シュイが酒場の直ぐ近くまできた時、微かに酒精の匂いがした。靴が液体をぴしゃりと跳ね上げるのに気づき、視線を落とす。と、薄赤紫色の液体が五歩ほど先のドアの隙間から少しずつ漏れ広がっているのが見えた。色々な果実酒がブレンドされてしまったのだろう。芳醇な香りが廊下に立ち込めている。

 ドアと床との隙間には応急的に畳まれた使い古しのタオルが水漏れ防止、もとい酒漏れ防止に詰められているが、中で零れているのはかなりの量なのだろう。布の含水量はとっくに飽和して滲み出している。この状況で室内に踏み込むのは憚られた。

「あの、すみませんラードックさん。今お手隙でしょうか」

 そうと訊ねた後で、いささか間抜けな問いだったかと反省した。内部が相当な散らかり具合だろうことはわかりきっている。一人では片付けもはかどるまい。

「あぁ、申し訳ないですがもう少し待っていただけますか。今下手にドアを開けると閉じ込めた酒が一気に廊下へ流れ出てしまうので」

 分厚いドアのせいで声が少しくぐもって聞こえたため、本人の肉声と断言はできなかったものの、この喋り方はラードックに相違ないだろう。発言からは未だ相当量の酒が床を浸していることも読み取れる。

「念のため確認ですが、この零れた酒はもう処分ですよね」

「え、ええ、もちろん」

「わかりました、とりあえずこちらに流れてくるのを堰き止めてみます」

 シュイは床を滑る液体の上に鎌の柄を立て、そのまま<|アイス・リロード(突き立てし氷雪の牙)>を詠唱。柄に隣接する部分から、床を濡らしていた酒に円状に霜が降りていく。

 凍結領域がドアの下部にまで行き渡り、酒を吸っていたタオルが凍りつく。わずかな段差から廊下側に垂れ落ちていた酒の流れが完全に止まる。ラードックの感嘆の声が聞こえた。

「おぉ、これはありがたい。今のうちに――」

 それから待つこと数分、中の酒を汲み取れたのだろう。シュイの目の前で背の低いドアがゆっくりと開いた。


 足を踏み入れると今までとは比べ物にならぬほどの酒精の匂いが鼻についた。酒の弱い者であればこの酒気だけで酔っぱらえるのではと思えるほどだ。

 ほとんど予想していた光景と大差なく、酒場は散々たる有様だった。カウンターの椅子の半分が横倒しになり、昨日まで棚にきっちり並べられていたはずの酒瓶が幾つか欠けていた。ボトルの背が低い物や重心の低い物はほとんど無事なようだ。反して、部屋の隅に倒れていた大樽の継ぎ目部分に太い亀裂が入っていた。廊下に流れ出ていた酒の大部分はあれのようだ。おそらくはタルが倒れて壁面に叩きつけられ、割れてしまったのだろう。

 板張りの床には拭き取られた酒に混じってグラスや酒瓶の残骸が散らばっていた。砂船の舵を右に左に一杯に切り上げ、砂丘に乗り上げたりしてるわけであるからして、何事もなく済むはずがない。


 煩雑な部屋の中で、ラードックは苦笑いを浮かべながらも右手に箒を、左手に塵取りを手に、細かなガラスを手際よく攫っていた。

「エルクンドさんでしたか、いやいや本当に助かりました。散らかっていて心苦しいですが、御礼に無事な酒を使って特製のカクテルを――」

 ラードックが掃除道具を船室の壁に立てかけようとしているのを目にして、シュイが焦ったように手を突き出す。

「い、いえ、この有様をスルーして注文できるほど非常識でも酒狂いでもないので。ここに来たのは別件です」

「左様でございますか、お気遣い痛み入ります。最近の若者には珍しく、道義を弁えていらっしゃる」

 ラードックは目を細めて納得したようにうなずいている。お世辞ではなく本気で言っているその様子から、シュイは目の前の紳士の普段置かれている境遇にそこはかとない不憫さと共感を覚えた。常識的な自分と同じく、人間からちょっと離れかけている連中に振り回されてばかりなのだろう。


「たかがあれっぽっちのことで褒めすぎですって。ええっと、イヴァンからラードックさんに言伝を預かっています。『出番だ、と伝えればわかる』って言っていたんですが……わかります?」

 言った端からわけもなく首の辺りがひやりとし、シュイははて、と襟の辺りに手をやった。

「――出番、ですか」

 ラードックは噛み締めるように笑うと、直ぐに赤い蝶ネクタイを取り外す。続いては棚から茶色い紙袋を引っ張り出し、几帳面に畳まれた私服を取り出していそいそと着替え始めた。


 ――あれ、この人、前からこんなんだったか?

 唐突に、目の前の初老の男の雰囲気が変わったような気がした。シュイは違和感にごしごしと目を擦りつつ、視界にいる目の前の男の顔を見直した。そこにいるのは紛れもなくラードック、のはずだったがどうも人相が一致しない。シュイの頭の中にはラードックがまるで違う人間の精神に乗っ取られたのではないか、という馬鹿馬鹿しい考えが浮かんでいた。

 眉を潜めるシュイを差し置いて、着替え終わったラードックはカウンターの奥、ハンガーに引っかけてあったゴーグルを手に取り、ハンカチで軽くレンズ部分の埃を拭った。その目の輝きは、昆虫採集に目を輝かせて虫とり網を手にした少年さながらだ。腕を組み、首の間接をぽきぽきと鳴らしている。

「あ、あの……?」

「まことに遺憾ながら片付けは後回しですな、いざ、戦場へまいりましょうぞ」

 戦場、と呟くシュイに、ラードックはにこやかにうなずいた。


 狭い廊下を縦に並んだシュイとラードックが、甲板へ通じる階段へと歩を進める。おおまかな事情を説明するシュイにラードックはしきりにうなずき返す。

「ふむふむ、やはり追われていたのですね」

 あれだけ派手に動いていれば船の挙動で察しもつくのだろう。ラードックは事態をそれなりに把握しているようだった。

「どうやらセーニア側の探査網に引っかかってしまったみたいです。まさかこんなに南下しているとは及びもつかなかったのでしょう。先ほどから必死に逃げているようですが、相手の乗っている大型船が速くて振り切れないみたいで」

「ほっほぅ! 大型船のこれ以上の速度増加は技術的に難しいとされていたはずなのですが、もしや新型ですかねぇ。いやいや、弱りましたねぇ」

 口振りとは対比的にラードックの表情は明るい。底抜けに、という言葉がつくとより適正かも知れない。下手をすれば砂漠の真ん中で立ち往生しかねないこの状況に、何をどうしてそこまで活き活きとしているのか。仄かな不安が胸の中ですくすくと育っていった。


 再び甲板の上に戻った時には、左舷側の敵船がより一層接近していた。こちらの船が砂丘の傾斜を登っていく最中に、後尾の辺りに男たちが集結しているのが眼下に映った。接舷後の白兵戦に備えているようだ。

「かなり距離を詰められているな。――あれ、イヴァンのやつ、またどこかいったのか」

 シュイの声に反応し、柵の上に身を乗り出していたピエールが視線を敵船から甲板に戻す。

「あれ、すれ違わなかったか? あいつならヴィオレーヌさんを起こしてくるってよ。放っておいたら起床時に刺激的(スプラッタ)な対面をすることになりかねないってさ」

「……刺激的(スプラッタ)か、そういうことね」

 イヴァンの言わんとしていることがそれとなく呑み込めてきた。が、むしろそうなるまでヴィオレーヌが起きないと危惧していることにまず突っ込みを入れるべきだと思うのだがどうか。いやそれとも、まさか本当に起きないのだろうか。

 悩んでいるシュイの横で、ラードックが遠近両方の敵船を一瞥する。

「あまりのんびりしてもいられないようですね。先に操舵室へいっていま――うわっ」

「――せい!」

 ラードックが言い終える前にピエールが距離を詰め、ラードックの腕を掴んで引き倒し、それと同時に素早く抜刀。斜め後方からラードックを狙ったように飛んできた炎弾に対応した。

 切っ先から生まれた烈風が炎を真ん中から二つに割る。一方が砂の海に、もう一方が甲板を跨ぎ、船の鉄柵を弾いて逆方向の砂海へと着弾。小規模な爆発を引き起こす。

「直ぐそこですし、俺たちも一緒に行きますよ」

「いや、これは……お手数をかけます」

 ラードックは恥ずかしそうにそう言い、腰を上げた。



 操舵室では慌しく掛け声が交わされていた。何を読み取るのかよくわからない大小の計器類と何となくわかる操舵輪を前にして、乗組員たちがそれぞれ持ち場につき、息を継ぐ間もなく情報をやり取りしている。切羽詰まった口調から察するにあまり状況はよろしくないようだった。

「――おい、部外者が勝手に入ってるんじゃねえ! 素人は操縦の邪魔だ!」

 一番近くにいた船員と思しき若い男に怒鳴られ、シュイとピエールがむっとした。その後ろから、ラードックが二人を割り入り、怒鳴った若い船員に静々と歩み寄る。

「……あれ? てめえはあれだよな、酒場のジジイだよな。ははぁ、さては酒でも振る舞いに――」

「――こんの、大馬鹿野郎がぁ!」

「……え? ――ぐふぇ!」

 一瞬にして、若い船員の左頬に拳がめり込んでいた。そのまま突き飛ばされ、後ろにあった壁に背中を打ち付ける。男を殴ったのはシュイでもピエールでも、ラードックですらなかった。幾分年を食った船員が部屋の端から一気に走り込んできたのだ。当然、シュイとピエールにはそれを止めることも出来ただろうが、無礼な発言を浴びせられた手前、敢えてスルーしていた。

「ってぇー……、いきなりなにしやがっ……って、副船長!」

 男が頬を押さえながら固まった。

「タァコ! 誰に向かって舐めた口を叩いてやがる! ――ラードックさん待ちかねましたよ。本当すんません、こいつは後できっちり躾けて起きますんで勘弁してやってください」

 副船長と呼ばれた男が殴り倒されて頬を押さえている男の頭に手をやり、強引に頭を下げさせて自らも詫びた。

「い、いやいや、私はもう引退した身ですから素人と変わりは――」

「――とんでもねぇ! 未だあんたを超える砂船の操舵士には会ったことありませんて。あ、操縦交代するんですよね。リグネ、話は聞いていたな?」

「ええ、どうかお願いしますラードックさん。ちょいと俺の手には余っちまう」

 三十くらいの褐色の男が舵から離れずにそう言った。


「ふむ、それでは仕方ありませんね――コホン」

 目を瞑って咳払いし、再び目を開くと共に、ラードックの眉が外側に上向いた。

「全く、あなたたちのおかげで何年もかけて集めた貴重な酒がかなり潰れてしまいましたよ。本来なら耳を揃えて弁償してもらうところです」

「い、いや、それは流石にきついなぁ。敵船も一隻ってわけじゃないんですよ」

「おぉっ、この手触り懐かしいなぁ」

「聞いてないし……」

 リグネと入れ替わるようにして、早くも操舵輪を愛おしげに撫でているラードック。それを見て、副船長はがっくりと肩を落とし、周りの船員たちが慰めにポンと肩を叩く。

「ちゃんと聞いています。そもそも敵船に見つからないよう慎重を期せば何事もなく収まったのですよ。たとえ<黒禍渦(バリー・クラウド)>だろうと言い訳にはなりません。緊急時を乗り切るのではなく、招かぬことこそ優秀な船乗りの条件なのです。教えませんでしたっけ?」

 表情は穏やかながらもその言葉は厳しい。落第のレッテルを貼られた船員たちは顔を見合わせ、がくりと項垂れる。落ち込みつつあるテンションを察したのか、ラードックが「とはいっても」と声を高める。

「起きた事を責め続けても事態は一向に収束されませんからね。こちとら酒場の片付けも残っていますので、手っ取り早く打開しますよ。――船首の方位、敵船の方角とおおよその距離を10秒刻みで通達。上級範囲魔法の接近も怠らぬよう頼みます」

「は、はい!」

 テキパキと指示を始めたラードックに、船員たちが慌てて返事をし、所定の持ち場につく。

「さーてと、手始めに左手の砂丘を滑って針路を110に取りましょうかね。カウント30から、始めてください」


 ――滑って?

 シュイが前方に目を向けると、なるほど、周りのものより幾分傾斜のきつい砂丘が左手に見える。だが、滑るという意味がわからない。一旦上って下るという意味だろうか。隣に目を向けると、ピエールは俺に振るなと言わんばかりに手の平を上に向けた。

「カウント入ります。30……29……28……27……」

「速度、きもち上げてください」

 魔石の制御棒を握っている船員がうなずくと同時に、緑色の制御棒が光量を増す。

「見張り台から報告入りました。景色と地図を照合、我が船は現在針路190前後、座標はルトラバーグ南区域8-2を航行中です」

「敵船、一隻目は220メード北北東、もう一隻は300メードほぼ真北に位置しています。双方共に大型船です」

 一つ指示する間に二つの報告が舞い込む。ラードックは舵を小刻みに動かしながらテーブルに置いてある地図を見る。

「早速ですが追加事項を。今から近い方の敵船を1号、遠方の敵船を2号として扱え、以降発見順にナンバーを振ってください」

「了解!」


 そんなやり取りをしてる間に、後ろからイヴァンがヴィオレーヌと仲良く手を繋いでやってきた。

「遅いぞイヴァ……ん? ぷっ、なんだよその顔――」

「……何か文句でもあるのか」

 起こす時に蹴られでもしたのだろうか、イヴァンの頬に赤い足型がありありと残っていた。思わず口を押さえるシュイとピエールに、イヴァンが不服げな顔を向けた。よくよく見れば手の方も繋いでいるわけではなく、水色無地の寝巻姿で未だ目の開いていないヴィオレーヌの手首を掴み、半ば引きずってここまできたようだ。あれだけ揺れている状況でこの状態を保っているとは、見かけによらず神経が太いらしい。

 口振りから察するに当人も顔がどういう状態かは気づいているようだ。あまりご機嫌がよろしくなさそうなのでそれ以上その話を続けるのはやめておく。わざわざ相手の構えた剣に突っ込んでいくような真似は避けたい。

「別にのんびりしていたわけではないぞ、時間がかかったのは事情を知らぬやつに安全索をつけるよう指示していたからだ」

「安全……なんだって?」

「安全索、丈夫な命綱と言葉を置き換えてもいい」

「……そこまでの備えが必要なのか? 今はもうラードックさんが操縦しているけれど、何も変わった様子は。既に場を仕切り始めちゃっているくらいだし」

 いちいち大袈裟なんだよ、という言葉を言い含めたシュイに、イヴァンはずいと中三本の指を差し出す。シュイがそれに圧されるようにして後ろに下がる。

「――俺がこの船に乗ってから、ラードックが舵を握る状況に出くわしたことは三度。内訳は砂海に潜む魔物に襲われた時に二度、今一度が砂賊との戦いに巻き込まれた時。そして、その前例の全てにおいて嘔吐する者が続出したことを言い添えておく。また後でネチネチ言われては敵わんからな」

 揺るぎなき前例を突き付けられたシュイは、それに驚くと同時にイヴァンの一言の多さにへそと唇を同時に曲げるという器用なことをやってのけた。ただ、シュイとしては乗り物酔いに苦しんだことなど今までに一度たりとてなかったため、やや誇張し過ぎているのではという思いも否めなかった。

「……今おまえが考えていることはなんとなーくわかるぞ。それは多分、昔の俺も誰かに聞かされて似たような心証を抱いたからだろうな。それを踏まえた上で、今の想定を最低でも数倍は悪化させておくことを奨めておく。俺の親切心をないがしろにするしないはそちらの勝手だが、万が一にも船内は汚すなよ」

「いやですねぇ、まるで人を暴れグリフォンか何かのように言うんですから。物事を拡大解釈するのはイヴァンさん唯一の悪癖ですね」

「そういった傾向があるのは否定せんが、な。俺の不吉な予感が外れることを、誰より俺自身が願っているよ」

 おどけてみせるラードックに肩をすくめるイヴァン。


 笑みを浮かべるラードックの表情にはどことなく凄みがあった。そしてそこには、イヴァンの言葉を頭に留めておいた方がよさそうだと思わせるくらいの何かが、確かに存在したのだった。

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